渡来人の急増

 遠賀川式土器の登場

 BC300年ごろに東日本地域に水田稲作遺跡が出現する。以下の2か所である。それまでの突帯文土器と異なり遠賀川式土器の分布が中心となる。遠賀川式土器には搬入された遠賀川式土器とその模倣土器が存在している。模倣土器は遠賀川式土器を模倣して作られたと考えられている土器で、一般的に「遠賀川系土器」と呼ばれている。東北地方は「遠賀川系土器」のみが出土し、 中部・北陸・関東地方は「搬入遠賀川式土器と遠賀川系土器が共存しているのである。

 「遠賀川式土器」は、突帯文土器の分布領域の東限の福井県から愛知県のラインで止まっているが、「遠賀川系土器」はさらに東へ北へと伝播した。 最北の「遠賀川系土器」は、青森県の「砂沢遺跡」から出土した土器で水田の跡とともに出土した。北九州に成立した弥生文化はきわめて速い速度で本州北端まで達したが、稲作農耕はこの地に定着することなく終ったとされている。遠賀川系土器と弥生時代水田遺跡の分布域が重なっており、このことから、水田耕作の伝搬を考えてみよう。

 その移動速度は極めて速いことがあげられる。岐阜県の立石遺跡で北陸地方最古と思われるBC300年ごろの水田耕作跡が見つかったが、東北地方の最北端の砂沢遺跡もほぼ同じBC300年頃である。これは、関東地方より早く伝わっているのである。伝播は、陸地を伝わったのではなく、日本海の海上ルートを伝わったと考えられる。また、伊勢湾岸から長野県を抜けて新潟県に達するルートも存在するようで、「遠賀川式土器」は、日本海を北上するルートと、内陸部を北上するルートがあったと推定されている。内陸ルートよりも日本海ルートの方が明らかに早く伝搬している。

 BC500年ごろと考えられる「突帯文土器」は、伊勢湾付近で止まり、BC300年ごろと考えられる「遠賀川系土器」は、東北地方まで伝播しているのである。しかし、伊勢湾岸以東関東地方まではこの時期に遠賀川系土器が見られず、移動がストップしたままである。BC500年ごろは小規模で灌漑技術などが進んでいなかったが、BC500年頃灌漑技術が一挙に向上しているのである。これは、中国の戦国時代到来のために、渡来系弥生人が急激に増加し、この人々によってもたらされた先進技術によって広がったものと考えられる。

 ここで注目すべきことは、搬入された「遠賀川式土器」と、その「遠賀川系土器」を模倣して現地で製作された「遠賀川系土器」は、混在して出土することである。これは、やってきた渡来系の人々と、現地の縄文人は、共存していたことを示している。これは、九州北部においても同様で、「突帯文土器」と「遠賀川式土器」が、同じ遺跡から出土している。 通常であれば、文化の異なる人々がやってきたのであれば、そこで大きな争いになるはずであるが、そうではなく、お互い協力し合いながら、或は少なくとも棲み分けをしながら生活していたのである。実際、この頃の遺跡や出土物をみても、大きな戦いの痕跡は、ほとんど見られない。

 近畿地方の弥生時代の開始時期

 近畿地方における弥生時代の開始時期について、前年度までに奈良県唐古鍵遺跡、大阪府水走、瓜生堂遺跡の前期土器(Ⅰ期前半、中頃)の付着炭化物を測定したところでは、前8世紀中頃~前7世紀末が上限でした。測定した点数が十分でなかったので、今年度はⅠ期前半に属する八尾市木の本、東大阪市若江北、同水走、神戸市本山遺跡の資料の測定をおこないました。 その結果、木の本遺跡は前8~5世紀を示しましたが、若江北、水走、本山の試料は前8~前6世紀を示し、いわゆる「2400年問題」の前半に位置していることから、近畿における弥生時代の開始は前7世紀までさかのぼる可能性が依然としてあると考えました。長原式も同様に前8~前6世紀を示しており、Ⅰ期前半と重なっている。遺跡でのあり方からも、前7~前6世紀頃に同時に共存した可能性がつよいことを示しています。長原式に先行する突帯文土器の口酒井式は測定例が少ないが、前8~前7世紀頃です。 なお、Ⅰ期後半は、大阪府瓜生堂、水走、兵庫県東武庫遺跡が前7~前5世紀、大阪府美園遺跡が前4~前3世紀であって、前5世紀から前4世紀のどこかに前期末がくることを示しています。
 国立歴史民俗博物館(弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-より)

 このように近畿地方にはBC600年ごろには弥生文化が浸透していたと考えられる。その後、日本列島の拠点遺跡ともいえる唐古鍵遺跡が発達してくるのである。弥生時代前期の唐古鍵遺跡は、遺跡北部・西部・南部の小高い丘に居住域が形成され、各居住区はおよそ150×300メートルの範囲を有していた。そこからは、多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高坏や鉢などの容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。この集落は形成時期から様々な道具を造り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定されている。さらに弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が存在しており、西地区の中枢建物であった。

 BC600年頃は、渡来人もほとんどなく、唐古鍵遺跡を経営していたのは縄文人であろう。そして、縄文人たちは、ばらばらに生活していたのではなく、地域の集落が連携していたことが伺える。特に唐古鍵遺跡では遺跡の始まりから、拠点集落としての特質を持っており、計画的に作られたことが伺える。そして、この遺跡は、その後日本列島全体の拠点遺跡に発達するのである。

 水田遺跡の状況

 東日本地域の人々が水田稲作をどのように受け入れたかを考えるために、この頃の水田遺跡を調べてみよう。まずは、飛騨国内と思われる国府町の立石遺跡について見てみよう。周辺に水田遺跡がないのに、この地に水田跡が出現しているということは飛騨王朝とのかかわりが深いと考えられる。

 立石遺跡の案内板の文章
立 石 遺 跡
 平成六年度の県営ほ場整備事業に先だって発掘調査しました国府町漆垣内(ウルシガイトウ)地内の立石遺跡は、縄文時代晩期(約二千三百年前)の遺跡です。 遺跡から住居跡、祭祀場跡や川岸に近い低地からは稲作が行われていたことがわかりました。 住居跡や祭祀場跡は完全な形で出土し、全国的に見てそのものは、ほとんど見つかっていなく極めて珍しい発見といわれております。 住居跡は大小の小石を円形に並べたもので、直径四メートル、中央に石で囲った正方形の炉があり、土器や磨製石器、曲玉(まがたま)などが残されておりました。 祭祀場跡は赤土層を石で囲った直径二メートルの円形の中間で火を焚いた痕跡が見られ、東側には三日月型に川原石を敷き、左右にここにあります「立石」を立てた遺構が発見されました。 縄文人はこの立石の地を聖地と定め、五穀豊穣を願い、お祭りをした祭祀の遺跡であることがわかりました。 祭祀の道具と考えられる独鈷石(どっこいし)も発見されております。 祭祀場の附近は浅い川を中心に低地が形成されており、一帯からは晩期の特徴である浮線網状文土器が多量に出土し、プラントオパールという科学分析を行った結果、稲作が行われていたことが確認され東海地方、北陸地方で初めての発見で、山梨県、千葉県に次いで全国で三例目です。 国府町の稲作歴史究明に大きな足跡を残しました。 後世にこの大切な遺跡を永久に残すために遺構は耕地の下に保存し、この「立石」のみを漆垣内区民の御協力により神社の境内に移したのであります。
  平成七年四月吉日 国 府 町 教 育 委 員 会

 この地域では、荒城川、宮川両流域の豊潤な土地に、全国的にも早い時期に始まった稲作が急速に広まり、多くの集落が形成されている。 多くの遺跡からは御物石器や石冠など祭祀用の石器類が出土し、また西門前の深沼田遺跡では四十数枚の水田が発掘された他、南垣内や半田などでも古代水田跡が発掘されている。このように飛騨王朝の本拠地である飛騨国では、全国に先駆けて水田稲作が広がっているのである。飛騨王朝が積極的に水田稲作を推進したことが予想される。

 飛騨地方での早期の水田遺跡は祭祀と深いつながりがある。灌漑工事は労力が必要なので、水田耕作を広めるために祭祀を利用したことがうかがわれる。祭祀をしなければ、当時の縄文人は労働力を必要とする水田耕作をしたがらなかったのであろう。祭祀をすることによって、周辺に広がっていったことがうかがわれる。

 砂沢遺跡

 砂沢遺跡について
 砂沢遺跡は、弘前市大字三和字下池神地内の砂沢溜池内に立地しています。砂沢溜池は、江戸時代末の天保年間(1840年頃)に灌漑用の溜池として造られ、その後数度の修復工事を経て、昭和42年(1967)から48年(1973)に現在の堤が築かれました。遺跡は現在、毎年、貯水期には溜池の底に沈んだ状態となり、放水期になると地上に現れるようにな ります。

 出土遺物について
○砂沢式土器 
 砂沢式土器は、北東北を中心に分布する弥生時代前期の土器型式で、変形工字文という文様が大きな特徴です。また、北部九州を起源とする遠賀川系土器が、少数ですが砂沢式土器に伴って出土しており、九州北部の 稲作農耕が、日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
○石器・石製品・土製品 石器では、石鏃・石匙・磨製石斧・叩石・磨石などが出土しています。これらの石器は、狩猟・採集や食料加工などに使用されるもので、稲作を行いながらも、狩猟採集を行っていたことが分かります。独鈷石・多頭石斧・石棒・石剣などの石製品や、土偶・土版などの土製品も出土しています。これらは縄文時代にみられ るものであり、縄文時代の要素を残していることが分かります。 出土遺物からは、縄文時代から弥生時代への時代の過渡期の様相を感じ取ることができます。
おわりに
  ―砂沢遺跡の価値―
砂沢遺跡は弥生時代前期の段階に、津軽地方で稲作がおこなわれていたことを示す遺跡であり、現在のところ日本列島で最北かつ東日本で最古の水田跡となっています。また、出土遺物の様相からは、稲作を導入しながらも縄文時代の要素を残し、狩猟採集も同時に行っているという当時の生活の姿を感じ取ることができます。 砂沢遺跡出土遺物の一部は、東日本初期弥生文化の生活の実態を知る上で、極めて重要な学術資料であるとして、平成12 年(2000)に国重要文化財に指定されています。 このようなことから、砂沢遺跡は、北東北における弥生時代のはじまりの時代の様相がわかる、貴重な遺跡であるといえます。 砂沢遺跡は現在溜池の底で保護された状態にありますが、「奇跡の土偶」や出土品の一部は市立博物館(常設展)でも見ることができます。
 弘前市教育委員会 平成 29 年度 企画展 「弥生時代日本最北・東日本最古級の水田跡 砂沢遺跡」 より

 砂沢遺跡も水田遺跡に伴って祭祀系の遺物が出土しているが、飛騨地方程顕著ではない。北東北では砂沢遺跡に継続する水田遺跡が見当たらない。見つかっていないだけかもしれないが、この頃は寒冷期にあたるので、水田を作っては見たが、収量が十分ではなかったため取りやめたとも考えられる。

 鉄器の普及

 丹後半島の製鉄遺跡

 但馬・丹後両国の国境から丹後半島にかけての山地は、出雲国に劣らぬ砂鉄の豊富な地方である。昭和四十九年から五十八年にかけて竹野川上流の峰山町扇谷遺跡で弥生時代前期末から中期初頭の高地性集落の発掘調査があった。この調査報告書(『扇谷遺跡発掘調査報告書』一九八四、峰山町教育委員会)によると、集落をめぐる周濠内から弥生土器とともに、「鉄斧、鉱滓状の塊」などの出土があった。これらの鉄製遺物の化学分析を担当した日立金属株式会社冶金研究所清水欣吾氏の報告は、鉄斧は砂鉄系原料から製造された鋳造品と推定し、鉄滓も砂鉄系原料による鍛冶滓と推定すると結論している。この清水氏の分析調査は信頗される高度なもので、学界でも高く評価されている。
 この調査結果は丹後国の峰山町という辺地の遺跡ということもあって軽視されているようであるが、遺跡の性格、遣物の内容など弥生時代前期を解明する重要な遺跡の一つである。その中でとくに注目されるのは、弥生時代前期から中期という時期の集落立地と集落形態であるが、これを別にするとやはり砂鉄系原料から鋳造されたと推定された鉄斧であり、同系原料によると推定される鍛冶滓である。現在各地で出土した弥生時代の鉄製品は、中期末から後期に集中的で、そのことごとくが鍛造品である。扇谷遺跡のように前期末でしかも砂鉄鋳造の鉄斧、鉄滓は管見の限りでは本例がはじめてである。  この砂鉄鋳造の鉄斧が大陸からの舶載品であるのか、国産原料による鋳造であるのかは判らない。しかし、但馬・丹後国の山地に包蔵される良質で豊富な砂鉄を考えるとき、扇谷遺跡出土の鉄斧、鉄滓の関連遺構、遺物、すなわち製鉄遺跡の出土に期待するのは多くの関係者の願いであろう。
 『謎の古代氏族 鳥取氏』より

 弥生時代前期末(BC300年頃)より、峰山町の扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡が発達してきた。ともに高地性大規模環濠集落であるが、住居跡は見つかっていない。この時期大規模だったのは扇谷遺跡のほうで、外濠の範囲は長軸で約270m、短軸が180mである。外濠の15~20m内側に内濠がある。環濠内の殆どが急斜面地 で、頂部が平坦ではあるが大規模な集落を営めるような場所ではない。環濠からは、「鉄」「玉」「ガラス」等が出土している。また、隣の七尾遺跡からは方形台状墓も見つかっている。環濠からは他にも、土笛、多数の紡錘車、鋳造の板状鉄製品、鍛造鉄も見つかっている。ガラスの塊、鍛冶滓なども出土している事から、ガラス、鉄製品の生産が行われていたようである。山城、大和、播磨といった地方の土器と類似した土器も出土したことから、それらの地方と交流があったと推測される。
 おそらくこの遺跡は、途中が丘遺跡を営んだ人たちと同じ部族で、2つの集落の間を行き来しながら、先端技術工房を築いたと思われる。そして、その技術工房を外敵から守るために、環濠を掘ったものと考えられる。扇谷遺跡は弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると姿を消し、逆に途中ヶ丘遺跡が繁栄するようになる。

 製鉄の伝搬

 鉄器製造開始はBC1500年ごろのヒッタイトと言われている。ヒッタイトではバッチ式の炉を用いた鉄鉱石の還元とその加熱鍛造という高度な製鉄技術により鉄器文化を築いている。 そのヒッタイトはBC1190年頃に滅亡し、古代オリエント地方は一気に青銅器時代から鉄器時代に入ることになる。 ヒッタイトでは、鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されていたので、それまでは他の地に広がらなかったが、ヒッタイトの滅亡により、一挙に広がることになる。ヨーロッパは、BC1100年ごろから、インドは、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。中央アジアは紀元前800年ごろからスキタイが鉄器技術を使っており、中国は、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているが、主に使用されていたのは青銅器だった。中国で本格的に製鉄が開始されたのは紀元前600年頃で、戦国時代に広く普及したと推定される。

 中国の製鉄

 製鉄法には直接製鉄法と間接製鉄法がある。直接製鉄法は低い温度で鉄鉱石を海綿状叩いて調整するという方法で鍛造ともいわれている。それに対して間接製鉄法は1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する方法で、鋳造ともいわれている。ヒッタイトで始まったのは直接製鉄法であった。中国の華北地方ではBC1500年頃、銅精錬と製陶が行われており、製陶においては1280℃の高温を得ることができた。この技術を応用して間接製鉄法が開発された。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成された。一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。

 日本列島への伝搬

 このように、鉄の鋳造技術はBC470年ごろの中国の戦国時代に開発されたと思われる技術である。日本列島最古の鉄の遺跡は、愛媛県大久保遺跡、福岡県中伏遺跡からの出土を根拠に紀元前4世紀ごろ出現したと推定されている。京都府の扇谷遺跡も同系統である。それらは中国燕の紀元前5世紀頃に作られた鋳造鉄斧とみられる。 朝鮮半島では日本の鉄器より古い時代の遺跡が見つかっていないため、朝鮮半島経由ではなく、中国の華北地方から直接伝播したものに間違いがないであろう。

 扇谷遺跡の特徴

 扇谷遺跡では砂鉄の鋳造が行われていたようであるが、後の分析により、この砂鉄は丹後半島の砂鉄ではないということが分かった。どこからか砂鉄を持ち込んで、この地で鋳造を行っていたようである。この砂鉄の原産地は今のところ分かっていない。また、共に作られていたガラス玉も完成品が日本列島からほとんど見つかっていない。海外に持ち出されたと考えられる。このように扇谷遺跡は原料の産地・消費地共に別の地であり、わざわざこの地に運んで製造している。この地は、当時のハイテク技術の拠点ということになる。自然に流れ着いた人々がこれらの製造を始めたのであれば、地元の砂鉄を使い、製造品は周辺で使うはずである。そういった点から考えて、扇谷遺跡は意図的に作られたと解釈すべきであろう。ここに飛騨王朝の存在が浮かび上がるのである。

 飛騨王朝の取り組み

 丹後半島のハイテク技術

 弥生文化の最先端は北九州であるが、鉄鋳造に関しては、この地方が最先端地となる。鉄は、錆びやすいので装飾品としての価値はなく、最初から利器として用いられている。飛騨王朝は水田稲作を広めようとして、地方に試験的に水田を作っていたが、ほとんど浸透しない状態であった。その原因は水田耕作の労働力の大きさだったと思われる。その労働力を少しでも軽いものにするのが鉄器と思われる。鉄器を使えば土木工事の負担はかなり軽くなるはずである。

 この頃は鉄が未だ貴重品であり、鉄の普及を画策したのであろう。日本列島にはそれまで縄文鉄があったが、大変な貴重品で量も少なく、実用にはならなかったのである。そこで、海外渡航した縄文人からの情報で中国で鉄の鋳造技術が開発されたことを知り、その技術導入を図ったと考えられる。

 この頃、中国は戦国時代に突入しており、その戦いを嫌った人々が流入して広めたと考えると、この丹後の地であるというのが不自然となる。中国大陸からの避難民の流入だとすると北九州のはずである。間接製鉄法は中国の華北の技術であるが、朝鮮半島北部にまで浸透していたが、南部には伝わっていなかった。中国大陸からの直接の流入と考えられるが、華北という地域の世界地図上の位置から考えて、日本列島に入る前に朝鮮半島南部に先に伝わると思われる。また、扇谷遺跡には周濠が張り巡らされているが、周濠内からは住居跡が見つかっておらず、この地は工場という感じである。毎朝人々は周濠外の周辺の住居地から出勤して製造をしていたことになる。これは、周濠は外敵からの防衛を意味するものではなく、製品の勝手な持ち出しを警戒してのものだったのではないだろうか。これらは、この地に社会体制が成立していたことを意味する。このように中国大陸からの避難民が扇谷遺跡を作ったと考えると不自然な点が多いのである。当時最先端のハイテク技術の拠点が丹後になったのは飛騨王朝の意向が働いているのではないかと考えられる。

 また、鉄生産の原料であるが、中国では鉄鉱石であるが丹後では砂鉄である。生産技術は中国からの導入であるが、砂鉄を使うというのは日本独自のものと考えられる。これは、以前からあった縄文鉄の生産技術(飛騨王朝の功績)を引き継いでいるのではないだろうか。

 ハイテク拠点が丹後半島になった理由

 BC300年頃一挙に広がった水稲稲作地域は飛騨地方の立石遺跡、青森県の砂沢遺跡で日本海ルートである。飛騨王朝は日本海ルートで水田稲作を広めようとしていたことが推定される。丹後はその起点ともいえる位置にある。

 鉄器製造には高温が必要であり、そのためには強い風が必要である。日本海側は冬の季節風が強く、高温を作りやすいと言える。また、完成したガラス玉は日本列島内ではなく、朝鮮半島に持ち出されているようである。朝鮮半島や中国大陸との物々交換にガラス玉が用いられたと考えられる。このように海外との交流のためにハイテク技術の拠点が日本海側になる必要があったと考えられる。

 では、なぜ、それが、丹後半島なのであろうか。より、大陸に近い出雲でもよく、飛騨国に近い能登半島でも良かったはずである。扇谷遺跡では山城、大和、播磨といった地方の土器と類似した土器が見つかっている。これは、搬入土器ではなく、これらの地域の人がこの地で土器を制作したことを意味しており、これらの地域から扇谷遺跡に出張に来ていたことを意味しているのではないだろうか。

 将来の都の選定

 BC600年ごろには北九州からの弥生文化の広がりは近畿地方に及んでおり、飛騨王朝としては、人々の安定な生活を保証するためには水田稲作を、最優先に始める必要があると判断したと思われる。飛騨王朝は縄文連絡網により日本列島各地の環境も熟知していた。その中で、大阪湾岸地方や大和盆地は広い平野が広がり、水田稲作を本格的に行うには最適の地であるということを判断したと思われる。水田稲作が日本列島全体に広がるようになると、飛騨の山奥を都にしておくことは不便であり、いずれ、都をどこかに移す必要を考えて居たのではないだろうか。大阪湾岸地方や大和地方は日本列島の中心地域にも当たり、飛騨王朝はこの地を将来の都として考えていたと思われる。

 唐古鍵遺跡の他の遺跡にない特徴

 ① 唐古鍵遺跡は製造工具を周辺に配布しており、存在当初から中心的存在である。
 ② この当時ピラミッド祭祀が活発であり、冬至の日の日の出を崇拝していたようであるが、大和盆地では三輪山をピラミッドと認識し、冬至の日にその山頂から日の出を拝むことのできる位置に唐古鍵遺跡は存在している。
 ③ この後、この遺跡は日本列島最大規模の遺跡に発展する。
 ④ 日本列島のほぼ全域との交流が確認されている。
 ⑤ 弥生時代中期後半に洪水で環濠が埋没しているが、再掘削し、以前より大規模になっている。通常埋没すると、その遺跡は放置され、別の位置に新しく作られるものであるが、この唐古鍵遺跡だけは違うのである。
 ⑥ 各時期に最先端と思われる遺物が出土している。
 ⑦ この遺跡の存在時期がBC600年ごろから、AD300年ごろまで、実に1000年近く存在している。

 このように見てみると、唐古鍵遺跡は特別な遺跡であることが分かる。自然に人が集まってできたというより、計画的に作られたと考えるほうが自然である。飛騨王朝が将来の都と考えて遺跡を作ったのではないだろうか。都をこの時にすぐに移動しなかったのは、日本海ルートで弥生文化を伝搬させることを優先したためではないかと考えられる。

 この唐古鍵遺跡をはじめとする近畿地方の中枢部に最先端の物品を運ぶとなれば、日本海沿岸での生産拠点は、丹後半島になるのである。唐古鍵遺跡が計画的に作られたのと同様に、扇谷遺跡も計画的に作られたと考えられる。そう考えないと、丹後半島に最先端ハイテク遺跡があることが説明できないのである。これも飛騨王朝の政策であろう。

 飛騨王朝と水田稲作の伝搬

 BC500年頃、中国大陸からの渡来人が急増した。急増しても渡来人集落に周辺の縄文人(弥生人も含む)が共同生活することによって、渡来者の持つ新技術を学んだり、情報を得たりしていたと思われる。どこに渡来人が現れたかは縄文連絡網を通じて伝わり、早速周辺地域からマレビトが派遣されたのである。飛騨王朝はこういった体制を作っていたのである。

 BC300年ごろになると、弥生人が急増してきた。寒冷期になってきており、食糧が不足してきたのである。弥生人は率先して水田の灌漑設備を作り、その領域を広げていった。このような時に渡来人からの技術を学ぶ中で遠賀川土器が考え出され、その技術を持って、突帯文土器を使って水田耕作を行っている地域と交流をしている。水田稲作を行っている地域は北九州との交流があったのである。稲作に必要な最新情報が伝わるようにしていたと考えられる。これも飛騨王朝が考えたシステムではないだろうか。

 寒冷期になって、東日本地域にも水田稲作を広げることができないかと飛騨王朝は考えたのではあるまいか。寒冷期である上に東日本地域は冷涼な気候であり、水田稲作には向かないと思われる。そこで、BC300年頃、飛騨国内での水田稲作を試してみたのであろう。労力が大きく、失敗する可能性も高いので、当時の縄文人は中々水田稲作をやろうとしないので、祭祀とつなぐことにして水田稲作を推進したと思われる。

 それによって、飛騨地方でも水田稲作はできると判断して、日本海ルートで北へ拡散しようとした。しかし、青森県の砂沢遺跡ではやっては見たものの、その地域の気候に合わなかったのか、続かなかった。

 水田稲作がこの時期急速に北東北まで広がっているが、飛騨王朝の方針だとすれば説明できるのである。

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