日向帰還

 日向津姫関連地図

 日向津姫が宇佐を旅立つAD25年ごろの北九州の情勢

 素盞嗚尊は高齢化し倭国の経営を安心できる後継者に任さなければ、せっかくまとまった倭国がすぐに崩壊することを憂えていた。また、AD25年頃出雲で伊邪那美命命が亡くなったことを聞き、伊邪那美命を弔うために出雲に帰還し、そして、後継者の選定をすることになった。そして、正統な出雲王家の系統である、大己貴命を第二代倭国王とした。

 AD25年頃、饒速日尊はマレビトを多数引き連れて大和に旅立ち、素盞嗚尊は第二代倭国王選定と、鉄資源開発のために出雲に帰還した。猿田彦命は北九州沿岸地方一帯の統治を始め、伊弉諾尊は淡路島で鉄器工房を経営していた。

 素盞嗚尊は出雲に帰還しAD30年頃までは出雲で倭国の諸地域に指示を与えていた。日向津姫も時々出雲(姉山)を訪れて素盞嗚尊の指示を受けていたようである。

 高皇産霊神(大山祇命)は安心院の地で暫らく日向津姫と共同生活をしていたと思われる。宮跡は妻垣神社の地であろう。AD30年頃出雲で素盞嗚尊が亡くなった。

 高皇産霊神は第二代倭国王大己貴命の倭国統治能力に不安を感じていた。素盞嗚尊ほどのカリスマ性がないのが原因である。特に九州地方では大己貴命は全く知られておらず、九州地方が不安定化すると感じていた。倭国が不安定化し、分裂してしまえば、高皇産霊神の考えている日本列島統一構想が崩壊し、日本列島に戦乱が起こる可能性が考えられた。高皇産霊神は特に統一後不安定である南九州の安定化及び未統一地域の統一に力を注ぐ決意をした。南九州の統一は日向津姫が最適であると判断し日向津姫に日向国に下ることを提案した。

 日向津姫には素盞嗚尊との間に10歳前後となった市杵島姫・天忍穂耳尊・天穂日尊がいた。この三人の子たちは将来倭国のために活躍してもらわなければならない。そのためには見聞を広めなければならないので、高皇産霊神は当時の辺地である日向に連れていくよりも中心地で育ったほうが良いと判断し、天孫降臨団に加わった天三降命を呼び戻し、3人の子たちを預け、宇佐地方の統治を任せた。

 高皇産霊神と日向津姫の再婚

 古事記・日本書紀では天の岩戸事件後天照大神は常に高皇産霊神とペアで登場している。これは、天の岩戸事件(饒速日尊の大和出立)の後、高皇産霊神と日向津姫が再婚したことを意味している。形は天照大神(日向津姫)が代表ではあるが、高皇産霊神が常に背後にいて倭国統一に関する指示を出しているのである。高皇産霊神が表に出なかったのは倭国の始祖素盞嗚尊と血のつながりがないためであろう。天忍穂耳尊を養子にしたのも、倭国を統一するための旗頭がほしかったためではないだろうか。北九州を統治するのは天忍穂耳尊の名のもとで行われたのであろう。

 倭国王の位を大己貴命に譲った素盞嗚尊ではあるが、素盞嗚尊自身も九州地方の統治に不安を感じていたことであろう。この当時倭国はまだ一枚岩になっていなかったのである。大己貴命は出雲王朝第6代の王であるので、出雲地方では十分に顔が効くが、九州地方では存在を知られていない。そのために、素盞嗚尊は越国統一という試練を与え、それを無事に成し遂げたために、大己貴命に第二代倭国王を譲った。

 ところが、九州地方の豪族たちには大己貴命の実績は全く伝わっていなかった。九州地方が倭国から分裂する危機があったのである。高皇産霊神はそのことを危惧していた。

 饒速日尊がまとめたヒノモトと合併しようとするときに倭国のほうが分裂していたのでは話にならない。倭国の分裂は何としても避けなければならない。その救世主となるのが、素盞嗚尊と日向津姫との間にできた子たちである。高皇産霊神は天忍穂耳尊を旗頭として九州地方をまとめようとしていたのであろう。天忍穂耳尊は素盞嗚尊の子であるために、九州地方をまとめる旗頭としては十分であった。

 高皇産霊神はそれに加えて、倭国後継者に飛騨王家の血を入れることを考えていた。日向津姫は日向地方(南九州)での人望が極めて高いのである。素盞嗚尊の妻であることに加え、南九州統治者の伊弉諾尊・伊弉冉尊の娘であり、能力的にも高いのである。高皇産霊神が日向津姫と結婚できれば、倭国に飛騨王家男系の血を入れることができるのである。

 高皇産霊神は出雲の素盞嗚尊に九州地方を安定化させる方法について相談したと思われる。素盞嗚尊も高皇産霊神の能力を高く評価しており、高皇産霊神と日向津姫が一緒になれば、九州を安定化させることができると思い、二人の結婚を承諾したものと考える。しかし、高皇産霊神が表に出すぎると、倭国の人々の反発を受けることが考えられるので、裏に徹するということを素盞嗚尊と約束したのであろう。そのために、記紀神話において高皇産霊神は天照大神の背後で指示を出す役割を演じていると考えられる。

 高皇産霊神の本拠地はどこなのであろうか。はっきりと伝承が残る地は存在しない。おそらく同じ地にじっとしていることがなく、動き回っていたのではないだろうか。養子にした天忍穂耳尊が吾勝野を周辺に活躍しているので、その近くである宇佐周辺、田川市周辺中心に滞在していたのであろう。

 日向津姫高千穂降臨

  日向津姫は高皇産霊神の指示に従い、AD30年頃宇佐を出発した。日向に戻る前に伊弉諾一族の聖地高千穂に立ち寄った。
 大分県竹田市大字米納に産石神社がある。伝承は何も伝わっていないが祭神が高皇産霊神及び木花開耶姫である。木花開耶姫は日向津姫と推定している。
 大分市に流れ込んでいる大野川の流域は弥生遺跡の多い地域で人が多く住んでいたと推定される。日向津姫は高皇産霊神とともに、この川をさかのぼり祖母山を越えて高千穂に行ったのではないかと思われる。祖母山は、標高1756m、九州本土第3の高峰で、日本書紀の記述に「日向の襲の高千穂の添の山峯(そほりのやまのたけ)」とある山である。神武天皇東征の際、豊後沖で暴風雨に襲われた時、命が添の山峯に向かって手を合わされると、祖母の豊玉姫が現れ静めたということから山の名前を祖母山と改めたと伝わっている。祖母山頂の石の祠には祖母岳明神として豊玉姫が祀られており、毎年5月3日に祠の前で祖母山山開き神事が行われる。古代史の復元では神武天皇の祖母は日向津姫なので、祖母山頂に祭られている神は本来は日向津姫ではないかと思える。古代において人が新しい土地に行くとき、周辺の最も高い山に登って周辺の地理を確認していたようである。日向津姫もそのために、わざわざこの山に登ったのではあるまいか。
 高千穂は日向津姫の先祖の旧蹟地でもあるので先祖にあいさつする意味もあったのであろう。高千穂の櫛降神社は瓊々杵尊の誕生伝説地である。瓊々杵尊誕生伝説地は調べた限り他になく、瓊々杵尊はここで滞在中の日向津姫から産まれたのではないだろうか。 日向津姫が高千穂に住んでいたのは30年頃~32年頃の2年間ほどと考えられる。日向津姫が住んでいたのは高千穂町三田井のはずれにある高天原と呼ばれている丘陵上ではないかと 考える。 ここは瓊々杵尊の宮居伝説地である。このためにこの高千穂が天孫降臨の地として後世に伝えられることになったのではないだろうか。

 瓊々杵尊生誕

 神話によると瓊々杵尊は高天原で誕生している。誕生直後に高千穂に天孫降臨している。実際のところはどうなのであろう。瓊々杵尊の誕生伝説地を挙げると
① 西臼杵郡高千穂町の二上峰
② 西臼杵郡高千穂町の櫛触神社(天孫降臨地)
 調べた限りそのほかの誕生伝説地はない。瓊々杵尊の誕生地が山の頂上というのはおかしなものである。二上峯の中腹に洞窟があり、此処が生誕地と伝えるが、此処も不自然である。人の誕生地には産湯が使える場所が必要なのである。最初の宮跡が高千穂町の高天原であるという伝承があり、高千穂町で生誕した可能性が高いといえる。誕生地は当然ながら聖地となっているはずである。残る誕生伝説地は櫛触神社の地である。すぐそばに天真名井「瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移されたと伝えられている。」があり、今でも清水が沸いている。この水を産湯に使ったことも考えられる。
ここが瓊々杵尊の生誕地として最有力である。後の時代天孫降臨を天上からの降臨と位置付けられた時、近くの高峰に降臨地を作ったものが二上峰と推定する。高千穂一帯は日向津姫が数年間住んでいたところであるが、日向三代すべての関連伝承地を含むなど他地域の伝承との間で矛盾を生じる伝承地も多く含まれており、神武東遷の後、三毛入野命がこの地にやってきて、聖地化されるなかでその他の伝承地が作られたものと推定する。

櫛触神社 高天原遙拝所 天の真名井
天孫降臨の聖地 瓊々杵尊宮跡 瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移された

 このころ日向津姫は出雲の素盞嗚尊のところへよく通っていた。その帰りに高千穂の地に立ち寄ったのではあるまいか。理由は球磨国との交渉のためであろう。日向津姫が高千穂の高天原に滞在中に瓊々杵尊が誕生したものであろう。AD30年頃のことである。近くには高天原遙拝所、四皇子峰がある。

高千穂の伝承地 伝承 推定
高天原遙拝所 高天原を遙拝した所。瓊々杵尊宮跡 実際のところ、何を遙拝したのであろうか?日向津姫の時代とすると、遙拝対象がはっきりとわからなくなるのであるが、後の時代、この地にやってきた三毛入野命、健磐龍命の祭礼地と考えたほうがよいようである。日向津姫の時代では日向津姫自身が瓊々杵尊ともに住んでいた宮跡と思われる。
櫛触神社 天孫降臨の聖地。祭神瓊々杵尊 瓊々杵尊の生誕地と推定
天の真名井 瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移された 瓊々杵尊の誕生時の産湯をつかった井戸。櫛触神社から200mほどしか離れていないので、両者は深い関連があるものと思われる。
四皇子峰 神武天皇をはじめとする四兄弟の宮跡。 神武天皇はこの高天原とは直接関連が認められないので、神武天皇ではなく、天孫降臨の従者の宮跡ではあるまいか。
天岩戸神社 天岩屋遙拝所・祭神天照大神
天安河原・諸神会議所
この当時は諸神を集めた会議がよく行われていたようで、岩屋を聖なる地とし、その前で、初会議を行ったその会場と推定する。

高千穂より西へ30kmほど進んだ場所に幣立宮がある。この宮にもさまざまな伝承が伝えられている

幣立宮伝承 内容
筑紫の屋根 天照大神、天の岩戸よりご出御の御時、天の大神を神輿に奉じ日の宮に御還幸になった。
村雲尼公殿下の御玉串 皇孫瓊々杵尊の思し召しで皇祖天御中主尊の御許に天村雲命を上らせ給う
東御手洗 皇孫瓊々杵尊はこの神水で全国の主要地を清められた。天村雲姫が水徳を開かれた。
日の宮 神武天皇が大和遷都後、七度訪問した。

 幣立宮のこれらの伝承を総合して判断すると、この地は、高千穂に滞在中の日向津姫がおそらく球磨国との合併交渉のために、この地を訪れ、その拠点としていた場所と推定できる。神武天皇自身も遷都後に日向を訪れたという伝承をもっている。これも球磨国との交渉であったろう。神武天皇が亡くなる直前(神武76年=AD120年)健磐龍命がやはりこの地を拠点としていたようである。

 高千穂出発

 瓊々杵尊は誕生後数年間は、高天原の地に住んでいた。日向津姫はこの地から何回か出雲へ訪問したものと考えられる。数年後瓊々杵尊は日向津姫とともに日向に戻ることになった。高千穂から延岡に向かう途中に当たる日之影町の大人神社には、大人神社があり「昔は大日止と書き瓊々杵尊が高天原から高千穂にご降臨の後しばらく御滞在の地」と伝えている。この地を通って日向に向ったものであろう。

大人神社

 次の日子穂々出見尊は阿波岐原で産まれているので、日向津姫が高千穂にいた期間は短く。すぐに日向に戻ったものと考えられる。この頃は南九州がまだ未統一であり、南九州に戻ったものと考えられる。

 日向津姫西都へ移動

 この降臨の状況を伝える伝承がある。西都市南方の速川神社の伝承である。

 天照皇大神の御神勅により、高千穂の峰に降臨され広い土地を求めて九州山脈を南下されました神々の御一行は、東都原には天児屋根命、西都原にはニニギノ命と鎮座され、ニニギノ命と御一行の瀬織津比売の大神は高山の末短山の末より落ち多岐つ清き流れの速川の瀬に末永く座し、天津菅麻を持ちて罪深き者、穢有る者等を祓清めると申され、この所に社を建てて速川神社と称し大祓の神として留まられました。いつしか定かではないが「卵二個、灯明二本」を持って参拝されるようになり、厄祓を始め、病気平癒、諸試験合格、諸業繁栄、その他諸々の願成就の神として崇敬されています。
   <平成祭データ>

 この伝承中の瀬織津姫が日向津姫の別称である。伝承では「高千穂から新しい土地を求めて南下の途中、この地で配下の瀬織津姫を亡くしその霊をこの地に祭ったもの」と言われている。瀬織津姫は瓊々杵尊の配下ではなく母である。つき従っていた配下の女性が誰か亡くなったものであろう。南九州での最初の降臨地は西都原となる。降臨経路は日之影町の大人神社の地を通過しているのは確認しているのでここから西都までの九州山地縦断経路を推定してみよう。

 大人神社→高城山(南西3㎞)→尾根(南西3㎞)→真弓岳(南東8㎞)→柳の越(南10㎞)→諸塚村役場(南西4.5㎞)→尖野(南南東4.5㎞)→(清水岳)西南西4.5km→(龍岩山)西南西9㎞→(尾崎山)南西2㎞→(三方岳)南南東5km→(空野山)南東11㎞→(杖木山)南東7㎞→(大瀬内山)南4㎞→(稗畑山)南3㎞→西都原(南8㎞)

 この経路は一度耳川流域に下るが後はずっと尾根道である。総距離100km程度である。20日程度の日数を要すると思われる。西都における日向津姫の宮跡は都万神社の地ではないかと思われる。

 都万神社は木花開耶姫を祭神としている。木花開耶姫は記紀では瓊々杵尊の妻となっているが、瓊々杵尊の最初の妻は奈古の磐長姫、後妻が阿多津姫である。この阿多津姫が木花開耶姫と考えられなくもないが、神社に祭られている規模から判断して古代においてかなり重要な地位を占めていた人物(日向津姫)ではないかと考えている。都万神社は高皇産霊神の妻としての日向津姫を祭った神社ではないだろうか。都万神社は日向国二宮であり、古代より重要視されていた神社であり、それなりの歴史的背景のある神社でなければならない。

 日向津姫の拠点となった西都市都万神社の地は、当時海岸線がかなり中に入り込んでいて、大きな入り江になっている場所であった。これなら工場交易には最適といえるであろう。

宮崎近辺の弥生時代推定海面(現在より7m水位が上がったと仮定)
 
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