日本史の疑問点
 
 大和朝廷は宮城が無防備で成立時から日本列島の大半を支配していた。これはどうしたことか。

第二章 国家統一の方法

第一節 日本史の謎

 この復元古代史が真実だとすると,大和朝廷の成立が一世紀後半と,一般に言われている四世紀に比べると300年以上早い。また,大和朝廷は成立直後に関東地方から九州地方までの,大変広い領域を支配していたことになる。なぜ,このようなことが可能だったのかが大きな疑問として残る。そこで,国家統一の方法を吟味してみることにする。

 まず,日本史の疑問点を挙げてみると,次のようなものがある。

銅鐸...銅鐸は,3世紀中頃に関東地方から九州地方まで一斉に姿を消している。一斉の変化が起こるということは,これらの地域が同一勢力圏に入っていることを意味している。

古墳...3世紀後半頃より,古墳が関東地方から九州地方までの地域で,ほぼ一斉に分布するようになっている。墓制というものは変化しにくいものであるが,それが一斉に変化しているということは,これらの地域が,かなり強力な共通の何かの影響を受けたことになる。

③祭祀型墳墓...後期初頭以前は北九州中心に権力君臨型と考えられる王墓が存在していたが,それ以降このような王墓は消えている。権力で君臨するタイプの王は,周辺の小国を併合して次第に勢力を伸ばしていくと考えられるが,このタイプの王が消えているのである。その後に発生する比較的大きな墳墓(四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓)は祭祀を重要視した墳墓で,副葬品が少ない。被葬者は権力君臨型ではなくて,宗教上の王のようである。人々を力で押さえつけたのでは、祭祀を行うことは無理である。

三角縁神獣鏡...三角縁神獣鏡も古墳と同じく関東から九州まで分布しており、その分布の中心は畿内である。畿内勢力によって配布されたものと考えられるが、この鏡の分布はその勢力範囲を示している。

方形周溝墓...方形周溝墓等の畿内系の墓制が関東から九州まで広がっている。

征服伝説...「大和朝廷に征服された。」という伝承もなければ,「征服した」という伝承もない。国をまとめあげるときの物語は、権力者が統治を正当化するためにも是非必要なもので、世界のどの王朝でも、その成立神話は存在し、しかも宣伝しているのである。しかし、日本の場合、各地域はいつのまにか大和朝廷の支配下に組み込まれており、どのようにして組み込まれたのか伝わっていない。

宮城...宮城は,古来から外敵に対して全くといってもいいほど無防備である。世界中どこの国へ行っても権力者というのは,自分の身を守るために防備を固めるものであるが,そのような気配は全くない。誰も攻めてくるはずがないといった安心感があったためとしか考えられない。なぜなのであろうか。

万世一系...世界史の常識では,王家の勢力が弱くなってきて,他に新勢力が現れると,間違いなく前の王朝が倒されて新王朝が成立するのである。過去に皇室よりも力を持った勢力は数多く存在するが,皇室を倒して権力を振るうということはせずに,皇室を形の上で立てて権力を振るっている。なぜ,皇室を倒し,新王朝を建てるといったことをしなかったのだろうか。日本では伝承上万世一系である。王朝交替があったという説は存在するが,それを決定づける証拠はない。これは,大変不自然である。

錦の御旗...日本での戦乱時代(戦国時代・幕末)において,錦の御旗を受ければ反対派が急激に勢力を失い,一挙に決着が付いている。どうしてこのようなことになるのであろうか。

祭政一致...古代大和朝廷は祭政一致で神を祭ることで国を治めていた。そして,全国各地にスサノオやニギハヤヒを祭る神社が圧倒的に多い。その一族までを含めると,七割以上がこの二人に関係した神社である。神社に神を祭るというのは,古今東西,権力に強制されて,ということはほとんどない。朝廷も人民も主体的に祭っているのである。そして,神道には教義も教典もないのである。教義や教典がなければ布教すらできないはずである。この二人が民衆から相当尊敬を集めていたからと解釈されるが,何か相当な実績がないとこのようなことにならない。

団結力...「好太王碑文」や朝鮮半島の史料によると,五世紀初頭あたり,倭人が数万という大軍を率いて,高句麗などの軍と戦っている。高句麗軍の方が地理的・物質的に圧倒的に有利であるはずなのに,倭人に対して大変に苦戦している。これは,倭人の団結力が異常に強かったためと考えられるが,なぜ,こんなに団結力が強かったのか。

戦乱遺跡...戦乱の跡と考えられる遺跡が少ない。矢じりが突き刺さっている人骨が出土することもあるが,多くは単独である。戦乱があった跡ならば数十体はまとめて出てくるはずで,焼かれた住居跡なども出てこなければならない。そのようなものはほとんどないのである。古代でも殺人事件ぐらいあったはずで,これと戦乱とは別物である。戦乱の跡と考えられる遺跡が少ないことは古代が平和な時代であったことを意味している。

 ①~⑤までの内容は,九州地方から関東地方までが,同一の支配体制に組み込まれていることを意味し,その支配力は墓制を変化させていることから相当強力なものと考えられる。つまり,大和朝廷は成立とほぼ同時に,広大な範囲を強力に支配していたことになる。

 ⑥~⑫までは,大和朝廷の支配が力の上に成り立っているのではないことを意味しているようである。大和朝廷が力で地方を締め付けているのであれば,宮城の警備は厳重であり,被支配者の反抗伝説がもっと残っても良さそうである。どうみても民衆が朝廷を崇拝しているといった感じである。

これらの内容は,あり得ないこととして,事実関係がはっきりしているものを除いて,一般には無視されているか,否定されているものである。しかし,事実関係がはっきりしているものもあり,すべてを否定することはできない。この謎は大和朝廷の成立の仕方にあるものと判断し,これらのことを,自然に説明できるような大和朝廷の成立方法を考えてみることにする。

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