舒明天皇

 系図


                                 ┏孝徳天皇        ┏持統天皇
     ┏阿豆王━━━━━━━広姫┓         ┏茅渟王━┫            ┃
     ┃            ┣押坂彦人大兄皇子━┫    ┗皇極斉明天皇┓┏天智天皇╋元明天皇
継体天皇━┻欽明天皇━┳┳━敏達天皇┫         ┃           ┣┫    ┃
           ┃┃     ┣━━竹田皇子   ┗舒明天皇━━━━━━━┛┃    ┗弘文天皇
           ┃┃┏推古天皇┛                      ┃
           ┃┣┫                           ┃
     ┏堅塩媛━━┃┛┗用明天皇━┓                     ┃          ┏元正天皇
     ┃     ┃       ┣━聖徳太子┓               ┗天武天皇━草壁皇子━┫
     ┃     ┃ ┏穴穂部皇女┛     ┃                          ┗文武天皇━聖武天皇
     ┃     ┃ ┃           ┃
     ┃     ┣━╋穴穂部皇子      ┣━山背大兄皇子
     ┃     ┃ ┃           ┃
蘇我稲目━╋小姉君━━┛ ┗崇俊天皇       ┃
     ┃                   ┃
     ┃       ┏━━━━━━刀自古郎女┛
     ┃       ┃
     ┗蘇我馬子━━━┻蘇我蝦夷━━━蘇我入鹿

 皇位継承の謎

 推古天皇亡き後、皇位継承候補者は聖徳太子の皇子である山背大兄皇子と敏達天皇の嫡子であった押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子の二名であった。共に生前の推古天皇より、皇位継承の主張はしてはならないと釘を刺されていた。郡臣の意見に従えという推古天皇の意向であった。

 田村皇子は593年生誕なので、この時37歳、一方の山背大兄皇子は年齢不詳であるが、父の年齢から推察しおそらく30歳前後であったであろうと思われる。田村皇子の方が年上であった。

 推古天皇亡き後、皇位継承に最も強い意見が言える立場にあるのは蘇我氏の後継者である蘇我蝦夷であった。ところがその蘇我蝦夷が蘇我一族の血が濃い山背大兄皇子ではなく、田村皇子を次の天皇に推挙したのである。敏達天皇の正当な直系は田村皇子の方である。その父である押坂彦人大兄皇子は用明天皇即位時より毎回皇位継承候補でありながら、年齢の問題や蘇我氏とのかかわりにおいて皇位継承をすることができなかった。押坂彦人大兄皇子は推古天皇在位中に亡くなっているようで、その後継者としての田村皇子である。順当な皇位継承としては田村皇子の方に分があるが、皇太子だった聖徳太子の嫡子で母が蘇我氏である山背大兄皇子を推挙するのが蘇我蝦夷ではないかと思えるが、蘇我蝦夷はどうして田村皇子を推挙したのであろうか。

 聖徳太子の摂政時代、蘇我馬子は自分の思い通りの政権運営ができなかった。山背大兄皇子は父の聖徳太子同様に大変能力が高く、山背大兄皇子が天皇になった聖徳太子時代と同様になることが予想された。それに対して、蘇我の血は入っていないが、思い通りにできそうな田村皇子の方にならざるを得なかったのであろう。

 しかし、当時、蝦夷は父の馬子から権力を引き継いだばかりであり、独断できるほどの力はなく、議論もいっこうに進まない状況が続いていた。
 蘇我蝦夷は、この遺詔から、推古の思惑は田村皇子後継にあったとして、田村皇子を次期大王として擁立しようとした。しかし上宮王家の後見人である境部摩理勢は、これに真っ向から反対し、山背大兄を推薦した。しかし摩理勢に同調する勢力は山背大兄の異母弟の伯瀬仲王や佐伯東人ら僅かであり、蝦夷の懐柔政策も功を奏したため、結局山背大兄は大王継承を辞退することになった。この情勢に怒った摩理勢は、従事中であった馬子の墓造営の任務を放棄し、「蘇我の田家」なる施設に立て籠もって公然と蝦夷に反旗を翻した。その後、摩理勢は伯瀬仲王邸へ入り抵抗を続けた。やがて山背大兄の説得により自邸に戻るが、ほどなく伯瀬仲王が死去し、後ろ盾を失った。蝦夷は摩理勢を攻め、摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺されたという。

 蘇我蝦夷の推挙により田村皇子が次の天皇に即位した。第34代舒明天皇である。

 天皇  西暦  月  日  内容
 1 629  即位(37歳)
     8 新羅は高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、陥落させた。(新羅本紀)
     9 新羅、唐に朝貢(新羅本紀) 
高句麗、使者を唐に派遣して朝貢した(高句麗本紀)
630  12  宝女王(後の皇極・斉明天皇)を皇后に立てる。
     3 高句麗(大使宴子抜・小使若徳)・百済(大使恩率素子・小使徳率武徳)が各々使者を遣わして朝貢する。
     7   新羅、唐に美女二人を献ず(新羅本紀) 
     8 初めて遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣。唐と結び新羅を牽制
     10 12  飛鳥岡本宮(明日香村)に遷る。
        難波津の外交施設 三韓の館を大修理
        唐、東突厥服属させる
 3 631   3 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。
     5   新羅で伊飡の柒宿と阿飡の石品とが反逆を起こした。(新羅本紀)
     9   有間温泉に行幸。12月に帰る。
     9   使者を唐に派遣して朝貢した(百済本紀) 
         唐は高句麗栄留王に対して高句麗の対隋戦勝記念塚(京観)の破壊と、京観に使われた隋兵の遺体・遺骨の返還とを求めてきた。栄留王は唐への警戒から、同年のうちに扶余城(吉林省長春市農安県)から東南の渤海湾に至る千里長城を築き、唐の侵略に備えた。
唐、高句麗侵攻(遼東の役)
 4 632   7   兵を出して新羅を打とうとしたが失敗した。(百済本紀)
     8   唐が高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送る。
     10 唐の高表仁が難波津に到着。
     12   使者を唐に派遣して朝貢した。(百済本紀)
 5 633   1 26  高表仁が唐へ戻る(「與王子爭禮 不宣朝命而還」『旧唐書』)。
     7   使者を唐に派遣して朝貢した(新羅本紀) 
     8   西部国境地帯に百済が侵入(新羅本紀)
新羅の西谷城を落とす(百済本紀)
        物部兄麻呂を武蔵国造に任じたという(『聖徳太子伝暦』)。
 6 634   1 15  豊浦寺(明日香村)塔の心柱を建てる(『聖徳太子伝暦』)。
 7 635      唐が使者を使わし、「柱国楽浪郡公新羅王」に冊命する(新羅本紀) 
 8 636    使者を唐に派遣して朝貢した。(百済本紀) 
   6   岡本宮が火災に遭う。田中宮(橿原市田中町)に遷る。 
        旱魃・飢饉が起こる。
     10   百済が独山城を襲撃したが撃退した(新羅本紀)
 9 637      蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる。
 10 638      福亮僧正が法起寺金堂(斑鳩町)を建立するという(『法起寺塔露盤銘』)。
        高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったが撃退した。(新羅本紀)
 11 639   7   詔して、百済川の辺に大宮と大寺(桜井市吉備?)を造らせる。
     12   伊予温泉に行幸。また、百済大寺の九重塔が建つ。
 12 640  2    高句麗、世子桓権を唐に派遣した(高句麗本紀) 
   4   伊予から帰り、厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町付近)に滞在する。
     10   百済宮に遷る。
     5   王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入する。(新羅本紀)
        高句麗、唐に初めて朝貢
13  641    武王が薨じた。使者を唐に派遣して唐より哀悼の意を受ける。(百済本紀) 
   10 百済宮で崩御。
     10 18  宮の北に殯をした。

 舒明天皇時代は、蘇我蝦夷の意図する通りに政治が行われていたようである。朝鮮半島では唐への朝貢合戦が始まっていた。

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まとめ
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