近江開拓

近江国統一関連伝承地

1.近江国

格式 神社 場所 主祭神 饒速日尊 創建 備考
一宮 建部大社 滋賀県大津市 日本武尊、大己貴命、稲依別王 景行 景行天皇46年に神崎郡建部郷(現在の東近江市五個荘付近)に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされる。
二宮 日吉大社 滋賀県大津市坂本5丁目1-1 大山咋神(東本宮)・大己貴神(西本宮) 不詳 牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。
三宮 多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604 伊邪那岐命・伊邪那美命 神代 『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが、当社のことである。 摂社(境内社)である日向神社は延喜式内社であり、瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る
伊邪那岐命は、まず多賀大社の東 にそびえる杉坂山に降り立ちました。そして、北麓にある多賀町大字栗栖に降りて、そこで一度休息を取って、その後に現在の多賀大社がある場所 に鎮まったといわれています。
三宮 御上神社 滋賀県野洲市三上838 天之御影命 孝霊 孝霊天皇の時代、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝が三上山を神体(神奈備)として祀ったのに始まると伝える
那波加神社 大津市苗鹿一丁目 天太玉命 天智 祭神 天太玉命が太古よりこの地に降臨したと伝える。
石坐神社 滋賀県大津市西の庄15-16 彦坐王命、天命開別尊 天智 音羽山系の御霊殿山(御竜燈山)に天降った八大竜王(スサノオ)を祀ったのを創祀とし
沙沙貴神社 滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1 少彦名神 神代 少彦名神降臨伝承地
大瀧神社 滋賀県犬上郡多賀町冨之尾1585 高おか神 不詳 多賀大社の末社あるいは奥宮として考えられてきた。
調宮神社 栗栖 伊邪那岐命 伊邪那岐命が多賀の地へ到着する前に一時休息した場所といわれ、そこから多賀大社の御旅所とされた宮
櫻椅神社 滋賀県伊香郡高月町東高田363-1 須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命 太古ここが湖の頃、須佐之男命が肥の川上の八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側の阿介多と言う小高い所に来臨し、 剣の血を洗た御霊跡と伝わる。

 近江国は天太玉命・天之御影命など饒速日尊に追従してきた神を祀っている神社がいくつか存在している。また、 物部氏が建てた神社も散在している。このことから、近江国には数多くのマレビトが赴任しているようである。

 近江国の歴史

 素盞嗚尊の侵入

 伝承上、近江国が最初に登場するのは素戔嗚尊である。櫻椅神社の地に素盞嗚尊伝承が存在している。この地は、琵琶湖の北端近くである。地域的に素盞嗚尊が神戸周辺を統一したのちに、淀川に沿って北上し、京都から山科・音羽山を経由して近江国に入ったものと思われる。周辺を統一しているとは思えるのであるが、伝承地が櫻椅神社以外には見つかっていない。

 この当時の近江国内の最大の遺跡と言えば守山市にある下之郷遺跡であろう。下之郷遺跡は、三上山を頂点として広がる野洲川下流域平野のほぼ中央に位置しており、現在のびわ湖の湖岸より5kmほど内陸、湖面より10mほど高い位置にある。
 野洲川はびわ湖に注ぐ最大の川で、この川がつくる淡水三角州は日本最大である。この頃はまだ灌漑技術が未熟で、水の豊富なこの地は稲作にとって都合のよい土地であったと思われる。
この遺跡は、扇状地の末端にあり、地下の伏流水が地表に湧き出してくるので、生活を営むうえでたいへん適した場所であると思われる。こういった土地は外敵から狙われやすく、下之郷遺跡は大規模な環濠集落である。防衛をかなり意識していると思われる弥生時代中期の遺跡である。

 弥生時代後期になると、環濠集落は姿を消し、近くにある伊勢遺跡が巨大化する。環濠集落ではないので平和的に統一された結果、遺跡が変化したと思われる。その境の時期にあたるのが素盞嗚尊が訪問したころである。この下之郷遺跡も素盞嗚尊が訪問していることであろう。

 しかし、この遺跡の人々も外敵の攻撃を受けており、警戒心も強く素盞嗚尊の統一しようという提案は拒否したのではあるまいか。素盞嗚尊はこの地を飛ばして琵琶湖の北の方を統一したと思われる。BC4年ごろと推定する。

 伊弉諾尊の侵入

 AD19年ごろ、紀伊国を統一した後の伊弉諾尊が近江国にやってきた。(製鉄の重要性参照)、伊弉諾尊は、近江国の杉坂山に到達したことから、紀伊国から伊勢湾に達し、員弁川を遡って近江国に達したと推定する。

 伊弉諾尊はなぜ、この地にやってきたのであろうか。素戔嗚尊が琵琶湖の北端周辺を統一していたが、南部の守山市周辺は未統一地域であり、北端地域が孤立しているような状況であった。伊弉諾尊が降臨したのはこの両者のちょうど間の地域の多賀である。おそらく、北端地域を起点として、守山市一帯を統一しようとしてのことであろう。しかし、後の流れから判断して、多賀地方は統一できたが、主力であった守山市一帯は失敗したようである。

 マレビトの侵入

 次に近江地方にやってきたのは饒速日尊に随従したマレビトである。近江国に赴任したと思われるのが、大津市近辺に天太玉命と近江八幡市の思兼命である。思兼命は伊弉諾尊が統一した多賀地方と未統一の守山市一帯の中間に位置する場所であり、思兼命の子である天御影命は下之郷遺跡の中心ともいうべき地に伝承を残していることから判断すると、思兼命の時に守山市一帯が統一されたと判断できる。AD35年ごろのことであろう。

 思兼命の行動について検討してみよう

 思兼命

 マレビトとして紀伊国に赴任

 思兼命は徐福子孫の高皇産霊尊が飛騨国から派遣された女性(神皇産霊神とされている)との間に儲けた長子である。BC2年ごろの生誕と推定している。AD25年ごろ、天孫降臨団として饒速日尊にマレビトとして随従し、最初の赴任地は紀伊国現和歌山市近辺と考えられる。この頃和歌の浦に滞在していた和歌姫(丹生都姫)と知り合った。

 和歌姫との結婚

 和歌姫は丹生都姫とも呼ばれ、日向津姫の妹である。紀伊国で生まれたと考えられ、伊弉諾尊・伊弉冉尊が素盞嗚尊とともに紀伊国統一していた時に誕生したと推定している。三重県熊野市の産田神社の地でAD18年ごろ誕生したと思われるう。姉の日向津姫とは20歳ほどの年齢差がある。

 丹生都姫神社には
「丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神さまで、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め天野の地に鎮座されました。」
と伝えられている。

 幼少時AD20年ごろは和歌の浦の玉津島神社の地で成長し、AD25年ごろこの地にマレビトとして赴任してきた思兼命と知り合うことになる。AD32年ごろ思兼命と和歌姫は結婚したものと考える。結婚後の二人が住んでいた地は紀州一宮日前宮・国懸宮の地ではないだろうか。この地で長子天御影命が誕生していると思われる。

 近江への移動

 AD35年ごろ饒速日尊は、ヒノモトと倭国の境界線を交渉していた。近江国には素盞嗚尊が倭国に加盟させた地域(琵琶湖北端地域)が存在している。この地方を倭国からヒノモトに所属替えをさせる必要があった。饒速日尊は琵琶湖北部の彦根・多賀地方の倭国に加盟していた地域をヒノモトに鞍替えさせた。近江国は、その主たる勢力が守山市の下之郷遺跡の人々であるが、まだ、ヒノモトに加盟しておらず、独立を保っていた。饒速日尊は下之郷遺跡の人々と交渉したが、加盟を拒否された。饒速日尊は四国地方の線引きの交渉をしなければならないので、いつまでも近江国にいるわけにもいかず、紀州から思兼命を呼び、彼に下之郷遺跡の人々をヒノモトに加盟させることにした。

 和歌姫と結婚したばかりの思兼命は、早速、近江国にやってきた。琵琶湖南岸の近江八幡市以北は素盞嗚尊・伊弉諾尊・饒速日尊の努力でヒノモトに加盟している。この南端にあたる近江八幡市の五社神社の地に野洲宮を作り、ここを拠点として下之郷遺跡の人々と交渉をした。

 五社神社の地には思兼命の妻として下照姫(昼子姫)が祭られているが、この下照姫が和歌姫であろう。下照姫は別に存在している。

 思兼命は知恵の神と言われているように知恵のある人物だったようで、粘り強い交渉の結果、この地方の人々は、ヒノモトに加盟することに成功した。この地で天表春命が生誕した。

 美濃国開拓について

 饒速日尊はAD38年ごろ美濃国・尾張国を統一した。美濃国は飛騨国の玄関口であり、飛騨国との関係上重要な地である。しかし、次の地域の統一を目指さなければならず、いつまでも美濃国に滞在しているわけにはいかない。そこで、知恵のある思兼命を美濃国に派遣することにした。

 思兼命が饒速日尊から任されたのは、飛騨国との関係維持と伊吹山周辺での製鉄事業の開拓である。思兼命はおそらく天孫降臨前にマレビトとして活躍できるように日向や出雲で直接法による製鉄技術を学んでいたと思われる。その技術を使って伊吹山麓の強風を利用した製鉄事業を始めたと思われる。そして、長子の天御影命にその技術を継承させた。天御影命は製鉄事業を引き継ぎ、美濃国から近江国にかけて製鉄の基礎を築き、鍛冶の神とされる天目一箇神とも呼ばれるようになり、後に三上山の麓の御上神社の主祭神として祭られるようになった。

 思兼命は美濃国美濃加茂市の星宮神社の地を拠点として、飛騨国と交流を続け、飛騨国との良好な関係を築いた。思兼命は飛騨国からも信頼を受け、飛騨国で高皇産霊神として祭られている神社(飛騨二宮荏名神社・飛騨総社等)が多い。

 朱の採掘に関して(丹生都姫の謎)

 思兼命家族は天御影命が近江国の開拓を行い、思兼命・表春命は信濃国の阿智に赴いたと伝えられているが、妻の和歌姫に関してはここで、伝承が消えているのである。

 和歌姫は丹生都姫とも呼ばれており丹(朱)の神としても知られている。しかし、ここまでの伝承では和歌姫と丹はつながらないのである。当初、思兼命と知り合う前に丹の採取をしていたと考えていたが、それまでの和歌姫はあまりに幼少であり、それは無理であると判断した。五社神社の地で伝承が消えたのは20歳前後で、それ以降の人生が長いわけであるから、丹の採取をしたのはこの後と考えるのが自然であるが、なぜ、和歌姫が丹生都姫になったのかという謎が残る。

 丹生酒解神社の伝承
 丹生都比売大神が降臨したと伝わる榊山の麓に鎮座する。神代の昔、三谷の裏山(榊山)に、丹生都比売大神が降臨し、丹生都比売大神の御子神の高野御子大神と共に大和地方や紀伊地方を巡幸し人々に農耕や機織り、糸紬ぎ、煮焚等の衣食に関わる事を教え、最後に天野(丹生都姫神社)に鎮座したとされ、丹生都比売大神が紀ノ川の水で酒を醸した事で、丹生酒殿神社と呼ばれるようになったと伝承される

 御子神とともに巡回しているので、和歌姫20歳以降のことと考えられる。野洲宮で思兼命と別れて以降のことである。当初和歌姫が丹を採取する理由が見つからないので、丹生都姫と和歌姫は別人かとも考えたが、古代史の復元は伝承を重視し、むやみに伝承を書き換えることは最大限慎む方針のため、あくまで丹生都姫=和歌姫としてその理由を考えてみた。

 唯一可能性として考えたのが「思兼命の指示だったのでは」ということである。和歌姫は思兼命の妻であり、美濃国→信濃国阿智地方と思兼命が移動しているので、思兼命と行動を共にするのが普通である。また、近江国に天御影命を残しているので、天御影命と行動を共にしていることも考えられたが、ともに和歌姫の伝承は全く見つからない。和歌姫は野洲宮で亡くなったか、全くの別行動をするということしか考えられない。

 丹生都姫=和歌姫という伝承とつなぐと、亡くなったのではなく、別行動をしたということになる。これが、思兼命の指示だったとすると、何を目的に和歌姫に丹の採取を指示したのであろうか?丹は装飾に使われる朱の材料である。朱を必要としていたのは縄文人である。縄文人は1万年もの長期にわたって平和に暮らしており、芸術・装飾に力を入れていた。饒速日尊は日本列島を統一するために縄文人の多い東日本一帯に赴くことになった。この時縄文人集落に行ったときに何か手土産があれば、縄文人と交流しやすいはずである。その手土産に朱を用いたのではないだろうか。

 思兼命は知恵が回る人物である。饒速日尊の東日本一帯の統一が順調に進むことを願っていた。そこで、朱を手土産にすることを提案したのではないだろうか。そうすると、妻である和歌姫に朱の採取を指示することは十分に考えられる。

 丹生川上神社では丹生都姫は水の神(龗神)という側面も持っている。水の神と言えば饒速日尊の妻の市杵島姫が該当する。この当時朱の採取は縄文人が主体的に行っており、渡来系である和歌姫だけでは荷が重く、饒速日尊は妻である市杵島姫(縄文人)に協力させたことは十分に考えられるのである。

 朱は漆、ベンガラ、辰砂が用いられている。東北地方は漆が多く、縄文時代後期にはベンガラが多い。辰砂の朱は他の朱よりは鮮やかな色であり好まれたであろうと思われるが、その絶対量が少なかったのである。縄文人は辰砂の朱を貴重品として扱っていたと思われる。

 辰砂の朱は弥生時代後期において、その多くが中国大陸からの、輸入品だったようである。貴重な存在である。列島内で取れればそれに越したことはないのである。

 丹生鉱山(三重県多気郡多気町)では縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていた。 若杉山遺跡(徳島県那賀郡)は弥生時代後期から古墳時代にかけての丹生鉱山である。また、紀伊半島には辰砂が産出するところが多く、弥生時代後期から本格的に採取が始まっているようである。丹生都姫との関係が考えられる。

 丹生都姫は市杵島姫とともに辰砂採掘体制を構築していったものであろう。その結果、辰砂を採掘しているところに丹生神社が建てられるということになったと推定している。

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