崇峻天皇


                                 ┏孝徳天皇
     ┏阿豆王━━━━━━━広姫┓         ┏茅渟王━┫
     ┃            ┣押坂彦人大兄皇子━┫    ┗皇極斉明天皇┓┏天智天皇
継体天皇━┻欽明天皇━┳┳━敏達天皇┫         ┃           ┣┫
           ┃┃     ┣━━竹田皇子   ┗舒明天皇━━━━━━━┛┗天武天皇
           ┃┃┏推古天皇┛        
           ┃┣┫
     ┏堅塩媛━━┃┛┗用明天皇━┓
     ┃     ┃       ┣━聖徳太子┓
     ┃     ┃ ┏穴穂部皇女┛     ┃
     ┃     ┃ ┃           ┃
     ┃     ┣━╋穴穂部皇子      ┣━山背大兄皇子
     ┃     ┃ ┃           ┃
蘇我稲目━╋小姉君━━┛ ┗崇俊天皇       ┃
     ┃                   ┃
     ┃       ┏━━━━━━刀自古郎女┛
     ┃       ┃
     ┗蘇我馬子━━━┻蘇我蝦夷━━━蘇我入鹿

 崇峻天皇は泊瀬部皇子といい、欽明天皇の第12皇子である。母は蘇我稲目の女・小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。欽明14年(553年)生誕とされる。用明天皇2年(587年)35歳で天皇に即位した。

 即位の謎

 用明2年(587年)8月2日。炊屋姫尊(後の推古天皇)と群臣は、崇峻天皇に即位を勧めて、天皇に即位した。蘇我馬子宿禰を大臣とするのは、以前と同じで、卿大夫の位もまた以前と同じであった。(日本書紀)

 泊瀬部皇子は穴穂部皇子の弟である。用明天皇が崩御した時、皇太子であったのは押坂彦人大兄皇子であったが、おそらく、この時まだ15歳に満たなかったと思われ、皇位継承候補から外された。

 皇位継承の最大の発言権を持っていたのは、敏達天皇の皇后であった炊屋姫(後の推古天皇)であった。皇太子押坂彦人大兄皇子、炊屋姫の子の竹田皇子、用明天皇の子の厩戸皇子(聖徳太子)など有力な皇位継承者がいたが何れも15歳に満たない状況であり、皇位継承資格のある人物として泊瀬部皇子に白羽の矢があたったのであろう。

 百済と仏教交流の開始

 崇峻元年(588年)、百済国が使者と合わせて僧の恵総・令斤・恵寔たちを派遣して仏舎利を献上した。百済国は恩率首信・徳率蓋文・那率福富味身たちを派遣して調を献上し、仏舎利と僧の聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開たちと、寺工の太良未太・文賈古子・鑪盤博士の将徳白昧淳・瓦博士の麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝弥・画工白加を献上した。
 蘇我馬子宿禰は百済の僧たちに請願し、戒むことを受ける法を問うた。善信尼たちを百済の使者の恩率首信たちに授けて、学問のために出発させ派遣した。飛鳥衣縫造の祖先の樹葉の家を壊して、初めて法興寺(飛鳥寺)を作った。この土地を飛鳥の真神原と名付けた。または飛鳥の苫田と名付けた。この年太歲戊申。(日本書紀)

 丁未の乱で物部氏が滅び仏教を広めるための反対勢力がいなくなった。早速仏教を全面的に広めることとなった。百済も日本が仏教を推進するようになることに喜びを感じ、寺を作る技術者や僧を献上し、学問を学ぶために百済に出発した。

 仏教推進のメリット

 仏教交流によって、さまざまな海外の先進技術が入ってきているのである。日本は倭の5王時代以降中国との直接交流が途絶えており、中国の先進技術が入ってこない状況にあった。このような時には、日本独自の文化が興隆するものである。それが、随神の道(神道)である。

 随神の道は穢れと祟りを恐れる思想である。自然の物には神が宿り、山にいる穀物神が動物に宿って田畑にやってきて、作物を育てると信じられており、動物を殺すことはできなかった。そのため、筆がなく、必要事項を書きとめることもなく、口伝で伝わっていたのである。

 兵も戦争も人を殺し、それは穢れとつながるので戦争もできない状況であった。これが原因で、伽耶諸国を新羅に奪われても手が出しにくい状況にあった。

 蘇我氏は朝鮮半島での活動が多かったため、日本の随神の道が日本の発展を妨げていることを知っていた。これに対して、仏教はそのような考え方がなく、穢れも霊もなく、死を畏れない宗教であった。

 日本に仏教が導入されれば、強い軍隊をもつことも、高度な先進技術を持つこともでき、その技術を書き残すことによって後世に残すこともできるなど、これからの日本には仏教は絶対に必要なものであることが分かっていた。そのために蘇我氏は仏教の導入に積極的だったのである。

周辺地域の調査

 即位2年(589年)秋7月1日。近江臣満を東山道へ使者として派遣して、蝦夷の国の境を調べさせた。宍人臣鴈を東海道へ使者として派遣して東の方の海の浜にある諸国の境を調べさせた。阿倍臣を北陸道へ使者として派遣して越などの諸国の境を調べさせた。(日本書紀)

 この当時の大和朝廷の直接の支配範囲は東北地方の南部(新潟・宮城・福島)までである。それより先は一応は大和朝廷と友好関係にはあるが、指示に従うような状況ではなかったとは思われる。東北地方以北も直接支配しようとの思いからこのような指示が出たのであろう。

 この年、中国では隋が陳を滅ぼし、中国全土を統一した。

 即位3年(590年)春3月。学問を習いに行った尼の善信たちが百済から帰って来て、桜井寺に行き、滞在し、冬10月に山に入って寺の材木を取った。
 この年に出家した尼は、大伴狹手彦連の娘の善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光、また漢人の善総・善通・妙徳・法定照・善智総・善智恵・善光たちである。鞍部司馬達等の子の多須奈も同時に出家した。名付けて徳斉法師という。(日本書紀)

 徳斉法師以外はすべて女性である。日本は女王天照大神・卑弥呼を輩出しており、重要なところでは女性が活躍している。随神の道では女性の方が霊威が強く、宗教業務は女性の方が適しているという考え方があったと思われる。そのために、仏教を学んだのはまずは女性だったのである。

 しかし、仏教は男尊女卑の考え方があるので、これから徐々に変化が起こるのである。

 任那復興作戦

 即位4年(591年)夏4月13日。訳語田天皇(敏達天皇)を磯長陵に葬った。その妣皇后(石姫)が葬られた陵である。
秋8月1日。天皇は群臣に詔して言った。
「朕。任那を再建しようと思う。どう思うか?」
群臣は申し上げて言いった。
「任那の官家を再建するべきことは皆、陛下が詔した通りです」
冬11月4日。紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を遣わして大将軍とした。氏氏の臣連を率いて裨将・部隊として2万の軍を率いて筑紫に出て行った。吉士金を新羅に派遣し、吉士木蓮子を任那に派遣して任那のことを問わせた。(日本書紀) 

 仏教導入によって、戦争を行うことができるようになった。大軍を派遣して、任那を復興させようとしたのである。

 崇峻天皇暗殺

 即位5年(592年)冬10月4日。山猪を献上することがあった。天皇は猪を指差して詔して言った。
「いつか、この猪の頸を斬るように、朕が妬み嫌っている人を斬ろう」
多くの兵器を準備していて、それが日常よりも異常な量であった。
 10日、蘇我馬子宿禰は天皇が詔したことを聞いて、自分を妬み嫌っていることを恐れた。一族を招き集めて、天皇を殺そうと謀った。
この月、大法興寺の仏道と步廊が立った。
 11月3日、馬子宿禰は群臣を騙して言った。
「今日、東国の調を献上する」
すぐに東漢直駒に天皇を殺させた。
ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井の子だと言う。
この日に天皇を倉梯岡陵に葬った。
この月に東漢直駒は蘇我の嬪の河上娘を盗み連れ去り妻とした。
河上娘は蘇我馬子宿禰の娘である。馬子宿禰は河上娘が駒に盗まれ連れ去られたとは知らないで、死去したと思っていたが、駒は嬪を穢し犯したことが、明るみになって、大臣に殺された。

5日、駅の使者を筑紫将軍の元へと派遣して
「国内の乱(ミダレ)によって、国外のことを怠ってはいけない」
と言った。(日本書紀)

 崇峻天皇は蘇我馬子の傀儡であった。崇峻天皇は即位してもその実権は。蘇我馬子が握っていて、自分の思うとおりの政治ができなかったことに、ストレスをためていたと思われる。その普段の思いがついに口から出てしまったというところであろう。

 大きな事件が起こるのは、その前から布石のようなものが存在する。そのあたりを推定してみよう。

 暗殺事件の真相の推定

① 即位後天皇は飛鳥や磐余よりずっと山奥のかなり辺鄙な倉梯宮に移され、「馬子によって蟄居させられたも同然」の状況であった。
② 天皇は蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠手の娘「小手子」を妃として間に蜂子皇子と錦代皇女の一男一女を儲けただけだった。
③ 崇峻5年(592)10月4日、天皇は献上された猪を見て「何の時かこの猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」と独り言を漏らした。
④ この「独り言」をこの時期寵愛されなくなった大伴小手子が馬子に密告した。
⑤ 梅原猛氏は、蘇我氏によって滅ばされた物部守屋の妹、物部布都姫が新しい寵愛対象であったと推定。

 崇峻天皇の宮跡(倉梯宮)は桜井市倉橋にあり、かなり山奥であり、政治の中心とは考えにくい場所である。馬子が政治を重い通りに運ぶために、崇峻天皇の宮をこのような場所に決めたのではないかと思われる。

 崇峻天皇の宮を、なぜ、このような場所にしたのであろうか。それは、崇峻天皇の皇后にあるのではないかと思われる。崇峻天皇自体は蘇我の血を引いているが、皇后も蘇我一族から出すことにより、馬子は政治を蘇我一族の思うどうりに運ぼうと考えていたのであろうが、崇峻天皇自体が蘇我氏の思うどうりにさせたくはないとの思いから、大伴一族の小手子を正妃として迎えたのであろう。

 馬子は、この件により、「崇峻天皇は自らの思い通りに動かない。」と感じ、宮を辺鄙なところに移したのであろう。豪族たちも崇峻天皇のところに来るよりも、馬子のところに行った方がよい目が見られるとのことで、馬子のところに参集していたと思われる。実際政治上の指示は、崇峻天皇を無視して馬子の独断で行われることが多かったのであろう。

 崇峻天皇はこのままでは、大和朝廷は蘇我一族に乗っ取られると思っていたのではあるまいか。このような中、蘇我氏への当てつけもあって、物部守屋の妹である物部布都姫を寵愛の対象とした。そして、蘇我馬子を除こうと、倉梯宮に、武器と兵が集められた。この倉梯の宮の動きは、后大伴小手子によって、すぐに馬子のもとに伝わった。

 蘇我馬子は最初は「まさか」と思ったようであるが、崇峻天皇が自分を除くために武器と兵を集めていることを知ったのである。様子を見ていると、大軍が筑紫に行っているために、思い通りに集められてはいないが、筑紫から大軍が戻ってきた時には、自らの運命は終わると思ったのであろう。

 蘇我馬子にとって、崇峻天皇を暗殺することは太逆の罪である。蘇我一族の滅亡にもつながるのである。しかし、暗殺しなくても大軍に攻められて蘇我氏は滅亡するのである。馬子としては大軍が戻ってくるまでに崇峻天皇暗殺を実行するしか方法が亡くなったのである。

 蘇我馬子は、小手子妃から内通があった翌日、秘密会議を招集した。蘇我の一族の者でも朝廷、皇子に近い者は謀議からはずされた。謀議の内容を聞いた者達は、慄然としましたが、誰も馬子に反対意見を述べる者はいなかった。反対すれば、反対した者が消されるのは、目に見えていたからである。

 その中に、渡来人系の知識人で、馬子の警備を任されていた東漢直駒がいた。駒は蘇我馬子の娘、河上娘のところを訪れた、謀議の内容を河上娘に伝えた。

 東国の辺境の民からの調を朝廷に納める儀式が、11月3日に倉梯宮で執り行われた。儀式は、慶事であるにもかかわらず、東漢の私兵を含む兵が、宮殿の内外を警護していた。蘇我馬子が中に入ると、宮門が閉ざされた。ここで、 東漢駒が崇峻天皇を暗殺した。駒はそのまま、河上娘の住む邸宅に忍び込み、彼女と共に逃げた。

 崇俊帝の亡きがらは、倉梯宮近くの丘陵にその日のうちに埋葬された。連綿と続く皇統の歴史のなかで、天皇崩御の日に埋葬が行われたのは、ほかに例がない。この事件が細かく調査されるのを恐れた馬子が指示したものであろう。 馬子が次に恐れたのは、新羅出兵の二万の兵と将軍達が天皇弑逆の情報を得て、急遽蘇我を討つと引き返して来ないかということであった。すぐに、早馬を筑紫へと差し向け、大臣のことばとして、弑逆事件には触れず、「内の乱れによりて、外事を怠ってはならぬ」と将軍達に伝えた。彼らは、他のルートで事件の詳細を知ったものの、権力者蘇我馬子に従わざるを得ず、筑紫にくぎ付けとなった。こうして蘇我馬子は、無事難局を切り抜けた。

 崇峻天皇を暗殺するということは次の天皇を誰にするかが頭になければならない。蘇我馬子はそれを誰にしようと思っていたのであろうか。最も都合が良いのが厩戸皇子(聖徳太子)である。聖徳太子は父(用明天皇)、母(穴穂部皇女)共に、蘇我の血を受け継いでおり、さらに馬子の娘刀自古郎女を妻としていた。厩戸皇子は、この時19歳になっており、皇位継承は十分にできる状況にあった。

 河上娘は何者であろうか。厩戸皇子の妻刀自古郎女と同一人物であるとも云われておりが、この当時19歳と思われる皇子との間の子は山背大兄王、財王、日置王、片岡女王と4人もいて、年齢的に合わないと思われる。伝承どおり崇峻天皇の妻と考えるべきであろう。

 崇峻天皇は蘇我氏の圧力により馬子の娘河上娘を妻としていたが、寵愛の対象ではなかったようである。その結果、駒と内通することになったのである。駒は崇峻天皇亡き後に河上娘を妻とする許可を得ていたのであろう。

 馬子としては、崇峻天皇暗殺の黒幕であることが知られてしまうのを最も恐れていた。駒は崇峻天皇から河上娘を奪うために殺害したことにすればよいと思っていたのであろう。駒は馬子の計画通り、河上娘と共に逃げた。

 馬子は早速駒の行方を探させた。駒は決行後に用意しておいた隠れ家での駒と河上娘との共同生活が始まった。駒は、しばらく身を隠せというのが、大臣の命令であることを河上娘に伝えた。しかし、河上娘は、父が物部守屋、穴穂部皇子を殺害していることを知っており、崇峻天皇暗殺の駒をそのままにしておくはずもなく、彼女の不安であった。
 駒が捕らえられたのは、数日後であった。駒は、崇俊帝弑逆の大罪であれば、馬子と駒は、共同正犯であるとの見解から安心していた。帝なきあと、2人を断罪できる人間が外にいるはずがないと思っていたのである。ところが、弑逆の罪ではなく、大臣の娘であり、皇子の嬪をかどわかした罪を問うていることを知った。これなら、嬪の父親は被害者となり、下手人の罪を問えるとそう察知した駒は、彼女の胸に大刀を突き付け、彼女を盾に生き延びようとした。このような駒を見た彼女は駒への気持ちが急に冷めた。
 蘇我馬子の前に駒が引き立てられて来た時、河上娘には、駒に対する気持ちがさめていることを知った。男は、馬子の別邸の白州に縄で繋がれ、まるで盗人でも扱うようにして裁かれた。わめこうが、叫ぼうが誰も相手にしなかった。駒は即座に処刑された。

 馬子は崇峻天皇暗殺の犯人として、駒を即座に処刑し、その黒幕であることの追及を逃れようとした。周りの豪族には、そのことは分かっていたが、証拠もなく最高権力者を疑うと、自らの身が危うくなるので、目をつぶったと考えられる。

 

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