履中天皇

 履仲天皇在位中の記録

西暦 履中 日本書紀 外国史書
427 仲皇子の乱
427.5 磐余稚桜宮にて即位
黒姫を妻とした。
高句麗長寿王平壌に遷都
428 瑞歯別皇子を皇太子とする。
磐余池を作った。
倭から使者が来た。随行者50名(百済本紀)
429 飛騨国反乱 宋に朝貢した。(百済本紀)
430 諸国に国史を置いた。
石上に用水路を掘った。
宋文皇帝は、先王の称号をそのまま百済諸軍事鎮東将軍百済王となった。(百済本紀)
1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
431 皇后が亡くなる。 倭兵が東の辺境に攻めてきて、明活城を包囲したが、功なく引き上げた。(新羅本紀)
432 天皇病死

日本書紀と古事記の在位年のずれについて

 履中天皇の在位は、日本書紀は6年、古事記は5年である。この時代は古事記の崩年干支がほかの天皇において他資料との整合性が高いので、古事記の崩年干支が正しいと考える。そうすれば、履中天皇の在位期間は5年となる。

 この謎について、次のような解釈もありうる。仁徳天皇の日本書紀の記述は半年一年歴である。仁徳天皇の崩御は327年前半である。履中天皇が327年後半に即位したとすれば、履中天皇元年が327年となり、それ以降、中国歴で記録されたとすれば。古事記・日本書紀はつながるのである。

履中天皇の年齢

 履中天皇は仁徳天皇31年に15歳で皇太子となっている。日本書紀では崩御時70歳である。仁徳天皇の在位87年をそのまま計算すると、70歳となるが、古代史の復元による仁徳天皇の在位期間をもとに計算すると、仁徳天皇31年は412年であり、この年15歳であったなら、433年は35歳となっている。履中天皇は30歳で即位し、35歳で亡くなったことになる。生年は398年である。応神天皇が亡くなった直後に生まれていることになる。

 仁徳天皇は神功57年(377年)に生まれているので、履中天皇誕生時は22歳となる。仁徳天皇崩御が427年なので、崩御時仁徳天皇は51歳であったことになる。 

皇太子選定の謎

 履中天皇は即位2年目に瑞歯別皇子(後の反正天皇)を皇太子として決定している。通常自分の子を皇太子として認定するはずであるが、なぜ弟である瑞歯別皇子を皇太子としたのであろうか。反正天皇は古事記では崩御時60歳になっている。そのまま仁徳天皇在位87年で逆算すると仁徳天皇36年(314年)生誕となる。実際の崩御時の実際の年齢は23歳である。履中天皇から皇太子として決定された時の年齢は16歳である。

 当時は15歳前後で成人という感覚があった。そのために、立太子するには15歳ほどの年齢が必要だったのであろう。応神天皇までは末子相続だったので、皇位継承争いもなく、スムーズに継承されてきた。そのために、ここまで神武天皇在世中の三天皇以外は兄弟相続はなかったのである。ほとんど直系で皇位が継承されてきた。

 しかし、仁徳天皇より長子相続になったため、自分の長子の年齢が若すぎるときは、兄弟相続を理想としたのではないだろうか。履中天皇は31歳で即位しているので、その子は15歳に達していないと思われる。そのための兄弟相続なのであろう。しかし、このような相続方法が後の時代に相続争いを引き起こすもととなったのであるが、この当時はそういった概念がなかったのかもしれない。

 宋書の記事の謎

 宋書において、倭王讃には将軍としての位の任命がない。倭王隋に関して、死後平西将軍の任命がなされている。倭王珍からは、倭・百済・新羅・任那・馬韓・辰韓6か国の諸軍事、安東将軍倭国王に任じられている。それに対して、百済が百済諸軍事鎮東将軍百済王であったのが、この後その任命を受けていない。これはどうしたことであろうか。

 倭王珍は最初倭・百済・新羅・任那・馬韓・辰韓6か国の諸軍事、安東将軍倭国王を自称していたが、それが宋から正式に任命されている。興は安東将軍、武は加羅を加えた7か国の安東将軍に任じられている。

 単純に考えると、倭王隋が朝鮮半島(百済・新羅・任那・馬韓・辰韓)を平定し、それ以降の王がそれら地域を統括しているという解釈になる。しかしながら、履中天皇の時代に日本書紀・中国側資料・朝鮮半島資料にも全くそのような記載がない。これはどうしたことであろうか。

 好太王碑文の391年、402年、404年の戦いもこれと同様にどの資料にも記載されていないが、碑文に記録されているのである。これらの記事の共通点は倭国軍の大活躍である。中国資料・朝鮮半島資料は倭国軍が大活躍したことを記録していないと解釈できる。

 宋書の記録の変化は履中天皇が朝鮮半島を平定したと解釈できるが、それはいつのことであろうか。430年(履中4年)に百済王が鎮東将軍に宋から任じられており、履中天皇も宋に朝貢している。次の431年倭兵が新羅に攻め込んでいる。次の432年に履中天皇が亡くなっているので、履中天皇が朝鮮半島を平定したのは431年となる。

 朝鮮半島平定の推定

 427年に高句麗の長寿王が平壌に首都を遷している。好太王の功績で、現北朝鮮のほとんどの地域を高句麗領とした。倭国は404年の戦いに敗れた後、408年以降高句麗と対峙していた。仁徳天皇崩御時、倭国の勢力圏は朝鮮半島の百済・新羅・任那領域(現韓国領域)であろう。倭国と高句麗との国境線は現在の北朝鮮と韓国の国境線に近い状態であったと考える。

 高句麗長寿王は倭国に対峙するために、中国の集安市から現北朝鮮の平壌に都を移した。

 倭王珍(反正天皇)が宋から認められた領域は倭・百済・新羅・任那・馬韓・辰韓6か国である。この領域はどの範囲であろうか。平壌近辺は馬韓領域であるが、高句麗が都している以上この地域は高句麗が支配していることになる。倭は馬韓全域を支配したのではなく平壌よりは南の領域で、百済の漢城(現ソウル市)よりも北側の領域と思われる。辰韓は新羅の北側の領域であろう。総合して倭王珍の時代の倭国の勢力範囲は現韓国全域と、北朝鮮領域の南半分といったところであろうか。

 元より百済・任那は倭の朝貢国であり、新羅は402年の戦いの結果、倭の朝貢国になった。仁徳天皇の後半は朝鮮半島に攻め込んだ形跡がないので、履中天皇の朝鮮半島平定領域は、現北朝鮮の南半分馬韓・辰韓の領域の確保といったところであろう。

 履中天皇が即位した時点では馬韓・辰韓の領域は高句麗が支配していたはずである。そのため、431年の倭国軍は高句麗と戦い、馬韓・辰韓領域を支配するようになったということである。

 倭国には代々領土的野心はほとんどなかったと思われる。これまでのすべての大陸での戦いは新羅の行動をけん制するためか、百済からの救援要請で動いているのである。それが、なぜ、高句麗と戦って領土拡張をしたのであろうか。 

 この原因を、427年の高句麗の平壌遷都にあるのではないかと推定する。高句麗はそれまで現中国の集安市に拠点を置いていた。これが、平壌に遷都されると、百済・新羅にとってはいつ責められるか分かったものではないと警戒するのも当然であろう。

 この後高句麗は北魏に毎年のように頻繁に朝貢し、新羅や百済と頻繁に戦っている。高句麗の長寿王は好太王と異なり戦略に優れていたわけではなかった。百済や新羅が恐ろしかったと思われ、高句麗の西側にある北魏と常に友好関係を保って、百済や新羅に対抗しようとしたと考えられる。北魏から鎮東将軍に任じられており、北魏によって西側の安全が保たれたので、高句麗は安心してその首都を平壌に移すことができたのである。

 百済は当然ながら馬韓領域を奪回しようとしたであろうし、高句麗としてはそれを許さないものがあったと思われる。倭がその間に入って馬韓・辰韓領域を中立地帯として認定したのではないかと思われる。高句麗も倭国には領土的野心がないことを今までの戦いぶりから知っていたであろうし、百済としても、馬韓・辰韓領域が倭国の領域であれば、まだ安心できたのであろう。

 履中天皇は朝鮮半島が再び戦乱に巻き込まれるのを恐れ、百済からの要請を受けたのを好機として、高句麗から馬韓・辰韓領域を奪い、中立地帯として両国に認知させたのではあるまいか。

 この推定に対する裏付けが倭王武の上表文内にある。

倭王武上表文

 皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。

 わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。

 ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。

 わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。

 もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。

 上表文内の北のかた海を渡って、平らげること九十五国の部分がこの時の履中天皇の大陸平定ではないかと思われるのである。仁徳天皇の時点では、高句麗が現在の北朝鮮と韓国の国境付近まで勢力を持っていたので仁徳天皇時代では、大陸平定はないと思われる。また、倭王済の時代にはすでに平定済みだったと思われる。これらの内容と倭隋の平西将軍の記事を総合して判断すると、431年に倭国軍が大陸を平定したと判断できる。

 飛騨国反乱について

 日本書紀

仁徳天皇六十五年(履中天皇3年=429年)、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

 これが、両面宿儺の伝承である。

 飛騨・美濃国には関連伝承が存在している。これら伝説は、『日本書紀』の記述に沿うものであっても、両面宿儺を単なる凶賊ではなく官軍に討伐された飛騨の豪族とされている。また、龍や悪鬼を退治し(高沢山・位山)、寺院の縁起に関わる(千光寺・善久寺・日龍峰寺)など、地域の英雄にふさわしい活躍を見せているものもある。

 丹生川村の千光寺は両面宿儺を「御開山様」と伝え、宿儺を刻んだ円空仏が伝わっており、同じく丹生川村の善久寺も宿儺を開基とし、その近くには武振熊に攻められた宿儺が立て籠もり、ついに首を括って死んだという洞窟がある。美濃・飛騨では他の多くの古寺が両面宿儺を開基として「両面さま」「両面僧都」 などと尊称している。
 飛騨国の位山について、南北朝時代の飛騨国司・姉小路基綱(1504年没 )は自ら選んだ和歌集の裏書に、この山の主が「両面四手」であり、しかもそれが「神武天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと記しており、両面宿儺のことと思われる。

 両面宿儺とは何者であろうか?飛騨に残る伝承からして、飛騨国の人々より崇敬されていた存在ということになる。飛騨国で崇敬の的となっているのは飛騨王であろうが、飛騨王位は神武天皇が即位する時、神武天皇に王位を継承させている。しかし、飛騨国の祭祀の主催者は存在しており、飛騨国の統治を継続して行っていたと思われる。飛騨口碑によると36代天忍穂耳尊の子の瓊々杵尊が九州に降臨、饒速日尊が大和に降臨したが、天火明命が飛騨国に残ったとされている。

 竹内文献のウガヤ王朝で飛騨国に残った天火明命に該当する人物を探してみると、ウガヤ朝68代宗像彦天皇(飛騨口碑の天忍穂耳尊)の子で、神主とされている神竹内真戸利王尊及び神竹内大彦尊が考えられる。飛騨王宗像彦(大山祇命)が饒速日尊と共に九州に降臨したとき、将来の日本列島統一を目的として、政治の中心としての飛騨王と、祭祀の中心としての飛騨王とに別け、政治の中心としての飛騨王位を神武天皇に譲り祭祀の中心としての飛騨王位はそのまま飛騨国で継承させたものであろう。その飛騨王の末裔が両面宿儺と考えられる。

  古代史の復元では、両面宿儺はこの祭祀者としての飛騨王家の王であると考えている。神武天皇即位のとき、祭祀者としての飛騨王家は飛騨国に残っており、その後も存在していたようである。しかし、歴史時代になってからは存在の形跡が見られない。どこかで飛騨王家は抹殺されていなければならないのであるが、日本書紀にある飛騨関係の記事はこの記事のみである。そのため、この記事は飛騨王家の抹殺記事ではないかと考えるのである。

 飛騨王家は古代において、大和朝廷の皇位継承に口を出す権限を持っていたと考えられる。応神天皇までは末子相続であり、飛騨王家も末子相続であったと考えられ、応神天皇までは実際に飛騨王家が口出しすることはなかったと思われる。

 ところが、応神天皇の時代に王仁が来朝し、仁徳天皇の弟である菟道稚郎子は王仁から、長子が後を継ぐのが本道であるという思想を学び、応神天皇の後を継承するのを拒否し自殺した。やむなく兄である仁徳天皇が即位することになり、ここに末子相続は終焉を迎えた。

 この事態に対して飛騨王家は皇位継承の口出しをしたのであろう。仁徳天皇の場合は弟の自殺でやむを得ないことであったと判断されたが、履中天皇を皇太子として決定したのは、飛騨王家にとっては認められない内容だったのであろう。仁徳天皇は飛騨王家の抗議を無視して履中天皇に継承させた。

 皇位継承に対する抗議を無視する朝廷に対して、飛騨王家は飛騨王家の存在を軽く見られたのは、飛騨王家の存続にかかわる危機をはらんでおり、飛騨にて反乱を起こしたのではあるまいか。

 神武天皇即位からかなり年月もたっており、飛騨王家の存在は、朝廷にとって邪魔でしかなかったのであろう。これをよい機会として、履中天皇は飛騨王家を廃止したのであろう。

 祭祀者としての飛騨王は大和朝廷によって廃止されたが、細々と継承されていったのではないだろうか。それが、美濃・飛騨地方の古寺の開基伝承となったと思われる。

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