白髭神社


北九州市若園

祭神 猿田彦大神、天児屋根命、天細女命、太玉命、太田命

太古、天孫瓊々杵尊豊葦原瑞穂国へ降臨の際、猿田彦大神天孫を日向の高千穂の峰に導き給いて後、天細女命と共に天鳥船に乗じ宮処を探し求め給う時「この丘は朝日の直佐須夕日の日照らす丘なり」とこの丘に暫し止まり給うた。

 その後伊勢の五十鈴の川上に鎮まり給う。後に里人議りて猿田彦大神、天児屋根命、天細女命、太玉命を合祭りて産土神とす。

 往古は湊なりしが中古開拓して湊田と云いしも今は誤りて蜷田と云う

・・後略

 北九州を瓊々杵尊に引き渡した後、出雲に帰るとき、サルタヒコはこの地から出港したものと考えている。

 宇原神社

  主祭神 彦火火出見尊

  福岡県行橋市

 

 彦火火出見尊の宮跡と伝える。彦火火出見尊が海神国へ行くとき立ち寄ったところである。すぐそばに瓊々杵尊が天降ったと伝えられている高木山がある。

 高木山

 福岡県行橋市

 

 瓊々杵尊が天降ったと言い伝えられている。別名高千穂峰である。瓊々杵尊はここに上陸後、馬見山・基山と移動していて、サルタヒコから北九州を譲り受けた。

三女神社

 

鎮座地 宇佐郡安心院町大字下毛字三柱

水沼井

当社東南500mの盆地内に根宮(もとみや)があり、神池として清水が湧出する。伝説によれば三女神天降りの際の産水とされ雨や旱(ひでり)に増減混濁することなし、また、手足の不随にも著功(ちゃくこう)ありという。

 奉仕の社家は水沼氏と称し、お供えや炊事の水にも用いられたといわれる。この水沼井も安心院七不思議のひとつである。

三柱石

 

 三女神天降りの遺跡と伝えられ地上に突出すること2m余り

「古来試みにこれを掘りて石根を見んと欲すれば宇宙闇然風雨至り大地振動してその声雷の如しと言う。後人恐れて触れるものなし」

と言い伝えられる。なお、三柱石は安心院七不思議のひとつである。

三女神社由来

祭神 田心姫命、端津姫命、市来島姫命 他十柱

由来

 そもそも三柱山三女神は日本書紀神代巻に曰く「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を以って葦原の中国の宇佐島に降り居さしむ云々・・」とあり、即ち宇佐島とはこの地宇佐郡安心院邑当三柱山一帯とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都日子、宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に全国唯一の三女神の御名前を持つ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る。以来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。境内は古代祭祀の面影を漂わせ、幾多の史蹟と伝説とを有し特に三柱石始め多くの陰石を有し宇佐神宮の元宮大元山のご神体となり三個の女陰を形どる巨石の組み合わせと対照的に男根的存在を現しているところに神秘さをかもしている。

 

妻垣神社

妻垣神社 比売大神が住んでいた山

 

鎮座地 安心院町大字妻垣字大門203番地

祭神 比咩大神・応神天皇(八幡大神)・神功皇后

由緒

 妻垣(ともかき)山は太古比咩大神のご降臨された霊地にして宇佐神宮第二殿と云はれる。八幡大神は称徳天皇天平神護元年宇佐八幡この地に行幸駐輦の地に同年108日勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。神功皇后は淳和天皇天長年間に御勧請し奉祀

柱騰宮 

 神武天皇御東遷の砌り宇佐国造の祖?狭津彦此の処に宮殿を建立奉餐せる旧跡で、当時天皇、天種子命を以って比咩大神を祭らせ給う。当社は比咩大神を祀って八幡社と号す。

 

可愛山陵伝説地

 

 宮崎県東臼杵郡北川町俵野

 周囲65m高さ3mほどの円墳である。瓊々杵尊の御陵であるとの伝承を持つ。ここから500mほど離れたところに可愛神社がある。可愛神社は、昔、可愛嶽の頂上にあったものであるが、この地に移されたものである。この地からは土師器などが出土しており5~6世紀のものと考えられる。

 

可愛岳

 

 標高782mの山で、花崗斑岩からなり、浸食を受けて険しい地形をしている。山頂には可愛の廟と鉾岩とがあり、瓊々杵尊の御陵であると伝えられている。

 

大御神社

神座 瓊々杵尊が眺めたと思われる景色

 祭神 天照大御神

 大御神社は皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月はつまびらかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神、日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ千畳敷の磐石にてこれより絶景の大海原を眺望され皇祖天照大御神を、お祭りして平安を祈念されたと伝えられ、後世此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守と尊敬し奉ると言う。

 また、神武天皇御東征の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時伊勢が浜から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と東に隆起する米の山(久米の山)は神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであるという。

 

立磐神社

 

立磐神社 天皇は沖の二つの岩の間を通って出港したという

 当社は神武天皇御東遷の砌美々津港より御船出し給うに当たり、御航海の安全を祈念せられて、この埠頭に住吉大神とも申し奉る底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第12代景行天皇の御代に創始されたものである。

 

都農神社

 

 祭神は大己貴命で社伝によれば神武天皇日向国宮崎宮を発して大和国へ御東遷の途につき給うたとき、大己貴命をこの地に斎祭ったのが始まりである。

 

甘漬神社

 

 児湯郡川南町川南11393

 祭神 大己貴命

神武天皇御東遷の砌、しばらく御駐輦された。その時、自ら大神を奉斎し群臣将兵と共に武運長久と国土の平定を御祈請あらせられたのが創祀のはじめといいつたえる。

ここに御滞在中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内にある。

 

鵜戸神社

鵜戸神社 神社側の河口

 児湯郡高鍋町蚊口浦6198

 鵜茅草葺不合尊を祭る神社で鵜茅草葺不合尊の上陸地であると伝えられている。また、境内本殿の西、松樹の下に石塊を積んであるところが神武天皇が御東遷の際御駐輦あらせられたところと伝えられる。

 

神武天皇御湯浴場跡 

 

 宮崎県児湯郡新田村湯ノ宮

昔、神武天皇が御東征の途中、ここに立ち寄られお湯を召され御休憩の後梅の杖をつきたてたままお立ちになった。その後これが芽を拭き、元木となり生長して今日に至ったものが座論梅であるという伝説が残っている。現在は湯ノ宮神社の境内である

 

新田(にゅうた)神社

 

 児湯郡新富町新田10006

祭神 彦火火出見尊

 

日吉神社

 

日吉神社 神武天皇石碑

 西都市現王島82

祭神 大己貴命 大山喰命

 狭野尊が日向国宮崎郡佐土原の地に御降誕されたとき、尊の臍の緒を納め奉った地であるといい、古くは現納といっていた。当地は佐野を隔てること八丁余りにして、中古になって現王と改めた。尊の臍の緒を納めた跡として、社殿の側に古石を建て、そこを諸人は産の神または大若子神と称えて尊崇した。佐土原は狭野原の転化であるといわれ、佐土原町の西南に広々とした丘原があり、ここを佐野之原という。狭野尊御誕生の地はこの佐野の原中に一の小森遺存し、往古より社殿があり霧島五社大明神として崇め奉っている。

 

鹿野田神社

 

 この鹿野田神社は明治の始めごろまで、潮妙見大明神とか潮妙見様とかいわれ、彦火火出見尊をお祀りしています。創建の年代ははっきりしておりません。棟札は弘安6年のものがありますので、非常に古いものと推察されます。

 彦火火出見尊は別名を火遠理命といい、海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命の釣り針をなくされそれを探しに海神綿津見大神の元へ行き、3年の後なくした釣り針の他に潮満玉と潮涸玉を授かって帰られました。

 この潮満玉と潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満玉の泉はその御神徳によるものといわれています。

 この潮満の泉は深さ一丈(約3m)余り、海を隔てること3里(12km)に余りながら、この潮水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれています。

 

都於郡城跡

 

 日向国地頭頭伊東祐重が山城として都於郡城を築城した。築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されている。それによると、本丸の位置に存在していた高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊)を掘り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられている。

 

荒武神社

 

 西都市荒武418

 祭神 彦火火出見尊 火明命 稲荷大明神

瓊々杵尊が笠狭の崎に行幸されたとき、大山祇命の次女木花開耶姫命をもって皇妃とし、この地で生まれたのが尊であるとつたえる。

 

剣柄神社

 

 東諸県郡国富町本庄4845

 当社の鎮座する古墳墓剣の塚は神武天皇の御兄彦稲飯命の陵とも、あるいは景行天皇の御后の御刀媛命の陵とも言われる。また、日本武尊が熊襲梟師を刺したる御短刀を埋蔵した塚とする。また、日本武尊が剣玉の誓いをなせし時の御剣の柄を納めたものといわれる。

 

金崎

 

 金崎地区には古来から大崎山に関する口伝が語り継がれていた。それは、神日本磐余彦尊(神武天皇)が狭野の宮より宮崎の宮に遷らせ給う途次、この大崎山上に立って東方の橘の小戸の阿波岐原をお望みになったというものである。

 

奈古神社

 

創建 奈古神社の創建は古く、成務天皇の御代と伝えられる。

御祭神 天津彦火瓊々杵尊、彦波瀲武鵜茅草葺不合尊、神日本磐余彦尊

由来 奈古神社は古く権現と称され、その後神武天皇を宇佐八幡と崇めたことから奈古八幡宮の勅号を得、また、古来より吾田長屋という地名に因んで長屋神社とも呼ばれ明治4年に奈古神社と改称されている。

瓊々杵尊が高千穂峰に降臨の後国内を巡覧し当地にいたり、この地朝日の直刺す国夕日の日照る国也、これは何山の神の領域かと問われたところ、事勝国勝長狭の領地と答えた。瓊々杵尊は吾田長屋笠狭の岬に至り天神地祇を祭ったと伝える。笠狭宮はこの地であるという伝承がある。神社後方の丘は前方後円形をした祭神瓊々杵尊の御陵と伝えられている。しかし古墳であるため時代が少しずれる。

 

高屋神社

 

神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥2年(849年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。

 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。

 右御陵より約50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治812月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。

 北西の約100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、

 また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う

 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。

 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。

 

江田神社

 

御祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊(伊邪那美尊は安徳天皇寿永2年正月配祀)

本神社は太古の御創建にして其の創立の年代は詳らかならざるもこの地一帯は古来所謂日向の橘の小戸阿波岐原として伊邪那岐の大神禊払の霊跡と伝承せられて縁起最も極めて深き社ならむ。禊払いの際天照大神、素佐嗚尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、即ち上代における中ツ瀬と称せる御池本社を去ること約5丁の東北に現存す。後世人入江を開墾して江田と称し里人俗に当社を産母様と称えて今日に至る。

みそぎの御池

 

 前方の池は大昔伊弉諾尊が禊払いをされた御池です。

伊弉諾尊は、神去りになった伊弉再尊の後を追って死の国に入られ、穢れに触れられたので、御身体を清めるためこの阿波岐原に船でお着きになりました。そして、上の瀬(今の住吉神社付近)は流れ早し、下の瀬(今の大淀川河口付近)は流れ弱しと云われ、ここ中の瀬(周囲が埋もれて今は池となる)の清き流れで身をそそぎけがれをはらわれました。

 こうして清浄な身となった尊から天照皇大神、月読命、素盞嗚尊や住吉三神などたくさんの神々がお生まれになった聖地で今もなお水清く神秘の太古が偲ばれる尊い神池です。

この周辺には瓊々杵尊が神宝(三種の神器)の祭りを行った霊蹟や、天津神が会議を行ったといわれているところがある。

 

今泉神社

 

 神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祭ったと伝える。前方丘陵の左端に神社がある。

 

加江田神社

 

 天照大神出生の霊蹟と伝える。

 

木花神社

 

木花神社 霊泉桜川

 瓊々杵尊の宮跡伝承地である。瓊々杵尊はこの地で木花咲耶姫と新婚生活を送っていた。霊泉桜川の湧き水で、誕生した彦火火出見尊の産湯を使った。神社境内に無戸室跡がある。昔は桜川は多くの湧き水があったが、この丘陵地が宅地となり、コンクリートになったためか湧き水量が減ったというのが宮司さんの言葉である。

久牟鉢山及び霊山嶽

 

 木花村加江田川南方の一帯の山脈に久牟鉢山がある。頂上は険峻であるが、頗る景勝の地である。ここに、彦火火出見尊を祭る小社があり、社殿の背後円形の封土のあるところを尊の御陵であると伝え、また、山を八合目まで降りて東方へ行けば霊山嶽で、そこにも封土があり、ここが、瓊々杵尊の御陵であると伝える。

写真右側の最高峰が久牟鉢山、左側の高峰が霊山嶽である。

 

宮浦神社

 

 日南市宮浦688

祭神 玉依姫命

 玉依姫の住居地を伝える。

 

玉依姫御陵

 

 鵜戸村宮之浦に玉依姫を奉祀する宮之浦神社があって社側より川を南に8町ばかり上ったところに伝説地玉依姫の墓がある。高さ二間四尺、周囲一町ほど、そこに生ずる草木を牛馬に与えると即ち腹痛をするといわれ、畏れて近づくものがない。

 

速日峰

 

 鵜戸神宮のある山の頂上は速日峰と呼ばれており、そこには鵜茅草葺不合尊の御陵と言い伝えらる円墳がある。

 

伊比井(いびい)神社

 

 日南市伊比井1991

祭神 瓊々杵尊、木花開耶姫命

 瓊々杵尊が高千穂に御降臨のあと、海辺に遊行され大山祇命の娘木花開耶姫命をごらんになったところと伝える。

 

風田神社

 

日本書紀によると天孫彦火火出見尊が綿津見神の娘豊玉姫を妻に迎えられ天孫の御子を海辺にて産むことを希望され現在の鵜戸の岩屋にて鵜戸神宮の祭神鵜茅草葺不合尊を出産された。出産に際し夫と約束したことが守られなかったことで御子の養育を妹玉依姫(宮浦神社祭神)に託された。

 そのときの豊玉姫の御歌「赤玉の光はありと人は言えど君が貴くありけり」

そして、豊玉姫は夫と別れて亀に乗ってこの風田川を登り居住された。後にその跡に姫を偲んで地元民は川上神社を建立し祭神として祭られ、信奉厚く現在も宮と尊ばれている。明治の世になり野中神社と合祀されてこの奥風田川沿いに新たに社殿を建立し鎮座された。当時の社殿は海のほうを向いていたと伝えられている。地元ではこの伝説を尊んで亀は神の使いと信じられて食さないと古老は伝えている。この地方には鵜戸神宮の祭神と縁深い神社が点在し当社は往古を偲ぶ神社の一社である。

 

駒宮神社

 

駒宮神社 神武天皇石碑

 駒宮神社は人皇第一代神武天皇をご祭神と仰ぐ由緒の深いお宮で第41代文武天皇の御代に創建されたと伝えられています。また、神武天皇は吾平津姫をお妃に迎えられ愛馬龍石号を友にこの地に住まわれた少宮跡ともいわれています。

駒繋松跡 

当社東方道路沿いにあり海辺にて釣りをなされた折、白髭の老人から龍馬を与えられ、その馬に龍石を命名。愛馬で鵜戸の父君にお会いに行かれる都度、この松に繋がれたと伝えられる。

草履石、駒形石

 当神社東方道路下にあり天皇のお草履の跡、愛馬龍石の足跡という。

立石の牧

 神社より北へ4キロ国道沿いの山上に跡あり。天皇宮崎の宮居に向かわれるとき、愛馬龍石を草原に放ちになった。その縁で字を立石という。それよりこの地は牧場となり日本最古の牧場といわれる。立石の牧と称し江戸時代には牧奉行がおかれた。

 

吾平津神社

 

吾平津神社の丘陵 吾平津神社

祭神 

吾平津毘売命 天照皇大神 武甕槌命 倉稲魂命 天児屋根命 木花咲耶姫命 経津主命

由緒

 主祭神の「吾平津毘売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称されまだ日向に在られたころの后であり、お二人の間には「多芸志美々命」「岐須美々命」の二人の皇子があった。

 神武天皇が皇子や群臣と共に日向を立って大和朝廷を起こすために東遷されたとき、吾平津毘売命は同行されず当地に残られこの油津の地より御東遷のご成功と道中の安全をお祈りされました。

 この地は神代紀に見える吾田邑の故地で、吾平津姫の御誕生地と伝える。ここに火闌降命の裔に当たる吾田君がおり、神武天皇立太子の後しばらくして吾田の小椅君(こばしきみ)の妹であった吾平津姫を娶った。

 神社は吾平津姫を祭神としているが文久年間神社付近の小丘を発掘したところ鏡・玉等の遺物を発見したことがあり、この小丘は前方後円墳である。吾平津姫の御陵と伝える。

 

吾田神社

 

 南那珂郡吾田村戸高

 吾平津姫命及び皇子手研耳命を祭る。いま両神の木造御神体を奉斎している。神社の西北丘陵に吾平津姫の御陵伝説地がある。また吾平津姫の宮跡と伝えられるところは大字戸高字札垣にあり、同字青木山は手研耳命の宮跡伝説地である。

 手研耳命が亡くなられたとき、命を吾田の小崎に葬ったと言われている。その小崎は今の神社の位置である。宮の上の陵墓は手研耳命の御陵と伝える。

 

潮嶽神社

 

 北郷町宿野に潮嶽神社がある。火闌降命他二柱をまつる。この地は火闌降命の舊跡と伝えている。主祭神として火闌降命を祀るのはこの神社のみである。

 火闌降命(海幸彦)が彦火火出見尊(山幸彦)と争われたとき、満潮に乗り巌船で流れ着き上陸されたという伝説に基づき潮嶽の里という。ここの旧居で国内を治められ崩御された後、潮嶽川上の陵に葬ったところを潮塚という。

 

生達神社

 

 南那珂郡北郷村曽和田

 神武天皇御東遷に先立ち宮崎の宮より后吾平津姫命及び皇子たちを従え吾田ノ宮へ巡幸の御途次この地に行幸あらせ給いしと伝ふ。御腰掛岩があり、この地は廣戸川に臨む海抜220mの高地である。

 

串間神社

 

 彦火火出見尊を主祭神として他に12柱の神々を祭るので十三所大明神と称していた。山幸彦と呼ばれる主祭神が猪、雉などの獲物の多いこの地を狩場として笠狭の宮から通われた仮宮所で穂穂宮と称しその宮跡を斎き祭ったと「神名録」は伝えている。

 

勿体の森

 彦火火出見尊が海神国から帰られて国土に就かせ給い、やがて、南方に巡幸し給うた。南那珂郡福島町西方の宮園に勿体の森がある。尊の行宮跡であったと伝えており、その遺址に勿体神社がある。

 

夏井の御磯

 

 神武天皇発港伝承地。柏原の波見港を出港した神武天皇が立ち寄った港と思われる。

 

佐野

 

曽於郡志布志町佐野は神武天皇御降誕地として神聖視され、その佐野丘には三野大明神の祠堂があって神武天皇を奉祀している。

 

山野

 

 東串良町山野に山王屋敷と称する一廓があり神武天皇御降誕地及び宮跡と伝える。

 

神武天皇発港地

 

 

柏原海岸 肝属川河口

 肝属川の河口にあたり鹿児島神宮の地の彦火火出見命に挨拶し、鵜茅草葺不合尊の御陵に参拝の後310日皇兄五瀬命及び皇子手研耳命と共にこの地より発港する。

 

高屋神社(内之浦)

 

 彦火火出見尊、鵜茅草葺不合尊を祀り、景行天皇が創建された。

 

内之浦港

 

 彦火火出見尊綿津見宮より御到着伝説地

 

国見山・黒園岳・母養子岳

 

 内之浦港を囲むように存在している三山(国見山・黒園岳・母養子岳)はそれぞれに伝承を持っている。国見山山頂に彦火火出見尊の御陵があると伝えられている。黒園岳は彦火火出見尊の遊行伝説地。母養子岳は鵜茅草葺不合尊の御成長伝説地である。

 写真は右奥の山が国見山、中央(雲をかぶっている)が黒園岳、左端が母養子岳である。

 

大川内神社

 

祭神 彦火火出見尊、鵜茅草葺不合尊、玉依姫命、神倭磐余彦命、阿比良毘売命

 主神吾平津媛は、神武東征に御子手研耳命を随伴させ、自ら吾平の地に止まり、ひたすら夫の君やわが子の御東遷、武運長久をお祈りになったという。

 

桜迫神社

桜迫神社 奥の丘陵が神社

桜迫神社は鵜茅草葺不合尊の宮居・西洲宮(にしのくにのみや)跡で神日本磐余彦尊の生育の地と伝えられている。境内の南側に「神代聖蹟西洲宮」の墓が建立され昭和15年神代聖蹟として鹿児島県知事の指定を受ける

 手前の川には昔船着場があったそうである。

 

イヤの前

神武天皇誕生地の石碑 イヤの前

 

 肝属川の古い渡船場に当たる水上棚は、玉依姫ここを通過のとき俄かに御産気を催させ給うて、御産屋が営まれ神武天皇が御降誕遊ばされた所と伝える。イヤとは方言で胎盤の意で、イヤの前は神武天皇の御胎盤を埋めたところと伝える。下の写真は肝属川の下流方向を見たものである。西州宮は宮下にあり、宮下は水上交通の要となっている。この川を使って様々な荷物を運んだのであろう。

 

高千穂神社

高千穂神社 古江港 薩摩半島が見える

 鹿屋市花岡

皇孫瓊々杵尊が高千穂宮から笠沙岬に巡幸のとき滞在されたところ。近くの海岸である古江港から野間岬に旅立ったと伝えられている。

 

河上神社

 肝属郡大根占村神川

神武天皇が高千穂宮にまします砌、御遊行の地と伝える。正面の山の麓に神社がある。

 

宮浦の宮 

宮浦宮の神武天皇滞在の石碑 若尊鼻(神武天皇が通過した伝承あり)

神武天皇御東遷前にたびたびおいでになった仮の宮居であったところ。神武天皇はこの浜辺より御船出され遊ばされ西の方若尊鼻を御経由、国分方面へ御来住になったとの伝承を止めている。

 

止上神社

 

 彦火火出見尊を奉祀する神社、高千穂宮跡伝説地。火闌降命の御陵伝説もある。

 

蛭子神社

 

伊邪那岐・伊邪那美命の最初の子供は3歳になっても足腰が立たない蛭のような子供であったため、両親はその子を蛭子命と名づけ、天岩楠船に乗せて天上から流し捨てた。天岩楠船は現在の場所に流れ着き根付いてこの辺りのクスの森(ナゲキノ森)となったと言い伝えられています。

 

石体神社

石体神社 高千穂宮跡の石碑

 当石体神社の位置は御祭神天津日高彦火火出見尊、豊玉姫命が都として高千穂宮を経営された正殿のあったところでそのまま社殿として祀ったもので、鹿児島神宮の起こりでもあります。

 

鹿児島神宮

 

主祭神 彦火火出見尊 

枚聞神社

 

薩摩一ノ宮で天照大神を祀る。他日向三代を祀っている。

 

玉の井

玉ノ井全景 玉ノ井の中

 彦火火出見尊は兄火闌降尊から大切な釣り針を魚に取られてしまったことをひどく責められ海の都に探しに出かけられた。

 疲れきって玉の井戸の傍らに立つ桂の木陰に休んでいると、水を汲みに来た豊玉姫・玉依姫から事情を聞かれ、尊に心を惹かれた姫の案内で海の宮殿に導かれた。姫の父海神の歓待を受けて楽しむうちに3年もの月日がたち、帰国を思い立たれた尊に姫たちは潮満玉、潮涸玉を海神は魚の取った釣り針を捧げ5丈の鰐を船としてもとの陸地に御送られた。

 

婿入谷

婿入谷 婿入谷全景

彦火火出見尊と豊玉姫が新婚生活を送ったところと伝える。

 

豊玉姫御陵

 豊玉姫命の御陵と言い伝えられている。

 

豊玉姫神社

 

 川辺郡知覧町

 豊玉姫命を奉祀する神社

 

飯倉神社

 

 川辺郡知覧町

 玉依姫命を奉祀する神社

 

笠狭宮跡

笠狭宮跡 竹屋ヶ尾

瓊々杵尊は吾田の長屋の笠狭の岬に上陸後、朝日の直刺す国、夕日の日照る国、甚吉き所といってここに宮居を立てたという。

 後世これを笠狭の宮といい、この地を御座屋敷と呼んでいる。前方の竹屋ヶ尾は、尊の后木花咲耶姫が、彦火火出見尊をお生みになったところと言われている。

 瓊々杵尊はその後、宮原、川内に移ったという。

 

竹屋神社

 

 彦火火出見尊三兄弟は竹屋ヶ尾で誕生されたが父の瓊々杵尊が笠狭宮を舞敷野から宮原に移されたので、3皇子はここで成長されたという。こうした神話を元に3兄弟を祭る神社は竹屋ヶ尾に在ったが平安時代にここに移された。

 

後笠狭宮

 

 瓊々杵尊は初め舞敷野に宮居(笠狭宮)を定めたが次いで宮原に移ったとされている。

 宮原は海抜およそ30mの台地で「朝日の直刺す国、夕日の日照る国、甚吉き所」を連想するようなところである。また、海路の便がよく、広い平野や海の幸の恵みに加え、妻の木花開耶姫の父である大山祇神の本拠地の阿多に近いところである。瓊々杵尊は晩年川内に移りそこでなくなったとされている。