武内宿禰の謎
古代史において武内宿禰は謎の多い人物である。日本書紀他の伝承では景行天皇14年に生誕し仁徳天皇55年に亡くなったと伝えられている。古代史の復元では景行天皇14年はAD304年、仁徳天皇55年はAD424年であり、そのまま同一人物であれば121年生存したことになる。現在でも世界一の長寿になる寿命である。まずはあり得ないと見てよい。日本書紀の記事のみを取っても矛盾するところがいくつか見られる。まずその矛盾点をいくつかあげてみよう。
武内宿禰の系図の謎
武内宿禰の系図 欝色謎━━━┓ ┏成務天皇 ┣━開化天皇━━━崇神天皇━━━━━━垂仁天皇━━景行天皇━┫ ┃ ┗日本武尊━━仲哀天皇━━応神天皇━━仁徳天皇 (紀伊国) ┃ 天道根命・・・・・・・・・・・・大名草彦命━━━━━━━━影姫━┓ ┃ ┣武内宿禰━━━━━━━━━━━━┳羽田矢代宿禰→ [波多氏] 孝元天皇━━┻━━━━━━━┓┏彦太忍信命━━屋主忍男武雄心命━┫ ┣許勢小柄宿禰→ [巨勢氏] ┣┫ ┗甘美内宿禰 ┣石川宿禰 → [蘇我氏] 伊香色謎━━┛┗武埴安彦 ┣平群木菟宿禰→ [平群氏] ┣紀角宿禰 → [紀氏] ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城襲津彦 → [葛城氏] ┗若子宿禰 |
武内宿禰は孝元天皇が開化天皇と同世代の伊香色謎との間の彦太忍信命の孫である。彦太忍信命は孝元天皇が崩御する直前あたりに生誕しているものと考えられ、崇神天皇と同世代と思われる。古事記では彦太忍信命の子が武内宿禰となっており、屋主忍男武雄心命は存在しない。屋主忍男武雄心命が欠落したものと考えられる。
日本書紀の記述
即位3年春2月1日。
紀伊国に景行天皇は行きました。諸々の神祇を祀ろうと占うと良くないとでました。すぐに車駕を止めました。
屋主忍男武雄心命を派遣して祀らせました。
屋主忍男武雄心命は詣でて阿備柏原に住んで、神祇を祀りました。それでそこに9年ほど住みました。そのうち屋主忍男武雄心命は、紀直の遠い祖先の菟道彥の娘の影媛を娶って、武内宿禰が生まれました。
屋主忍男武雄心命は景行天皇時代の初期に青年期を迎えているようで、景行天皇と同世代と考えられる。屋主忍男武雄心命が彦太忍信命の晩年に生まれたか、この間にもう一代欠落したものと考えられる。
武内宿禰は景行14年(AD304年前半)生誕である。ところが、武内宿禰は景行天皇25年(AD310年)に東国視察に出掛けて景行27年(AD311年)に復命しているのである。この時の武内宿禰の年齢は現年齢計算で6歳である。これはあり得ないことであろう。
景行朝は半年一年暦が新旧二種類が15年ずれで混在しているので、これらの記事が15年(現行暦8年)ずれている可能性があるが、武内宿禰が若年の時に東国視察に行っていることに変わりはない。このことと、武内宿禰が異常に長寿であったことを合わせると、複数の武内宿禰がいたと考えざるを得ない。
武内宿禰の「武内」は姓、「宿禰」は尊称と考えられ、個人名と思われるものがないのである。「武内宿禰」は世襲名と考えられないだろうか。そうすると、景行25年に東国視察したのは初代武内宿禰で、景行14年に生誕したのは2代目武内宿禰となる。初代の武内宿禰を武内宿禰A、景行14年に生誕した武内宿禰を武内宿禰Bとする。
武内宿禰生誕地の謎
武内宿禰の生誕伝承を持つところが二か所存在している。一つは佐賀県武雄市の武雄神社でもう一つは和歌山県和歌山市松原83番地安原八幡神社の地で、境内の武内神社には、武内宿禰の産湯に使われたという井戸が残っている。日本書紀の記述によれば生誕地は和歌山県となるが、神社伝承には周辺に父も母も祀られていない。
両親と思われる人物を祀る神社
神社名 | 祭神 | 所在地 |
井石神社 | 帯中津日子命,品陀和気命,息長足比売命,武内宿禰,武雄心命 | 長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷2060番地 |
今坂神社 | 武雄大明神 | 佐賀県東松浦郡浜玉町大字平原甲3849 |
江野神社 | 影姫命,武内宿禰,屋主忍男武雄心命 | 新潟県西頚城郡名立町大字名立大町1335番地 |
大鳥神社 | 日本武雄命 | 鹿児島県日置郡松元町入佐1225 |
葛原神社 | 武雄心命,影姫命 | 福岡県宗像郡玄海町大字鐘崎392 |
武雄神社 | 武内宿禰命,仲哀天皇,神功皇后,武雄心命,応神天皇 | 佐賀県武雄市武雄町大字武雄5327 |
玉垂神社 | 武雄大明神 | 佐賀県武雄市武雄町大字永島14724 |
弥生神社 | 誉田別命,猿田彦命,高産霊命,日本武雄命 | 神奈川県海老名市北2-13-13 |
竃門神社 | 玉依姫命,山下影姫命,足仲彦天皇 | 福岡県小郡市力武1063 |
母の山下影日売を祀っている神社は福岡県にしか存在せず、屋主忍男武雄心命の子とされる武内宿禰(初代)は武雄神社の地で生誕したと考えられるのである。
屋主忍男武雄心命は垂仁天皇と同世代と思われるので、和歌山で景行14年に生誕したのが武内宿禰Bで、佐賀の武雄神社で生誕したのが武内宿禰Aと考えられる。和歌山にはその両親にかかわる伝承を持つ神社が存在しないので、和歌山で誕生した武内宿禰Bの父が武内宿禰Aと思われる。
成務天皇3年(AD326年)、武内宿禰が大臣となっている。武内宿禰Bが現行暦で22歳となっているので、武内宿禰Aは50歳前後となっていると思われ、この武内宿禰は武内宿禰Bであろう。
その後仲哀、神功皇后時代に武内宿禰が活躍しているが、この武内宿禰は武内宿禰Bと思われる。武内宿禰は仁徳55年(424年)に没しているのでこの武内宿禰Bが仁徳55年まで生存していたとすれば武内宿禰Bは121歳まで生きたことになり、あり得ない。仁徳朝で活躍した武内宿禰は武内宿禰Bとは別の武内宿禰となる。この武内宿禰を武内宿禰Cとする。
武内宿禰の子孫について
武内宿禰の子孫 ┏顕宗天皇 ┏成務天皇 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子━┫ 景行天皇━┫ ┃ ┗仁賢天皇━━武烈天皇 ┗日本武尊━━仲哀天皇━━応神天皇━┳仁徳天皇━╋反正天皇 ┃ ┃ ┏安康天皇 ┃ ┗允恭天皇━┫ ┃ ┗雄略天皇 ┏安閑天皇 ┃ ┃ ┗稚野毛二派━意富本杼━━乎非王━━━━━彦主人王━━継体天皇━━╋宣化天皇 ┃ ┗欽明天皇 武内宿禰━━━━━━━┳羽田矢代宿禰→ [波多氏] ┃ ┣許勢小柄宿禰・・・・・・・・・・・・乎利━━━━━━河上━━━━男人→ [巨勢氏] ┃ ┣石川宿禰・・・・・・・・蘇我満智━━蘇我韓子━━━蘇我高麗━━━蘇我稲目━━━蘇我馬子 ┃ ┣平群木菟宿禰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平群真鳥━━━平群鮪━━━━平群根咋 ┃ ┣紀角宿禰━━白城宿禰━━紀小弓━━━大磐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・男麻呂→ [紀氏] ┃ ┗葛城襲津彦━━━葦田━━━蟻━━━━伊呂尼 → [葛城氏] |
武内宿禰の子の系統を調べると上の系図のようになる。水平位置が同じ人物は同世代と思われる人物にしている。紀角宿禰及び葛城襲津彦以外は仁徳朝に該当者がいない。羽田矢代宿禰、 許勢小柄宿禰、石川宿禰は仁徳朝の人物か代数欠落があることになる。
日本書紀記述
応神天皇3(古代史の復元では応神26年=AD392)年、百済の辰斯王が応神天皇に非礼を働いたために、波多八代宿禰、平群木菟宿禰、石川宿禰、紀角宿禰と共に百済へ赴き、百済を改めさせる。
古代史の復元の修正年を用いるとこの記事はAD392年であり、応神朝、仁徳朝の境である。この頃武内宿禰の子供たちが青年期に達していたということになる。30歳前後とすれば、その生誕はAD360年頃となる。武内宿禰Bはこの時現行暦で60歳ごろとなっており、この父親としての武内宿禰は武内宿禰Cと考えられる。この結果、武内宿禰Cは応神天皇と同世代で、その子供たちは仁徳天皇と同世代となる。
ところが、紀角宿禰と葛城襲津彦はその子供が仁徳天皇と同世代となっているので、この二者は応神天皇と同世代と考えられる。つまり、武内宿禰Bの子ではあるまいか。
石川宿禰に関して、神社伝承がある。熊本県八代市鏡野町の印鑰神社である。
「仲哀天皇の御代、武内宿禰の子石川宿禰、筑紫の兇徒鎮定のため、当国に下向し、この地に薨ずる。土人その徳を仰ぎ、崇め奉祀するという。」
この年は仲哀天皇が筑紫で戦闘をした年と思われ、仲哀8年(AD332年)と思われる。武内宿禰の子がAD332年に亡くなっているということは、この時に石川宿禰は成人していたはずで、武内宿禰Bは現行暦で28歳となっているので、石川宿禰の父は武内宿禰Aとなる。武内宿禰Bと兄弟であろう。
ところが、石川宿禰はAD392年に百済に赴いている。印鑰神社の地で亡くなった石川宿禰とは別の石川宿禰がいることになる。この石川宿禰は履中天皇2(428)年10月に、子の蘇我満智宿禰が国政に参加しているので、この石川宿禰は仁徳天皇と同世代である。よく似た名前だったので混乱したのではないかと思われる。
履中天皇は羽田矢代宿禰の娘黒姫を妃にしようとしたので黒姫は履中天皇と同世代となり、その父である羽田矢代宿禰は仁徳天皇と同世代である。
平群木菟宿禰は仁徳天皇と同日に生誕(神功57年=AD377年)したといわれているが、履中天皇時代にも活躍している。仁徳天皇崩御(427年)時、50歳程と考えられる。平群氏は顕宗天皇、仁賢天皇時代の平群真鳥まで2世代分ほど空いている。代数欠落があると思われるが、木菟宿禰も世襲命だったのかもしれない。
許勢小柄宿禰は次の世代の乎利との間が1世代ほど空いているが、これは晩年の生誕と考えられなくはないので、あり得ないことではない。
葛城襲津彦の子葦田の娘黒姫を履中天皇の妃としているので、葦田は仁徳天皇と同世代となり、葛城襲津彦は応神天皇と同世代となる。また、紀角宿禰のひ孫紀大磐は雄略天皇の時代に百済の赴いているので、大磐が雄略天皇と同世代と考えられ、その3世前の紀角宿禰は応神天皇と同世代と考えられる。
武内宿禰の系図(古代史の復元) 欝色謎━━━┓ ┏━成務天皇 ┏仁賢天皇━武烈天皇 ┣━開化天皇━━━崇神天皇━━━━━━垂仁天皇━━━━景行天皇━┫ ┏履中天皇━━市辺押磐皇子━┫ ┃ ┗━日本武尊━━仲哀天皇━━応神天皇━━仁徳天皇━━━╋反正天皇 ┏安康天皇 ┗顕宗天皇 (紀伊国) ┃ ┗允恭天皇━┫ 天道根命・・・・・・・・・・・・大名草彦命━━━━━━影姫━━━┓ ┗雄略天皇 ┃ ┣武内宿禰A┳━武内宿禰B━━━━┳━武内宿禰C━┳羽田矢代宿禰 → [波多氏] 孝元天皇━━┻━━━━━━━┓┏彦太忍信命━━屋主忍男武雄心命━┫ ┃(成務帝と同日に生誕) ┣許勢小柄宿禰 → [巨勢氏] ┣┫ ┗甘美内宿禰┗━石川宿禰 ┃ ┣石川宿禰━━━━・・・・・・蘇我満智━━━━蘇我韓子 → [蘇我氏] 伊香色謎━━┛┗武埴安彦 ┃ ┗平群木菟宿禰━━・・・・・・平群真鳥━━━━平群鮪 → [平群氏] ┣━紀角宿禰━━━白城宿禰━━━━紀小弓━━━大磐 → [紀氏] ┗━葛城襲津彦━━葦田━━━━━━蟻━━━━━伊呂尼 → [葛城氏] |
武内宿禰Cの生誕年は不明であるが、武内宿禰Bが25歳程度の時、AD330年頃の生誕で応神天皇より若干年上と思われる。そうすると武内宿禰Cの没年齢は96歳程となる。武内宿禰Cは仲哀天皇の末期に生誕していると思われる。この頃仲哀天皇は山口県jの豊浦宮(忌宮神社)の地に長期間滞在しているので武内宿禰Bも共にこの地にいたと思われ、武内宿禰Cの生誕地は忌宮神社周辺ではないかと思われる。
武内宿禰A,B,Cは個人名があったはずであるが、武内宿禰と一般に呼ばれていたために伝わらなかったのであろう。
葛城氏・紀氏の系図
武内宿禰の子のうち葛城襲津彦・紀角宿禰は応神天皇と同世代と考えられ、武内宿禰Bの子と考えられる。葛城氏は天皇家と縁組を結んでおり、世代が天皇家とよく一致している。
葛城氏の系図(古代史の復元) ┏━━黒媛━━━┓ ┃ ┣市辺押磐皇子━┓┏仁賢天皇━武烈天皇 ━仲哀天皇━━応神天皇━━仁徳天皇┓ ┃ ┏履中天皇━┛ ┣┫ ┃ ┃ ┃ ┏━━━荑媛━━━┛┗顕宗天皇 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋反正天皇┃┏安康天皇 ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┏磐之姫━┛ ┃ ┗允恭天皇━┫ ┃ ┃ ┃┗雄略天皇━┓ ┃ ┃ ┃ ┣━━━清寧天皇 ┃ ┃ ┃┏韓媛━━━┛ ┃ ┃ ┃┃ ┏葛城襲津彦╋葦田宿禰━━┻━━━蟻━━┻━━伊呂尼 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗玉田宿禰━━━━━円大臣━━┻━磐田 ━武内宿禰B┫ ┃ ┗紀角宿禰━━白城宿禰━━━━━紀小弓━━━紀大磐━━━━━━紀小足 |
石川宿禰(蘇我氏の祖)・平群木菟宿禰(平群氏)の祖について、この両者は仁徳天皇と同世代と考えられ、武内宿禰Cの子と考えられるが、その子の世代が合わないのである。
蘇我満智は石川宿禰の子とされており、履中天皇2年、平群木菟宿禰や円大使主とともに執政官となっている。履中天皇と同世代と考えられる。その子蘇我韓子は雄略天皇と同世代となる。その子高麗を経た孫が蘇我稲目であり、蘇我稲目は武烈天皇8年(AD509年)頃生誕しているので、継体天皇とほぼ同世代といえる。天皇家と世代を比較してもあり得ない世代とはなっていない。
しかし、平群氏の世代に矛盾がある。平群木菟宿禰は仁徳天皇と同日に生まれたとされ、仁徳天皇と同世代と考えられるが、履中天皇時代に国事をつかさどったとされている。その子平群真鳥が雄略天皇時代に活躍しているので真鳥は雄略天皇と同世代となる。真鳥の生誕が440年頃と推定され、平群木菟宿禰生誕が仁徳天皇と同じ神功57年(AD377年)とすれば、70歳前後で平群真鳥が生誕したことになる。これはほとんどあり得ないと考える。
また、日本書紀の応神天皇時代に木菟宿禰の活躍記事がある。
応神天皇3年(AD392年)、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。
応神天皇16年8月(AD382年)、葛城襲津彦が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わした。木菟宿禰らが新羅の国境まで兵を進めると、新羅王は愕然として罪に服し、弓月君の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。
AD382年は木菟宿禰5歳、AD392年は15歳となり、共に若すぎるのである。木菟宿禰が仁徳天皇と同日生まれが不自然となる。そして木菟宿禰は二人いたことになる。応神天皇時代に活躍した木菟宿禰をA、履中天皇時代に活躍し平群真鳥の父になった木菟宿禰をBとする。
武内宿禰CがAD330年頃生誕なので、木菟宿禰AはAD360年頃生誕と考えられる。そうすれば、AD382年、AD392年には成人しており、十分に活躍することができる。木菟宿禰BはAD400年頃生誕と考えられ、おそらくAの子であろう。
武内宿禰の系図(古代史の復元) ┏仁賢天皇━武烈天皇 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子━┫ ━━応神天皇━━仁徳天皇━━━╋反正天皇 ┏安康天皇 ┗顕宗天皇 ┗允恭天皇━┫ ┗雄略天皇 ━武内宿禰C━┳羽田矢代宿禰 → [波多氏] ┣許勢小柄宿禰 → [巨勢氏] ┣石川宿禰━━━━蘇我満智━━蘇我韓子━━━━蘇我高麗━━━━蘇我稲目 → [蘇我氏] ┗木菟宿禰A━━木菟宿禰B━━平群真鳥━━━━平群鮪━━━━━平群根咋 → [平群氏] |
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