東倭青銅器祭祀の終焉

荒神谷遺跡

青銅器出土状況

 荒神谷から出土した銅剣は,中細C類型の銅剣で,山陰地方を中心として分布しているものである。山陰地方以外から出土しているものも,山陰地方への通路近 くからの出土である。銅剣は素盞嗚尊が,瀬戸内沿岸地方を統一したときに,始めた祭祀の祭器である。このタイプの銅剣は弥生時代中期末頃から後期初頭にかけて山 陰地方を中心として生産されたものであるが,荒神谷での出土状況が,使い古された形跡がないことと,同じ形式のものが集中していることから 製作後すぐに埋納されたものと判断する。

 外縁付紐式銅鐸は饒速日尊が三輪山から出てくる太陽を崇拝するのを目的として考案したもので,近畿地方統一のシンボルである。この銅鐸は中国地方から 近畿地方にかけて分布しており,山陰地方からの出土が目立つ。そして,この銅鐸は,近畿地方とほぼ同系統のものが北九州地方で生産されていたことが鋳型の出土 からわかっている。一個の菱環紐式銅鐸は初期の段階のものであり,この形式の銅鐸の出土はかなりめずらしく,さらに相当古いタイプのものである。

 銅矛は,中細型が二本と,中広型が一四本である。銅矛は,素盞嗚尊が九州統一をしたときに,シンボルとして使ったものである。銅矛祭祀は,九州地方で盛んにお こなわれていて,出雲地方ではおこなわれていなかった。中広型銅矛は少しずつ形式の違うものが含まれており,一斉に製作されたものではなく,長年かけて随時作られ たものをまとめて持ち込んだものと考えられる。そして,似た形式の銅矛が九州で見つかっていることから,九州から持ち込まれた もののようである。銅矛は九州式素盞嗚尊祭祀の祭器と考える。

青銅器の持ち込み

 日本書紀崇神天皇の条に「天皇は武日照命の,天から持ってこられた神宝を出雲大神の宮に治めてある。」といった記事がある。この神宝が荒神谷の青銅器ではないかと考えている。根拠は次の通りである。

①この神宝を武日照命が持ってきたとあるが,武日名照命は猿田彦命と共に出雲国譲り事件の後に九州から派遣されてきている。天とは九州のことと思われる。 武日名照命は天穂日命の子で素盞嗚尊の孫である。武日名照命が青銅器を持ちこむことにより、この青銅器は神宝としての価値が生まれたのである。神宝は出雲大神の宮で大切に扱われることになった。彼ならば,銅鐸と銅矛をつなぐことができる。猿田彦命は饒速日尊につながる血統のために日本書紀の編者によって抹殺され,一緒にやってきた武日名照命の名のみが残されたものと考える。ちなみに荒神谷の荒神とは「女王アマテラス」によると猿田彦命のことである。

②銅矛と銅鐸とが同じ所から出土しており,これは他に例のない特殊なものである。銅剣と銅矛,そして,銅剣と銅鐸の共伴例は存在するが,銅矛と銅鐸の共伴例はない。 荒神谷でのみ,同じ所から出土しているということは,共通の何かが荒神谷のみにあるということを意味している。銅鐸は,近畿地方を中心とする領域で生産され, 銅矛は北九州地方で生産されているため,二種の青銅器に接点はないのである。ところが,銅鐸と銅矛を同じ場所で生産していたと考えられるのは,福岡県の春日市一帯で猿田彦命の本拠地の近くである。

③中広銅矛が九州のものであり,九州から同じ形式の外縁付紐式銅鐸の鋳型が出土しており,中広銅矛は中期末から後期初頭にかけてのもので,外縁付紐式銅鐸は 後期初頭あたりのものである。中細銅矛と菱環紐式銅鐸はそれより少し前のものである。銅鐸と銅矛はほぼ同じ時代のものである。

銅矛と銅鐸が武日名照命・猿田彦命によって持ち込まれたものと考えればその時期はAD50年ごろである。

⑤銅矛は長年にわたって製作していたものをまとめて持ってきているために,持ってきた人物は,九州に長期間住んでいたものでなければ難しい。出雲勢力が北九州に注文して製作させたのなら,形式がそろうはずである。

⑥銅矛は九州から持ち込まれたもので,銅鐸は近畿地方から持ち込まれたものであると考えられているが,この両者が同じ埋納抗から見つかっているということは, 共通の何かがあるということで,猿田彦命が饒速日尊からサンプルとして渡された銅鐸を出雲へ持ち込んだと考えれば,つじつまがあう。

 猿田彦命が北九州地方を統治していた頃,大和国王になった饒速日尊が,畿内で銅鐸を生産することに限界が生じ,猿田彦命に,菱環紐式銅鐸と外縁紐式銅鐸 をサンプルとして渡し,同じものを生産してくれるように頼んだ。猿田彦命は,頼まれたとおり銅鐸を生産して饒速日尊の一族に渡していたが,国譲り事件の後猿田彦命が出雲に移ることになり,饒速日尊から受け取った銅鐸と自ら製作した青銅器を出雲に持ち込んだものと考える。このように考えると,出土している銅鐸と銅矛に関する特徴が説明できる。

 また,加茂岩倉遺跡で銅鐸39個が見つかっているが,これらの銅鐸は外縁付紐式銅鐸と偏平紐式銅鐸であり,偏平紐式が含まれている事と兄弟銅鐸が別のところで見つかっているものが多い事からして,かき集めたもののようである。埋納時期は荒神谷とほぼ同じ時期と考えられており、その理由も同じと考えられる。

銅戈について

 猿田彦命が九州時代に青銅器を生産していたと思われる福岡県那賀川町から春日市にかけて,多量の銅矛と共に銅戈も出土している。銅戈も生産していたと思われ るが,荒神谷の青銅器の中に銅戈は含まれていない。銅戈は饒速日尊の祭器であると思われるので,その子である猿田彦命が出雲に持ってこないと言うことは考え にくい。事実,出雲大社から中細型の銅戈が見つかっており,この形式の銅戈は周辺からでていないことから,この銅戈は猿田彦命が持ち込んだ銅戈の一つと考え られる。

埋納目的

 荒神谷での青銅器の埋納は,他の場所とは違い,

①丁寧に並べてある。

②銅剣上に黒褐色の有機質土が0.5mmの厚さでほぼ一様に存在していたことから,布のような物で覆われていたらしい。

③ピットがあることから何か覆屋のような物があったようである。

 など再利用を考えて保管していたものが事情が変わってそのままにされたと考えるのが良さそうである。

埋納時期

 次に,荒神谷遺跡に埋納された時期についてであるが,埋められていた祭器の最も新しい形式の中広型銅矛が,後期初頭から中葉のものと考えられ,また,埋納土の上にあった焼土の熱ルミネッセンス年代が250±80とされているためにこれが下限となる。祭器に,事態が急変したために埋められた様子が見られる。

 後の研究により、埋納時期がAD50±30年と推定された。加茂岩倉遺跡の方もほぼ同時期と考えられている。AD50年頃の出雲地方の大きな状況変化とは国譲り以外には考えられない。

埋納場所

 出雲風土記の神原郷の由来に次のような記事がある。

「古老の伝えでは,天下造らしし大神が神宝を積んでおかれたところ。」

『出雲国風土記』意宇郡の条
天の下造らしし大神、大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還りましし時、長江山に来まして詔りたまひしく、「我が造りまして、命らす国は、皇御孫の命、平らけくみ世知らせと依さしまつらむ。
但、八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ」と詔りたまひき。故、文理といふ。

 天下造らしし大神とは出雲風土記のこの文例により大己貴命のことと考えられる。大己貴命が神宝を積み重ねておいたところという意味ではあるまいか。積み重ねるということは数多くあるということであり,そのすぐ近くに荒神谷遺跡がある。

荒神谷遺跡(銅剣) 荒神谷遺跡(銅鐸・銅矛)

 大己貴命が青銅器を集めた理由

 銅剣は素盞嗚尊が始めた祭祀

 細型銅剣は弥生時代中期に北九州を中心に分布している。しかし、この銅剣は墓の副葬品として出土しており、埋納されてはいない。刃こぼれがあるものも存在していることから武器として使われていた様であり、有力者個人の持ち物だったようである。

 鉄剣が有用武器となって活用されるようになり銅剣は実用上の価値が下がってきた。徐々にステイタスシンボルとしての存在となったものであろう。そのために実用価値の低い中細形銅剣が九州で始まったようである。紀元前後より瀬戸内海沿岸地方に中細形銅剣の祭器化が始まる。

 時期から考えて中細形銅剣の祭器化を始めたのは素盞嗚尊ではないかと考えられる。当時の瀬戸内海沿岸地方の人々は青銅器をほとんど見たことはなく、その金属の輝きは人を魅了する効果があったのではあるまいか。

 素盞嗚尊が統一のあかしとして、この青銅器を統一した地域に渡したと考える。土地の人々はその銅剣で祭りを行い、どこかに保管していたものと考えられる。

 大己貴命の祭祀強化

 大己貴命は第二代倭国王に就任し、地方の開拓を推し進めた。AD30年頃、北九州を訪れた時、人々の生活状況が中四国地方と大きく異なり、銅鉾銅戈の祭祀が活発であり、人々の心が一つになって、まとまりがあったことを感じたのであろう。

 北九州の人々が一つにまとまっていた原因を探ると、銅鉾・銅戈の祭祀であることが分かった。この時に、出雲で素盞嗚尊が亡くなった。大己貴命は一度出雲に戻り、このとき、出雲地方は倭国の中心地であるべき地ながら、北九州地方に大きく遅れていることを感じた。

 素盞嗚尊の死後、大己貴命は中四国地方を中心に巡回し、その地方の開拓を行ったが、有能な協力者である少彦名命をAD37年頃伊予国で失った。

 少彦名命の死によって呆然としている時、饒速日尊より、青銅器祭祀の有効性に対するアドバイスをもらったものと推定している。

 大己貴命は九州地方を開拓するとともに、青銅器祭祀を中・四国地方にも広めようと、九州地方に渡った。この時、青銅器鋳造技術者を多量に出雲に移住させたのであろう。

 この時に派遣された青銅器鋳造技術者が中細形銅剣を多量に製作したと考えられる。大己貴命はこの青銅器を出雲地方の何箇所かに集めておき、状況を見計らって、中国・四国地方に配布する計画だったのである。

 大己貴命は同時に饒速日尊にも頼み込み、近畿地方を中心に分布している銅鐸も集めさせた。これも、周辺に配布するつもりであったものと考えられる。

 この時に集めた青銅器が荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の地に保管されていたものであろう。

 このような時、大己貴命はAD44年頃、鹿児島の地で蝮に咬まれて急死したのである。

 国譲りによる祭祀形態の変化

 大己貴命の急死により、倭国が東倭と西倭に分裂し、国譲会議により、九州から出雲地方統治のために天穂日命・猿田彦命・武日照命が派遣されてきた。

 彼らも東倭地方の青銅器祭祀の強化を考えて青銅器を持ち込んだと考えられる。これが、荒神谷の銅鉾・銅鐸であろう。

 ところが、猿田彦命は、青銅器祭祀を強化するよりも、倭国の創始者である素盞嗚尊の祭祀を強化した方が人々の心は一つになりやすいと考えて、素盞嗚尊祭祀を強化することに方針転換をした。

 素盞嗚尊はAD30年頃、出雲市平田の韓竃神社の地で事故死したものと考えられ、その近くに葬られているが、倭国の創始者にしては粗末な扱いであった。

 素盞嗚尊が出雲巡回の時に立ち寄っていた熊野山山頂の磐座を素盞嗚尊の聖地とし、この聖地を崇める素盞嗚尊祭祀を始めた。現在の熊野大社につながる信仰である。

 熊野山近くでは、聖地として熊野山があったが、他の地ではそのようなものがないので、その土地の統治者を崇める方向で祭祀を始めた。この祭祀は統治者一族の墓を祭祀の対象とした。墓には統治者の血縁者を同時に葬り、その地を聖域化し、その周辺で祭祀をすると云う形態であった。これが、四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は周辺が踏み固められており、周辺で祭祀をしていた形跡がある。

 東倭における祭祀形態の変更によって、荒神谷や加茂岩倉に集められていた青銅器はそのままにされることになり、長年がたった現在において発掘されることになったのである。この他にも青銅器が集められているところがあると考えられる。

 この政策変更によって、荒神谷を始め、東倭全域で青銅器祭祀が終了したのである。新しい祭祀が始まると、それまでの青銅器は保管されていたのも、捨てられたのも、地域安定を祈って境界地に埋納されたのもあったのであろう。

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