反正天皇

西暦 反正 日本書紀 外国資料
433 即位
津野姫を皇后とする。
河内の丹比に柴籬宮を作る
使者を新羅に派遣して和を乞うた(百済本紀・新羅本紀)
434 新羅と贈り物を交換する(百済本紀・新羅本紀)
435 北魏より征東将軍に任じられる。(高句麗本紀)
436 北魏の攻撃を受けた北燕が高句麗に救援を乞うた(高句麗本紀)
437 崩御 使者を魏に派遣して朝貢した(高句麗本紀)

 反正天皇は415年(仁徳37年)、淡路宮(淡路島?)生誕し、19歳で即位した。都を丹比柴籬宮(大阪府松原市上田七丁目柴籬神社)と決定。反正5年、23歳で亡くなったと思われる。倭国内では何事もなく平穏な時代だったようである。反正天皇が早世したのは、全くの予想外であり、皇太子の決定がなされないままの早すぎる死であった。死因は不明である。

 反正天皇即位の事情

 反正天皇は履中天皇の弟にあたる。仁徳天皇によって長子継承がルール化されている。履中天皇には市辺押磐皇子と御馬皇子がいて、市辺押磐皇子が長子にあたる。そうすると、第18代天皇はこの市辺押磐皇子が継承されるはずであるが、弟の瑞歯別尊が第18代反正天皇として即位している。これはどうしたことであろうか。

 この頃の皇位継承には、もうひとつ継承条件があった。それは、皇位継承者が成人(15歳)に達しているということである。これは、かなり厳格に守られてきたようである。履中天皇が崩御した時、35歳であったと推定しており、その長子である市辺押磐皇子はまだ幼少(3歳か4歳程)ではなかったかと思われる。履中天皇が35歳という若さで急逝したためにその長子である市辺押磐皇子が皇位継承できなかったのである。

 反正天皇が亡くなった437年においても、市辺押磐皇子は8歳か9歳程度であり、皇位継承は無理であった。そのために、反正天皇崩御後、その弟の雄朝津間稚子宿禰尊が第19代允恭天皇として即位したのである。

 第19代允恭天皇が崩御した時その長子穴穂皇子が第20代安康天皇として即位したが、安康天皇は履中天皇の正規の継承者市辺押磐皇子が既に成人していたので、市辺押磐皇子に次の天皇位を譲ろうと考えていた。これが、雄略天皇による市辺押磐皇子の暗殺を招いたのである。

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