縄文人と弥生人との遭遇

 飛騨王朝の弥生人対策

 渡来人の登場時期

 大半は中国大陸からの渡来である。この頃の朝鮮半島南部は縄文集落がポツポツと存在している状況であり、人口密度がかなり低く、朝鮮半島からの渡来はほとんど考えにくい。

 この頃、縄文人は海外渡航を頻繁にしていたようであるが、中国大陸の人々は、ほとんど海に気持ちが向いておらず、平和な状態での危険な日本列島への渡来は考えにくい。縄文人は中国大陸を訪問していたと思われるので、縄文人から招かれてごく少数が日本列島に渡来していると思われる。灌漑による水田稲作はこの人たちが伝えたものであろう。

 渡来人の方から縄文人の導きなしで、日本列島に渡来するのは中国大陸が戦乱状態になった時と思われる。最初の戦乱はBC770年の周の分裂による春秋時代への移行期であろう。しかし、春秋時代はそこまで大規模な戦乱ではないので、渡来した人々は少数と考えられる。これ以降が九州地方では弥生時代前期とされている。

 『資治通鑑』によると、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た。これ以降が戦国時代とされている。中国大陸で戦乱時代となったのである。この戦乱を嫌い、多くの人々が日本列島に上陸したのであろう。この時期以降に弥生文化が西日本に広がり始めている。これは、この頃の渡来人の影響であろう。この頃にやってきた人々のY染色体ハプログループはO1b2系が主体と思われる。この系統は呉系で、日本全体の33%ほどを占める。紀元前473年に呉が越に敗れたときが渡来の時期であろう。弥生文化の変動幅から、この時期の渡来はそこまで多くないと考える。

 BC221年、秦が中国大陸を統一した。その直前、多くの国が滅ぼされている。この時に数多くの人々が日本列島に渡来したとみられる。この時期に一挙に弥生文化が西日本一帯に広がっている。弥生時代中期の始まりである。この頃にやってきた人々はY染色体ハプログループはO2a系が主体と思われる。O2a系は日本列島で20%程を占める。弥生文化の変動幅が大きいのでこの時の渡来人数はかなり多かったのではないかと考える。

 BC108年朝鮮半島で漢の武帝が、衛氏朝鮮を滅ぼした。この時、朝鮮半島からの多量の渡来があったと推定される。この頃にやってきた人々のY染色体ハプログループはO1b2系が主体と思われる。この方面からは、紀元後の渡来も多かったと考えられるので、O1b2系が日本全体の33%ほどを占める状況になったと考えられる。

 弥生時代中期後半(紀元前後)以降は、神社伝承・中国文献による情報が多くなるので、古代史を復元するのは。かなり精度が良いと思えるが、それ以前は考古学的事実しかないので、前後関係から判断して何が起こったのかを推定することになる。弥生時代前期は変化が少ないので、復元は難しくないが、弥生時代中期は、考古学的変動がかなり大きい。激しい変化が起こっており、飛騨王朝もその変化に大きくかかわっている思われるが、考古学的事実しかないので、古代史の復元精度はかなり低いと思われる。そのため、その新しく見つかった事象によって変更することも十分あり得るので、この時期の復元は暫定的仮説と考えてもらいたい。

 用語の統一

 これ以降、「渡来人」「弥生人」「縄文人」の使い分けを以下の通りにする。海外から渡来し、まだ、日本列島の環境に溶け込んでいない状態にある人々を「渡来人」、渡来後、日本列島で誕生し、列島の環境に溶け込んでいる人々を「弥生人」、古来からの日本列島在住の人々を「縄文人」とする。

 渡来人の登場

 飛騨王朝は渡来人対策のために成立したと言っても過言ではない。飛騨王朝が成立してから渡来人が流入するようになるまで1000年以上経過している。この間、飛騨王朝は何もしていないはずはなく、海外から情報を得ることに苦心していたと思われる。縄文人が海外に頻繁に移動していたので、流入があるとすれば、中国大陸からとなることは知っていたと思われる。そのために、中国大陸には頻繁に縄文人を派遣して、中国大陸の情報を逐一入れていたことであろう。

 中国大陸が殷から周に代わり、BC770年に周が分裂し春秋時代になった。中国大陸が不安定化したのである。この頃から戦いを避けて、日本列島に渡来する人々が徐々に増えてきたと思われる。中国大陸の沿岸に住んでいた人々は、訪問してきていた縄文人から海の先に日本列島があることを知っており、その日本列島の生活環境も知っていたと思われる。中国大陸の正常不安の中、安定している日本列島の集団移住をしようとした人々がいたのである。その人々が渡来人となったと思われる。 

 渡来人に対する縄文人の対応

 渡来人が日本列島に到来し始めたのはBC770年ごろからと推定している。上陸した渡来人集団(数十人程度か?)は、初めての土地で不安を感じていたことであろう。海岸近くの住みやすい位置に一時的に住み着くことになる。縄文人は旅好きな人々で、常に地方を巡回している。上陸した人々は、この移動している縄文人にすぐに見つかることであろう。

 縄文人は縄文連絡網を通して渡来人が上陸してくるかもしれないということは知っていたと思われる。渡来人を見つけたときの対応も指示されていたのではないだろうか。飛騨王朝は縄文連絡網を通して地方統治しているので、強制力はほとんどなく、地方の縄文人に命令する能力は全くと言っていいほどなかったと思われる。飛騨王朝は情報提供をするのみで、地方の各縄文人が自分たちの意識で行動していたと推定している。

 縄文人は旅好きであり、協調性に富んだ特質を持っている。困っている人々を見つけると何とかして助けようとすると思われる。たちまちのうちに縄文人がその集団内に入り込んで、日本列島内での生活環境や飛騨王朝の存在、食糧の確保、縄文連絡網の存在などを伝えたと思われる。しばらくすると、周辺の集落から縄文人が複数やってきて、共同生活をするようになったのではないだろうか。弥生時代の遺跡において在来系と渡来系の混在状況からこのようなことを推定するのである。

 渡来人の方も、生活不安を感じているところに色々援助してくれる縄文人に心を許し、自分たちの持っている情報を色々と提供したことであろう。それにより、弥生文化が進むことになったのであろう。

 渡来人集落にやってくる縄文人は、そのほとんどが男性であったと推定する。縄文人のマレビトはほとんどが男性である。女性は集落からほとんど移動せず、訪問してきた縄文人と結ばれることが多かったのであろう。それ程マレビトは頻繁にやってきたと思われる。集落の方も外部から新しい血を入れることは生物学的にも重要なことで、縄文人も本能的にそのことはわかっていたと思われる。

 渡来人に対しても同様の出来事が起こると考えられ、上陸したばかりの渡来人集落に、しばらくすると縄文人男性(マレビト)がやってきて、共同生活をしながら色々と援助したことであろう。その共同生活する中で次々とマレビトがやってきて、マレビトと渡来人女性が結ばれることが多くなったと考える。その結果、渡来系DNAが90%近い中でもY染色体DNAだけは縄文系が4割を占めるという現象が起こっていると推定する。

 渡来人集団はこのようにして縄文連絡網に取り込まれ、渡来人があっても平和な日本列島が維持できたのである。これが、弥生時代前期の様相である。

 突帯文土器の分布

 突帯文土器は縄文土器をベースに作られており、水田稲作を行う上で縄文土器に工夫を加えたものと考えられる。突帯文土器は、西日本のみに分布し、九州北部から東へ伝播したものの、その東限は、福井県から愛知県のラインにかけてであり、そこで伝播が止まっている。これは縄文人主体で動いていることが考えられ、飛騨王朝のかかわりが考えられる。BC500年ごろまで使われていたと推定する。

 渡来人が人口的に圧倒

  弥生時代中期の北九州での出土人骨を分析すると、縄文系弥生人の比率が10~20%になっている。この時期にすでにほとんどが渡来系の人々に入れ替わっているのである。その理由として考えられるのは
① 弥生時代になってから渡来人が多量に押し寄せた。
② 水田稲作をしていたために人口増加率が大きかった。
の2点が考えられる。

 古代史の復元では、以降、この時期以前に日本列島に住んでいた人々を「縄文人」と称し、海外から流入した人々を「渡来人」と称する。そして、渡来後、縄文人との交流によって、日本列島での生活になじんだ渡来人を「弥生人」と称することにする。

 Y染色体は縄文系比率が高い

 ところが、最近のDNA分析で不思議なことが分かっている。縄文人と現代日本人とのDNAの共通部分は12%程と言われており、圧倒的に弥生系で縄文人のDNAはほとんど残っていないような状況である。ところがY染色体ハプログループで判断すると、縄文系が約45%で弥生系と思われるのが55%程度である。

 これを裏付けるように2世紀の戦乱遺跡と思われる鳥取県の青谷上寺地遺跡の人骨の分析によると4体の男性人骨の分析では3例が縄文系で弥生系は1例であった。それに対して、ミトコンドリアによる母系遺伝子は32人中31人であった。

これは、女性は弥生系、男性は縄文系であることを意味している。

 生活の主体は縄文系である。

 さらに奇怪なことが起こっている。弥生初期の北部九州では,大陸系の遺物だけを出土するような,いわばコロニー的な居住を示唆する遺跡は検出されておらず,いずれも土着系と渡来系の遺物,遺構が混在し,土器ではむしろ縄文系のものが量的に圧倒することが知られている。

 これは渡来系の人々の生活は縄文系の生活に取り込まれていることを意味している。それでいて、渡来系の人口が大きく増加しているのである。

 渡来人の流入数の推定

 このようなことは、どういった状況で可能なのかを北部九州においてシミュレーションしてみようと思う。次の仮定の下で実行してみた。
① BC600年に縄文人3000人渡来人0人とし、一定の人口増加率で増加
② BC200年に北部九州人口45000人
③ BC200年に北部九州縄文人比率12% 

 その結果、縄文人の人口増加率は0.7%/年となる。渡来人に対しては以下のような状況になる。

増加率(%)  流入数(人/年) 
 0.7  180
 0.8  135
 0.9  100
 1.0   74
 1.1   54

 ここで、弥生時代の遺跡を調べると渡来人単独と思われる遺跡が存在せず、必ず縄文系の遺物と混在しているので、縄文人との共同生活をしていた様子が伺われる。そうすると、人口増加率は縄文人と渡来人との間で大きな違いが起こるとは考えにくく、縄文人と同じ0.7%の増加率と仮定すると、毎年の渡来人の流入数は180人となるのである。流入数は毎年一定と仮定しているが、当然ながら、中国大陸の政情により多量に流入した時期もあれば、ほとんど流入していない時期もあったと思われる。しかし、相当な流入数があったのは確かであろう。

 縄文人の海外渡航技術の衰退

 縄文時代は縄文人が海外に頻繁に出て行って、海外の情報を得ていた。ところが、弥生時代になってからは、海外渡航をしている形跡がほとんど見えなくなるのである。その理由を考えてみよう。以下のとおりである。

① 弥生時代になると頻繁に海外から渡来人がやってくるので、渡来人から情報を得られるようになり、海外に出て行ってまで情報を得る必要がなくなったと考えられる。
② 水田稲作が始まり、それまでの生活に余裕があるような状況ではなくなり、労働時間が増えたと思われる。その結果、海外渡航をする余裕がなくなり次第に渡航事例が少なくなっていった。
③ 食糧確保のために新しい品種を海外から取り入れていたが、稲作が食糧危機を解決してくれたので、海外に出て新しい品種を持ち込む必要がなくなった。
④ 海外渡航は渡航のための安全知識が必要なのであるが、渡航事例が少なくなったために、安全知識が受け継がれなくなって、失われてしまった。その結果、海外渡航できなくなったと考えられる。

 海外渡航は危険がつきものである。「どのような装備をしていくか」、「色々な危険にどのように対処するか」、「海流の利用方法」、「海外地理」など、安全に戻ってくるには様々な知識が必要だったと思われる。縄文人はこの知識を代々受け継いでいたのである。しかし、海外渡航事例が少なくなるにつれて、これら知識が受け継がれなくなって、長期にわたって確保していた縄文人の海外渡航技術は失われてしまったと考えられる。 

 弥生文化の伝搬

 弥生文化の列島内への伝搬は、飛騨王朝の方針と強くかかわっていると思われる。その過程を推定してみよう。まずは、弥生文化の地方伝搬は水田稲作の伝搬をもとに考えてみようと思う。

 九州島内の伝搬

 福岡平野~唐津平野にかけての玄界灘沿岸地域で前10世紀後半に始まった弥生稲作が,この地域外に広がるのに130年あまりかかることがわかった。ほぼ同時期に九州島を出ているかどうかも興味深いが,御笠川を挟んで板付遺跡と対峙する雀居遺跡で,大保横枕遺跡で弥生稲作が始まるのと同じ時期に板付Ⅰ式新が存在していることは,板付祖形甕の存在と板付Ⅰ式創造との関係を考える上で重要な示唆を与えている。すなわち,板付遺跡と並んで弥生早期から弥生稲作を始めていても,板付Ⅰ式を創造できなかった雀居遺跡や那珂遺跡で,板付Ⅰ式新が登場するのが,少なくと も板付遺跡に遅れること 50 年であることを意味しているからである。 したがって,前 8 世紀末葉になれば,玄界灘沿岸地域内にも板付Ⅰ式新が登場するし,また玄界灘沿岸地域以外の九州北部にも弥生稲作が広がることがわかった。藤尾慎一郎氏「西日本の弥生稲作開始年代」

 BC1000年頃松浦半島周辺で水田稲作が始まった。この地は中国大陸江南地方からの上陸には都合がよい地域である。江南地方から戻ってきた縄文人が最初に上陸する地ではないだろうか。実際にこの時の稲は江南系の稲である。ちょうどこの頃中国大陸では殷が滅亡(BC1046年)している。殷王朝滅亡によって影響を受けた人々を縄文人が日本列島に導いた可能性が考えられる。 

 唐津の最古の水田遺跡とされる菜畑遺跡では、試行錯誤過程なしでいきなり灌漑がおこなわれているが、縄文系土器が使われており、生活の主体は縄文人だったようである。その後の弥生系遺跡でも、渡来人のみで縄文系の痕跡の全くない遺跡は存在しない。渡来人の技術協力を得て縄文人が水田稲作を始めたと考えるべきであろう。 

 玄海灘沿岸地域で始まった水田稲作であるが、この地域外に出るのに130年かかっている。そして、BC800年ごろには筑後平野まで広がっている。この最大の理由として考えられるのは、灌漑工事の重労働であろう。縄文人は余暇を利用して生活を楽しんでいる風習があった。しかし、この頃は寒冷期になって、生活が苦しくなってきており、様々な作物を海外から取り入れて栽培していたようである。食糧確保を優先するために余暇が少なくなっていたことであろう。灌漑工事を必要とする水田稲作はこの余暇をすべて奪い去ってしまうものであり、また、災害を受けるとその労力がすべて吹っ飛ぶことになる。そのリスクを考えて広がらなかったと考える。

 飛騨王朝とのかかわりとして考えてみると、水田稲作が日本列島で推し進めて大丈夫なものかどうかを探っていたと考えられないだろうか。食糧増産に良いのではないかと思われるが、重労働・災害へのリスクがある。飛騨王朝としても決断できずに様子をうかがっていた時期と考えることができる。しかし、飛騨王朝の統率力は強くはないので、地方に住んでいる人々が「やってみよう」ということで耕作地を広げていたことは考えられる。

 西日本地域への伝搬

 前7世紀に入ると九州島を出て鳥取平野から中部瀬戸内を通り高知平野を結ぶ線を東限とする範囲まで広がったことがわかる。九州島内を出るのに250 年あまりかかっての拡散である。その後は50年ぐらいの間隔で大阪湾沿岸,奈良盆地・伊勢湾沿岸へと,短い時間で急速に広がる。ただこれは,各平野で最初に弥生稲作が始まる年代であって,その平野全体に広がる時期を示すものではない。弥生稲作を行っていない長原式を使用する人びとが,100~150年ぐらい弥生稲作民と共存している現象が,まさにそのことを示している。平野間を広がる横の広がりと平野内へ浸透する縦の広がりとは,その背景が異なることを示唆している。藤尾慎一郎氏「西日本の弥生稲作開始年代」

 BC600年代になると一挙に伊勢湾岸地方まで広がっている。この頃よりBC400年ごろまでが弥生時代でも比較的気候が温暖になる時期である。水稲は温暖な気候を好む植物なので、温暖期には広がりやすいと思われるが、その広がるスピードはかなり速いのである。しかし、その伝搬状況はある特定の集落で稲作を初めているのに対して周辺集落には浸透していないのである。

 これは、飛騨王朝の指図だと考えると説明がつく、この頃になると、飛騨王朝としても稲作の重要性を理解し始め、九州以外の各地域に稲作を広げようとしたのではないだろうか、しかし、飛騨王朝は統率力が強くないので、縄文連絡網を通して、各地域で試しとして稲作をはじめ、良ければ周辺に広げるという作戦ではないだろうかと考える。この頃は、まだ渡来人がほとんどない状況なので、稲作を広げたのは縄文人と考えられる。しかし、稲作で重要視される土器はそれまでの土器と異なっているので、使用土器の違いが表れている。

 地方の縄文人は試しにやっている水田稲作を見学することにより、それを広げていいものかを考えたと思われる。米食は他の雑穀よりはおいしく、収穫は多いというメリットはあるが、灌漑工事の労力は相当なものがある。また、災害が多いので、せっかく作ったものが全滅してしまう危険性もあったのである。

 この頃は、比較的温暖であったので、わざわざ労力をかけて水田稲作をしなくても、食糧を得ることができていたと思われる。そのために、水田稲作の隅々までの浸透はなかったと思われる。飛騨王朝の計画通りには進んでいなかったのである。

 BC500年頃より中国大陸は戦国時代になり、日本列島への避難民(渡来人)が急増してきたと思われる。

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渡来人の急増
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