各国の位置

 朝鮮半島諸国推定位置

 定説では楽浪郡は平壌近辺にあるといわれているが、これに関して暁 美焔氏は疑問を投げかけている。 氏は「玄菟郡の遼東移動の怪」、「夫余の楽浪郡攻撃の怪」、「馬韓の玄菟郡攻撃の怪」の3つの謎を紹介 し、絶対に正しいと信じられている楽浪郡平壌説が実際には破綻した説であることを説いている。 以下はそのあらましである。

「玄菟郡の遼東移動の怪」とは、前107年に衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡が、 設置後まもなくの前75年に朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと大移動が行われている。

「夫余の楽浪郡攻撃の怪」とは、111年に夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を 攻撃した事件の謎である。

「馬韓の玄菟郡攻撃の怪」とは、122年に馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して、高句麗主導で □貊と共に遼東の玄菟郡を攻撃したが、夫余によって撃退された事件の謎である。

 これらはいずれも定説の位置に国があったとすれば説明できない内容である。
<HP 「日中韓・三国通史」を参照させていただきました。>

 楽浪郡の位置

 中国史書には楽浪郡の位置を次のように記述してある。

① 史記夏本紀:太康地理志云「樂浪遂城縣有碣石山,長城所起」

楽浪郡遂城県には碣石山があるが万里の長城が始まる所だ。

② 漢書列傳:東過碣石以玄菟、樂浪為郡,八師古曰:「樂音洛。浪音郎。」

碣石より東は玄菟郡、楽浪郡。

③ 後漢書郡國志:樂浪郡武帝置。洛陽東北五千里(中略)列口:郭璞注山海經曰「列,水名。 列水在遼東。」

楽浪郡は武帝が置いた。洛陽東北五千里。(中略)列口「列は川の名前で列水は遼東にある」

④ 後漢書光武帝紀:樂浪郡,故朝鮮國也,在遼東

楽浪郡は故朝鮮国であり、遼東にある。

⑤ 後漢書列傳:長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東

長岑県は楽浪郡に属し、遼東にある。

⑥ 後漢書列傳夫餘:安帝永初五年,夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。

安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7、8千人を率いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、 間もなく再び帰附した。(注:満州北方にいた夫余が平壌を攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東に あったと考えるしかないだろう。)

①~⑥の中国古代史書が示す楽浪郡の場所は全てが遼東で例外は一つも無い。そもそも高句麗は強大で 漢王朝は遼東支配すら不安定であったのに、 集安の向こう側の朝鮮半島を長期に渡って安定的に支配した というのは奇妙な話である。「朝鮮」という国号は古朝鮮にちなんで明代に授けられたもので、 「朝鮮国」と「朝鮮半島」は位置的に関係は無いという。

 遼東とは遼東半島のことではなく、現在の中国の遼寧省一帯をさしている。

 帯方郡の位置

 帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である。

① 後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」

 郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。

② 魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居郷,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守 妻子

 順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、 楽浪太守の妻子を誘拐した。

③ 晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口,長岑, 含資

 帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東),長岑県(後漢書列傳によると 長岑は遼東),含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)

④ 魏志倭人伝:郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは 東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

 帯方郡は狗邪韓國から7千余里(約700km)となる位置は遼東近辺である。

帯方郡を置いた公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、 遼東王を自称した人物である。公孫度には遼東王の地位の確立が重要で、はるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも奇妙な話である。

馬韓・百済は遼東半島に在った

楽浪郡・帯方郡が遼東に存在したとすれば、韓の位置も変わってくる

① 後漢書高句麗伝では建光元年(121年)高句麗が馬韓や□貊と共に玄菟郡へ侵攻し、夫余によって撃退されたとある。 馬韓が朝鮮半島南西部とすると、高句麗が楽浪郡の向こう側にあった馬韓と共に遼東にあった玄菟郡に 侵攻するのは不可解であり、馬韓は玄菟郡の近くにあったと考えられる

② 宋書百済伝では百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったとされる。

③ 宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配 するのは不自然である。

④ 北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とある。遼東半島にあったと すれば800km程度なので、1日10km程度で移動可能となる。

⑤ 南斉書では北魏が数十万騎で百済を攻めたとある。渡海作戦を行ったような記述は無いが、 百済が朝鮮半島南西部にあったとすると高句麗の向こう側に数十万騎を送るのは不自然である。

⑥ 史記夏本紀では「百済国西南渤海中に大島15有り、皆百済に属す」とある。百済は渤海に 面していたと思われる。

馬韓やその跡地に建国された百済の位置を朝鮮半島南西部ではなく、遼東半島と考えれば以上の 内容がスムーズに説明される。

箕子朝鮮・衛氏朝鮮は遼東に存在した

 定説(楽浪郡平壌説)では衛氏朝鮮、箕子朝鮮、楽浪郡なども朝鮮半島にあったとされているが、 遼東にあったと思われる。

① 後漢書光武帝紀には衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡を置き、その地は遼東にあったとある。

② 史記朝鮮列伝では「朝鮮には濕水、洌水、汕水が有り三水が合流して洌水となる」とあり、 後漢書郡國志では「列水は遼東にある」とある。

③ 魏志韓伝では、衛氏朝鮮の宰相が東の辰国に亡命した、とある。朝鮮を平壌付近、辰韓を釜山付近とすると辰国の方角は東ではなく南である。

④ 旧唐書では「遼東之地,周為箕子之國,漢家之玄菟郡」とある。箕子朝鮮は遼東にあったと 思われる。

 中国史書の示す韓(三韓の領域)

『三国志魏書』馬韓伝
 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、 一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、 養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、 その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

『後漢書』馬韓伝
 韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、 南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、 また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて 四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。

『後漢書』辰韓伝
 辰韓。古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと 言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう。

 「韓」は朝鮮半島を東西に4千里(400km)で南に倭と接すると記述されている。馬韓が遼東半島にあったとすれば、この領域は現在の北朝鮮の領域とほぼ重なる。

辰国について

 中国史書には辰国が登場する。辰国については次のように記述されている。

『後漢書』弁辰伝
 弁辰と辰韓は雜居しており、城郭や衣服の様式はどれも同じだが、言語や風俗は異なる。初め、 朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として 自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。

『三国志魏書』馬韓伝
 おおよそ五十余国が在る。大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。辰王は月支国に治する (統治する)。

『後漢書』馬韓伝
 馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国)、すべての三韓の地の大王である。 そこの諸々の国王の先祖はいずれも馬韓の種族である。
 馬韓人は農耕や養蚕を知っており、綿布を作る。梨のような大栗を産出。尾長雞がおり、 尾の長さ五尺。邑落は雜居、城郭はない。土で室を作り、家のような形で、上部に門戸がある。 跪拜の礼儀を知らない。長幼男女の別はない。貴金属や宝玉、錦はなく、牛馬に騎乗することを知らない。 ただ瓔珠(ようじゅ=玉石の一種)を連ね、それを衣服に縫って飾り、首にかけたり、 耳に垂らしたりしている。

『三国志魏書』辰韓伝
 辰韓は馬韓の東に在り、そこの古老が代々の伝承では、秦の使役を避けて韓国にやって来た昔の 逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。城柵あり、言語は馬韓と同じではない。 (中略)これは秦人に似ており、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と言う。東方の人は自分を阿と 言い、楽浪人は本来その残存種族だという。今は名があり、これを秦韓とする。初めに六国があり、 十二国に細分した。

 これらの記述によると、韓の地(現在の北朝鮮の領域)は、馬韓であったがBC210年頃、秦の労役を苦にした人々が韓の地に流れ込んだ。馬韓の人々は東側一帯を割譲して秦から逃げてきた人々を住まわせた。これが辰韓である。
 BC195年箕子朝鮮(現在の中国遼寧省の地域)が盈氏朝鮮の衛満によって滅ぼされた。 その残党が韓の地に入り込ん で韓王となった。これが辰国である。箕子朝鮮の系統は断絶し馬韓が辰王を継いだ。
 辰国は三韓の総称のようである。その統一王(共立されている)が辰王となっている。

『三国志魏書』馬韓伝
 朝鮮王の準は衛満と戦うも、満には敵わなかった。(中略) その左右の王族を率いて海に逃れ、 韓地に居を置いて、韓王を自称した。
 注記② 魏略には、その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、 朝鮮と相往来しなかった。
 その後、絶滅したが、今でもなお韓人は彼を奉じて祭祀する者がいる。漢代は楽浪郡に属し、四季に入 朝してきた。
 注記③ 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めるも用いられず、 東の辰国に亡命したが、彼に随行して脱出した民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに 往来せず。

 辰国は馬韓地方を支配しており、その西側の領地を漢族に分割した。それが辰韓だが、そこには 弁韓も雑居していた。そして、衛氏朝鮮およびその従属国(沃沮や濊貊)とは往来をしなかったとある。
 この閉鎖性が中華王朝の先進文化の吸収に遅れをとり、後に三韓地方が扶余や高句麗に侵略される遠因 となったとも言える。

 紀元前195年、燕王の盧綰が匈奴に亡命すると、燕人の衛満は千余名の兵を引き連れて朝鮮に 進入した。破れた箕氏朝鮮の準は韓地(馬韓地方)に進入し、韓王(辰王)を自称したとある。当時の 馬韓には敗走してきた朝鮮の残党に簡単に蹂躙されるほど戦力が乏しかったと思われる。

 衛氏朝鮮は韓に興味がなく、全盛期にも馬韓地方を侵略しなかった。従って、馬韓地方は富国強兵の必要性を感じない無風状態のまま時を過ごしたものと推測する。

 突然侵入して大王の王権を簒奪した準の信奉者が馬韓内にいるということは、馬韓地方の( あるいは韓族)人々にとって朝鮮は憧れの国家で、国王の準は神のような崇高な存在だと思われてい たのではないだろうか。それなら平和裏に大王位を禅譲されたとも考えられる。

 BC108年、箕子朝鮮の侵入に続いて、衛氏朝鮮が漢武帝に滅ぼされた時、 歴谿卿は二千名の人々がを従えて亡命してきた。このことが箕子朝鮮による韓王(辰王)のの断絶 を招いたものかもしれない。

 衛氏朝鮮の旧地に漢は漢四郡を置いた。

馬韓諸国

 爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、臣濆沽国、伯濟国、速盧不斯国、 日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、 占卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、 内卑離国、感奚国、萬盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不彌国、支半国、狗素国、捷盧国、 牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、 狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国

辰韓諸国

斯蘆国(後の新羅)、 已柢・不斯国(後の非斯伐国)、 勤耆国(後の迎日)、難彌理彌凍国、 冉奚国、 軍彌国、如湛国、戸路国、州鮮戶(後の卓淳国)、馬延戶、優由戶

弁韓諸国

弥離弥凍国、接塗国、古資弥凍国、古淳是国、半路国(のちの半跛国)、楽奴国、弥烏邪馬国 甘路国、狗邪国(金首露が金官に建国した駕洛国)、 走漕馬国(のちの卒麻国)、 安邪国(のちの安羅国) 、瀆盧国(のちの東莱郡。倭に接すという)

 三韓はこれらの国々が協調した連合国家と言えよう。強いリーダシップの国が存在していないことから、戦乱がなく比較的平和な国家群と言えよう。遼東以西が戦乱に明け暮れていたのとは対照的である。これは、遼東以西の国々が「韓」に興味を持っていなかったともいえる。 

平壌で発見された楽浪郡の遺蹟

① 馬韓の東の地を割いて辰韓人を住まわせたという伝承がある。

② 楽浪郡が辰韓を脅した時に「万余の兵を船に乗せて攻撃する」と威嚇した。

 定説では辰韓は釜山のあたりとなっているが、釜山では南に倭と接していない上、楽浪郡が渡海作戦 を行う理由が全く説明できない。平壌は「馬韓の東」「南は倭と接す」「渡海作戦」を満たす場所だ。 公孫氏の滅亡に伴う東アジアの激動に辰韓は飲み込まれ、景初年間(237年~23年)辰韓は8国に分割さ れて楽浪郡に与えられた。その後約定が異なり、韓と楽浪、帯方は全面戦争となった。 楽浪郡によってその地が一時的に直接統治されたのは間違いあるまい。亡命中国人の墳墓と楽浪郡 統治時代の遺構を掘り当てて楽浪郡と判断してしまったのではなかろうか。

 最近の発掘調査報告(資料1)では楽浪郡平壌説の基盤となった木槨(もっかく)墓は 「紀元前3世紀以前から紀元前1世紀末まで存在したと見ることができる」とされた。その後3世紀までに グィトル墓、レンガ墓と形式が変遷し、中国で発掘される墳墓とは異なるとされた。この報告が正しけ れば、楽浪郡設置(紀元前108年-313年)の200年前から木槨墓が作られ始め、楽浪郡設置後しばらくして作られなくなったことから、楽浪郡というよりは楽浪郡によって消滅した辰韓と思われる。

倭の領域について

 韓の南が倭であった。韓の領域から判断して倭の領域は現在の韓国とほぼ一致すると考えられる。元来朝鮮半島の倭の領域は半島南端部に限定されていたと考えられていたが、これら矛盾点を考慮し中国史書に最大限忠実に復元すると、倭の領域はかなり広かったことになる。裏付けには次のようなものがある。

 ① 2005年ソウル近辺で日本式前方後円墳(現在は破壊されたらしい)が発見された。前方後円墳は大和朝廷の国造の墓であると考えられる。前方後円墳が見つかるということは、大和朝廷の勢力圏であることを意味する。

 ② 春川市(ソウル近く)に素盞嗚尊滞在伝承地がある。この近辺は先進文化のある地域とは思われないので、素盞嗚尊の統一事業の対象地域だったと思われる。

 三韓が朝鮮半島南部になっているのは、倭を朝鮮半島から抹殺するために改ざんされたためと思われる。

 三韓諸国は平和であり、ゆるやかに結合している状態であった。また、漢族は朝鮮半島と交流をしていなかったので、この地方は文化的に遅れて、未開の地の状況を呈していたといえる。まさに紀元前後の日本列島と同じ状況にあったのである。それだからこそ、素盞嗚尊が楽浪郡の新技術を持って、これらの国々を訪れれば、簡単に統一できたのであろう。そのために、紀元前後に朝鮮半島南半分を一挙に倭の領域に編入できたものと考えられる。

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