日本武尊西征

 日本武尊関連伝承地地図

 日本武尊は垂仁21年(AD288年後半)に誕生し、景行26年(AD310年後半)に亡くなっている。享年22歳である。日本武尊の一生を解明してみよう。

 日本武尊生誕地

 兵庫県加古川市の日岡神社には、神社の南、約1kmの加古川市美乃利に、古くから伝わる「ヤマトタケルの産湯の盥」がある。と伝えられている。生誕地には今も大きいうすと小さいうすが置かれているそうである。

 日本武尊は垂仁21年(AD288年後半)、現在の加古川市美乃利の地で、父を大足彦忍代別命(後の景行天皇)、母を若建吉備津彦の娘、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とし、双子の弟として生まれている。兄は大碓皇子で、後の牟宜都国造である。日本武尊は幼名を小碓尊という。

新吉備津彦系図(古代史の復元)
神武天皇┬神八井耳命─武宇都彦──武速前──孝元天皇──開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行天皇───成務天皇
神武天皇神八井耳命─武宇都彦──武速前──孝元天皇──開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇┬大吉備諸進┬稚武彦皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行皇──┌大碓尊
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇大吉備諸進開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行├───┤
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇大吉備諸進└彦狭島命──崇神天皇──垂仁天皇──景行皇──└小碓尊───仲哀天皇
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇孝元天皇──開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行│       (日本武尊)
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇└孝霊天皇─┬倭迹迹日百襲姫神天皇──垂仁天皇─┌播磨稲日大郎姫
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇└孝霊天皇─開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇─
神武天皇└綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇└孝霊天皇─└─────五十狭芹彦─稚武吉備津彦┴御鋤友耳建彦─吉備武彦

 九州遠征

 日本武尊の熊襲征伐は日本書紀では景行27年10月となっているが、換算干支の影響で15年ずれていると考えられ、実際は景行12年に熊襲征伐を実行したことになる。これは、景行天皇が九州遠征した年と同じである。日本武尊31歳(現行16歳)である。

 景行天皇が西都市荒武で高屋宮を立てたのが景行12年11月である。日本書紀によると、日本武尊が熊襲征伐をしたのは景行12年12月である。景行天皇が高屋宮を立ててすぐに日本武尊を熊襲征伐に行かせたことを意味している。景行天皇は高屋宮で日本武尊に熊襲征伐を命じたのである。

 熊襲征伐

 景行天皇は高屋宮に着くとすぐに熊襲征伐を命じていることから、熊襲征伐は景行天皇の九州遠征の大きな目標の一つだったのであろう。景行天皇自身は周辺巡幸があったために、日本武尊を熊襲征伐に向かわせたのであろう。

 日本武尊が攻撃した熊襲はどこであろうか?伝承を調べる限りにおいて、日本武尊が襲撃した伝承を持つのは2か所である。鹿児島県霧島市妙見温泉にある熊襲の穴と国分市の拍子川である。拍子川の方は景行天皇の行動伝承が含まれるので、日本武尊が襲撃した熊襲の位置は妙見温泉の熊襲の穴となる。

 ここには次のような伝承がある。

   熊襲の穴 鹿児島県霧島市妙見温泉

 日本書紀によると、今から千二百余年前に鹿児島県隼人町の「出入口が東側に面する場所」とあるから、現在の妙見温泉、妙見石原荘の西側二百米の崖山、現在の「熊襲の穴」を指すという。昔は奥に千畳敷もあったといわれ、ここに、居を構える熊襲族(隼人族)の大将、川上梟師(カワカミノタケル・川上武)の寝台が完成し、その祝いに熊本、鹿児鳥、宮崎の南九州に、またがる五十五の部族の主将達が参集して酒盛が催さ れた。
 一方、景行天皇(大礁命)の皇子である、荒くれ者だった十六才の小礁命が、熊襲が朝延に貢ぎ物をしないので、征伐の機をうかがって、隼人迄遠征されていた。
 丁度、部族の女達が御酌をし、宴たけなわの折、小礁命は女装して宴にまぎれ込み、川上武の前に出た。陶酔の武は、うつろな目で、小礁命を見るや「今まで見たこともない綺麗な女だ、お前と二人で飲もう」と隣席との幕をしめ、二人っきりになった。小礁命は懐中してい た剣を、お酌をするふりをして、川上武の背中をブスリと刺した。
 驚愕の武は「そちは何者か」「われこそは景行天皇の息子、小礁命なるぞ、お前が朝貢をしないので征伐に参った」武は「あなたは私より強い、小礁命では名が小さい、私の名を取って「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)として頂きたい」と言った。小礁命は命名を了承された。
 その時分、泥酔した弟の、建がフラフラして現れ出た、小礁命はこれを真正面から建の胸をハッタと刺して即死させた。この悲鳴に隣室で泥酔の主将達が幕を開き、異常さに仰天、血塗りの剣を持つ女装の少年、唯一人を大勢の強力な男達が突きにしようと構えた。
 その時、川上武は流血、瀕死の虫の息で制止し、「こなたは、景行天皇の皇子小礁命だ、朝貢しないので征伐に来られた、決して殺すでないぞ、ヤマトタケルノミコトと、命名して頂いた、朝廷まで無事届けてくれ、そして我々は今日限りで解散してくれ」 と命じ息を引き取った。
 予て、統制力の厳格にして尊敬する首長、川上武の小声の厳命を何の抵抗もなく主命として悲哀の極限の中で守った。
 日本武尊を無事朝廷に帰したので、その後蝦夷の征伐等次々に日本国の安泰のため進展されたのである。
貢物をしなかった理由は、血みどろで開墾した作物を、仮に一万俵の米を、命令の半分、五千俵をどうして朝廷まで運ぶかと根の正直な、武は躊躇していた。
外の諸候達は、朝廷の命令による無償朝貢に対し、僅かな品物を持参して事足りていた、と記されている。
 川上武と弟、建の死後、天変地異が起り、隼人に塚を建て、其後鎮まったと記されている。

                                石原貫一郎氏 熊襲こそ貴族より

 日本武尊は熊襲の穴を襲撃したのである。

 日本書紀景行28年に日本武尊は景行天皇に復命し、熊襲征伐の報告をしている。景行28年は15年のずれを修正すると、景行13年となる。高屋宮から熊襲征伐に出発したのは、景行12年12月なので、景行13年に復命するのは自然な流れとなる。ただし、復命したのは大和の景行天皇ではなく、高屋宮の景行天皇となる。

 拍子川の方は熊襲征伐後、景行天皇と合流してからの伝承であろう。

 日本武尊の九州における伝承

神社 祭神 所在地 伝承
白鳥神社 日本武尊,両道入姫命,橘姫命 香川県大川郡白鳥町松原字新町69番地 日本武尊は人皇十二代 景行天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、其の後東国を征定し給ひ還啓の途次、近江国伊吹山にて癘病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。御年30、実に、景行天皇41年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命じ其の地に山稜を造り厚く葬り給ふ、
平田神社 日本武命,御歳神 宮崎県児湯郡川南町大字平田1924 創立年代は不祥なるも古老の口碑によると日本武尊熊襲征伐の為西下されし時、幣田川(現平田川)河口の伊倉より御舟にて川を上られ川岸の年の森に舟を寄せ給い、現社地の東南の高台(現在も濠跡が存す)の御山に宮居を定め暫しこの地に留まられ熊襲岨征伐の後再び立ち寄られた。
岩爪神社 伊邪那岐命,伊邪那美命 宮崎県西都市大字岩爪1084-イ 境内は景行天皇の子日本武尊が熊襲征討下向の際、この地より紀州の大権現に対し戦勝祈願をされた聖地と云われる。
剣柄神社 彦稲飯命,玉依姫命,神倭磐余彦命 宮崎県東諸県郡国富町大字本庄4845 日本武尊が熊襲梟師を刺したる短刀を埋蔵したる塚とも言われる。又、日本武尊が剣玉の誓いをなせし時の剣の柄を納めたものとも言われる。
柿迫神社 素盞嗚尊,伊弉諾尊,伊弉冉尊,櫛稲田姫命,大年命,大山咋命,大国主命 熊本県八代郡泉村柿迫4830 日本武尊の熊襲御征西の折りには深く奉賽されたなどの伝承がある。
八剣神社 日本武尊 福岡県鞍手郡鞍手町大字中山1588  九州の熊襲討伐に向かう日本武尊は、途中この地に滞在旅の疲れを癒していたが、ある時、砧(キヌタ:布をのせて叩く木の台)を打つ音に惹かれて一軒の家を訪ねると、美しい女性が一心に砧を打っていた。いつしか二人は契りを結ぶが、尊が熊襲を平らげてこの地に戻ってきたときには姫は身重になっていた。尊は別離を惜しみながら、二人の契りの想い出にと一本の銀杏の木を植えられ都へ帰っていった
 八剣神社のある地は「立屋敷」と言って、ヤマトタケルの屋敷があったと言われている場所である。
浅木神社 日本武尊,素盞嗚尊 福岡県遠賀郡遠賀町大字浅木874 祭神日本武尊、応神天皇、素サノ鳴尊、昔時浅木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。日本武尊熊ソ御征伐の帰途臨幸の神跡の霊地である。
近津神社 伊弉諾尊,伊弉冊尊,軻遇突智神 福岡県直方市大字頓野1542 景行天皇平定より8年後熊襲征討のため入国した日本武尊は、土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭した。
八剣神社 日本武尊,天照太神,神功皇后 福岡県北九州市八幡西区本城2-1-56 第十二代景行天皇の御代日本武尊が熊襲征伐の折り、この地に立ち寄られた。
藤崎郡 佐賀県鹿島市 佐賀県藤津郡から鹿島市。昔、日本武尊が巡行なさった時、ここの津(海岸)に至ったところ日没となり、御船をお泊めになった。翌朝ご覧になると、船の綱を大きな藤の蔓につないでいらっしゃった。そこで藤津郡という。
宮崎神社 伊弉諾尊,伊弉冊尊,素盞嗚尊 鳥取県東伯郡大栄町大字島648  日本武尊西征の折、台風により御船を悩ましたが、不思議な力、神助により引寄せるように本社地の北東の地に着御せられた。そこで、尊は大変よろこばれて、「此の様に清らかな地の海面に浮出づるのは、これは浮き舟ではないか。」とおっしゃって、これより此の地を称して浮舟の社と呼ぶようになったという。舟の中央に大麻を立てられて御自ら御飯をたいて二尊を祭り神助を感謝されたという。御飯をたかれた所を今でも飯ノ山と呼んでいる。そこで、波も静かになったので、船に乗って出発なさったと言う。この時の小船が石と化して今の社地にあり、石船の神と呼んでいる

 日本武尊は景行天皇の九州遠征に同行し、景行12年12月に熊襲征伐し、その後、景行天皇が福岡県三池郡高田町に滞在中、佐賀・長崎方面を巡幸し、その後、鞍手の八剣神社の地に滞在し、遠賀川河口から出雲に向けて旅立った。景行19年のことであろう。

 景行19年に日本武尊の妃である両道入姫命が足仲彦尊(後の仲哀天皇)を産んでいる。日本武尊が九州巡幸時なので、両道入姫命も日本武尊に同行していたと思われる。

 出雲王朝廃止

 BC108年頃、出雲国に流れ着いた八島野命以降15代続いた出雲王朝も景行天皇によってAD307年頃廃止されたようである。このことを伝えるのは次の古事記伝承であろう。

 倭建命は九州からの帰還途中、出雲の国に立ち寄った。出雲建を殺そうと思ってその家に到着するや、友達として友好を結んだ。そして、密かにいちいの木で偽物の太刀に作って帯刀にして、一緒に肥の河で水浴びをした。
そして、倭建の命は河から先にあがって、出雲健がはずして置いた刀を取ってつけて
「刀を換えよう」
て言った。それで、後で出雲建は河からあがり、倭建の命の偽物の刀を腰につけた。それで、倭建の命は挑戦して
「さあ、試合をしよう」
と言った。
そして、めいめいの刀を抜いたときに、出雲健は偽物の太刀のため抜けなかった。すかさず、倭建の命は太刀を抜いて出雲建を打ち殺した。
 倭建の命は歌をお読みになった。
やつめさす 出雲建が
佩ける刀 つづらさは巻き さみなしにあはれ

そうして、このように平定して上京して復命した。

 この話のあらすじは出雲振根とその弟の飯入根との戦いのときのものと同じであり、真実ではないと思われる。出雲王朝は大国主命の出身王朝で大和朝廷成立後も出雲国に君臨していた。当時の出雲国は政治の出雲王朝と祭祀の穂日命の子孫である出雲国造家が共同して治めていた。景行天皇の国造の権限強化策は出雲にも及んだのである。

 出雲国は倭の大乱の相手国であり、倭の大乱の後遺症で朝廷も出雲に対しては気を使っていたところがあった。しかし、中央集権を強化するためには出雲も他の国と同じような国造が国を治める体制にする必要があったのである。出雲国は出雲国造家は倭の大乱終結後、飯入根の子鵜濡渟命に対して、他の国に先駆けて国造を任命していた。

 出雲国には出雲国造の他に出雲王がいた。この時の出雲王は第15代遠津山岬多良斯神(トオツヤマサキタラシ)であった。出雲国の統治は朝廷から認められた出雲国造家が実質統治しており、出雲王朝は有名無実化していた。景行天皇はそれを整理しようとしたのであるが、やはり反対はあったようである。

 景行天皇の和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、次の成務天皇は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、仲哀天皇は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)と三代続けて、出雲王朝15代トオツヤマサキタラシと共通名が含まれている。これは、出雲王家を継承するという意味が含まれているのではないかと考える。

 景行天皇は遠津山岬多良斯神の娘を皇后にすることで出雲王朝第16代を引き継いだのではないかと考えている。景行天皇には80人からの皇子がいたようで、その母は10人は伝わっているが、その他にも存在しているはずである。伝えられている妃の中に出雲王家の血を引くと思われる人物は存在しない。

 景行19年(AD307年)に九州遠征を終えたばかりの景行天皇は日本武尊に対し出雲に立ち寄り、出雲王家の娘を妃にすることによって出雲王家を廃止し、出雲国造家に統治させるように交渉させた。

 反対派が存在したのであろうが日本武尊によって簡単に平定された。この様子が出雲建として伝えられたのであろう。

加須加美神社 石川県小松市軽海町1-5-1 日本武尊が国土平定の砌、当地にご滞留になり、人にはその時の御遺徳をしのび、尊をお祀りしたのが始めと伝えている。
建部神社 滋賀県神崎郡五個荘町伊野部457 日本武尊御東征ノ帰路近江国造リノ祖意布多牟和気ノ女布多運能伊理賣ヲ娶ラル御子神霊ヲ奉シ大神ト共ニ千草嶽ニ合祀サレ近江一ノ宮建部大明神ト稱シ建部ノ氏神ト定メラレ給フ 

 上の二つの神社の伝承は、この後の日本武尊東征経路から外れている神社である。おそらく、九州からの帰還時の伝承が紛れ込んだのではないかと考えられる。日本武尊は九州からの帰還時、山陰・北陸を回り、敦賀から琵琶湖を経て大和に帰還したと思われる。

 日本武尊は景行19年、山陰経由で大和に帰還したのである。

 

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