帯方郡設置

朝鮮半島諸国推定位置

帯方郡設置の状況

203年(建安8年)、公孫康は父の後を継いで遼東太守となった。

204年(建安9年)、公孫康は楽浪郡18城の南半、屯有県以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、県治よりもひときわ大きな城塞都市帯方郡を作る。帯方郡はその周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、是より後、倭・韓遂に帯方に属すことになった。この頃までは朝鮮半島は無風状態だったと思われるが、帯方郡は独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったと思われ、公孫康は朝鮮半島全域に触手を伸ばしたのである。倭と韓を所属させることにより、帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎなかったが、一種の独立国家として後漢政権から左将軍の官位を授けられることになった。

207年(建安12年)、曹操は反乱分子である袁煕・袁尚兄弟らを遼東郡に追い込んだ。公孫康は逃れてきた人物の中に袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命され、帯方郡も後漢の郡として追認された。

 公孫度は遼東から百済の旧領から高句麗を追い出し、その地を引き継ぎ、東の馬韓(現在の北朝鮮西側領域)に手を伸ばした。楽浪郡の領域を現在の平壌の領域まで急拡大したのである。203年公孫度の後を継いだ公孫康は204年、勢力範囲をさらに拡大し、南方の土着勢力韓・濊族を討ち、百済のすぐ北の領域まで支配するようになった。

 さっそく公孫康は楽浪郡18城の南半、屯有県以南を割くとともに、巨大な城塞都市帯方郡を作った。

公孫延━━公孫度━┳━公孫康━━━━━┳公孫晃━━━━━━
     189   ┃ 204       ┃
         ┗ 公孫恭     ┗公孫淵━━━公孫脩
           218?        228~238

 倭国への圧力

 帯方郡を設置した公孫氏は朝鮮半島全域に手を伸ばしてきた。百済・新羅にも帯方郡に属するように圧力がかかったと思われる。倭国との交流を始めた直後の百済は、当然ながらそれを拒否したと思われる。しかしながら、新羅王脱解は承諾したのであろう。

 新羅王脱解は倭人であり、即位後すぐに大和朝廷との講和を行っており、脱解としても折角友好関係を結んだ倭との関係をこじらせるのは望まなかったと思われるが、武力を背景にした圧力では領民のことを考えてやむなく承諾したのであろう。

 朝廷としては、勝手に倭の一領域が帯方郡に属すのは認めがたいことであり、新羅にやめる様に交渉したが、新羅は朝廷の指示に従わなかった。このことが中国側に倭と韓が帯方郡に属すと記録されることになった理由と考えられる。 

 帯方郡は百済・大和朝廷に対してはそれほど強い圧力をかけなかったと思われる。それは、遼東の西側から魏の曹操が勢力を伸ばしてきたためである。

 部族間抗争が多く、統治体制もなく、稲作も不十分で人口が少ないため、朝鮮半島を統治するにはメリットよりもデメリットの方が多く、曹操は朝鮮半島を統治する気がなかった。朝鮮半島に気を取られている間に呉の孫権に攻められたのでは話にならない。公孫康もその曹操の意向に従って倭国・百済にはあまり手を出さなかったと思われる。百済が帯方郡の属すのを拒否した時、百済に攻め込むまではしなかったのである。

 ここに、新羅・帯方郡連合と百済・倭国連合の形が出来上がった。

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