大己貴命の播磨国開拓

 大己貴命関連地図

 第二代倭国王大己貴命は九州別府地方で技術指導をしているとき、出雲で素盞嗚尊が亡くなったという連絡を受けた。大己貴命は第二代倭国王であるので、すぐさま出雲に帰還することになった。

 AD30年頃、スサノオが亡くなると、出雲国が不安定化するので、大己貴命としては出雲に留まって倭国を統治しなければならなかったのであるが、地方の技術普及を続けることを優先し再び少彦名命と共に再び地方開拓に乗り出した。これが原因で出雲が不安定化することになり、これが、出雲国譲り事件のきっかけとなるのである。大己貴命は行く先々でその土地の女性を妻としていたので、正妻の須勢理姫の嫉妬が激しく、出雲国に居づらかったものと考えている。今度は播磨国の開拓に向かった。

関連伝承地

日本書紀 大己貴神がはじめ出雲の「御大之御前」(美保崎か?)にいた時、小さなガガイモの実の舟に乗ってミソサザイの皮の服を着た小さな神様(少彦名命)がやってくるのを見ました。
鷺神社 岡山県美作市 白鷺が薬湯を教えたので鷺温泉と云う。祭神が大穴牟遅神・少彦名神なので、白鷺とは此の二神と思われる。
筌戸 兵庫県佐用町 大神が出雲からやって来たとき、嶋の村の岡を呉床(腰掛け)にして筌(魚をとる道具)をここを流れている川にしかけたのでこの地を筌戸と呼ぶこととなった。しかし魚は取れなかったので大神は結局この土地を去ることになった
佐用都比売神社 佐用郡佐用町本位田甲261 播磨風土記に見ゆる佐用都比売命にして大己貴命の妃にして此地方開拓の祖神なり
伊和神社 兵庫県宍粟郡須行名 伊和大神(大己貴命)がこの地にやって来たときに、鹿に遇われたことが由来になっている。「鹿に遇われた」が「ししあわ」。それがなまって「しさわ」と呼ぶようになったということである。
 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終った「おわ」と仰せられて鎮まりました。<平成祭りデータ>
庭田神社 宍粟郡一宮町能倉1286 古伝(播磨風土記)に大名持大神(大己貴大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係はれる諸神を招集へて酒を醸し山河の清庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなし給えりし霊跡。<平成祭りデータ>
生石神社 高砂市阿弥陀町生石171 神代の昔大穴牟遅(おおなむち)・少毘古那(すくなひこな)の二神は天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多数神々を集め、この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明されたのである。以来此の宮殿を石乃寶伝、鎮(しず)の石室(いわや)と称して居る所以である。
湯泉神社 有馬温泉 温泉開拓の神
大己貴神さまと少彦名命さまとが人々を病気から守るため、国々を旅し、薬草を捜し歩かれたときに発見されたといわれています。つまり、神代の昔のことです。というのは、川のほちりで赤い水が岩の間から湧き出ているのを神さまたちが見つけられました。そこえ三羽の傷ついたカラスが飛んできて、水の中に降り立ち、水を浴びていました。しばらくするとカラスの傷がみるみるうちになおっていきます。神さまたちが不思議に思って手をつけてごらんになると暖かい水でした。「きっと病気にも効くに違いない」・・・神さまたちはカラスをまねられ、さっそく、その湯を浴びられました。こうして有馬温泉が見つけ出されたいい伝えられています。これらの神さまがたを、おまつりしてあるのが湯泉神社です

  播磨国風土記の開拓伝承

因達の神山 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、 その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。
揖保郡・香山の里鹿来墓 揖保郡・香山の里鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。 <揖保郡新宮町香山>
揖保郡・阿豆の村 揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。
<揖保郡新宮町宮内>
揖保郡・御橋山 揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。
<揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)>
揖保郡・林田の里談奈志 揖保郡・林田の里談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし) をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。
<姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」>
揖保郡・林田の里・伊勢野 揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命(建比名鳥命の子)、伊勢都比売命である。
<姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤>
揖保郡・林田の里・稲種山 揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の?岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、 「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられた。山の形も稲積に似ている。
<姫路市下伊勢 峰相山>
穴禾の郡 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。
<宍粟市 伊和神社>
穴禾の郡・比治の里・宇波良の村 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまる で室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。
穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。
<姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」>
穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。
<宍粟市山崎町梯川>
穴禾の郡・雲箇の里(うるか) 大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。
<宍粟市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」>
穴禾の郡・御方の里・伊和の村( 大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和) 大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。
<宍粟市一宮町伊和 伊和神社>
賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。
<下里川流域>
賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。
<加西市豊倉町の飯盛山>
賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。
<東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」>

 これら伝承を元にして、大己貴命・少彦名命の播磨国における開拓過程を推定してみると、出雲→伯耆国→美作国を経由して播磨国にやってきた大己貴命・少彦名命は播磨国と但馬国の一部を巡回して開拓したことがわかる。

 播磨国に入った大己貴命と少彦名命は東へ東へと進み、現在の神戸市近辺まで開拓したようである。もっとも東の伝承が有馬温泉の温泉神社であることからこの辺りまで開拓したと考えられる。 AD35年頃のことであろう。

 

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