遠江・駿河国巡回

 遠江・駿河国統一関連地図

遠江国

 宮 神社  住所  祭神   創始 備考 
一宮 小国神社 静岡県周智郡森町 大己貴命 欽明 欽明天皇16年(555年)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる
一宮 事任八幡宮 静岡県掛川市 己等乃麻知媛命 成務 成務天皇(84年~190年)の御代の創立と伝え聞く。大同2年(807年)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地 本宮山より現社地へ遷座すという。延喜式神名帳に(佐野郡)己等乃麻知(ことのまち)神社とあるはこの社なり。古代より街道筋に鎮座、遠江に坐す願い事のままに叶うありがたき言霊の社として朝廷をはじめ全国より崇敬されし事は平安期の「枕草子」に記載あるをみても明らかなり。
二宮 鹿苑神社 静岡県磐田市二ノ宮 1767 大名牟遅命 履仲 二宮神社 とともに遠江国の二宮であり、江戸時代末までは高根明神社と称し、高彦根命を祀っていた。
二宮 二宮神社 静岡県湖西市新居町中之郷320   大物主神 敏達 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大物主命」とも申し上げる。国土開発、福徳縁結び、萬の産業、医薬、健康安全、知徳の主護神として敬われ 御神徳極めて高し

 遠江国・駿河国統一関連伝承地

 遠江国は62座の式内社中38座(61%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮の小国神社の祭神大己貴命は三河国一宮と同じ祭神である。三河国の大己貴命は東海総鎮守と言われている。遠江も東海なので、総鎮守は同じ神のはずである。よって、小国神社の大己貴命も饒速日尊と思われる。二宮の鹿苑神社の祭神大名牟遅命も周辺の神社の大国主命が饒速日尊と推定できることから、この神も饒速日尊と思われるが根拠はない。

 小國神社の伝承

 大黒様はウサギとともに遠江国にやってきた。本宮山に降り立ち、
「水よ出でよ」と小槌を振ると、山から水が湧き出て川を作った。木々が喜び森ができた。
 次に「この地を守る宮よ出でよ」と小槌を振ると、大きな社が出てきた。土地の人々は喜び、本宮山山頂に大黒様をお祭りする社を作った。本宮山奥磐戸神社である。
 山から流れ出た水は合わさって大きな川となり、麓の土地の畑や田圃をうるわした。人々は喜び、「これも大黒様のお恵みじゃ」と、取れた作物を神社に奉納した。
 また、川は山の栄養分をたっぷりと海に運ぶので、魚がよく育ち、漁師さんたちも喜びました。海が荒れたとき、大黒様が降り立った本宮山が光って見え、その光を頼りに無事に戻ることができた。喜んだ漁師たちは取れた海の幸を神社の奉納した。<小國神社ものがたりより抜粋>

 この物語は、入植したマレビトや饒速日尊の業績を示しているものと考えられる。饒速日尊はこの小国神社の地を拠点としていたようである。

 マレビトがその土地に入植したときに、まず、最初にするのが川の利用であることを示している。川の流れを管理し、田畑に水がいきわたるようにして灌漑を行っているようである。そして、その次に守り神として社を立てているようである。その社に産物を持ち寄っているようである。これは市が開かれていることを意味しているのではないだろうか。

 饒速日尊が拠点にしたと思われる神社

〇 二宮神社 大物主命 静岡県浜名郡新居町中之郷230
 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大 物主命」とも申し上げる。国土開発、福徳縁結び、萬の産業、医薬、健康安全、知徳 の主護神として敬われ 御神徳極めて高し

〇 於呂神社 大國主命 静岡県浜北市道本210

〇 曽許乃御立神社 武甕槌命 静岡県浜松市呉松町3586 
 武甕槌命常陸国を出て遠江国過時、根本山に憩賜ふ。時の人瞻仰慕いて止まず、社殿を建立す。神に従って来た六神も呉松神明、伊左地熊野、和地琴宮、佐浜貴船、平松八幡、和田西宮に祀る。

〇 大甕神社 大山咋神、大國御魂神 静岡県浜松市中野町3175

〇 淡海國玉神社 大國主命 静岡県磐田市見附2452-2

〇 小國神社 大己貴命 静岡県周智郡森町一宮3956-1
 須佐之男命の御子にして父神の命により豊葦原の国を開発し稲穂の稔る瑞穂の国に造り上げ天孫に国土を奉つた大功を称へて大国主命とも国作之大神とも大穴牟遅神と称へ又農業山林鉱業縁結び医薬禁圧の法を授け給ふ徳を称へて大物主神とも宇都志国玉神とも大国玉神と称へ又艱難辛苦の修養を積まれ統治者となられ国中の悪神を平定せられた質実剛健と勇気を称へ葦原醜男命とも八千矛命と申し尊貴を称へて大己貴命と申す等国土開発福徳縁結び山林農業医薬知徳剛健等の守護神と敬はれ御神徳極めて高い 。

 直接伝承を持っているのは二宮神社と小國神社でAd40年ごろと推定されるが、曽許乃御立神社は、鹿島からの帰りなので、AD45年ごろのようである。饒速日尊はこの後関東地方の巡回しており、その帰りに訪問したと考えられる。また、大甕神社は祭神の大山咋命は饒速日尊の子で玉櫛彦のことと思われるので、これも、大分後で、AD57年ごろではあるまいか。このように饒速日尊及びその一族は同じところを何回か巡回しているようである。

 駿河国

 宮 神社  住所  祭神   創始  備考 
一宮 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市 浅間大神 垂仁 11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まり
二宮 豊積神社 静岡県庵原郡由比町町屋原185 木花之佐久夜比売命 白鳳 延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していた。また、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇(つみ)から取られた
三宮 御穂神社 静岡県静岡市清水区三保1073 大己貴命 不詳 三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説ゆかりの社としても名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
「大己貴命は豊葦原瑞穂国を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。」
那閉神社 静岡県焼津市浜当目13  八重事代主命、大國主神 継体 虚空蔵山とも呼ばれる海辺の神奈備山である。海の彼方から神が来訪する水平来臨型の信仰の山である。
静岡浅間神社 静岡県静岡市宮ヶ崎町102-1 大己貴命
木花開耶姫命
大歳御祖命
不詳 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社といい、何れも創立は千古の昔にさかのぼる。大己貴命は少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。
富知神社 静岡県富士宮市朝日町12-4 大山津見神 孝霊 大宮の地主の神 鎮守の神・産土の神として古くから、この地方の人々は篤い崇敬を捧げて祭ってきた。
『富士本宮浅間社記』には、浅間大社が鎮座した大宮は、もとは福地明神(当社)が鎮座していた地、とあり、浅間大社が鎮座した、平城天皇大同年間以前から、当地の地主神として崇敬されていた古社。

 駿河国で饒速日尊が拠点としたと思われる神社は調査したが、静岡浅間神社の神部神社のみである。伝承が失われているとも思えるが、思ったより少ないという印象である。この神社で少彦名命とともに国土を経営されたとあるが、他の神社の祭神を調べてみると、大物主命とともに事代主命が祭られていることが多い。このことから推察し、駿河国は饒速日尊に加えて、その嫡子玉櫛彦命が協力していたと考えられる。隣の伊豆国には事代主命(玉櫛彦命)の伝承が多く、事代主命が妻を迎えて子を得ていることから、その時期はAD58年ごろのこととなる。

 浅間大神について

 駿河国では浅間大神が祭られている神社が非常に多い。一宮の富士山浅間神社の伝承でもわかる通り、富士山が噴火したために、それを鎮めるために、浅間大神(木花咲夜姫)を祭ったとされている。なぜ木花咲夜姫なのであろうか。木花咲夜姫は大山祇命の娘である。富士山周辺に木花咲夜姫の具体的行動伝承を持つ神社は存在しない。駿河国には饒速日尊が滞在したと推定できる神社が少ないことから、駿河国は大山祇命が統治していたのではないかと考えている。ここでいう木花咲夜姫は饒速日尊の妻となった天知迦流美豆比売=市杵島姫を指していると思われる。大山祇命がこの周辺を統治しており、富士山が男性イメージなので、それを鎮めるために関係の深い女性ということで木花咲夜姫が選ばれたのではないかと推定している。

 その根拠は、浅間神社の地はもともとが富知神社が存在し、浅間神社よりも古いとされており、本宮と考えられる。この神社の祭神が大山祇命なのである。浅間大神の大本は大山祇命ということになる。

御穂神社について

 御穂神社は三穂津姫と大国主命が新婚旅行に来た地とされている。この大国主命は饒速日尊を指し、三穂津姫と結婚したのは出雲国譲りの直後であることから、この地に新婚旅行に来たのはAD47年ごろとなる。饒速日尊は、なぜ、新婚旅行の地にわざわざこんなに遠い駿河国を選んだのだろうか。これは、饒速日尊の駿河国統治実績が少ないために状況確認を兼ねていたのではないかと想像する。

 そうすると、駿河国を饒速日一行が訪れたのは、第1回目の統治がAD40年ごろで、この時は大山祇命を伴っており、第2回目は新婚旅行に来たAD47年ごろで、第3回目は那閉神社の伝承にある通り嫡子の玉櫛彦を伴ってAD58年ごろと推定される。このように饒速日尊は同じ地域を何回も巡回していることになる。

  

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