応神天皇時代

 誉田別命は367年、天皇に即位した。この年、神功47年であると同時に応神元年である。日本書紀では神功皇后の死後、応神天皇が即位しているが、これは、神功皇后の年代を過去に遡らせるために書き換えられたもので、実際は神功皇后の生前に応神天皇は即位しているのである。

 新羅の裏切り

 367年(応神元年・神功47年)
応神天皇即位(日本書紀・応神元年)
百済と新羅が共に朝貢に来た。新羅は百済の貢物を横取り(日本書紀・神功47年)

慕容評が前燕の実権を握る。

 367年、百済と新羅が朝貢にやってきた。応神天皇の即位祝いの意味があると思われる。日本書紀では新羅の貢物に比べて百済の貢物が貧弱であったために問いただしたところ、新羅が百済の貢物を奪ったためと分かり、新羅征伐の決意をしたとあるが、新羅征伐の理由としてはあまりに稚拙である。真実の姿ではあるまい。後で理由づけしたものであろう。

 倭国軍は364年に第二次新羅遠征をおこない、新羅に伽耶諸国に手を出さないことを承諾させている。倭国軍が首都を包囲するような状況になっており、新羅も渋々承諾したものと思われる。当然ながら、この時の朝貢も渋々のものであったろう。実際に百済の貢物を奪った可能性はある。

第三次新羅遠征

 369年(応神3年・神功49年) 
 3月、荒田別、鹿我別を以て將軍とす。則ち久氏一等と共に兵を勒へて度りて、卓淳國に至りて、新羅を襲撃。加羅国をはじめとする7カ国を平定し、南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼして百済に与えた。百済王肖古と皇子の貴須は兵を率い、4つの邑を降伏させ、荒田別、鹿我別の軍と合流し百済国に行く。(日本書紀・神功49

 高句麗、兵2万で民家を掠奪するも、太子がこれを破った(百済本紀)
 高句麗、兵2万を持って、百済を襲撃するも敗れる。(高句麗本紀)

 新羅にとって、百済と倭は敵であった。高句麗が北から百済を攻撃し始めているので、新羅は高句麗と友好関係を結んだ。その威を借りて、伽耶諸国・百済に手を出すのである。364年の戦いで、倭に対して伽耶諸国に手を出さないと約束はしたが、それを守ることはせずに、より強烈に百済・伽耶諸国に干渉したのである。

 当時の伽耶諸国には強い王権は存在していない。伽耶諸国の王は国民の代表というような状況であった。これが、新羅の付け目である。新羅は倭国の熊襲に手を出したのと同じ手法で、伽耶諸国の村々に工作員を送り込み、伽耶諸国に混乱を起こすように仕向け、機会を狙って新羅国に編入しようというものである。伽耶諸国はこの新羅の作戦により、かなり混乱した状態にあったと思われる。

 応神天皇元年に新羅の朝貢があった時に、百済から新羅が相変わらず伽耶諸国に加え、百済にまで干渉しているという報告を受けたのであろう。倭としては新羅に裏切られるのは3回目である。応神天皇は第三次新羅遠征を決意した。 

 高句麗の存在

 この当時高句麗は前燕の支配下にあったが、355年前燕から征東将軍に冊封されることにより、ある程度の自由を得た。早速恨み重なる百済に手を出すことにした。

 百済本紀によると、高句麗が百済を恨むのは、高句麗が313年帯方郡を占拠した時、帯方郡の救援依頼を受けて、高句麗を攻撃したためとある。しかし、それだけで、高句麗がこれほど激しく百済を攻撃するとも思えない。高句麗自体、燕・秦などにさんざんやられているのである。

 百済は、245年遼東半島にあった国を楽浪郡に奪われて流浪の民となり、倭からの領土割譲を受けて復活しているのである。このとき、百済に所属していた馬韓諸国も楽浪郡に占拠されてしまっている。高句麗が楽浪郡を滅ぼしているので、百済の旧地である馬韓諸国も高句麗の支配下になっていたと思われる。百済は、帯方郡を救援すると見せかけて、高句麗から馬韓諸国(現北朝鮮西側一帯)を奪ったものと考える。百済から見ると旧地の奪回であるが、高句麗から見ると土地を奪われたことになる。

 高句麗は、まず、百済に奪われた馬韓諸国の奪回を考えていたのであろう。

第三次新羅遠征

 応神天皇は千熊長彦を使者として新羅に派遣し、約束を守らないことを責めた。しかし、千熊長彦は新羅にとどめられ、新羅はその責めをのらりくらりとかわしていた。

 強硬策しか手がないと感じた応神天皇は百済から朝貢に来た使者久氏等と共に、荒田別、鹿我別を將軍に任じ、新羅を襲撃することを命じた。
 369年3月、荒田別、鹿我別らは、対馬から朝鮮半島に渡り、洛東江を遡って卓淳國(現在の大邱市)に到着した。卓淳國は新羅の金城に近く、ここから金城を襲撃した。これ以降暫らく新羅の動きがなくなること、新羅本紀にこの戦いが記録されていないことから、この戦いは新羅の一方的な敗北だったと思われる。

 それまで、倭国軍は金城を包囲して要求を突き付けていただけだったと思われるが、この時は城内に侵攻し、金城を落としたものと思われる。新羅は倭の要求を3度まで反故にしてきたために、今回は倭の攻撃は容赦なかったのであろう。

 このとき、伽耶諸国に派遣していた工作員の居場所を聞き出し、伽耶諸国の工作員に支配された地域をことごとく襲撃して滅ぼした。倭国軍が進攻した国々は比自ホ(昌寧)、南加羅(金海市)、喙国(釜山周辺)、安羅(咸安市)、多羅(陝川)、卓淳(大邱市)、加羅(高霊)と日本書紀に記録されている。

 倭国軍は続いて古奚津(全羅南道康津・済州島への港)から済州島を襲撃し、百済に与えた。

 百済王肖古(近肖古王)及び王子の貴須もこれに呼応して動き、百済軍を率いて比利(全州市)、辟中(金堤市)、布弥支(羅州市)、半古(半奈夫里県)の4つの邑を降伏させた。これらの地域はいずれも朝鮮半島南西部にある地域で、これら地域にも新羅の工作員が入っていたと思われる。百済軍は漢城(ソウル市)から、南に下りこれらの地域を降伏させた。これらの地域の人たちも東から倭国軍が攻めてきており、北からの百済軍とに挟み撃ちにされた形になっているために戦わずに降伏したようである。倭国軍と百済軍は意流村で合流した。倭国軍はここで別れて、倭国に帰った。荒田別、鹿我別らが復命したのは370年であった。

 高句麗襲来

 この瞬間を逃さなかったのが高句麗である。369年9月高句麗王故国原王は兵二万を率いて、韓国東側の原州を襲撃した。百済軍が西側に集結していたので、その反対側を襲撃したのである。百済は太子貴須を派遣し、原州の高句麗軍本拠を襲撃し、高句麗を追い返した。

 第三次遠征軍復命

370年(応神4年・神功50年)
 荒田別等、百濟より戻る。(日本書紀・神功50年)
 前秦の苻堅による侵攻を受けて前燕滅亡。高句麗は前秦に臣従。
 秦王の猛が燕を征伐してこれを破った。燕の慕容評が逃げてきたが、秦に送った。(高句麗本紀)

 370年 第三次遠征軍は帰国し復命した。同じ年、高句麗を背後から攻めていた前燕が前秦の攻撃を受けて滅亡した。前燕の慕容評が逃げてきたがそれを捕まえ、前秦に送った。高句麗王は前秦から信頼を受け、前秦に臣従することになった。 

 高句麗と百済との戦い

 371年(応神5年・神功51年)
 百濟の王、久氏一を遣して朝貢。千熊長彦を百済国に派遣す(日本書紀・神功51年)
 高句麗が兵をあげて攻めてきた。臨津江の岸辺に伏兵して逆襲すると逃げた。太子と共に兵3万を率いて平壌城を攻めた。高句麗王は流れ矢にあたって死んだ(百済本紀)
 冬10月、百済近肖古王が兵3万を率いて平壌城(集安市)を攻めた。王は流れ矢にあたって戦死した。第17代高句麗王小獣林即位(高句麗本紀)

 前秦は4月に前仇池を滅ぼして遼東・中原を獲得。高句麗・新羅は朝貢して前秦に服属する。

 371年3月百済王は使者を使わして、369年の戦いの協力に感謝し、朝貢した。日本書紀神功51年条に朝鮮半島南西部地域を百済に割譲したとなっているが、これは卑弥呼時代のAD205年の百済遷都の記事が混入しているものと判断している。

 応神天皇は千熊長彦を百済に派遣した。百済の感謝の意がかなり強いことから、千熊長彦は百済でかなりの活躍をしているようである。この直後百済は高句麗の襲撃を受けるのであるが、百済王はそれを前もって知っていた。その情報提供したのが千熊長彦ではあるまいか。

 高句麗は前秦に朝貢し、前秦から高句麗を攻めないとの確約を取ったものであろう。これにより、高句麗は背後の安全を担保した。高句麗は百済攻撃がしやすくなったのである。

 応神天皇は高句麗の動静を気にしていたと思われ、高句麗の動静を探るために千熊長彦を派遣したのではあるまいか。千熊長彦の諜報活動により、高句麗の百済襲撃が前もってわかり、百済王にこのことを進言したのであろう。

 高句麗の「百済憎し」の執念はかなりのものがあったようで、高句麗は秋頃再び百済を襲撃した。高句麗の動静が前もってわかっていた百済王は臨津江の南岸に伏兵を配置して、高句麗軍を打ち破った。百済軍は10月、集安市の平壌城を兵3万で総攻撃した。この攻撃によって、故国原王は集安市郊外で流れ矢にあたって戦死した。

 372年(応神6年・神功52年)
 使者を晋に使わして朝貢した(百済本紀)
 夏6月、秦王苻堅は使者と僧の順道を派遣して仏像と経文を送った。王は使臣を派遣し答礼した。高句麗本紀)
 久氏一等は千熊長彦、に従ってやってきた。七枝刀をはじめとする種々の重宝を奉った。(日本書紀・神功52年)

 この時、百済は現北朝鮮ほぼ全域を支配するようになった。しかし、高句麗の攻撃が今後続くと考えられた。この時の高句麗は前燕を滅ぼした前秦に属していた。372年、百済はその背後にある晋に朝貢して高句麗が攻めてこないように援護を依頼したのである。このとき、晋から七枝刀を授けられ、これを倭国に献上した。百済は晋・倭国と連携することにより高句麗に対抗しようとしたのである。

 373年(応神7年・神功53年)
 使者を晋に使わして朝貢した。禿山城主(京畿道安城市竹山面)が新羅に逃げた(百済本紀)
 百済の禿山城主が新羅に投降。新羅はこれを受け入れる。百済王は抗議した。(新羅本紀)

 百済は高句麗・新羅との戦いに備えて、各城主にかなり過酷な課題を課していたのであろう。禿山城主はそれを嫌い新羅に逃げたものと考えられる。新羅はそれを受け入れた。百済王は抗議したが、新羅は受け付けなかった。

 375年(応神9年・神功55年)
 百濟の肖古王薨(日本書紀・神功55)
 7月高句麗が攻めてきて水谷城を陥落させたので、将兵を派遣してこれを防いだが勝てなかった。第14代百済王近仇首即位(百済本紀)
 7月百済の水谷城を攻めた(高句麗本紀)

 北朝鮮領域を奪われた高句麗は、チャンスを伺っていた。戦乱が続いた百済は反乱がおきて将兵が新羅に逃げるなど、落ち着かない状態になっていた。高句麗はこのチャンスを逃さず、375年高句麗が百済の水谷城(北朝鮮開城市近く)を襲撃し陥落させた。百済は反撃できなかった。

 376年(応神10年・神功56年)
 百濟の王子貴須、立ちて王と爲る(日本書紀・神功56)
 11月高句麗が北辺を侵した(百済本紀)
 百済の北辺を侵した(高句麗本紀)
 前秦は8月前涼を滅ぼして涼州を平定し、さらに12月には代を滅ぼした。これにより前秦は五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した。前秦の勢威に高句麗・新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属した。

 前秦が勢力を伸ばし、華北統一に成功した。高句麗・新羅はこれに朝貢した。背後の安全を確保した高句麗は南進し、その勢力は百済の北辺にまで迫ってきた。百済王は、代替わりにより、高句麗の侵攻に対抗できなかった。

 377年(応神11年・神功57年)
池を作った(日本書紀・応神11年)
10月将兵3万を率いて平壌城に侵攻した。11月高句麗が攻めてきた(百済本紀)
百済が将兵3万で平壌城を侵してきた。11月に百済を南伐した。王は秦に朝貢した(高句麗本紀)

 体制を持ちなおした百済は377年将兵3万を率いて高句麗の本拠地平壌城を襲撃したが、高句麗の反撃にあい、逆に百済領に攻め込まれた。

 379年(応神13年・神功59年)
 晋に使者を遣わしたが、その使者が海上で強風に遭って晋に行けずに帰ってきた。(百済本紀)

379年救援を乞うために晋に使いを出したが、天候不良にて失敗し、百済は高句麗の支配を受け高句麗に朝貢せざるを得ないようになったのである。

 弓月君来朝

 弓月君は秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である功満王の子である。功満王は秦始皇帝12世孫で、仲哀天皇8年(332年前半)に来朝しているが、年代から判断して功満王は秦始皇帝18世ほどでなければ合わない。

 秦始皇帝の子孫は秦の崩壊後朝鮮半島に逃れ馬韓の東側の割譲を受け辰韓に住んでいた。辰韓は楽浪郡そして高句麗の支配を受けていたが315年の高句麗と百済の戦いにより高句麗の支配から解放されているのである。

 功満王はその時の辰韓の一つに国の王であったと思われる。功満王は戦乱の続く朝鮮半島を嫌い、平和な倭の地に一族郎党移住することを考えたのであろう。倭国は功満王の一族と同祖である、秦始皇帝ゆかりの人物である徐福が開いた国でもある。その関係で倭国に対して親近感を持っていたのであろう。そして、王自身が様子を探るために仲哀天皇8年(332年前半)に来朝した。王は倭国の状況を逐一報告しており、倭国内で集団で移住できる地域を探していた。その子弓月君(融通王)は倭国に大移住する準備を整えていた。

 380年(応神天皇14年)に弓月君自身が倭国の状況を把握するために来朝した。応神天皇に倭国内に移住許可を得るための来朝であった。このとき、百済王から頼まれている百済の窮状を天皇に上奏したのである。

 弓月君は一族郎党入国後、応神天皇から豊前国に滞在許可を得ることができた。早速朝鮮半島に戻り、百二十県の民を率いての大移動を開始した。数万人にも及ぶ大移動である。まず、辰韓地域から、朝鮮半島南端部の加羅国(金海市)に集まり、そこから海を渡ろうとした。しかし、それを新羅が妨害したのである。

 辰韓地域は新羅も狙っている地域である。弓月君一族は秦始皇帝の持っていた高度な技術力を持っている一族である。将来新羅が辰韓地域を支配した時、彼らは新羅の発展にとって有力な一族となるはずである。ここで倭に行かれたら、その思いもついえてしまうのである。それを理由として妨害したと思われる。

 その連絡を受けた応神天皇は襲津彦を派遣し、弓月一族が倭国に渡れるように協力した。葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けることになったが、倭国には渡れなかった。新羅の妨害が続いていたためである。

 三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて倭国に帰還することはできなかった。そこで、応神天皇は382年(応神16年)、新羅による妨害を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣した。倭国軍は新羅国境に展開し、新羅の妨害を排除した。その結果、無事に弓月君の民は渡来することができたのである。

 弓月君の引き連れてきた一族は後の秦氏である。渡来後の弓月君の民は、最初豊前国に住んでいたが、次第に中央に出ていき、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。

 倭と高句麗の戦いの始まり

 またもや倭国に煮え湯を飲まされた新羅は、何としても倭を駆逐したいと思うようになった。弓月君を妨害中の381年当時の高句麗の宗主国である前秦に朝貢し、高句麗に新羅を支援してくれるように頼んだ。

 前秦は了承したが、前秦自体の足元がぐらついていたのである。383年、前秦が東晋に破れて弱体化した。これを見た前燕慕容コウの子、慕容垂が現在の河南省で自立して、384年、後燕を建国した。この時高句麗の宗主国であった前秦は事実上滅亡したのである。これを見た高句麗は、早速後燕を攻撃し遼東奪取を成功させた。

 385年百済は第16代辰斯王が王位に就いた。高句麗が遼東を攻撃している隙をついて、百済領内の高句麗勢力を駆逐した。彼は、15歳以上の国民を用いて関防(防衛用の長城)を築かせて高句麗に備えるとともに、同年夏4月には東晋から<使持節・都督・鎮東将軍・百済王>に封じられ、東晋・百済の連携で高句麗に対抗しようとする態勢は整えられた。

 新羅はたびたび高句麗に朝貢し、高句麗も新羅を支援した。高句麗の支援を受けた新羅は再び伽耶諸国に干渉し始めたのである。

 389年百済は高句麗の南辺を侵略し、390年には都押城(北朝鮮平壌市)を占領した。

 このような時391年倭国軍が大陸に侵攻しているのである。

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高句麗との戦い
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