推古天皇


                                 ┏孝徳天皇
     ┏阿豆王━━━━━━━広姫┓         ┏茅渟王━┫
     ┃            ┣押坂彦人大兄皇子━┫    ┗皇極斉明天皇┓┏天智天皇
継体天皇━┻欽明天皇━┳┳━敏達天皇┫         ┃           ┣┫
           ┃┃     ┣━━竹田皇子   ┗舒明天皇━━━━━━━┛┗天武天皇
           ┃┃┏推古天皇┛        
           ┃┣┫
     ┏堅塩媛━━┃┛┗用明天皇━┓
     ┃     ┃       ┣━聖徳太子┓
     ┃     ┃ ┏穴穂部皇女┛     ┃
     ┃     ┃ ┃           ┃
     ┃     ┣━╋穴穂部皇子      ┣━山背大兄皇子
     ┃     ┃ ┃           ┃
蘇我稲目━╋小姉君━━┛ ┗崇俊天皇       ┃
     ┃                   ┃
     ┃       ┏━━━━━━刀自古郎女┛
     ┃       ┃
     ┗蘇我馬子━━━┻蘇我蝦夷━━━蘇我入鹿

 推古天皇即位の謎

 推古天皇は大和朝廷史上最初の女帝である。どのような理由により、推古天皇が即位したのであろうか。推古天皇の即位までの流れを日本書紀をもとに推定してみよう。

 この当時、事実上の最高権力者は蘇我馬子であったが、皇室内では敏達天皇の皇后であった炊屋姫が事実上の最高権威の持ち主であった。用明天皇・崇峻天皇の即位の指示をしたのも炊屋姫であろう。

 崇峻天皇暗殺の黒幕は蘇我馬子であろうということは炊屋姫も知っていたと思われる。崇峻天皇暗殺後の皇位継承候補者は敏達天皇の皇子で用明天皇時の皇太子であった押坂彦人大兄皇子、敏達天皇と炊屋姫との間の竹田皇子、そして、厩戸皇子である。この時はいずれも15歳に達しており、皇位継承の資格は十分である。

 最高権威者の炊屋姫としては、自分の子である竹田皇子を天皇にしたかったのに違いないが、竹田皇子はこの時すでに亡くなっていたと考えられる。竹田皇子は丁未の乱に従軍しているところまでは、記録に残っているが、その後に一切出てこなくなるので、丁未の乱で死去した可能性が考えられる。

 残るは、押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子である。蘇我馬子としては蘇我の血が全く入っていない押坂彦人大兄皇子より、父母共に蘇我の血が入っており、さらに馬子の娘刀自古郎女を妻にしている厩戸皇子の方が適任と考えられる。

 ところが、日本書紀には
 群臣たちは、渟中倉太珠敷天皇(=敏達天皇)の皇后である額田部皇女(炊屋姫)に請願して、天皇位につかせようとしました。皇后は、辞退しました。百僚は表を献上して、即位を進めました。三回行って、ついに従いました。
とある。

 朝廷の実質最高権力者は、この当時蘇我馬子であったので、馬子の意向=群臣の意向であったと思われる。次の天皇が推古天皇だったのは馬子の都合で考えるべきであろう。

 通常考えて、次の皇位継承者は厩戸皇子となるはずであるが、炊屋姫に皇位継承をお願いしている。これはどうしたことであろうか。厩戸皇子は非常に聡明であり、馬子が厩戸皇子を傀儡として、自分の思い通りの政治をするのは難しいと考えたのではないかと思われる。1回目に炊屋姫に皇位継承をお願いした時は、おそらく、「厩戸皇子がいるではないか」ということで炊屋姫は拒否したのであろう。

 そうなれば馬子は厩戸皇子に伺いを立てると思われる。厩戸皇子は自分が天皇になれば、蘇我氏の傀儡となり、思い通りに政治を行うことができないと考えていた。この時、隋が中国全土を統一し、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、百済が劣勢になっている。そして、任那は新羅の支配下にあった。この状態を打破するには、国内の制度改革を行う必要があったが、蘇我氏の傀儡政権ではそのようなことはできないと考えたであろう。

 厩戸皇子は自分が辞退したとして、誰が天皇に相応しいかを考えたと思われる。その人物こそ炊屋姫だったのではないだろうか。炊屋姫はこの時39歳で敏達天皇の皇后でありながら、敏達天皇崩御後、大和朝廷の最高権威者としてその実力を発揮していたのである。日本書紀は炊屋姫を「姿色端麗・進止軌制」(容姿が端麗で礼儀正しく節度があること)と形容している。姫は美しさに神聖性を兼ね備えていたと思われ、女性の持つ呪術的性格・シャ-マンとしての素質があった。

 馬子が次の天皇に炊屋姫をどうかと相談に来た時、以上のような考えで炊屋姫を推薦したと思われる。馬子も炊屋姫が女性であるから扱いやすいと思ったのであろう。「厩戸皇子も炊屋姫に皇位継承をしてほしいといっている」と言って、第2回目の皇位継承のお願いをしたのであろうが、この時も炊屋姫は自分よりも厩戸皇子の方が天皇に相応しいと考えて拒否したのであろう。

 2回目の拒否の後、厩戸皇子と炊屋姫の間で密談が行われたのではあるまいか。

厩戸皇子:「今は蘇我の力は絶大である。隋をはじめとする海外事情から国を強くしないと、隋の属国にされるかもしれない。このような時に蘇我の意のままの政治をさせてはならない。」
炊屋姫:「だからこそ、諸事情に通じている厩戸が天皇に相応しいのではないか。」
厩戸皇子:「私が天皇になった場合、馬子にとって都合の悪い政治をすることになるが、その場合、崇峻天皇のように暗殺されることもあろう。そうなっては、この日本はおしまいだ。」
炊屋姫:「私が天皇になっても同じでは?」
厩戸皇子:「姫が天皇となって、私を摂政にしてください。そうすれば、天皇の意の下で、私が馬子に都合の悪い政治をしても、天皇の意であるといえるし、都合の悪い人物が二人いることになるので暗殺しにくくなるのではないですか。」
炊屋姫:「わかりました。」

 このような会話があったとすれば、馬子が3回目にお願いに来た時、皇位継承を承諾することも考えられよう。

 炊屋姫は、最初は辞退したが、厩戸皇子の考えを聞き、自分が天皇になる方が、蘇我氏の言いなりになることを避けられ、厩戸皇子の計画通りに日本が発展することは間違いないであろうということを理解した。

 このようにして崇峻5年(592年)12月、炊屋姫は推古天皇として即位したと推定する。

 推古天皇即位1年夏4月10日。厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とした。摂政を行った。万機を全て委ねた。(日本書紀)

 推古天皇は即位後暫らくして、当初の計画通りに厩戸皇子を皇太子とし、同時に摂政とした。馬子はこの時初めて推古天皇・厩戸皇子に「してやられた」と思ったのではないだろうか。自らが天皇になってくれるようにお願いした手前、それを拒否することもできず、厩戸皇子の作戦は成功したといえる。

 隋と高句麗との戦い(第一次・598年)

 589年、隋が中国全土を統一した。中国全土が統一されるのは、180年頃後漢が勢力を失って以来のことである。高句麗・新羅・百済は互いにけん制し合う関係で均衡を保っていたので、隋の援護を受けることにより、自らを有利に運ぼうとして、先を争って、隋に使者を送った。

 ここに高句麗、新羅、百済の微妙な関係がはたらくのである。

 589年、陳を平定した隋の軍船が耽牟羅国(済州島)にたどり着いた。百済威徳王はこの船が帰るときに援助するとともに、隋に使者を送って中華統一を祝賀した。隋ではこのことを喜んで、毎年の朝貢は不要との免除を与えた。これにより百済が隋との関係を一歩リードしたといえる。

 新羅もこれに対抗して、真平王は智明・円光・曇育らの僧を陳や隋に派遣して仏法を修めさせるとともに、度々の朝貢を行なって隋に接近した。隋からは594年に<上開府・楽浪郡公・新羅王>に冊封されることとなり、隋との関係で百済に負けないものを手に入れることができた。

 これに対して、高句麗は少し状況が違ったのである。嬰陽王は、590年即位後すぐに隋に朝貢し<上開府儀同三司・遼東郡公・高句麗王>に冊封された。高句麗はその後、592年、597年と隋に朝貢した。しかし、598年に靺鞨を率いて遼西に進入したのである。

 597年に朝貢しておきながら、その次の年に、隋に侵入している。侵入すれば隋との関係は悪化するのがはっきりしているのに、高句麗はなぜ隋に侵入したのであろうか。

 隋は建国以来中央集権体制を強化していた。北周の官制を廃止し、郡を廃して州県制を取り入れ、均田制、租庸調制、府兵制、科挙制を導入した。そして、高句麗にも色々と要求をしたのではないか。この要求が高句麗にこのままおとなしくしていたのでは、何れ隋に蹂躙されると思わせ、その前に同じ思いの靺鞨と協力し、遼西に進入したと思われる。

 598年、文帝、詔を下して高句麗王高元の冠爵を剥奪した。隋の陸軍は遼河まで行った。高句麗王もまた恐れおののき、使者を隋に派遣して、謝罪させた。その上表文に、「遼東の糞土の臣であるわたくし」と称したので、文帝は戦いを止め、王をはじめのように待遇することにした。(隋書)

 王は長史の王辯那を使者として隋に行かせて、朝献させた。王は隋が遼東の役(高句麗討伐)を興したのを聞いて、使者を派遣し、上表して、軍の先鋒になりたいと申し出た。
高祖は詔を下して、先年高句麗が貢物を献上せず人臣としての礼を失っているので、将軍に命じて討伐を命じた。高句麗王の高元の君臣は懼れ慄き、謹んで自ら罪に服した。朕はすでに高句麗を許したので、百済が高句麗を討伐してはならないといい、わが国の使者を手厚くもてなして帰国させた。高句麗は詳しくその事情を知ったので、出兵して、わが国の境を侵掠した。(百済本紀)

 隋の文帝の行動が思った以上に早く、また、隋の陸軍が思った以上に大軍だったので、高句麗嬰陽王は、畏れ慄くことになった。すぐに上表文を提出して許しを乞うた。いま高句麗と戦うのは好ましくないと、許すことにしたのである。

 第1回遣隋使

 中国の統一王朝が成立し、周辺の国々は先を争って隋に遣使した。日本も朝貢することを考えたのである。第1回目の派遣(600年)は日本書紀には記録されていないが、『隋書』「東夷傳俀國傳」に記録されている。

「開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号づく。使いを遣わして闕に詣る。上、所司をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停めて云う、我が弟に委ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓えて之を改めしむ。」

俀王の姓は阿毎(アメ)、名は多利思北孤(タラシヒコ)で天に出自をもつ尊い男という意味となる。阿輩雞弥(オホキミ=大君)、天皇とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしている。
開皇20年(推古天皇8年=600年)に派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて倭国の風俗を尋ねさせた。使者は倭王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思え、改めるよう訓令したという。

 古来より天皇に姓はないが、隋に日本のことを伝えるために、アメと言う名を使ったものと考えられる。神話の中の神々の多くに「天」が付いており、そこから来たものであろう。タラシヒコが付いた名は以下の6天皇で、最初は第6代孝安天皇である。

第六代孝安天皇 和風諡号は、日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
第十二代景行天皇 和風諡号は、大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
第十三代成務天皇 和風諡号は、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
第十四代仲哀天皇 和風諡号は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
第三十四代舒明天皇 和風諡号は、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
第三十五代・三十七代皇極天皇、重祚して斉明天皇 和風諡号は、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
出雲王朝15代 遠津山岬多良斯(トオツヤマサキタラシ)

 12代景行天皇の時、出雲王朝が廃止となっている。このとき、出雲王朝15代のトオツヤマサキタラシのタラシを引き継ぐことにより、出雲王朝を大和朝廷が継承したという形になっていると思われる。

 第34代舒明天皇以降は、この時の朝貢が元で、タラシと言う名が再び重要視されるようになり、天皇名につくようになったと解釈される。

 神話上の最高神は「天照大神」である。この神は本来飛騨王朝の太陽神を意味している。太陽崇拝していたのが飛騨王朝であるので、太陽神より継続して日本を治めている系統の人物と言う意味が「アメタラシヒコ」の意味であろう。

 第1回遣隋使の目的は、先進国隋の国家体制・新技術の習得及び、日本の紹介にあったと思われる。

 任那復興

任那滅亡後の日本書紀任那関連記事

和暦 西暦 日本書紀記事
欽明 32年 571 3月 坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。
4月 天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。
敏達 12年 583 7月 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
13年 584 2月 難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った
崇峻 4年 591 8月 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。
11月 紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
推古 8年 600 新羅と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。
9年 601 3月 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。
11月 新羅を攻めることをはかった。
18年 610 3月 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。
7月 新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。
9月 使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。
10月 新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。人を遣わして新羅・任那の使者を呼ばれた。
19年 611 8月 新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
31年 623 この年新羅が任那を討った。任那は新羅に属した。
     この時、新羅国王が日本の使者倉下に申し伝えた言葉
 「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い使える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内宮家と定め、心配なさいませんように」
舒明 10年 638 百済・新羅・任那が朝貢した。
皇極 元年 642 正月 百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。
2月 百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。
3月 新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。
5月 百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。
10月 新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
大化 元年 645 高麗・百済・新羅の使いを遣わして調を奉った。百済の調の使いが任那の使いを兼ねて任那の調も奉った。
2年 646 高麗・百済・任那・新羅等が使いを遣わして調を奉った。
9月 小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出せせるとともに、新羅から任那の調を奉らせることを取りやめさせた。
3年 647 正月 高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
4年 648 2月 三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。 
5年 649 5月 小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
白雉 元年 650 4月 新羅が遣使して貢調した。(※注の或本には、この天皇の世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた、とある。)
2年 651 6月 百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。
3年 652 4月 新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
4年 653 6月 百済と新羅が遣使して貢調し、物を献じた。
5年 654 10月 天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔った。

 任那は562年に新羅に攻撃されて、新羅に編入されているはずであるが、それ以降の日本書紀の記事を見ると、610年頃から645年頃まで、任那が独立して動いている様子が記録されている。このことは、任那が一次復興したことを示している。

 任那が復興した時期を日本書紀から推定してみよう。

   推古8年〔600〕2月、新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。

 推古8年(600年)が、任那復興の年と考えてよいようである。任那が復興したが、新羅はすぐに任那併合に再び動いたようである。

  9年〔601〕3月、大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
  10年〔602〕2月、来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、
暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
  11年〔603〕4月、2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
  18年〔610〕3月、高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。

 推古18年には任那は新羅と独立して動いているので、603年の征新羅将軍によって、任那が新羅から解放されたと思われる。

 以降任那は独立して動いていることが日本書紀に記録されている。562年に滅亡した任那は一度復活しているのである。

 国内体制の充実

 推古11年(603年) 冠位12階の制定

 推古12年(604年) 憲法17条の制定

 この二つは厩戸皇子(聖徳太子)が実行した、国の制度を強化するための制度である。推古8年(600年)の遣隋使により、大和朝廷の国内制度不備を指摘されている。その指摘に基づいて制度改革を行ったものであろう。

冠位12階の制定

 それまでは、豪族が自らの立場を考えて意見を述べ、豪族主導で政治がおこなわれていた、有力豪族の出でない人物は能力があっても、政治に参加できない状態であり、今後起こる様々な出来事に対して、知恵を働かせて、効果的に政治をするには、能力の高い人物の登用がどうしても必要だったのである。有能人物に高い官位を与え、その意見が政治に反映できるようにしたのである。

憲法17条の制定

第一条 和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
第二条 あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。
第三条 王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。
第四条 政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。
第五条 官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。
第六条 悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。
第七条 人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。
第八条 官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。
第九条 真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。
第十条 心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。
第十一条 官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。
第十二条 国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。
第十三条 いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。
第十四条 官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。
第十五条 私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。
第十六条 人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。
第十七条 ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。

 これは、今の憲法とは異なり、人として官吏としてのあり方を問うたものである。聖徳太子はこれをもとに人を動かしたといえる。

 何れも遣隋使からの報告を受けて制度改定したものである。

 第2回遣隋使

 第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)7月に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや

 倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と命じたという。

 朝鮮半島の外の国々は朝貢が以降であり、隋の臣下としての扱いである。それに対して、日本は隋と対等に外交しようというものである。この時代に隋皇帝が怒り、日本に対して大軍を送るということも考えられなくはない状況であった。このような時に、聖徳太子はなぜ、隋皇帝が怒るような文書を送ったのであろうか。

 第1回目の遣隋使派遣により、隋の政治の在り方を学び、17条憲法の制定や、冠位12階を定め、国としての体制固めを行った。日本を強い安定した国として固めるには、隋との対等外交が必要だったと考える。朝鮮半島の国々が隋に対して臣下の礼を尽くしているわけであるから、日本が隋と対等外交をすれば、朝鮮半島諸国は日本に対して一目置かれる存在となり、朝鮮半島の戦乱状況を鎮め、懸案である任那帰属問題も解決に向かうことが考えられた。

 厩戸皇子は、隋と対等外交を行うことにより、朝鮮半島の懸案を解決できると考えて、このような文書を書いたと思われる。

 隋の返書

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』
「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」とある。これが天皇号の始まりと思われる。

 隋の皇帝は、最初は日本からの文書を見て「無礼だ」と怒ったが、返書は、対等外交を認めたものとなっている。これはどうしたことであろうか。

 隋の皇帝煬帝としては、大国隋に対等外交を挑んでくるような国があるとは、想像だにしてなかったであろう。一時は「押しつぶしてしまえ」と考えたことであろうが、逆に、自らに対等外交を挑んでくる国はどのような国なのかに興味がわいたのではないだろうか。

 そして、日本がどのような国なのかを調べさせたと考えられる。倭王武の上表文にあるように、歴史が古く、昔朝鮮半島を支配していた大国であり、相争っている朝鮮半島諸国とは格が違う国であることは、すぐにわかったであろう。

 隋は高句麗との関係が極めて悪く、日本と高句麗は友好関係にあり、高句麗に対してある程度影響力があると判断したと思われる。日本との友好関係を構築すれば、隋にとっても、朝鮮半島の安定化に貢献するのではないかと考え、日本からの対等外交の要請に答えることにしたのであろう。

 煬帝の家臣である裴世清を日本に派遣して、日本との対等外交を結ぶことにした。

 朝鮮半島諸国の驚き

 百済本紀608年条
 使者を隋に派遣して朝貢した。隋が文林郎裴清を、倭国へ使者として送ったが、我が国の南路を経由した。

 百済本紀にわざわざこのようなことが記録されている。

 また、日本書紀608年条
 新羅人が多く帰化した。
 609年条
 肥後国の葦北津に百済人が多数流れ着いた。百済の人たちを本国に送ろうとしたところ、対馬に至って、請願して留まりたいと申し出た。そこで留まることにし、元興寺に居らせた。

 これらの記事は、日本が隋と対等外交をしたということで、百済、新羅が衝撃を受けたことを示している。隋と対等外交する日本に戦乱の続いている新羅・百済から多くの人々が帰化したのである。

 そのような状況で小野妹子が隋からの返書を百済が盗むという事件が起きた。

 小野妹子は、返書を持たされて返された。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまった。

 裴世清が持参した返書が「国書」と思われるので、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていない。小野妹子が持っていた返書は重要な文書ではなかったと考えられる。

 それよりも、百済が隋との外交を妨害したという事実の方が大きい。日本と百済の関係は欽明15年の百済聖明王の戦死以降、ギクシャクしている。新羅の勢力が強大化する中、日本は百済を援助することもほとんどなく、百済からの信頼を失っているのである。そして、百済は日本の援助なしで自らの道を進むという状態になっていった。

 その中で日本が隋と対等外交をすると云うのは、日本からの無理難題も増加することを意味しており、百済としては不都合であった。そのために、返書を奪って対等外交を妨害しようとしたと思われるが、奪ったのは重要書類ではなかったようで、対等外交は成立した。

 小野妹子は、この失態によって一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣されており、重たい処分は受けていない。また、奪った百済の方に対しても何ら対策をした形跡がない。日本としては、隋との対等外交に影響がなかったので、今後の百済との関係を考えて不問にしたのであろう。

 高句麗の百済攻撃

 598年、隋と高句麗が戦っている時、百済が使者を遣わして、高句麗征伐の先鋒になることを申し出た。百済としては隋の援護を受けることで朝鮮半島の主導権を握ろうと考えていたのであろうが、隋が高句麗を許してしまったので、帰って高句麗の怒りを買うことになってしまった。高句麗は百済の態度は許せないと、百済を攻撃した。

 この時の攻撃に不思議なことがある。この当時百済と高句麗は国境を接していない。漢江周辺(現ソウル市)一帯は新羅領となっているのである。高句麗軍はどのようにして百済との国境を攻めたのであろうか。百済の国境を攻めるには新羅領を通過する必要があり、その途中に新羅の北漢山城がある。603年の時点で、ソウル市一帯は新羅の領土であった。

603年8月、将軍・高勝を派遣して新羅北漢山城(ソウル市)を攻撃させた。新羅王が軍を率いて漢水を渡ると、城中でも太鼓を打ち鳴らして援軍に呼応した。高勝は敵軍が多く味方が少ないので、勝てないと考えて退却した。(高句麗本紀)
 高句麗が新羅の北漢山城(ソウル市)を侵す。王、自ら兵一万を率いて防戦す。(新羅本紀

604年、南川州(利川)を廃して、ふたたび北漢山城を設置す。(新羅本紀)

605年、新羅が百済の東辺を侵した(百済本紀)
     百済の東辺を侵す。(新羅本紀)

607年5月、高句麗王は出兵して、百済の松山城(熊津)を攻めたが、下すことができず攻撃目標を変更して、  石頭城を襲撃、男女の捕虜3千人を得て帰国した。(高句麗本紀・百済本紀)

 607年には百済領の松山城を攻めている。これも新羅領を通過しなければできないことである。高句麗軍は新羅領を堂々と通過して百済を攻めているようである。それが603年の戦いではあるまいか。高句麗は百済を攻撃しようとしたが、その途中に新羅の領域(ソウル市付近)がある。この領域はそれ以前は高句麗の支配領域だったところなので、百済攻撃のために、この地域を奪回しようとしたのであろう。

 しかし、新羅の反撃が強く、高句麗は退却した。607年には百済の松山城を攻めているので、それまでには百済への攻撃路を確保したと思われる。それが、605年の新羅が百済を攻めた記事であろう。

 この攻撃は高句麗の要請を受けたものではあるまいか。この時に新羅と高句麗が接近することとなり、高句麗が百済征伐のために領地通過することを認めたのであろう。

 608年2月将軍に命じて新羅の北部国境地帯を攻撃させ、捕虜8千人を得た。同年4月新羅の牛鳴山城(北朝鮮江原道元山市安辺郡瑞谷面)を陥落させた(高句麗本紀)

 高句麗は新羅から協力を得て、百済攻撃に参加したが、この時、新羅が何かの形で裏切ったものと考えられる。そのために、高句麗は新羅を攻撃したと推定する。

 隋と高句麗の戦い(第二次・610年)

611年 2月 煬帝が高句麗を討つよう詔をくだした(隋書)
        百済、遣使朝貢。(隋書)
    10月 新羅の瑕岑城を攻め滅ぼした(百済本紀)
612年
 隋の六軍が遼河を渡り高句麗に攻め入るというので、王は兵を挙げて国境を守り、隋を援助すると声明を発するが、実は隋と高句麗の両端を持つ政策をとる。(百済本紀)
遼東城の攻防、高句麗が勝利(高句麗本紀)
613年7月
 隋の使者・王世儀が皇竜寺に来て百高座を設け、円光などの法師を迎えて仏教を説いた。(新羅本紀)
614年2月
 隋、再び高句麗を攻める
 隋の煬帝は群臣を召して高句麗征討を議る。数日しても発言するものなし。煬帝はまた詔そ下し、天下の兵を徴募しともに進撃す。(高句麗本紀)
614年7月
煬帝が懐遠鎮に到着。時に天下乱れ、徴募した兵は期限に遅れてこないもの多し。一方、高句麗も疲弊し困憊していた。
隋将の来護児が卑奢城を攻めこれを落とし、平壌に向かおうとす。王は恐れて、煬帝に使者を送り、降伏を乞い、解斯政を送る。煬帝は大いに喜び、使持節を遣わして来護児を召還す。(隋書)
614年10月
煬帝が西京に帰還す。高句麗の使者に王の入朝を督促するも、王はついに従わず。(高句麗本紀)

第2次遠征

 607年には東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬帝に見られ、612年正月、隋の煬帝は、100万の大軍で高句麗に侵攻した。高句麗は隋軍には補給に問題があることを知ると、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。高句麗軍は、薩水(清川江)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。

第3次遠征
613年、隋の煬帝は再び高句麗に侵攻したが、隋国内での反乱のため、隋軍は撤退した。

第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、和議を提案した。隋も国内が乱れていたためこれを承諾した。高句麗は和議の条件の一つであった隋への朝貢をせず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のためこれを中止した。

 隋は高句麗との戦いで、国力を消耗した。高句麗も大国隋に一歩も引かない対応をしたが国力を消耗したのである。これにより、618年隋は滅亡し、唐が起こった。

 天皇記・国記の編纂

 日本の歴史書といえるものは応神天皇の時代の「帝紀」「旧辞」が最初である。古代史の復元では初期大和朝廷では「語り部」という役職を設け、その時代にあった出来事を記憶させ、重要な儀式でそれを披露するというような形が継承されてきたと推定している。しかし、仲哀天皇崩御以降、大和朝廷の皇位継承に関するところで政変が何回も起こるようになり、「語り部」が正しく、出来事を記憶する体制に狂いが生じてきた。

 応神天皇の時、漢字が「王仁」より、導入されるに至って、語り部に記憶させた内容を、書物として残そうということになり、記録されたのが「帝紀」「旧辞」であると考えられる。時代背景から判断して、この「帝紀」「旧辞」はかなり真実に近い形の記録だったのではないかと判断している。

 「帝紀」「旧辞」は応神天皇以降も追加して記録されていたのではないかと考えられる。ところが、継体天皇以降、政権を担当している豪族が入れ替わり、また、皇位継承も親子継承から複雑な継承が続き、時の権力者の都合で、真実ではない記録がなされるようになってきた。

 それを防止し、真実の歴史が後世に正しく伝えられるように天皇記・国記の編纂を命じたものであろう。しかし、その翌年、厩戸皇子は亡くなってしまうのである。その結果天皇記・国記は蘇我氏の思い通りの歴史が記録されたのではないかと考えられる。

 また、仏教を全国に広めようとしたところ、仏教を広めるための最大の障害が、素盞嗚尊・饒速日尊信仰であった。どうすれば仏教を地方まで広めることができるのかを考えていた。

 聖徳太子関連寺社

寺院
 日本各地には厩戸皇子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられている。太子建立した寺院は七大寺と称されており、 四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)とされている。これら寺院は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって厩戸皇子が創建したことが確実視されている。

ゆかりの神社

神社名 祭神 鎮座地 県名 由緒
阿賀神社 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 八日市市小脇町2247 滋賀県 社伝には欽明天皇の御代聖徳太子が、又伝教大師が参篭され、広大なご神徳に感銘され、50余の社坊を建立して廟社を守護させられた。
一岡神社 建速須佐之男命,稲田姫命,八王子命 泉南市信達大苗代373番地 大阪府 三三代推古天皇の御代(西暦592)に厩戸王子(聖徳太子)はこの地に七堂伽藍を建立し海会寺(海営寺)と称して、当社も海会宮(海営宮)改め、鎮守神として御供田3反歩を供して崇敬されました。
稲荷神社 倉稲魂命 岐阜市三蔵町2丁目8番地 岐阜県 伝によれば今より1350年前推古天皇15年2月聖徳太子敬神の詔を発し給ひ其後諸国御巡視の砌、近江路にて木蔭に憩ひ給ふ時、伏見稲荷の霊狐30余才の武人に権化して坂本豊竹と名乗り給ひ、御前に跪き不肖御召連れ給はば如何なる深山の奥迄も御案内申すべく、実に世渡りの一筋我に御任せ候へと申し上げたるところ、太子の尊顔も麗しく、之を平らけく聞し召して美濃路に入り、此郷に着かせられ、自身の姿を彫刻の上、汝此の地に留るべし、必ず別所に往く勿れと仰せありて太子此地を発し給ふ。
今宮戎神社 天照坐皇大御神,事代主命, 大阪市浪速区恵美須西1-6-10 大阪府 今宮戎神社は、天照皇大神、事代主命(えべっさん)外三神をお祭りし、その創建は皇紀1260年(西暦600)に聖徳太子が四天王寺建立に当たり、同地西方の守り神としてお祭りせられ、同9年春3月、太子自ら当社のご祭神に市の守り神としてお祈りせられたと伝えられています。
産宮神社 反正天皇 三原郡西淡町松帆櫟田103 兵庫県 日光寺所蔵の産宮神社由来記には、聖徳太子日光寺建立の折産宮神社に天照大神を合祀して鎮守とされたり 
奥石神社 天児屋根命 蒲生郡安土町東老蘇1615 滋賀県 又用明天皇の御代(1400年前)聖徳太子が諸国御巡歴の途次老蘇の森に仮寓し給ふた時、その妃高橋姫が御難産であったので鎌大明神に御祈願になったところ忽ち御安産なされた
大江神社 豊受大神 大阪市天王寺区夕陽丘町5-40 大阪府 大江神社は、上之宮、小儀(四天王寺東門外北側)、土塔(南門外東側)、河堀、堀越、久保の各社と共に、四天王寺七宮と称し、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られしものであるという。
大多羅乳女神社 伊弉冉尊 那賀郡貴志川町丸栖641 和歌山県 当神社は、聖徳太子が物部の守屋を滅ぼした時に御祈願されたと伝えられている
大宮 安閑天皇 大阪市東淀川区大道南3-2-2 大阪府 この地は聖徳太子の伝承多く、主祭神御神体の御木像は聖徳太子直作と言われている。又、聖徳太子はこの地に四天王寺を建立せんとし給いしが洪水が多く、結局今の天王寺に建立されたが、一旦この地に定められし故から、御年42才の時自ら自画像を画き本殿に留め給いしを今に伝えて奉祀している。
御沢神社 市杵島媛命,八大龍王 八日市市上平木町1319-1 滋賀県 人皇三十四代推古天皇の御宇甲子12年(1300余年以前)聖徳太子の御創立
鵲森宮 用明天皇,穴穂部間人皇后,素盞嗚命 大阪市中央区森之宮中央1-14-4 大阪府 崇峻天皇2年7月、聖徳太子が物部守屋との戦いの時、必勝を期して父母である用明天皇と穴穂部間人皇后を祀り、自ら四天王の像を刻み、大伽藍を当社近接の玉作の岸に創立なさった。これを元四天王寺という。しかしこの土地は低地のため、風波や満水によりて伽藍を損することあるによりて、聖徳太子後代を憂いなさり、推古天皇元年九月、四天王の像及び伽藍を残らず今の荒陵にお移しになった。
崎宮神社 大己貴命,須佐之男命,稲田姫命 加古川市尾上町養田字宮ノ東410 兵庫県 三十三代推古天皇の御代に、この辺りに雌雄の大蛇が棲んでいて、人々を苦しめたので、聖徳太子は須佐之男命が出雲の簸川で八岐大蛇を退治された故事にかんがみ、この地に鎮祭されたと言う。
龍田神社 天御柱命,国御柱命 生駒郡斑鳩町龍田1-5-6 奈良県 十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷立鎮座された。たまたま聖徳太子(16才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。
八幡神社 誉田別命 愛知郡愛知川町愛知川1573 滋賀県 当社は明治維新 正一位若宮大明神と尊称していた。敏達天皇の御代聖徳太子此の地に於て守屋大臣と戦い敗軍に陥り給ひ当社明神に身の安全を祈願し給ひ託宣に依る御園内に身を潜め給ひ敵兵之を知る事が出来ず退陣したので太子大いに報賽して田園を附し爾来皇室の遵敬浅からず養老元年藤原史公大いに社頭の改修を加へらる。
稗田神社 稗田阿礼 揖保郡太子町鵤926 兵庫県 昔より鵤外12ケ村の部落民が代々氏神として尊崇奉祀してきたもので、その縁起は抑々、氏子部落の地は人皇三十三代推古天皇の戌午の年6年に聖徳太子が法華勝鬘経を講ぜられ、その布施として帝より賜った地を斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺、片岡僧寺の三寺に分納せられたもので、即ち佐勢の地五十万代の内である。故にその当時各寺より、寺地管理並に調物微収のため、多くの吏員を移住又は派遣し、其の内に寺地管理のため大和より当地に移住して来た吏員が此処に稗田氏族の祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀し、それを当地の人々の崇敬する所となり、
比売許曽神社 下照比売命 大阪市東成区東小橋3-8-14 大阪府 当神社は人皇第十一代垂仁天皇の御代(今より約2千年前)、愛久目山(今の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比賣命を祀って高津天神と呼ばれたのが起源であると伝えられ、その後第二十三代顯宗天皇の御代、社殿の御造営あり、三年春正月12日、正遷宮に際して天皇の行幸があり宮原縣主が奉幣を承ったといわれ、又第三十三代推古天皇十五年春正月12日、正遷宮の際、聖徳太子供奉されて太子自ら神供を奉り難波惣社古宇豆天神宮と称し楼門に額を下賜され、第四十代天武天皇白鳳6年春正月12日の正遷宮には、舎人親王御参りの上奉幣せられたと伝えられています。
福王神社 武甕槌命 三重郡菰野町大字田口2404 三重県 鈴鹿山系の一つ老杉がおい茂る竜ケ岳の山麓に鎮座しております。ご本尊は、百済の仏工安阿弥勅によって彫まれ、聖徳太子の手でこの霊場に安置されました。
松尾神社 大山咋命,市杵島姫命 亀岡市旭町今峠4 京都府 三郎ヶ岳の山麓に位置する当社は、大山咋命(おおやまくいのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の二柱を祭神として祀る。社伝等によると、秦川勝が聖徳太子の命を受けて佳所である当地に祀ったことに始まる
雷電神社 火雷大神,大雷大神,別雷大神 邑楽郡板倉町板倉2334 群馬県 聖徳太子の御創建社の歴史は古く、推古天皇6年(598)のころ聖徳太子が板倉の沼の清らかな水に御祓をして身心を清めておられますと、黒雲白雲が垂れ込めて、やがて雲の間から尊い天の神の声が聞こえました。そこで太子は湖の浮き島に祠を建ててこの神をお祀りなさいました。

 敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、厩戸皇子は神道の神をも厚く祀った。仏教を広める障害となっている素盞嗚尊・饒速日尊(武甕槌命)も祀っているのである。

 しかし、その手法は単に神を祀るだけではなく、神社に仏像を始め、仏教的なものを神社に安置する方法を取っており、神社と仏教の習合のような形で神社を祀っていることが多い。

 このころの厩戸皇子は仏教興隆のために神社と仏教を習合しようという意識がはたらいていたようである。

 神社を廃して仏教を興隆させるのは無理であると判断した厩戸皇子は神社と仏教を習合させて仏教を広めようとしたことがうかがわれる。そのために、敬神の詔を推古15年(607年)に出したのであろう。

 蘇我氏は素盞嗚尊・饒速日尊の抹殺を図ったと思われるが、厩戸皇子は素盞嗚尊・饒速日尊の抹殺ではなく習合によって仏教を広めようとしていたと考えられる。

 しかし、厩戸皇子の死によって、その計画はとん挫したものであろう。

 皇太子厩戸皇子の死と聖徳太子の称号

推古29年(621年)2月5日、厩戸皇子は斑鳩宮で亡くなった。

 この頃の政治は蘇我氏の政治であったが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している。このことから考えてこの時代の斬新な政策はみな厩戸皇子の提案で行われたものであろう。

 それが元で後の時代に、厩戸皇子の信仰が強くなり、聖人化し、聖徳太子といわれることになったと考えられる。

 新羅・任那を占拠

 推古29年(621年)
 新羅が奈末伊弥買を派遣して朝貢した。書をたてまつって使者の旨を申し上げた。おそらく新羅が表を献上したのは、これが初めてだったか。

 推古31年(623年)
新羅は大使の奈末智洗爾を派遣し、任那は達率奈末智を派遣し、並んで一緒に来朝しました。それで仏像を1具と、金塔と舎利を献上した。また、觀頂の儀式に使う幡を1具、小幡を12条を献上した。すぐに仏像を葛野の広隆寺に居らせた。残りの舎利・金塔・觀頂幡などを全部、四天王寺に納めました。この時に、大唐の学問者の僧の恵斉・恵光と医者の恵日・福因たちは、皆、智洗爾たちに従って、日本に来た。恵日たちは、ともに申し上げて言った。
「唐国に留学する学者は皆、学業を成しました。召喚するべきです。また、かの大唐国は法式を備えて定めている珍しい宝の国です。常に通うべきです」

 新羅は任那を征伐した。任那は新羅に付き従った。数万の軍隊を率いて新羅を征伐に向かった。任那に到着して話し合い、新羅を襲おうとした。すると新羅国王は軍隊が大量に到着していると聞いて、あらかじめ恐れて、服属すると請願した。その時、将軍たちは、ともに話し合って表を天皇に献上した。天皇はそれを聞いて許した。

 推古29年の新羅・任那の朝貢は厩戸皇子が亡くなったので、その弔意の挨拶に来たものと考えられる。しかし、新羅は任那を再び併合しようと計画して、日本の様子を探ることを兼ねていたと思われる。

 厩戸皇子は、新羅に大軍を送り込み、任那を奪回している。厩戸皇子健在の時、新羅は任那に手が出せなかったのである。その厩戸皇子が亡くなったとなれば、任那を再び併合できると判断して、新羅は再び任那を併合した。

 しかし、推古天皇の対応は早く、すぐさま大軍を送り任那を奪回したようである。おそらく、厩戸皇子は新羅が任那を奪回しようとしていることを推古天皇に話しており、自分の身に何かあった時の対応を天皇自身に伝えていたのではないかと考えられる。

 推古天皇崩御

 長期政権となった推古朝も終わりを迎える時が来た。推古36年(628年)推古帝は体調を崩した。この時、皇太子としていた厩戸皇子は先に亡くなっており、次の皇位継承者が決定していたかったのである。ここ数代にわたって皇位継承時に混乱が起こっている。推古天皇の後の皇位継承もそれが起こることを、天皇は危惧していた。

日本書紀推古36年3月6日
 天皇は痛みがひどくなって、忌まわしい事態になった。すぐに田村皇子を呼び寄せて言った。
「天位に登り、鴻基を治め、整え、万機を治め、国民を養うことは、もとより容易く言うものではない。常に重く捉えるものです。お前は慎しみ、明らかにするのだ。軽々しく言ってはいけない」
その日のうちに、山背大兄を呼び寄せて教えて言った。
「お前はまだ未熟ものだ。もし、心に望むものがあっても、やかましく言ってはいけない。必ず、群の言葉を待ち、従いなさい」

 推古天皇が即位する時、本来の皇位継承者は敏達天皇の皇子の押坂彦人皇子であったが、蘇我氏の地が入っていないために蘇我馬子の意向で皇位継承から外された経緯がある。押坂彦人皇子が皇位継承できなかった場合の皇位継承者は厩戸皇子であったが、先になくなってしまい、この系統であれば厩戸皇子の長子である山背大兄皇子となるのである。

 次の皇位継承候補者は以上の2名であったが、用明天皇以降に皇位継承が複雑化している関係で、皇位継承の順位がわかりにくくなってしまったのである。後の地の争いを嫌った推古帝はこの両者のどちらを後継者にするか決めかねていた状況で病にかかってしまったと考えられる。

 後の後継者は群衆の決めるべきものと判断し、両者を呼び寄せて遺言したのであろう。

 そうして、「このごろ、五穀は実らない。百姓はとても飢えている。朕のための陵を立てて、厚く葬ることをしないよう。ただ竹田皇子の陵に葬って欲しい」と遺言して、推古帝は在位36年にして崩御した。

 

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