飛騨王朝と弥生人との遭遇

 初代上方様の活躍時期の推定

 飛騨から地方に人々が散っていったのはいつ頃であろうか。縄文時代中期には飛騨地方に数多くの縄文遺跡が存在しているが、中期から後期にかけて激減している。飛騨の縄文遺跡が激減するのと時期を同じくして西日本地域の縄文遺跡の数が急増しているのである。その境の時期はBC2000年頃である。小山修三氏によると、中部地方の縄文人の推計人口はBC2300年頃(中期)72000人ほどであったのが、BC1300年頃(後期)には22000人、BC900年頃(晩期)には6000人ほどである。

 飛騨口碑における初代上方様の活躍時期はBC1000年頃、ウガヤ王朝の初代王の活躍時期はBC1700年頃と計算される。BC1700年頃は西日本の縄文人が増加しているが、BC1000年頃は西日本の縄文人が減少している。

 参考 気候の寒冷化がもたらした縄文人の南下

 飛騨口碑の伝承及びウガヤ王朝の代数を考慮すると、BC1700年頃飛騨から地方に人々が移住を開始したと推定される。そうすると、ウガヤ王朝の代数が時期的に合うことになる。

 飛騨国の巨大縄文遺跡である堂之上遺跡は縄文時代前期から中期まで栄え、中期末には消滅している。消滅期はBC1700年頃と推定される。

 縄文時代中期は気候が温暖であり、飛騨地方にも多くの縄文人が住んでいた。中期末より気候が寒冷化し、ほぼ同時に各地にストーンサークルが作られるようになった。大湯環状列石は、その方向が夏至と冬至の日の太陽の出没方向と一致している。また、周辺に墓も見つかっており、太陽崇拝と祖先崇拝を兼ねた遺跡と思われる。飛騨口碑でいう日抱御魂鎮はこの頃より自然発生的に継承されてきたものであり、上方様はその祭祀の司祭者であろう。

 飛騨口碑もウガヤ王朝も伝承がそのまますべて正しいとするには無理がある。考古学的成果をもとにして、伝承を修正して、真実に近い姿を浮かび上がらせてみよう。

 ウガヤ王朝の誕生

 縄文時代中期までは気候が温暖であり、縄文人たちはそれほど生活に苦労することもなく、王朝も存在しなかったと考えている。小集団で生活するという状況だったと考えられる。縄文遺跡の住居の資材がクリの木であることから、栗が主食だったようである。

 縄文中期末(BC1700年頃)、気候が寒冷化してきた。人々の生活が次第に苦しくなってきた。その苦しさから逃れるために近隣集落との連携が強化され、その集落間の一体感を高めるために祭祀が始まった。その祭祀の主催者が次第に王権を持つようになってきたと考えられる。これが、ウガヤ王朝の始まりであろう。

 飛騨国に王朝が祭祀の主催者の形で自然発生的に誕生したと考えている。時期は縄文時代中期末(BC1700年頃)である。

縄文時代と思われる口碑
天皇家は、神武天皇以前から上方様(うわかたさま)と呼ばれた時代が約6000年続いた。上方様の時代、天皇家は末子相続制だった。子だくさんの時代であり、兄弟姉妹は、民間に降りて婚姻し、多くの人々と血縁関係を結んだ。人口が増えてくると、人々の一部は、新しい土地を求めて、土地を去って行った。
そのときに、上方様の血族であるという証に、勾玉をもらっていった。勾玉は、湾曲した石で、その湾曲した部分には、皇室の魂が宿るとされた。去って行った人々は、それを我が身の係累の「証」として大事な折には身につけることを伝統とした。そうして何世代かが経つと、それぞれの土地に定着した人々が、はじめはひとりふたりだったものが、幾世代を経て、何百人かの集落となる。こうなると、同じ先祖を持つ親戚同士(村同士)でも、何百年も交流がなくなることがあり、そういう村同士が、ある日、なんらかのことでトラブルになる。村同士のイクサですから、これは村国家の一大事で、村長であるリーダーは、胸にご先祖伝来の勾玉を下げてイクサの場に赴き、相手の村国家の軍団と対峙してみると、相手の村長の胸にも、同じ勾玉が!そこで、
「やあやあ、あなたも上方様のご一統ですか」
「ハイ、私は何代の○○様の時代にこの土地に来た者です」
「そうですか。私は何代の□□様の時代ですよ」
「それなら、お互い親戚ではありませんか。ならばイクサなど辞めにして、一緒に酒でも酌み交わしましょう」
などとなって、流血事件が避けられたのみならず、互いの村国家同士の交流が深まり、互いに発展することができた。
そんな「証」が、勾玉であった、という。

弥生時代の直前と思われる口碑(山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版より要約)
 だんだん温度が下がるにつれて、西の方へもだんだんと広がって行った。大淡上方様は子供や孫や部下の者に、常に国を守って立派にすること、そのためにはまとめ役をする人によく仕えて団結すること、将来のことを見通して大きな希望を持ってやりぬくこと等々を教えられてのう。子は孫にまた孫にと子孫は受け継いたんじゃ。
大淡上方様には子が大勢おられてのう。一番賢くて一番神通力の強い末っ子の御方が大淡上方様の跡を継がれて、他の兄弟は、区別をするために姓をもらって分家(あぜち)をしたんじゃ。大淡上方様も生前は上方様と申し上げて、上方様の家は代々名字が無うて、分家をするときに苗字をもらったんじゃ。代々の上方様は一人一人名前をよう覚えておらんが、末っ子や女の人に賢い人がよく出られてのう。先代に分家した者、先々代に分家した者、兄や姉も皆、上方様上方様と敬い申し上げてのう。よくお仕えしてのう。また上方様は皆の者を可愛がって下されてのう。
総本家の上方様を中心にまとまっておったんじゃ。云々。」

 飛騨口碑では、初代大大淡上方様の時代でBC500年頃とされているが、だんだん寒冷化した時期から考えてこの口碑はBC1700年頃で、初代ウガヤ王の時代と考えてよいであろう。代数から推定して初代大淡上方様はBC1000年頃の人物となる。ウガヤ王朝では30代円春之男天皇の頃であるが、内容がBC1700年頃と思われるので、初代ウガヤ王=初代大大淡上方様と考えてよいと思われる。上方様には代数欠落があるのであろう。

 飛騨国の太陽祭祀の始まり

この頃の、飛騨国の中心地は高山市丹生川町大谷字漆洞562の日輪神社の地であろう。

日輪神社
 日輪神社は創立年代不詳で、天照皇大御神を祭神とする。日輪神社・日輪宮という別称もある。本殿は宝暦4年(1754年)の建築で市指定文化財である。
社地は里から見ると鋭角的な三角形の山容をもち、比高差は約100m。1938年、陸軍大佐の上原清二が『飛騨神代遺跡』を発表。ここで日輪神社は太古「ピラミッド」「弥広殿」と呼ばれる太陽祭祀遺跡だったという説を披露した。上原『太古之日本』天之巻(1950年)・地之巻(1952年)の中では、日輪神社の社殿が建つ部分が平坦加工された拝殿部であり、背後の裏山には高さ約20mの円錐形の神殿部があり、この円錐形拝殿部はどこを掘ってみても川石が出てくることから、自然地形の尾根上に人工の山形を持ったものと述べている。また、円錐形神殿部の頂上には、酒井勝軍で言う複葉内宮式(内側に方形の列石が巡り、外側に環状の列石が巡るというもの)の磐境の一部が現存しているとのこと。外円の列石は残っていないが、内方形の列石の一部が現地に残っていたということ(同書の附図によると4個の岩石)。
 磐境の中心に置かれていたとされる太陽石は、現在、本殿の傍にある約2mの岩石がそれであろうと推測している。これは現在も本殿脇に現存している。上原の聞き取りによると、この岩石はかつて裏山にあったもので、約40年前(1910年前後?)にここへ持ってきて、丸形の石であったがこれを割って土止めのために使用したとの話を紹介している。社殿向かって右隅に、尾根の南側を巻くように歩ける踏み跡があり、その先に「太陽石」がある。岩石の表面に金属で穿たれたであろう点線状の直線が2本残っている。石割りのための楔の跡と考えられる。上原の著作を読む限り、本殿脇の岩石が元々の太陽石の残骸であり、この楔跡の岩石は後発の太陽石だと思われる。
 また、位山、洞山、日ノ御岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、数河の巨石群、須代山、見量山の平面ピラミッド、松倉山、水無神社など、飛騨に点在するピラミッド山は「日輪神社」を中心として16方位に等分している。

 寒冷化してきたこの頃の飛騨に住む人々にとって大切なのは太陽であった。寒冷化することは、太陽の光が弱まったと解釈しても不思議はないのである。昔のような暖かい時代に戻るには太陽の復活が必要だったのである。自然と太陽崇拝が始まったのである。

岩屋岩陰遺跡
岐阜県下呂市金山町に、「金山巨石群」と呼ばれる日本を代表する遺跡がある。岐阜県史跡文化財として指定されている《岩屋岩陰遺跡》という遺跡である。岩に線刻があり、冬至、春分、夏至、秋分の太陽が寸分の狂いもなく巨石に仕掛けられた隙間からスポット光として出現することなど、天体を映し出す驚異的な観測装置として機能している。イギリスのストーンヘンジのように太陽暦として機能するように設計され建設されたと推定されている。
 金山町の3ヶ所にある巨石群(岩屋岩蔭遺跡巨石群、線刻石のある巨石群、東の山巨石群)は、いずれもこのような節目の日を読み取ることによって、1年間の周期を知ることがでる。
 特定の期間に日の光が、巨石と巨石の隙間や空洞へ射込む、またはその頃だけは射込まないといった仕組みになっており、 いくつもの縄文土器が発掘されていることから、縄文時代に人為的に造られたものと推定される。
●岩屋岩蔭遺跡巨石群 - 突出した石面によって冬至の頃を中心に観察でき、冬至をはさんだ119日間が読み取れる。春分・秋分の頃、測定石によって平年(365日)と閏年(366日)が読み取れる。
●線刻石のある巨石群 - 春分・秋分の頃、測定石によって平年(365日)と閏年(366日)が読み取れる。
●東の山巨石群 - 冬至の頃、山から昇る太陽が特定の石の示す線上から出現する。
 以上から推測すると、縄文時代に太陽暦が存在していたことになり、従来の通説を覆すものであり、現在も調査が続けられている。

 当時、太陽の力が一番弱まるのが冬至の日であり、この日は太陽の復活の日でもあった。飛騨国の聖地と思われる日輪神社の裏山からは、冬至の日に乗鞍山頂付近から太陽が昇ってくる姿が見えるようである。飛騨国の岩屋岩陰遺跡が太陽観測施設と思われ、縄文時代に太陽崇拝が相当強かったことがうかがわれる。

 当時の飛騨の人々は古来より乗鞍岳が信仰の中心であり、乗鞍岳山頂付近に高天原が存在している。神々が乗鞍岳から下りてきたと考えたのであろう。実際に乗鞍岳に登ってみれば、周辺の地理が一望でき、乗鞍岳が聖地になることは十分に考えられる。

 その乗鞍岳から冬至の日に太陽が昇る姿が見られる日輪神社の地こそが、古代飛騨国の最大の聖地となっていったのであろう。

 祭祀が強化されて、飛騨王権が成立しても、寒冷化は進み、やがて、採取できる食べ物が少なくなり、飛騨の国だけでは多くの人口を養えなくなり、より暖かい西日本地方を中心に飛騨国の人々が地方に分散するようになっていった。

縄文ネットワークの形成

 ウガヤ王は飛騨国から地方に出ていく人々に勾玉を渡し、今後も飛騨国との連携を取り、縄文ネットワークを維持することを約束させた。

 この縄文ネットワークを維持できたことが、地方の情報を早く得ることができることにつながり、飛騨国を長期間維持し、後の大和朝廷成立に絡むことができることにつながったのである。そういう面で飛騨国にとって初代大淡上方様の功績は大きいといえる。ただ、縄文人の地方分散は初代大大淡上方様の頃から始まったもので、以降数代にわたって、この考え方が継承されたと考えてよいであろう。

 地方に散らばっていった人々もこの祭祀を移住先の地方で始め、この時期にストーンサークルが広がっていくのである。この祭祀が山で行われたのが全国に存在しているピラミッドであろう。

 15代淡上方様の時代

 海外からの人々の流入が始まった時代に、流入した人々を意識した対策が必要となってきた。中国では、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してからを春秋戦国時代と呼んでいるが、この頃より中国が戦乱時代となった。その騒乱を避けた人々が、東シナ海をわたり、日本列島への流入が始まったのである。この頃が15代淡上方様の時代と思われる。代数から推定してBC600年頃である。ウガヤ王朝では47代大庭足媛天皇のころと思われる。

弥生時代の初めごろと思われる口碑
15代淡上方様は都(本拠)を丹生川村から宮村に移し、後継者の孫 位山命(クライヤマノミコト)に皇統命(スメラミコト)の尊称を授けた。スメラミコトの称号はここに始まる。15代淡上方様一族を全国に派遣し、縄文連絡網を作った。
 大淡上方様は深く深く日抱御魂鎮をして、「先祖代々このかた、皆、平和で幸せで仲良く暮らしてきたが、これから将来海から上がって来た人たちが暴れたり、喧嘩したりする事が起きてくるだろう。
 今までは、ただ仲良くしてきただけでよかったがこれからは団結して固まってゆかねば幸せを守ることはできない」と考えました。(いざと言うときに備えて国造りをせねば)
大淡上方様がのう、日本の国を、あのころは日本とは言わなかったのだが、日本の国を末永く立派に保つにはどうしたら良いか、外国に侵略されないようにするにはどうしたらよいか、いろいろとご心配下されたそうじゃ。
そして、国内のあちこちに使いをだされたのだ。・・・
 口碑では、日抱御魂鎮を行って一番の大神通力者であり皆から敬わられた大淡上方様が、行く末を見通す神通力(未来の透視)によっていずれ海から上がって来た人達が暴れたり、喧嘩したりするとはっきりわかったのです。我々の先祖は本当に尊い方々であり、みんなが末永く幸せに暮らせるためにはどうしたらよいかと日抱御魂鎮を行って考えたと思います。日抱御魂鎮は「祈りの精神統一」であり大自然に感謝し先祖に感謝しみんなが幸せになるよう祈る。本家と分家という仕組みを作り国を護ろうとした。
 大淡上方様の長男の直系の山麓住日高日抱奇力命(ヤマノフモトズミヒダカヒダキクシキチカラノミコト)や次男の山下住水分奇力命(ヤマシタスミミクマリクシキチカラノミコト)は飛騨の要所を固め、末っ子の直系命(マッスグノミコト)が直系を継がれた。

 この頃、中国では周が北からの異民族の侵入し対して、都を東に移し、春秋戦国時代(BC770年)が始まっている。日本列島は縄文時代で寒冷化はしているが戦いもなく平和な時代が続いていた。15代上方様は、中国から流れてきた人々から中国大陸の状況を聞き、何れ日本列島にも異民族の侵入が起こりうると考えたのではないだろうか。

 BC700年頃から、九州地方に弥生人の渡来が始まった。渡来する弥生人は少しずつ数を増やし、九州地方の縄文人との間のトラブルも発生してきた。この状況を察知した15代上方様は、おそらくこのままでは九州に上陸する弥生人は次第に数を増し、縄文人たちは駆逐されてしまう可能性が考えられた。

 弥生人たちは技術水準が高いので、戦っても勝ち目はほとんどないことが考えられた。すぐにはその対策が考えられないので、まずは、縄文人たちの意識を集約する必要性を感じ、祭祀の主催者であった上方様を、正式に王とし、それをスメラミコトと呼ぶことにした。そして、その中心地の体制を地方にも伝え、縄文連絡網の強化を図ったのである。

 それまでの中心地を乗鞍山麓の丹生川村から位山山麓の宮村に移し、後継者の孫 位山命にスメラミコトの称号を送った。それまでは祭祀の司祭者だった飛騨王が王としての体制を確立したといえる。これ以降、飛騨の祭祀の中心は日輪神社から位山に移ったのであろう。王位継承の儀式が行われた山を位山と呼ぶようになった。

 堂之上遺跡が縄文前期より位山を意識していたようであり、位山は古来からの飛騨の祭祀の中心地であったようである。その位山を王位継承の聖地とし、位山で即位の儀式を挙げることで、スメラミコトの権威を高めたのである。

 飛騨王の体制を確立し権威付けすると同時に、地方に散らばった人々と連絡を取り、縄文連絡網を形成していった。

 この当時の日本列島には政治的連帯は一切なく、異民族の侵入に対抗する事ができない状況にあった。15代上方様はこのままでは日本列島も戦乱時代になると予想し、国としての体制を作ることを考えたのではないだろうか。それまでの祭祀の司祭者にすぎなかった上方様を王として認定し、権威付けする必要が出てきた。そのために、祭祀の中心地を日輪神社の地から、位山周辺に遷し、権威づけのために王位継承の儀式を神格化した。そして、飛騨国の状況変化を地方にも伝え、地方との連絡体制を強化したのである。

 BC600年頃は日本列島が国としての体制を形成し始めた時期と言えよう。記紀においては神武天皇の即位をこの時期にしているのは、飛騨国のこの伝承を意識してのことだったのではあるまいか。

 この情報網の構築により、九州に渡来人が流入する状況を把握することができ、渡来人の先進技術を学ぶために視察隊を派遣することも行ったようである。

  弥生文化の伝搬状況

 飛騨国は縄文系の国である。この頃より渡来人たちが、日本列島に上陸してきた。これら渡来人の侵入は飛騨国にとってただ事ではなかったはずである。まずは、弥生文化の伝搬状況を考えてみよう。

 BC300年頃、九州に拠点を置いていた渡来人集団は東進を開始した。ほとんど時間差なく中国・近畿、そして名古屋周辺の濃尾平野まで達したようである。各地の水田適地に核となる弥生ムラを築き、時には縄文系の人々を蹴散らしながら周囲に広がる、さらにここを拠点に広域展開を図るというように飛び地状に拡大していく。在地の縄文人との関係も一様でなく、弥生集団と棲み分けたり、近接して相互にやり取りする共生関係を結んだり、融合して新文化を受容したり、逆に対立関係になったりと各地で違いがあった。

 ところが、渡来人の急速な拡大は濃尾平野でストップする。濃尾平野は飛騨国の入口にあたり、飛騨国が全力を挙げて弥生文化の伝搬を阻止したことがうかがわれる。濃尾平野の東は縄文人のおよそ85%が住んでいたとされる縄文系の「牙城」であり、渡来人は容易に入り込むことができなかった。BC200年頃と推定される。両者のにらみ合いはこの後200年余りも続いた。

 対立の一方でそれを打ち破る新たな動きも始まっていた。東日本の縄文人は、新たな渡来人の持ち込んだ稲作技術に並々ならぬ関心をもち、BC400年頃には既に西日本に視察隊を派遣していた。その後も中部・関東の縄文系集団が、近畿を中心に頻繁に交流していたことも分かっている。

 弥生前期から中期にかけての縄文人と弥生人との関係

 近畿地方に弥生遺跡がみられるのはBC200年頃からである。九州に上陸した弥生集団の一部が瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのがこの頃であろう。弥生集団は豊かな農耕技術によって急激に人口を増やしていき、周辺の縄文集団と衝突するようになっていったのであろう。

 神戸市新方遺跡で石鏃が多数撃ち込まれた縄文系の人骨が出土した。弥生前期末(BC200年頃)のものと推定されている。それまでの縄文遺跡には戦闘の痕跡はほとんど見られなかったのであるが、この頃より戦いの痕跡が見つかるようになる。縄文人の集落周辺に弥生集団が上陸して、弥生人と縄文人との戦いが起こったものと考えられる。大阪湾岸にはこの頃大きな石鏃が数多く出土するようになる。戦闘が頻発したが、技術力の差によりおそらく縄文人集団が一方的に敗北したのであろう。

 近畿地方に上陸した弥生人集団はさらに東に広がり、飛騨国に近い濃尾平野まで進出してきた。しかし、弥生集落の広がりは濃尾平野で200年ほど停滞状態となり、そこから東には広がらなかった。

 

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