景行天皇九州巡幸

 景行天皇九州巡幸関連地図

 景行天皇は九州方面の国造に、大和朝廷からの赴任する国造に地位を譲るように命じた。地方の国造はその命に従わず、反逆する道を選んだ。景行天皇は反逆する国造を平定するために九州地方に巡幸した。

周防娑婆

日本書紀
 景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。

国津姫神社 防府市大字富海2758
 周防娑婆に至るとき富海防府の地一帯に多くの部衆を有する女酋神夏磯姫なる物が居て勅使に帰順の意を表したが、なお、残賊として佐波川上流あたりに皇命に反する者があったので、それらを速やかに平定し復命した。

 玉祖神社 防府市大字大崎1690
通称霞山。糘山(すくもやま・神社北北西600m)。景行天皇宮城森(神社北方300m)に行宮を設けられた際、この山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神/生産霊神/足産霊神/魂留産霊神大宮売神/御膳都神/事代主神)を祭られ、その時の祭器を埋められたところ。

 景行12年8月景行天皇は周防国富海に着いた。この地の女酋夏磯姫は、天皇を歓迎し、周辺の賊の情報を伝えた。佐波川上流に賊がいるという情報を得た景行天皇は大崎の宮城森に行宮を設け、そこを拠点として賊退治をした。

 豊浦

 下関市吉田宿
熊襲平定のために西征した景行天皇が滞在した。

 福徳稲荷神社 豊浦郡豊浦町大字宇賀2960-1
景行天皇安須波の原に御臨幸のみぎり、犬鳴山の姫菖蒲を叡覧ありて、その美景に見いられて、いぬことを忘れる。即ちいぬなき山というと伝えられ、それ以来この所を犬鳴山(稲城山)と称する。

 ここは戦いの伝承はないが様子を伺うために景行天皇が巡幸したようである。

京都

 朽網 北九州市小倉南区
 景行天皇の土蜘蛛討伐の際、葛の網を敷いた。それが朽ちたことにより付いた地名

 朽網西二丁目 帝踏石
 景行天皇が土蜘蛛を討つ時に、石占いをした石といわれています。

 小烏神社 行橋市大谷
 景行天皇が鴨建津見命(鴨武津身)を勧請したとされる

 御所ヶ谷神籠石
  長峡宮伝承地

 景行天皇が滞在したということで京都郡と呼ばれる。現在の福岡県行橋市である。下関を出発した景行天皇一行は現在の北九州市小倉南区の朽網に上陸した。朽網から海岸にそって南下し長狭川河口に着いた。行橋市長尾近辺に長狭宮を立てたと思われるが伝承地は御所ヶ谷神籠石の地である。ここは山奥なので、宮跡とは考えにくい。周辺を展望するために訪問したのではないかと考える。

宇佐

日本書紀
 夏磯姫は「悪い賊たちがいます。鼻垂という賊は、みだりに君主の名を僭称して山谷に人を集め、菟狭の川上(駅館川)にいます。耳垂という賊は、損なっては貪り、民を掠めています。これは御木の川上(山国川)にいます。麻剥という賊は、徒党を集めて 高羽(田川)の川上にいます。土折猪折という賊は、 緑野(北九州市紫川)の川上に隠れ住み、山川の険しいのをたのみに多くの民を掠めています。この四人のいる所はそれぞれ要害の地です。各々が仲間を集めて一所の長となっていて、皇命には従わないと言っています。どうか急ぎ討伐して下さい」と言った。武諸木らはまず麻剥を誘った。赤衣・褌や様々な珍品を送り、従わない三人もおびき出した。それぞれ仲間を連れてやってきたところを捕らえて殺した。

 大富神社 豊前市大字四郎丸256
豊前国に行宮を建てて、岩屋の土ぐもを征伐のとき、勅して本社に平定を祈らしめ。土ぐも平ぐや其報賽として付近の里の田地あまたと、神官あまたと、神官数人に種々のものを賜り、是によって9月9日始めて秋祭りを行った。

 嚴島神社 嘉穂郡頴田町大字鹿毛馬1083
景行天皇は熊襲平定のため、田川方面まで進出されました。その節、日思山に神社を建てられて県主を祭主に定められました。

 岩屋神社 田川郡方城町大字弁城字貴船1841
景行天皇当国の賊徒を討伐あらせ給ひし時麻剥の残黨此の窟に屯聚したるを御誅滅あらせられる。

 別宮社 東国東郡国見町大字伊美字入江島2710番地
入江島は人皇第十二代景行天皇熊襲御親征のため行幸せられた時行在所を造営された(神幸所と伝承されている)地

 ここで賊とされているのは国造地位の返上命令に従わない人々である。朝廷が「話し合う」と言えば、出てくるであろう。これらの人々は話し合えると思って誘いに乗ったのであろう。 武諸木はその人たちを殺害した。

 この周辺の賊退治が終了した景行天皇一行は、別宮社に滞在した後、国東半島を南下した。

碩田

速見邑

日本書紀
景行天皇は十月大分(県)に到着した。其の広大で美しい地形に碩田(おおきだ)と名づけた。碩田に到着した天皇は「速見邑」で「速津媛」の出迎えを受けた。速津媛の言うには、山に「鼠石窟」という大石窟があって、その石窟には二人の土蜘蛛が住み、一人を「青」、二人めを「白」という。 

 速津媛の出迎えを受けた速見邑とは杵築市の八坂川河口であろう。景行天皇率いる船団はある程度の規模であろうと考えられ、大きな川の河口でないと係留できないと考えられる。青と白のいた岩窟は国東半島の山であろう。

直入県(竹田市)

 日本書紀
曰速津媛〔はやつひめ〕が申し上げるには、
『直入郡の禰疑野〔竹田市菅生〕には、3人の土蜘蛛がいます。打猿と八田と國摩侶といいます。みんな揃って強が力く、また仲間も多いので、天皇家には従わないと言っています。もし無理やり呼びつけようとすれば、挙兵して抵抗するでしょう。』
景行天皇は、これを聞いて激怒しますが、進行することができません。
 そのまま、来田見邑〔宮処野〕に留まって、そこに仮宮を建てて滞在しましたが、家来たちが会議を開いて『いますぐ挙兵して土蜘蛛を討つべきです。もし我が兵勢を恐れて山野に隠れれば、後から必ず後悔します!』と進言します。
そこで、海石榴樹を採って、槌を作って武器にして、勇猛な兵を選んで、これを授けます。これで山腹を穿ち、草を払い、土蜘蛛の岩室を襲って、ついに彼らを稲葉川の川上で破ります。
ことごとくその一族郎党を殺したので、血が踝まで流れました。
このときから、海石榴樹で槌を作ったところを海石榴市と呼び、また血が流れた所を血田〔菅生〕と呼びます。
次に、打猿を討つため禰疑山を越えたところで、反乱軍たちが横の山から矢を射かけて来たので、天皇軍の前方に矢がまるで雨のよう降ってきました。
そこで天皇は城原〔きばる〕まで退却し、川原で占い〔フトマニ〕をしました。
そして軍勢を整えると、まず禰疑野で八田を討ち破りました。
これにより打猿は勝てないと観念し、服従を申し出ます。
しかし天皇はこれを許さず、一族郎党は自ら谷に飛び込んで死んだといいます。

 宇奈岐日女神社 大分郡湯布院町大字川上2220番地
創祀は人皇第十二代景行天皇の御宇12年冬10月。

大分県豊後大野市朝地町綿田阿志野
 景行天皇がこの里に来たとき、小竹鹿奥・小竹鹿臣という土蜘蛛がいた。二人は天皇に奉る食事を作ろうとして、狩をしたが、その狩人の声が大変やかましかった。天皇は「大囂(あなみす、やかましいの意)」と言った。よって大囂野(あなみすの)といった。今、網磯野というのは、これが訛ったものだ。

 城原八幡社 竹田市大字米納1048番地
景行天皇熊襲ご征討の折、城原方面へ軍をすすめて、ご巡幸になり、その時の行宮の跡

 稱疑野神社 竹田市大字今字宮ノ前500番地
もと祢疑野の地たるや景行天皇の壬午12年土蜘蛛、打去・、八田、国摩呂を親征し兵を労ひ給ひしにより名づけしものにして後人一祠を建て祢疑野大明神と崇敬す。

 宮處野神社  直入郡久住町大字佛原1805番地
景行天皇の御宇12年10月、天皇熊襲を征せんとして、碩田国に至り、また直入縣に進み、禰疑野の土蜘蛛を討つ。衆類、天皇に従わず、來田見邑に權宮を興して行在し、これを討滅す。邑民、この行宮の地に天皇の霊を奉祀し、これを景行行宮と称す。

 緩木神社 竹田市大字九重野848番地
 景行天皇が菅生村の土蜘蛛其の他「八田」や「国麻呂」を討伐するためにこの地に滞在された折に、緩木川の源流である「手洗いの滝」に伊邪那岐、伊邪那美二神をお祀りしたのが創始ということです。

 土蜘蛛の情報を得た景行天皇一行は、現在の別府市から湯布院に移動し宇奈岐日女神社を創始した。そこから大分川に沿って下り、庄内町小野屋より芹川流域に入る。芹川沿いに遡ると宮處野神社に着く。景行天皇はここに滞在して軍議を開いた。 

 宮處野神社より12km程南に下ると現在の竹田市がある。そこから玉来川に沿って10km程遡ると竹田市菅生がある。ここで国麻呂を破った。この時緩木神社を創始した。

 国麻呂を打った後、竹田まで戻り、今度は稲葉川に沿って遡ったところで、打猿の待ち伏せに会い、城原八幡社の地まで退却した。ここで、体制を整えて、稱疑野神社の地で八田を打ち破った。この戦いを見ていた打猿は勝てないと思い、降伏したが、許されず殺害された。

 景行天皇は稱疑野神社の地で兵をねぎらった。

 高屋宮

 日本書紀
 景行天皇の12年7月、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、天皇は筑紫(九州)に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮(あんぐう)を建て、住まいとした。
 同13年5月、ことごとく熊襲の国を平定。すでに高屋の宮に居ること6年となり、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。

 保戸島
 12代景行天皇が熊蘇征討のみぎり此の地に舟を倒留どめになり美しい海藻を御覧になり其の美しい海の藻を取れと勅し兵は勅に応じて海藻を取って差し上げると天皇は舟を御進めになった。此の麗わしい海藻の故事から此の海峡を最勝海勝門と言い後に最門と言い穂門と書く様になった。

 川辺駅跡 延岡市西階
景行天皇が熊襲征伐の時、お泊りになったところと伝わる。

 鵜戸神社 児湯郡高鍋町蚊口浦1―1
景行天皇が熊襲征伐のため、日向に来た時、戦勝祈願のために行幸されたとも伝わる。

 黒貫寺 西都市荒武
熊襲征伐のため、日向に来た景行天皇が、六年間滞在した「高屋宮」の跡と伝わる。黒木造りの御所が黒貫の語源と伝わる。

 高屋神社 西都市岩爪2600
黒貫寺と国道325号をはさんで向かい合う場所にある。熊襲征伐のため、日向に来た景行天皇が、六年間滞在した「高屋宮」の跡と伝わる。

鹿野田神社 西都市大字鹿野田2020
神社の南400m。日隠の峯「日向三山陵実記」に、この日隠の峯こそ丹裳の小野であると書かれている。

 岩爪神社 西都市大字岩爪1084-イ
日本武尊がこの地より紀州の大権現に対し戦勝祈願をされた聖地と云われる。

 丹裳の小野 西都市三宅
日本書紀景行十七年に、「景行天皇が子湯の県に行幸して、丹裳の小野に遊びたまう時に、東の方を、見そなわして、左右に語りてのたまわく、『この国は、直に日の出ずる方に向けり』と。故に、その国を名付けて日向と云う」。

 三宅神社 西都市三宅3415
景行天皇が大野に宿られた時、そこにある大石で占いをされた。「この石を蹴ったら、柏の葉のように舞い上がれ」と言われると、その通りになった。それで、その石を名づけて「踏石」と言う。

 竹田で土蜘蛛退治が終わった景行天皇一行は、稱疑野神社の地を出発し大野川に沿って下り海に出た。海を南下し、保戸島を経由し、延岡市西階の川辺駅跡に滞在した。そこからさらに、南下し、高鍋町蚊口浦より上陸し鵜戸神社で戦勝祈願した。さらに南下し一ッ瀬川河口より遡り、西都市荒武に着いた。景行12年11月のことである。ここに高屋宮を作り、長期(半年暦で3年・現行暦で1年半)滞在したのである。

 高屋宮に長期滞在した理由は何であろうか。熊襲を討つだけなら3年も滞在する必要がない。日本書紀には、日向に美人の聞こえ高い御刀媛を召して、妃とし、妃は日向国造の始祖である豊国別皇子を産んだとされている。景行天皇は自らの皇子70人ほどを各地の国造に任命している。日向国の国造を任命するのが目的ではなかったかと思われる。

 日向国は大和朝廷成立時、出雲と共に自治が認められていた土地である。日子穂々出見尊の子孫が西都原を拠点として統治していたと思われる。倭の大乱後大和朝廷に自治を返上したが、国造は日子穂々出見尊の子孫がそのまま継承していた。景行天皇は日向国国造に自らの血を入れようとしたが、神武天皇の故郷である日向という国柄により、日子穂々出見尊の系統を無視することができなかったのであろう。そのために、景行天皇自身が日子穂々出見尊の子孫の娘を妃とし、その間に生まれた子を日向国造とするのが目的だったと考えられる。

 高屋宮を作った直後、熊襲征伐をし、その後御刀媛を召して、皇子が生まれるまで、高屋宮に滞在したのであろう。その期間としては皇子が妃の体内にいる期間を含め現行暦で1年半は妥当な期間といえる。

熊襲征伐 

 周辺巡幸

 高屋宮に拠点を決めた景行天皇は周辺の朝廷の指示に従わない国造の所在を確認した。

 高屋神社 宮崎市村角町橘尊1975
景行天皇日向にいますこと四年間の仮皇居地の霊山

 巨田神社 宮崎市佐土原町
境内には景行天皇が腰掛けたという石もあります。

 生目神社 宮崎市大字生目345
御子景行天皇熊素襲征伐の途、御父君垂仁天皇の御命日に偶々之の地にて神霊祭りを御営みになられた。

 日吉神社 国富町本庄犬熊
 昔、黒山に老熊いて人を食う。景行天皇巡幸のとき、これを聞き、弓矢で一本山に射た。また、射ようとした時、弓が三つに折れてしまった。老熊が天皇に襲いかかろうとした。その時、白い犬が現われ、老熊をかみ殺した。それで、その三つ折れの弓を、そこに埋めた。三弓原の名の由来である。

 錦原・五ヶ所・十ヶ所の戦い
 第十二代景行天皇が、熊襲征伐にやってこられた。綾の台地に錦の御旗を立てられたので、そこを後に錦原と呼ぶよ
うになった。
景行軍は、台地の南の綾南川の北岸の十ヶ所に旗を立て、そこを後に十ヶ所と呼ぶようになった。一方、熊襲軍は
南岸の五ヶ所に旗を立て、そこを後に五ヶ所と呼ぶようになった。この時急に豪雨となり、南岸に水が溢れ、混乱
したところに景行軍が矢で追い討ちをかけた。それで、戦いは景行軍の大勝利になったと伝わる。

 専寿寺 小林市細野字水落
景行天皇が熊襲征伐した時の行宮「鷹屋宮」と伝わる。御腰掛石もある。
景行天皇が熊襲征伐のため、ここで軍兵を訓練していた。すると寺の東の山上で、一羽の鷹がじっと見つめていた。やがてその鷹は声高に鳴くと熊襲の方へ飛んでいった。天皇は、これは軍隊を守る兆しに違いないと、その方向に礼拝した。天皇は熊襲を征伐した後、あの鷹を「拝鷹天神」として祭り、山の名を鷹導山と名付けた

 景行天皇は高屋宮を出発し、村角の高屋神社の地に拠点を移した。ここは日子穂々出見尊の誕生伝承地でもある。景行天皇は日子穂々出見尊の祭祀を重視していたのであろう。

 錦原で熊襲が勢力を持っていることを知り、宮崎から大淀川沿いに遡った。次に本庄川沿いに遡り、国富を経由して錦原に到着した。ここで、熊襲を征伐した。

 景行天皇は本庄川をさらに遡り、岩瀬川流域に入って小林市に着いた。水落の地に宮を立てて、軍を訓練した。景行天皇軍は高千穂山の麓を抜けて国分へ進軍した。

 隼人征伐

拍子川 (現水戸川)
水源は隼人城の岩間で、福島村を流れ、小村で海に注ぐ。
村民の言い伝えによると、景行天皇の時代、大人の隼人は大逆無道の行いで、隼人城・上井城に立てこもって王命に従わなかった。景行天皇は副将にヤマトタケルを引き連れて攻めたが、戦運利あらずして一計を案じ、河原で神楽を演奏した。
 するとその拍子に釣られて隼人が姿を見せたので、ある橋に差し掛かったところで隼人を誅殺した。そこを「拍子橋」と言っている。

止上神社 鹿児島県霧島市国分重久1896 
景行天皇の御宇日向の隼人が叛き天皇親から征伐された時、六所権現の霊神が大鷹となり擁護を加え、怱ち叛賊を平定されたため、その神霊を崇め祭ったという。

 日本武尊が熊襲の穴を襲撃した後、景行天皇と合流し国分にやってきた。景行天皇軍は隼人城を攻めて隼人を征伐した。

 大隅征伐

白鳥神社 曽於郡有明町伊崎田6426
日本武尊滞在地 首魁川上師を誅し以て悉く平定し給ふた。今神社鎮座の所は即ちその砌玉歩をはこび給ふたところそして御腰かけの岩であったと申し伝へられる。

叶岳 鹿児島県肝付町
景行天皇はこの山に登り国見をされ、無事熊襲を退治することができた。よってこの山を叶岳と名付けた。

高屋神社 肝属郡内之浦町北方1500
景行天皇が、熊襲親征のため天子山に御滞在中、国見山の山頂に祀られている彦火火出見尊の御霊をお迎えして、高屋神社を造営されたと言い伝えられている。

 熊襲の穴の襲撃で日本武尊が有能であると知った景行天皇は曽於国の平定を日本武尊に任せて自らは肝属方面の反逆者を平定した。 

 大隅半島一帯の反逆者を退治することができた景行天皇一行は高屋宮に帰還した。景行13年5月のことである。

 高屋宮に帰還したのち、景行天皇は御刀媛を召して、皇子が生まれるまで、高屋宮に滞在した。

 九州西側巡幸

 景行18年3月、豊国別王が生まれ、順調に育っていることを確認した景行天皇は、九州西側の巡幸することに決めた。

夷守

 大出水 小林市南西方大出水
諸県君泉媛が景行天皇を歓待した所と伝わる

夷守 小林市細野夷守
景行天皇が夷守に着いた時、遠くから岩瀬川の方を見ると、人が大勢集まっている。供の者に調べさせると、諸県君泉媛が天皇を歓待するためであったと伝わる。

人吉

日本書紀
 夏4月3日に、熊の県(あがた)に着いた。そこには熊津彦の二人兄弟がいた。天皇はまず兄熊(えくま)を召しました。兄熊は使者に従ってやって来た。次に弟熊を召したが、やって来なかった。そこで、兵を出して殺した。

白髪岳や狗留孫
狗留孫渓谷一帯に熊襲が住んでおり、景行天皇が軍を進められ掃討戦は一か月に及び、天皇は「五月の壬辰の朔に、芦北より発船したまひて」火国に来た。

天子の水 球磨郡深田村草津山
景行天皇がこの地をおさめに来た時にしばらく御輿をとどめたことで聖地とされ,そこで湧き水を飲んだことにより名付けられた。
球磨郡内には芦原の天子のほかにも十二か所の天子があり、何れも景行天皇とのかかわりが考えられる。
上村字麓の天子、上村字石坂の天子、上村字塚脇の天子、免田町久鹿の天子、多良木町牛島の天子、深田村草津山の天子神社、錦町一武字本別府の天子、錦町木上字平良の天子神社、相良村柳瀬字三石の天子、山江村字山田合戦峰の天子、山江村城内の天子、人吉市中神町古屋敷の天子

小林を出発した景行天皇は岩瀬川を遡り、狗留孫峡周辺の熊襲を征伐した。そして、白髪岳を超えて、人吉(熊県)に着いた。ここでの掃討戦は1カ月にも及んだようである。景行天皇はこの1ヶ月間人吉盆地内をかなり巡幸しているようである。

八代

日本書紀
 景行天皇18年5月 天皇が葦北より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で、人の火ではなかったので、その国の名を『火の国』と名付けた

津奈木 葦北郡津奈木町
景行天皇が熊襲攻略の帰途、葦北から船出した時に、船を繋いだため『つなぎ』と称した。

御所浦・・・天草市御所浦町
景行天皇の寄港にちなむとする伝承あり。御所浦に行宮がおかれ、御所浦天満宮には、これにまつわるともづなの石が祀られている。

嵐口(あらぐち)・・・天草市御所浦町嵐口
景行天皇が西国巡視の折、東風にあおられたため当地に寄港しようといたが、波が高く寄港できなかったことから、当地を嵐口とよぶ伝承がある。

姫浦・・・上天草市姫戸町
景行天皇が葦北より不知火海に来られた時、暴風に遭って難航された。すると乗っていたおられた姫が、海神の怒りを鎮めようと荒れ狂う海に入水された。やがて屍が漂着したので、村人は社を建てて祀り、ここを姫浦と呼んだ。(姫浦神社)

宮田・・・天草市倉岳町宮田
景行天皇が宇土からの帰途、天草の御所浦島に宿泊した際に対岸の当地の田から良質の米を献上したことにちなむとする伝承がある。

御立岬 葦北郡田浦町田浦湾の突端
景行天皇がここに寄港したとの伝承による。景行天皇が多くの漁り火に誘導されて、芦北の港に着き、あの光はと尋ねられて、『不知火』と答えて、この海の名前が不知火海と命名されました。

日奈久 八代市日奈久
肥前風土記に景行天皇が『葦北の火流れの浦より発船して、火の国に幸(いでま)しき』とあり、この火流れの浦(ひながれのうら)は当地と比定される。

水島 八代市植柳下町
景行天皇18年4月条で、『夏4月芦北の小島にとどまって食事した』とあり、この時水がなかったので小左というものが天神地祇に祈ったところ、たちまち清水が崖のほとりから湧き出たのでそれを汲んで天皇にさしあげたことから、水島と呼ばれるようになったという。水島は、球磨川河口の堤防から50mほど離れた所にある小さな島である。

豊村 宇城市松橋町豊福
景行天皇18年5月条で、天皇が『何という邑ぞ』と聞かれ、国人が『是、八代県の豊村』と答えたという場所。

 景行天皇は人吉の熊襲を掃討後、八代に出ているが、その経路は伝承を見る限り、球磨川を下っているのではないようである。球磨川は急流であり、危険が伴っている。経路を推定すると、次のようになる。

 人吉から南に出て、宮崎県との県境の山に登る。その山の峰沿いに東に抜ければ、比較的平たんなところを通って津奈木に出られる。川を下るより安全といえる。

 津奈木に出た景行天皇一行は津奈木で船を作り、そこから船出をしたのである。船出先は天草の御所浦である。御所浦に熊襲がいたためであろう。戦いの伝承がないことから、話し合いであっさりと解決したのかもしれない。

 津奈木→天草御所浦→御立岬→日奈久→水島→豊村と移動したのであろう。この間は戦いもなく順調な旅であったと思われる。

 宇土

 「日本書紀」
…六月の辛西の朔発亥に 高来縣より玉杵名邑に渡りたまふ 時に其の処の土蜘蛛津煩というを殺す 丙子に
阿蘇国に到りたまふ…
」とあって、島原半島では景行天皇の高来縣から、玉杵名邑への出発点は、口之津町宮崎
鼻からと言う伝説がある。

「肥前風土記」
 景行天皇が巡幸された時、島原半島をみて、「あれは、島か、陸続きか、知りたい」と。
神大野宿祢(みわおほののすくね)に見せに行ったところ、人が迎えに来て、「僕者此山神名高來津座 聞天皇使之來 奉迎而巳 因曰高来郡」(私は此の山の神、名は高來津座(たかつくら)といいます。天皇のお使いが来られると聞いて、お迎えに来ました。)と申し、
「因りて高来(たかく)の郡(こほり)と曰ふ。」

温泉神社 南高来郡小浜町雲仙319番地
 纏向の日代宮御宇天皇(景行天皇12年能襲御親征の時)肥後国玉名郡長渚浜之行宮に在りて、此の郡の山を覧て日く。「彼の山之形、別島に似たり。陸に属るの山か、別在の島か、朕之を知らまく欲りす。「仍て神大野宿禰に勅して遣はして之を看せしむ。往いて此の郡に致れば媛に人有り迎来りて日く「僕者此の山の神、名は高来津座、天皇の使の来るを聞き迎え奉る而巳」因って高来の郡と曰ふ。 

御腰の石
景行天皇がクマソとの戦い後、八代-島原を経て長渚ノ浜に着かれ、深田浦でお休みになり、腰を掛けられたという言い伝えがあります。

三角
 景行天皇巡幸の際御座船の停泊された。それを縁として御門となり、その後三角となった。

御輿来海岸(おこしきかいがん)・・・宇土市網田
 宇土半島北岸に位置し、名の由来はその昔、景行天皇が九州遠征の際、美しい海岸線が天皇の目に留まり、しばし御輿を駐め見入られたという

 御船
景行天皇が船を寄せられた故、御船と名付けられたという。

神代神社
 鶴亀城本丸跡は神代神社境内であり、「景行天皇の熊襲征伐の時に、神代直(こうじろのあたい)という重臣がいて、その一族が、この土地に残って代々治めた」とある。

ここで、景行天皇は島原に渡ったと日本書紀に記録されている。しかし、調査が足りないのかもしれないが、調べた範囲で島原に景行天皇の直接的伝承が見つからないが、配下の者の伝承は存在している。また、島原の口之津は島原半島の南端である。ここへ上陸するには天草下島を経由する必要があるはずであるが、天草上島・下島共に景行天皇の伝承が見つからないのである。

 以上のことから、景行天皇自身は島原に渡っていないと判断する。佐賀・長崎一帯の巡幸も配下の者を行かせたのではないかと考える。

 景子王天皇自体は宇土半島の先端の三角まで行き、そこで、島原方面に行く重臣大野宿禰と別れたのであろう。大野宿禰は天草上島・下島と経由して島原半島の口之津に上陸したと考える。

 景行天皇自身は御船を経由して、玉名に上陸した。

 玉名

姫ヶ浦 長洲町姫ヶ浦
日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)が景行天皇のあとを追って、長洲に来たものの既に天皇は発った後で、女官と共に海に身を投げて石になってと伝えられる。その石は名石神社祀られている。

名石神社 玉名郡長洲町内沖洲
 腹赤深田舊社地(行在所跡)に鎮座せられてありました。景行天皇はクマソを平定せられ歸路島原より御船にてハラアカの浜に着御んせられましたそのとき魚を釣るのを御興深く御覧になり魚の名をハラアカと付けられました。

腹赤の贄 長洲町腹赤
『肥後国風土記逸文』に、景行天皇巡幸の折、漁師が魚を釣って献上した。マスに似ているが名が分からない。天皇は『物の多いのをニベサニといういう。この魚も多いので、にべ魚というべし』と名付けた。

玉名大神宮 玉名市玉名4600
人皇12代景行天皇筑紫御巡幸の時此の地に上蜘蛛頬といふ朝敵あり、当地を押領して王化に服せず、帝之を誅せんとして軍利あらず東の方遥かに天照大神を拝し怨敵の降服を祈り給ふに怱にして感応あり空中轟々として雷鳴の如くして、玉座の側に落つるものあり、帝見給うに一のきせきなり。即ち不測の神験ここにあらはれて津頬も遂に誅にふつしたれば帝叡感ましまして此地に当社を建立し遥拝宮と称し給ふとあり。

 疋野神社 熊本県玉名市立願寺457
景行天皇御巡幸の折りに重く祀られたと伝えられる。

 菊池川流域は球磨国(狗奴国)の本拠地である。球磨国の王も景行天皇の国造を朝廷の系統にすることに反発していたのであろう。

 景行天皇が上陸した浜は菊池川河口よりも6kmほど北側である。景行天皇が南からやってきたとすれば、一度河口を通過して長洲に上陸したことになる。しかし、島原半島から上陸したとすれば、長洲に上陸するのは最短距離である。

 景行天皇は菊池川河口を一度通過して様子を探ったものと考えられる。神武天皇も新宮に上陸する時、一度河口を通過している。この頃警戒を要する地域に上陸する時は一度通過して様子を見てから上陸するのが定石だったのかもしれない。

 上陸後、景行天皇は名石神社の旧社地に宮を作り、菊池川流域の情報を集めたのであろう。

 山鹿

大宮神社・・・山鹿市山鹿196
景行天皇が巡幸の折、玉名から阿蘇に向かわれる途中、山鹿の杉山(現社地)に行宮(あんぐう、仮の御所)を造り、付近の賊(茂賀の浦・鍋田の八頭の大亀と震岳(ゆるぎだけ)・上吉田の賊徒)を平定された。その後、行宮(あんぐう)の跡地に天皇を奉祀(ほうし)したのが大宮神社。

山鹿燈籠起源
景行天皇が、玉名から山鹿に来る際、一面濃霧が立ち込めて進路を阻んだので、里人が松明(たいまつ)をかかげて一行を迎え、現社地へ導いた。その時の松明が山鹿燈籠の起源と伝えられる。

吉田八幡宮 山鹿市下吉田929
景行天皇当地に於いて熊襲御巡狩の砌、御祈誓されし八神殿の御霊代

北宮阿蘇神社 菊池市北宮64
筑紫巡狩の際、国造神社(現今阿蘇郡一の宮町の手野)を修理して命を奉斎されました。

千田八幡宮 鹿本郡鹿央町千田3
 第十二代景行天皇熊襲征討の際、肥後国山鹿に陣し給うとき南に当って、海中に八ッの光、夜となく昼となく見えたので、時の大臣を遣わして見せしめ給うに躰一ッにして八頭の龜あり、寒言神尊利根陀見の八ッの声にて鳴告げて白うに、天皇熊襲退治の守護となるべしと。かくして八神と現われた千田の八島の海中に沈んだ。その後自然と八ッの島となる。是時日本八州と号したと云う。

 山鹿地方こそ球磨国の本拠地である。かなりの抵抗があったと思われるが、崇神天皇時代の戦いによってかなり弱体化していたのであろう。かなり短期間で決着がついているようである。また、景行天皇の宮跡の大宮神社の地は本拠地と思われる地域のすぐそばである。これも球磨一族が弱体化していた証しであろう。

 山鹿灯篭の機嫌を見ても分かる通り、現地の人々は大和朝廷の支配を受け入れていたようである。あくまでも朝廷に逆らおうという勢力は一部であったようで、それが、短期で解決した理由であろう。

 筑紫から宇佐へ

大神宮 三池郡高田町大字海津字南1479
景行天皇が江崎村(今の長島)に上陸されて数ヶ月間御駐留になって旅のつれづれを慰め給うた折、都の天照皇大神を東方潟の地に奉祀して神徳を仰がれた。

御門神社 三池郡高田町大字海津字御門1607
景行天皇は九州を巡遊されたる時船を釣殿の地に着け上陸されたる地点が江の崎と言う島である。茲に旅の疲を慰すべく数ケ月駐留され土地の状況等つぶさに聞し召された。島民は極めて温順で、海辺に漁りしたる魚を奉った。

八女津媛神社 福岡県八女市矢部村北矢部4015
 日本書紀に景行天皇が八女の県に巡幸の折、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい。あの山にだれか住んでいるか」と尋ねられた。そのとき、水沼の県主 猿大海が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と答えたことが記録され、これから“八女”の地名が起こったといわれています。

高良山
 景行天皇が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮官)を建て、国見をされたという。そのとき基肆(きい)の山が霧におおわれていたので、天皇は「この国ば霧の国と呼ぷがよい」といわれた。後世、改めて基肆国と名づけた。同じく天皇が、高羅の行宮から還幸の途中、酒殿の泉で食事中に天皇の鎧が光った。お供の占師、ト部殖坂が判じて、「土地の神が鎧を欲しがっています」と申し上げた。天皇は、「鎧を奉納するから、永き世の財宝にせよ」といわれた。それで永世社と名づけ、後の人は改めて長岡社(いまの鳥栖市永世神社、酒殿の泉は同市飯田町重田池だという)とした。また御井郡の川(筑後川)の渡り場の瀬が非常に広かったため、人々が難渋していたので、天皇は筑後国生葉山を船山(造船用の木材)、高羅山を梶山(舵用の木材)としたので、人々は救われた。この地を後の人は日理(わたり;亘理)の郷といった、という。

賀茂神社 浮羽郡浮羽町大字山北1
景行天皇御巡幸に際しては天神地祗を祭祀され、今摂社三次宮に天皇を奉祀してあります。

大分県日田市石井
 昔、この村に土蜘蛛の砦があった。石を使わず、土で築いていた。そのために「石なしの砦」といった。後世の人が石井の郷というのは、誤っているのである。
 景行天皇が熊襲征伐後凱旋し、この郡にやってきたとき、久津媛(ヒサヅヒメ)という神が人の姿をして出迎え、地域の状態を明瞭に報告し、それによって久津媛の郡というようになり、訛って日田郡というようになった。

 福岡県南部地域の三池、高良山周辺に少なくとも数ヶ月間滞在したようである。浮羽に着いたのは景行18年8月なので、この地に滞在中に浮羽を訪問していると解釈できる。

 景行天皇がこの地に長く滞在したのは佐賀・長崎地方の状況把握と、土蜘蛛退治のためであろう。この地域には景行天皇が直接赴くよりも、配下の者たちを派遣して土蜘蛛退治をしているものが多い。

 長期滞在後、景行天皇は日田を経由して宇佐に出て、宇佐に滞在後、大和に帰還したのである。

 佐賀・長崎の景行天皇関連伝承

櫛田宮 佐賀県神埼市神埼町神埼419?1
景行天皇が筑紫を巡幸した際、この地の荒ぶれる神々を鎮めたことにはじまったと伝わる。参道横には、樹齢約1000年ともいわれるご神木「琴の楠」がある。この樹は、景行天皇が地中に埋めた琴から芽生えて楠になったといわれている。

佐嘉郡
佐賀県佐賀市から佐賀郡。日本武尊が巡行なさった時、楠が茂り栄えているのをご覧になって、「この国は栄の国
と呼びなさい」とおっしゃった。そこで栄郡という。後に改めて佐嘉郡という。

小城郡
佐賀県多久市から小城郡。昔、この村に土蜘蛛(朝廷に従わない土着民)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天
皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。そこで小城郡という。

佐賀県多久(たく)市東南部の両子山(ふたごやま)
 景行天皇巡幸時、土蜘蛛八十女人が嬢子山の山頂にいた。常に天皇の命令に逆らい、服従しなかった。そこで兵を派遣して襲い掛かり滅ぼした。よって嬢子山という

佐賀県鹿島市能古美地区
 景行天皇巡幸時、この里に、大白・中白・少白の三人兄弟の土蜘蛛がいた。彼らは砦を作って隠れ住み、服従しなかった。そのとき、従者で紀の直らの祖・穉日子を派遣し、罰し滅ぼさせようとした。大白ら三人は叩頭(のみ)て、自分達の罪を述べ、ともに命乞いをした。よって能美の郷という。

藤津郡
佐賀県藤津郡から鹿島市。昔、日本武尊が巡行なさった時、ここの津(海岸)に至ったところ日没となり、御船を
お泊めになった。翌朝ご覧になると、船の綱を大きな藤の蔓につないでいらっしゃった。そこで藤津郡という。

御手水権現 佐賀県藤津郡太良町大字糸岐
「御手水」の名は昔、景行天皇が行幸の折、この神殿の裏の滝で御手を洗われたことからおこったといわれています。

玖島 長崎県大村市玖島
地名は、景行天皇が大村にいらっしゃったときに命名されたもの

長崎県彼杵地域
 景行天皇が宇佐の仮宮にいるとき、神代の直に言うには「私は多くの国々を経巡って、すっかり服従させ治めるに至った。まだ私の統治を受けていない逆賊はあるか」と。神代の直が言うには「その煙の立っている村は、いまだに統治を受けておりません」と。そこで神代の直に命じ、その村に派遣した。浮穴沫媛という土蜘蛛がいたが、天皇の命に従わず大変無礼であった。そのためすぐに誅した。よってこの村を浮穴の郷という。

長崎県佐世保市早岐
 景行天皇が熊襲を滅ぼして凱旋し、豊前国の宇佐(大分県宇佐市)の海岸の仮宮にいたとき、従者の神代の直(かみしろのあたい)に命じて、この郡の速来の村に派遣して、土蜘蛛を捕らえさせた。ここに、速来津姫(ハヤキツヒメ)という女性がおり、彼女が言うには「私の弟・健津三間(タケツミマ)が健(たけ)村に住んでおります。彼は「石上(いそのかみ)の神の木蓮子玉(いたびだま)」という美しい玉を持っていますが、他人に見せません」と。神代の直が健津三間を尋ねると、山を越えて逃げたので、追って捕らえて姉の言葉の真偽を問うた。健津三間が言うには「実際に二種の玉を持っています。一つは石上の神の木蓮子玉で、もう一つは白珠(しらたま)です。中国の有名な玉にも比べられる程ですが、願わくば献上させて下さい」と。さらに速来津姫が言うには「篦簗(のやな)という川岸の村に住んでいる人が、美しい玉を持っていて、大変いとおしんでいます
が、命令に従うことはないでしょう」と。神代の直は追い詰め捕らえ、問うと、篦簗が言うには「実際に持っています。献上します。決して惜しみません」と。神代の直は帰って、三種の玉を天皇に献上した。天皇が言うには「この国は具足玉(そなひだま=玉が十分に備わっている)の国というがよい」と。今、彼杵というのは、それが訛ったものである

住吉神社 佐世保市広田町90番地
口碑の伝うる所に依れば、景行天皇九州御親征の砌建立せられたたるものなりと。三筒尾命を祀る。元早岐村字上原の宮に在り、後今の地に遷る。故に大祭に際しては今に早岐瀬の目に行幸の式あり。

志々伎神社 平戸市敷佐町字焼音203番地
 人皇第12代景行天皇が筑紫(九州)を巡幸された折り、志式島の仮宮(宮ノ浦の行宮)に在して、西の海(宇久、小値賀、五島列島)をご覧になって云々」と記されてある。この因縁が志自岐神社の創建につながる。

長崎県五島列島
 景行天皇巡幸時、平戸島から西の海を眺めると、海の中に島があり、煙が多く立ち上っていた。従者阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)に見に行かせた。島は八十余りあった。そのうちの二つの島には島ごとに人がいた。第一の島を小近といい土蜘蛛大耳が住んでおり、、第二の島を大近といい土蜘蛛垂耳が住んでいた。その他の島には人がいなかった。百足は大耳達を捕らえ、報告した。天皇は勅により誅殺しようとしたが、大耳達は叩頭し「私達の罪は極刑に値し、一万回殺されても罪を贖うには足りません。が、もし恩情により生かして頂ければお食事を造りいつまでも御膳に献じます」と言って、鮑を様々に加工して料理の見本を献上した。そこで天皇は恩情により許して釈放した。

淀姫神社 松浦市志佐町浦免字馬場632番地
人皇12代景行天皇甲申14年前2年後4年前後6年筑紫行在にて、戊子18年九州御巡行の時、清浄の場所として選ばれ、この地に假宮をお建てになられた。

佐賀県唐津市見借
 昔、この里に土蜘蛛がいて、名を海松橿媛と言った。景行天皇巡幸時、従者の日下部の君の祖・大屋田子を派遣して罰し滅ぼした。その時に霞が四方に立ち込めて、風景がよく見えなくなった。よって霞の里という。賀周の里というのはこれが訛ったものだ、という地名由来

佐賀県唐津市馬渡(まだら)島、あるいは長崎県平戸市的山(あづち)大島
 景行天皇巡幸時、この村に土蜘蛛がいて、名を大身といった。常に天皇の命に逆らい服従しようとしなかった。
天皇は勅命により罰し滅ぼさせた。それ以後この島に漁民達がやって来て、家を造って住むようになった。それで
大家の郷(さと)という

 これらの伝承から景行天皇の巡回コースをたどってみると、
三池高田宮→佐賀県神埼→多久→鹿島→多良→諫早→大村→彼杵→佐世保→平戸→松浦→唐津→高良山
ではあるまいか。この当時諫早地方は有明海と大村湾が海路でつながっていたのではないかと思われる。この経路は400km程であり、水行一日20kmとして20日ほど必要である。当時の暦で1ヵ月半である。三池高田宮に数カ月滞在中に巡幸したのではないかと考えられる。

 これらの地域は景行天皇が一族を率いて巡幸し、土蜘蛛がいることが分かったら、配下の者を派遣して征伐しているようである。短期間での巡幸を目指していたのであろう。

 日田を通って宇佐に着いた後、九州全域でまだ土蜘蛛がいるかどうかを確認し、まだいたと思われるところに配下を派遣して征伐した。九州全域に土蜘蛛がいなくなったことを確認して、景行19年9月九州を旅立って大和に戻ったのである。

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