私が二十数年前、島根県で生活していた頃、ある書店で大羽弘道氏の「邪馬台国は沈んだ」という書物を手にしてから古代史の世界にはまり込んだ。元来、考古学の世界とは無縁であり、むしろ神話伝承に関心が強かった。神話伝承は古代史の世界では無視されているが、やはり何かの歴史的事実を反映しているという信念のもと、それを元に邪馬台国の謎に挑もうとしたが、さまざまな自説を立てては崩れ、崩れては立てての繰り返しだった。その中で、原田常治氏の「古代日本正史」「上代日本正史」に出会った。この説は確かに納得するところが多く、「そうかもしれない。」と思うようになった。しかし、日向西都原古墳群の男狭穂塚が卑弥呼の墓であるなどとしており、明らかに考古学上の事象と照合していないことが分かった。
原田説の基本ラインが間違っているとは思われないので、年代設定に間違いがあるのではと思っていた。その時、栗原薫氏の「日本上代の実年代」に出会った。1年2歳論という考え方と共に、崇神天皇以後の年代の合理性にも心打たれるものがあった。しかし、神武天皇から開化天皇までの年代に納得できないものがあった。そこで原田説を160年遡らせて、大和朝廷の成立をAD83年としたところ、中国文献とも一致することに気づいた。その後、広島県埋蔵文化センターの職員だった人と知り合う機会ができ、その人にさまざまな遺物の分布状況について教えてもらった。驚いたことに、新しく知ることができたさまざまな考古学的事象は悉く160年遡らせた原田説を裏付けていたのである。これは大変な驚きであった。「ひょっとしたらこれが真実かも」と思わせるには十分であった。その後考古学にも関心が向き、自分なりにいろいろと調べてみたが、詳しく調べれば調べるほど矛盾が発生するどころか、ますます具体化する方向であり、この説に確信を得るというものであった。
神社伝承を元にまとめられた原田常治氏の「古代日本正史」「上代日本正史」の年代を160年ほど過去にさかのぼらせて,崇神天皇以後の「日本上代の実年代」に接続すると,外国史書や,考古学的事実とことごとく一致するのである。各方面より矛盾点を示すものを探したが,調査した範囲では見つからなかった。土器・鏡・鉄器・銅剣・銅矛・銅鐸・方形周溝墓など傾向を調べたものすべてが,解釈可能な範囲で伝承を裏付けていた。一見違う傾向を示していると考えられるものも,細かく調べていくと伝承を裏付け,さらに具体化させる内容になっていた。神社伝承は考古学的事実を元に作られたわけではないため,偶然ではここまで一致するということはとても考えられない。神社伝承と考古学的事実の間には何か関連があることになる。
考古学的事実に対して,都合の良い解釈をしているとの意見があるかもしれない。事実,考古学的事実というのは,時期の推定に幅があり,また,解釈も複数あるのだが,ここでの解釈は,その範囲にある可能な一つにすぎない。確かに,一つの事象のみから考えると,複数の解釈が可能であるが,数多くの事象が神社伝承とことごとく一致するというのは,やはり,神社伝承と考古学的事実との間に関連があるからとしか考えられないのである。
伝承と考古学的事実を照合していくと,矛盾点が見つかり,伝承の方を修正しなければならないというのがふつうであるが,今回の場合,照合を進めれば進めるほど,伝承の中身が具体化してくるのである。
このようにして,伝承が伝わっていない部分は,前後の関係から矛盾が出ないように推量で補った。一つの試案であるので,各方面から吟味していただきたい。
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参考文献
古代日本正史 原田 常治
上代日本正史 原田 常治
古事記(上・中・下) 次田 真幸
消された覇王 小椋 一葉
女王アマテラス 小椋 一葉
天皇家と卑弥呼の系図 澤田洋太郎
新説日本の始まり 栗原 基
郷土資料事典 人文社
古代史と邪馬台 太田 収
探訪弥生の遺跡 佐原 真/工楽 善通
日本の神々神社と聖地 谷川 健一
消された覇王ニギハヤヒの謎 神 一行
崇神天皇と三王朝交替の謎 神 一行
邪馬台の美姫 青木 慶一
縄文人国家出雲王朝の謎 関 裕二
神社が語り継ぐ古代史の真実 神 一行
中国正史の古代日本記録 いき 一郎
古事記が明かす邪馬台国の謎 加藤 真司
広島古代史の謎 広島郷土史研究会
日本書紀 宇治谷 孟
日本上代の実年代 栗原 薫
神武天皇古陵の発見 井上 赳夫
日本古代文明の謎 井上 赳夫
古代天皇長寿の謎 貝田 禎造
日本古代史の謎は解けた 井上 赳夫
季刊邪馬台国 梓書院
弥生時代の鉄器文化 川越 哲志
方形周溝墓