允恭天皇

 允恭天皇の年表(外国資料は459年まで記載))

西暦 允恭 日本書紀 外国資料
438 これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
高句麗王北燕王を殺害。
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)
439 1 即位 壬子 北魏に朝貢(高句麗本紀)
440 2 倭人が南部と東部の辺境を侵掠した。(新羅本紀)
使者を宋に遣わして朝貢した(百済本紀)
441 3 新羅より医者を呼ぶ
442 4 盟神探湯を行う
443 5 反正天皇埋葬
玉田宿禰処罰
倭国王済、遣使奉献す。また以って安東将軍倭国王と為す。(宋書倭国伝)
444 6 夏四月、倭兵が10日も金城を包囲した。食料が尽きて退却するのを王自ら追撃したところ、かえって破れ、将兵の多くが死んだ。王も囲まれたが危うく難を逃れた。(新羅本紀)
445 7 新居落成祝い
雄略生誕
446 8 茅渟に宮を立てる
447 9 茅渟宮を頻繁に訪問 飢饉となり民が新羅に逃亡した(百済本紀)
448 10 皇后、茅渟宮訪問を諌める
449 11 藤原部を定める
450 12 高句麗の兵を誤って殺す。王は謝罪して許してもらった(新羅本紀・高句麗本紀)
451 13 使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。(宋書倭国伝)
452 14 淡路島訪問
453 15
454 16 高句麗が北辺を犯した(新羅本紀・高句麗本紀)
455 17 高句麗が百済を攻撃したので、王は百済を救援した(新羅本紀)
使者を宋に遣わして朝貢した(高句麗本紀)
456 18
457 19
458 20
459 21 倭人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃して月城を攻めたが守りきった。(新羅本紀)
460 22
461 23 木梨軽皇子を皇太子に決定
462 24 兄弟相姦を諌める
463 25
464 26
465 27
466 28
467 29
468 30
469 31
470 32
471 33
472 34
473 35
474 36
475 37
476 38
477 39
478 40
479 41
480 42 天皇没(78)
新羅王弔使を送る。
雄略とトラブルを起こす。
埋葬
軽皇子の乱

 允恭天皇在位期間の推定

 允恭天皇も日本書紀は後半の記載が全くない。允恭天皇も年数の加算がなされていると考えられる。実際の崩年はいつなのであろうか。

 日本書紀では453年で、古事記では454年甲午である。両者は一年しかずれていないが、もしこの年齢が正しいとすれば、次の安康天皇の在位が3年なので、宋書の興の朝貢記録と合わなくなる。そこで、甲午が中国歴の干支ではなく、半年一年歴の干支だとすれば、459年後半が甲午である。459年が崩年の場合、安康天皇の在位期間と倭王興の在位期間が一致する。

 日本書紀の紀年と実際の紀年はこの時点で6年ずれていることになる。この6年は、この後の天皇の在位期間のどこかで修正されているはずである。

 允恭天皇は即位を辞退して反正天皇の崩御年と允恭天皇の即位年には1年の空年がある。その空年を除けば允恭天皇の在位期間は21年となり、日本書紀の在位期間の42年の半分である。日本書紀の在位期間は半年一年歴で計算されたものと考えられる。

 しかしながら、允恭天皇の記事は後半が全く記載されていないので、中国歴で記載されたものと考えられる。両者が混在している可能性も考えられるが、すべて判明させることはできない。基本的に中国歴で記載されたものとし、矛盾が生じるものに関して半年一年歴の記載であるかどうか判定したいと思う。

  允恭天皇の年齢

 允恭天皇は允恭42年に78歳で亡くなったと日本書紀に記録されているが併せて年若干とも記されている。実際の年齢を古代史の復元で推定してみよう。

 日本書紀の年数のまま逆算すると、仁徳天皇崩御の年に誕生していることになる。この年は、427年である。允恭天皇崩御は459年なので、允恭天皇崩御時の年齢は33歳となる。まさに年若干である。允恭天皇は11歳で即位して22年間皇位につき、33歳で亡くなっていることになる。

 各出来事の分析

 允恭天皇の在位期間は438年~459年までの21年間である。これ以降の日本書紀の記事は、別の年の記事が挿入されていることになる。それを検討してみよう。

 崩御記事

 明らかにはっきりとしているのが、允恭42年の記事である。これは間違いなく、半年一年歴の記事であろう。実際は允恭21年(459年)の記事である。

 木梨軽皇太子の記事

 次に矛盾しているのが允恭23年及び允恭24年の記事である。この記事は連続した記事である。允恭23年に木梨軽皇子が皇太子に決定し、その翌年近親相姦が発覚して、処分されている。古事記では廃太子の処分である。

 皇太子になるのは成人してからで、允恭23年に15歳になったと考えられる。生誕は允恭8年と計算され、允恭天皇19歳の時に誕生した皇子ということになる。これが、半年一年歴だとすると、允恭23年は允恭12年となり、允恭天皇8歳の時に木梨軽皇子が誕生したことになり、ありえないことになってしまう。

 次に考えられるのは日本書紀の紀年が、実際の紀年より6年ずれていることである。正しい紀年で記録されているとすれば、允恭23年の記事は允恭17年の記事となる。皇太子になったとき15歳であれば、允恭天皇が13歳の時に誕生したことになる。この考え方も少し厳しいといえる。

 允恭天皇は病弱であり、先王である反正天皇が皇太子を決定しないまま亡くなってあり、允恭天皇自体少しでも早く皇太子の決定をしなければならないと考えていたとしたらどうであろうか。その場合12歳程度で皇太子に決定することは十分に考えられ、矛盾はなくなる。

 よって、允恭23年、24年の記事は允恭17年、18年の記事であると推定する。

 大陸との関係

 允恭天皇の時代の朝鮮半島の記事を見ると、百済・新羅・高句麗は良好な関係にあることがわかる。履中天皇時代の馬韓・辰韓を緩衝地帯にしたのが功を奏しているのであろう。倭国がこれらの領域で争いが起こらないように監視していたのである。

 438年の記事

 反正天皇が皇太子を決めずに崩御した。同母の弟である雄朝津間稚子宿禰は、幼いころから恵み深くへりくだった人物であったために重臣たちが次の天皇に推挙した。しかし、体が弱く天皇の職責を維持できないと天皇に即位することを拒んだ。そのために空位年が一年生じたのである。
 重臣たちは空位時代が続くことを憂えて、強く懇願し、皇子も遂に承諾し、允恭天皇として即位した。439年のことである。

 この空位年に、宋に朝貢しており、この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求め、珍を安東将軍倭国王と認定されている。また、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命されている。

 これは437年(反正天皇5年)に倭を出発した朝貢団が、反正天皇の死後、宋につき、438年に朝貢したために空位時代の記事になったものであろう。

 安東将軍任命

 履中天皇が馬韓・辰韓を確保し、緩衝地帯を設けてから、朝鮮半島は落ち着いた状況になっていた。倭王は宋から安東将軍に任命されることが朝鮮半島の安定に重要だったのである。允恭天皇も即位後すぐの440年に宋に朝貢した。宋はこの時は允恭天皇を安東将軍に任命しなかったようである。反正天皇を安東将軍に任命したから2年後であるために、宋も様子を探ったのかもしれない。

 しかし、次の443年の朝貢で安東将軍に任命された。これによって、允恭天皇は朝鮮半島の警察的役割を果たすことができる様になったのである。

 ところが、新羅本紀によると、440年に倭と新羅との間に戦いが起こっているのである。允恭2年に倭人が辺境を犯したという記事である。これは、今まで、倭国が大軍を派遣したのと異なり、小規模なものである。これは、倭にいたある種の海賊が新羅に入り込んで略奪を働いたものではないかと推定する。允恭天皇はおそらく、この海賊を処罰したものと思われるが記録はない。

 444年倭兵金城を包囲

 允恭天皇が安東将軍に任命された次の年、新羅本紀によると、倭兵が金城を包囲して10日間その包囲を解かなかったそうである。この時の倭兵は、食糧が付きて北方面に引き上げた。新羅王は数千余騎を率いてこの倭兵を追撃し、浦項周辺の独山の東で戦ったが、将兵を半数を失う程の大敗北を喫したのである。

 この時期は朝鮮半島は安定しており、新羅・倭・百済の関係は良好であった。また、允恭天皇崩御時、新羅は弔問団を派遣しているのである。これらの状況から判断して允恭天皇が安東将軍に任命された直後に、倭兵が金城を包囲するのは不自然である。この記事は誤って挿入されたとも考えられるが、真実であるとして仮説を立ててみよう。

 この倭兵は金城の包囲を解いた後、北方面に引き上げているのである。倭国軍なら、南、あるいは西側に引き上げるはずである。北側に引き上げるということは、北から来たことを意味している。新羅の北側は辰韓の領域であるが、新羅を襲う程の勢力はこの頃には存在していない。唯一考えられるのは、高句麗の侵入である。

 高句麗は倭・百済・新羅が良好な関係を保っているのを苦々しく思っていたようであるが、当時の高句麗の戦力ではこれを打ち破ることはできないのである。この頃の高句麗は盛んに北魏に朝貢しており、北魏の支援のもと朝鮮半島への領土拡張を模索していたようである。

 高句麗としては倭が再び安東将軍に任命されて、ますます、倭・百済・新羅の同盟関係が強化されては困るのである。そこで、高句麗軍に倭兵のふりをさせ、金城を包囲したのではないかと考えるのである。その後も新羅と倭は良好な関係を維持していることから、新羅も高句麗の仕業と気づいたのであろう。

 高句麗の侵入

 450年、高句麗と新羅との国境付近で、新羅の国境兵が誤って高句麗の将軍を殺害してしまった。高句麗は兵を起こして新羅の西辺を侵し、使者を送り、「高句麗は新羅王と修好するのを喜びとするものであるが、今兵を出して我辺境の将を殺すのはどういうことか」と抗議した。
 新羅王は辞を低くして謝ったので、高句麗軍は引き揚げた。<新羅本紀>

 この記事はこの頃高句麗も倭国連合と戦う気がないことを意味している。しかし、454年高句麗は新羅の北辺を侵し、455年には宋に朝貢した後、百済に侵入している。しかし、この時、新羅が百済を救援しているのである。

 この流れから判断すると、450年の記事は高句麗の作戦ともとれる。450年の出来事を口実に新羅に難題を吹きかけて、国境侵犯をしたとも考えられるのである。

 455年に宋に朝貢してから百済に侵攻しているのは、百済や新羅を責めた時の宋の出方を探ったものではあるまいか。百済に攻め込んでも、宋は出てこないとの感触を得て、百済に攻め込んだとも考えられる。しかし、倭・新羅・百済の連合は固く、あきらめたのであろう。

 倭王武の上表文

 わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。

 倭王武の上表文の中に允恭天皇の実績が記録されている。允恭天皇の崩御直前なので、458年頃と思われる。454年~455年にかけて高句麗が百済を攻めているので、允恭天皇は倭国軍を大陸に送り高句麗を征伐しようとしたが、まさにその時允恭天皇が亡くなり、倭国軍派遣は取りやめになったようである。

 允恭天皇崩御

 459年(允恭21年)允恭天皇が崩御したとき、新羅の王が嘆き悲しんで、弔問の使者を倭に派遣している。これは、新羅が允恭天皇からかなりの恩義を受けていることを意味している。允恭天皇は大陸の情勢を気にして、平和維持活動を行っており、高句麗の侵入も防いでいたと思われる。失敗したとはいえ倭王武の上表文にある倭国軍派遣は新羅王感謝していたのであろう。このことが、崩御時の弔問団派遣となったと思われる。

 しかし、新羅本紀には、この459年、倭兵が攻めてきたことが記録されている。これはどうしたことであろうか。

 日本書紀をよく見ると、弔問に訪れた新羅人に対して、言葉の聞き間違いから、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)との間でトラブルが発生している。結局聞き間違いであることがわかって、新羅の使者は許されたのではあるが、新羅人は大いに恨みとして貢物を減らしたことが記録されている。
 大泊瀬皇子は激しい性格の人物なので、これを恨みとして新羅に攻勢をかけたとも思われる。

 トップへ  目次へ 
安康天皇
関連 年代推定
半年一年暦の干支
神功皇后年代推定
応神天皇時代の年代推定
倭の五王の年代推定
高句麗との戦い