日本武尊東征

景行天皇日本武尊東国遠征

 日本武尊が東国征伐に出発したのは景行40年10月であるが、換算干支によって15年ずれているので、実際は景行25年10月で日本武尊44歳(現行22歳)であろう。

 日本武尊は日継皇子(皇太子)であった。

 千葉県千葉市中央区蘇我町1-188の蘇我比咩神社記録

 第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が、東国地方を統一すべく勅命を受け、弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。このとき弟橘姫は「竜神の怒りに触れた」とこれを静め和らげんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比・がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来た。又里人達は、日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。

 日本武尊はこの神社の記録により皇太子であったことが分かる。早くに亡くなったために成務天皇が次の天皇として即位したのである。記紀には

 「天皇は私のことを早く死ねばいいとでも思っていらっしゃるのでしょうか。私に命じて、西方の朝威に服せぬ者どもを伐ちにやらせ、やっとのことで私が任を果たして大和へ戻っ てきてから、まだいくらも経ってはいないのです。それなのに今は また、兵卒どもを賜ることもなく、独力で、東方十二国の朝威に服せぬ者どもを退治してこいと仰せられる。 これはいったいどういうわけなのです。考えれば考えるほど、天皇は私のことを早く死ねばいいと 思っていられるに違いありません。」<古事記>

 などと不満を述べているが、景行天皇は皇太子としての試練を与えたのか、日本武尊に対する信頼が厚かったのかであろう。

 景行天皇は地方を朝廷直轄にするために、地方豪族から国造の地位を取り上げ、景行天皇関連人物を地方の国造に任命しようとしたのである。そのために、地方豪族の反抗が沸き起こったのである。九州地方は景行天皇自身の巡幸により平定されたが、まだ東国の豪族たちが反旗を翻したままであった。一刻も早く東国統一が必要だったのである。

 景行天皇自身は九州地方や朝鮮半島の情勢も考えなければならず都を空けるわけにはいかないので、皇太子である日本武尊に東国制圧を依頼したものと考えられる。日本武尊も東国派遣の目的を把握していたと思われ、景行天皇に対する不満はなかったものと考える。

 伊勢

 冬十月二日、日本武尊は出発された。七日、寄り道をされて伊勢神宮を拝まれた。そして倭媛命にお別れのことばを述べ、
「今天皇の御命令を承って東国に行き、もろもろの叛く者を討つことになりました。それでご挨拶に参りました」と言われた。倭媛命は草薙剣をとって、日本武尊に授けられ「慎重になさいませ。けっして油断なさってはいけません」と言われた。<日本書紀>

 草薙剣は素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した時、尾から出た神剣である。日本武尊は神剣を携えることにより、権威を高めようとしたのであろう。反抗する豪族に対してこの神剣を示すことにより、できれば戦わずして降伏させることが目的であったと考えられる。

 倭姫から剣を受け取ったのはどこであろうか。倭姫は天照大神を祀る地を探るために、移動を繰り返していた時期にあたり、現在の伊勢神宮はまだこの頃はできていなかったようである。

 この頃の倭姫の滞在地は伊勢国であったようである。伊勢国の元伊勢伝承地は下のように変遷している。

中島宮(愛知県一宮市)→野代宮(三重県桑名市)→小山宮(三重県亀山市)→藤方片樋宮(三重県松坂市)→飯野高宮(三重県松坂市)→佐々牟?宮(三重県多気郡明和町)→伊蘓宮(三重県伊勢市)→矢田宮(三重県伊勢市)→宇治家田田上宮(三重県伊勢市)→奈尾之根宮(三重県伊勢市)→五十鈴宮(三重県伊勢市)

 この中のどこかと思われる。

 日本武尊は剣を受け取った後、剣(草薙剣とは別の剣であろう)を忘れて出港している。その出港地と考えられる伝承地が上の三か所であるが、地理的状況を考えると、出港したのが戸津の尾津神社の地で、剣を忘れたのが小山の尾津神社の地であろうと思われる。

尾津神社 三重県桑名市多度町小山1915
日本武尊が東征に出たとき、尾津崎の松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけてそのまま置き忘れて出発した。そして、伊吹で伊吹の神に討たれ、大和への帰りに尾津に寄ったら帰還のとき、再びこの地に立寄ると、松の木にかけた剣が、そのままあるのを御覧になって、感じ入った。と言う場所に建てられた神社

尾津神社 三重県桑名市多度町戸津499
日本武尊出港地

 出港した日本武尊一行は東海市の船津に着岸している。

船津神社  愛知県東海市名和町船津1
この地は、十二代景行天皇の御子日本武尊ご東征の時、伊勢より海を渡られて、ここに御船をおつけになり、なわで船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たということである。

 出港した日本武尊一行は東海市の船津に着岸している。これら伝承地から判断して野代宮が最も可能性があるといえる。三重県内の外の地であれば、着岸地から考えて出港地がもっと南(四日市市辺り)になると思われる。

野志理神社  三重県桑名市多度町下野代 307
 倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で奉齋になり、国造大若子命が参じ相共にお仕えしたのがこの地という。

 野代宮伝承地はこの野志理神社の地と考えられている。

 奈良県桜井市穴師の景行天皇纒向日代宮を後にした、日本武尊一行は現在の名阪国道に沿って東に向かい、亀山より北上し、三重県桑名市多度町の野代宮に着いた。野代宮で倭姫と会い、草薙剣を受け取って、尾津神社の地から出港したのである。

 尾張

 尾津神社の地を出港した日本武尊一行は知多半島の付け根の船津神社の地に上陸した。日本武尊に一行は尾張国の長官であった建稲種命の元、現在の鳴海城の地(成海神社旧社地)を訪ねた。建稲種命は日本武尊を歓迎し、日本武尊は暫らくここに滞在したようである。

成海神社 愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85
 ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所でその東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました寛平2年(890)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起としてその故地に創祀された。

 ここにある、火高の地は氷上姉子神社の地である。

 氷上姉子神社 愛知県名古屋市緑区大高町火上山1
美夜受比売を祀る。東征からの帰還の際には、日本武尊は鳴海潟から火高まで船で渡ったという。

 後に妻となる宮簀媛命が氷上姉子神社の地に住んでいたようである。建稲種命より妹の宮簀媛命を紹介され、鳴海城の地からこの地に通ったようである。

 この滞在中、七所社や日長神社の地を巡幸したものと考える。

日長神社 愛知県知多市日長字森下4
 景行天皇の皇子日本武尊が御東征の折この地に来られ、里人に此の所の名、及び日の暮れる方向をたずねられたので、里人が畏こんで〝日は未だ高し〟とお答すると、尊はこれを聞かれ、それでは此の所を「日高」と呼ぶがよいと仰せられたのが地名になり、後に「日永」となり、江戸時代中期以後は日長となった。山頂にある手水池は、命が里人に掘らせられた池と伝えられているが、如何なる日照りが続いても、水の涸れたことのない不思議な池である。

 七所社 愛知県名古屋市中村区岩塚町字上小路7
 境内に縦横26尺の塚あり。そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記されている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に現存している。

 鳴海城で暫らく滞在し東征の準備をした。準備が整ったので、建稲種命を副将として、東征に出発した。

熱田神社 愛知県大府市朝日町4-26
景行天皇の40年(110)に、日本武尊は東夷征伐に大高の氷上(ひかみ)の里(お妃宮簀姫(きさきみやすひめ)の居住地)を東下されて、大府の地をお通りになった際、この地で御休息されたと伝えられる

 知立神社 愛知県知立市西町神田12
第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、草葦不合尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた

八劔神社 愛知県安城市榎前町北榎7
 日本武尊御東征の折に榎の大木あり、その下にて休憩されその所に小祠を建て祀ると謂ふ。

 これらの神社がその東征経路を伝えている。そして、現在の岡崎市に着いた。

 菅生神社 愛知県岡崎市康生町630-1
 日本武尊東夷征伐にて、当地通過の砌り、高石にて矢を作り一矢を小川に吹流し、其の矢を、御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と称した

 矢作神社 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵1
 第十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷御征伐の時軍神として素盞鳴命をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。

 岡崎の地で矢を作ったようである。矢ができたので岡崎を出発した。

神明社 愛知県岡崎市本宿町字森の腰23
 人皇12代景行天皇の御宇庚戌40年東夷多く叛きて騒動しければ、第2皇子日本武尊左右には吉備武彦命、大伴武日蓮を相副られ三河国に御下向当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに紅白の雲棚引き恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊御感の余り峰に登らせられ天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。

 熱田神社 静岡県湖西市吉美1600
 当神社の御祭神日本武尊は御道駐屯の事蹟として、当社付近に神井戸及び御手洗等の遺蹟を存せり。当社鎮座地、大字『吉美』、往時『吉備』と称せしは、尊の随者吉備武彦命の吉備を取りて、『吉備の郷』と称せしと伝ふ。

 岡崎を出た日本武尊一行は現在の国道1号線に沿って東に向かい、浜名湖岸に出た。ここまでは陸路で、浜名湖岸から舟で出港したと思われる。

 駿河

 浜名湖から東へは、暫らく伝承地が存在しない。海路を通ったためと考えられる。最初の伝承地は焼津である。

 焼津神社 静岡県焼津市焼津2丁目7?2
 日本武尊の東征のとき、この地の国造が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち、日本武尊は天叢雲剣で周囲の草を薙ぎ向火を放って難を逃れたという地であると伝える。

 日本武尊が野原に火を放たれたと伝承されているが、この伝承は草薙神社の方にもあり、草薙神社の方が周辺伝承も含んでおり、焼津は上陸地と考えられる。焼津から再び海に出て静岡市の南部(登呂遺跡のあるあたり)に上陸した。

 草薙神社 静岡県清水市草薙349
 景行天皇第二子皇子日本武尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。

 日本平
 日本武尊が東征の折、草薙の原で、当時支配していた豪族による野火の難にあった際、「三種の神器」のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を抜き、豪族を倒した後で、この山の頂上に登り四方を眺めたことからこの名で呼ばれるようになったと言われている。

 草薙で土地の役人が日本武尊を迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。日本武尊は罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。
 天叢雲剣によって難を逃れた日本武尊はこの剣を「草薙剣」と改名した。「草薙剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社に祀られているとある。
 この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。また,日本武尊は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。

 このあたりの国造が日本武尊を欺いて火で囲み焼き殺そうとしたのである。草薙剣で薙ぎ払ったというより、草薙剣を見た周辺豪族が手助けをして逃れることができたという意味ではあるまいか。草薙剣は八岐大蛇伝承に関係する宝器であり、その剣を持っているというだけで地方豪族は平伏する程の威力があったものと考えている。日本武尊は地方に赴き草薙剣を示すことにより、多くの豪族を従えさせたのである。一部従わない豪族を征伐したのがこの東征であろう。

 矢倉神社 静岡県静岡市清水区宮下町10?13
景行天皇第二皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給ひ、此の地に兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝へられています。

 久佐奈岐神社 静岡県静岡市清水区山切101
日本武尊東征のおりに、当地に本宮を設けたといい、その後、供の吉備武彦命が、当地を統治し、社殿を築いて、日本武尊を祀ったのが、当社の起源。

 鞍佐里神社 静岡県静岡市清水区由比西倉澤313
日本武尊東征の折、此の地にて賊徒の難に逢ひし時、御乗馬の鞍、自らずれ落ちしにより、馬より下りしため賊徒の難をのがれし御旧跡なり。倉なりと名づく後に倉沢に転ず

 富士山麓に反逆する豪族がいると聞いた日本武尊一行は久佐奈岐神社の地に本宮を設け、ここに滞在して武器を整備したのであろう。準備ができ次第東に向け出発したが、由比あたりで富士山麓の豪族の一派に襲われたのではあるまいか。その伝承が鞍佐里神社の伝承であろう。

 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市宮町1-1
 第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。

 山宮浅間神社 静岡県富士宮市山宮3191
 東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる。

 反逆する豪族の本拠地は富士宮市近辺にあったようである。この豪族と戦い勝利を収めた日本武尊は富士山麓で神を祀ったのである。

来宮神社 静岡県熱海市西山町43-1
 日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめまつられたと伝えられる。

 富士山麓の戦いに勝利した日本武尊一行は三島から十国峠を越えて熱海にやってきた。この頃の熱海は住民が活発に活動し農作物の生産量が増大していたのではないだろうか、それを労うために日本武尊が訪問したと考えられる。

 二岡神社 静岡県御殿場市東田中1939
日本武尊東征の時、この地において、二岡に木花之開耶姫、四岡に天津彦火瓊々杵尊の社を建立したのがはじまりという

 熱海から引き返し、三島から御殿場へ抜けた。この時、これから入る相模国の順調な統一を祈願して二岡神社を創建した。

 相模

 二岡神社の地を出発した日本武尊一行は足柄峠を越えた。帰路にも足柄峠を越えている。

 諏訪神社 神奈川県大和市下鶴間2540
第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ渡された。これを鎮楯または石楯という。東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。

走水神社 神奈川県横須賀市走水2-12-5
景行天皇即位四十年、武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。

 この二つの神社が相模国での日本武尊一行の経路を伝えている。この経路に沿って神社伝承を並べてみよう。

 足柄神社 神奈川県南足柄市苅野274
日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、其の後に従い足柄峠に難なく進むことが出来、此処に於て白鹿消え給うと、これ神霊の御導きならむと待僕を同所に3年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている。

御嶽神社 神奈川県秦野市名古木459
倭建之命東征の時大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。

 石座神社 神奈川県秦野市鶴巻2345
倭建命が腰掛けたとされる自然石が御神体

 足柄峠から東へそのまま移動している。秦野→伊勢原→厚木と移動したようである。厚木で反逆者に出会ったようであり、その一族が相模川の上流域にいるとわかり、相模川を遡った。

 石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区佐野川3448
第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。

牛倉神社 山梨県北都留郡上野原町上野原1602
日本武尊東征の際随従して一属共に此大宮を出て転ず。後に倉庫の趾に神社を奉建す。故に大宮と称し或はウシ倉の社と称す。

 神奈川県と山梨県の県境付近まで遡り、反逆者を征伐した。この時に祭祀したのが石楯尾神社と牛倉神社であろう。ここから再び相模川を下った。

皇武神社 神奈川県相模原市中央区淵野辺本町4丁目20?23
第十二代景行天皇の第三皇子日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。

諏訪神社 神奈川県大和市下鶴間2540
第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ渡された。これを鎮楯または石楯という。東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。

 深見神社 神奈川県大和市深見3367
皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。

 五社神社 神奈川県綾瀬市早川1603
人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、御東征の折に当地(当時は亀井山と伝う)に五朶の榊を樹て、地神五代を創祀して五頭の宮と崇められたのが始めであるといわれている。

 腰掛神社 神奈川県茅ケ崎市芹沢2169
景行天皇の朝皇子・日本武尊御東征の際、此の地を過ぎ給ふ時、石に腰を掛け暫時此處に御休息せられ、西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ。今猶社前に一大石(凡 長さ2尺9寸 幅2尺5寸)あり 腰掛玉石と称す。

 日本武尊一行は苦労しながら相模湾岸に戻ったようである。この後、鎌倉→逗子→葉山と移動した。

 吾妻社(不動堂) 神奈川県三浦郡葉山町長柄130?9
倭建命がこの地を通過したとされる。

 葉山から浦賀水道を渡るために、横須賀を経て走水神社の地に着いた。

 走水神社 神奈川県横須賀市走水2-12-5
景行天皇即位四十年、武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)史跡・伝承 一、御所ガ崎「武尊と橘媛命が御滞在したときの御座所のあった所」 一、旗立山「武尊が征軍の旗を立てた所」(御所ガ崎の後背) 一、御座島「武尊と橘媛命の訣別のお盃があった所」(神社前の岩礁) 一、皇島「武尊が軍船に乗船された所」(御所ガ崎の北岩礁) 一、むぐりの鼻「橘媛命の侍女等が媛に殉じた所」(御所ガ崎の最先端岩礁) 一、伊勢山崎「武尊が伊勢神宮で授けた御神符を祀った所」

 安房

 木更津上陸

 走水から東京湾を渡り木更津に上陸した。しかし、この時、嵐に遭い、妃の弟橘媛が入水したのである。

 吾妻神社 千葉県木更津市吾妻2-7-55
社伝によると、日本武尊が東征の折り、妃の弟橘媛が海神の怒りをしずめるため、走り水(浦賀水道)の海に身を投じた。その衣が袖ケ浦付近に流れついた。これを納めて建立されたといわれる。また境内の鏡ケ池は弟橘媛の鏡を沈めたところと伝えている。

 八劔八幡神社 千葉県木更津市富士見1-6-15
人皇第十二代景行天皇の40年、日本武尊御東征の時、相模国より此の地に渡り給わんとす。海上にわかに波荒れ御船将に危からんとす。妃橘媛命申し給わく『これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり』とて身を躍らして海に投じ給い、尊の御命に代り給う。暴風雨忽に治り、御船此の地に着き給う。尊、姫の死を悼みて当社に滞留して去り給わず、依りて此の地を君不去と呼ぶに至れり。

 刀八神社 千葉県木更津市太田523
景行天皇の四十年庚戌、日本武尊東征の時、相模国より本地に渡り給わんとす、海上にわかに波荒れ、御船将に危からんとす。妃橘姫命申し給わく「これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり」とて身を躍らして海に投じ給い、尊の御命に代り給う。暴風忽に治り、御船此の地に着き給う。尊、姫の死を悔み悼みて太田山山頂に登り海を眺めて暫し去り給はず。依りて太田山山頂を「恋いの森」と呼ぶに至れり。里人此の祠に日本武尊を併せ祀る。

 走水を出港後間もなく、嵐で海が荒れた。この時、海神の怒りを治めるために、日本武尊の妃である弟橘姫が入水した。入水後波が収まり、船団は木更津に着くことができた。

 阿久留王伝説

 木更津に着いた日本武尊一行はこの地方の豪族阿久留王と戦っている。阿久留王は小糸川流域を支配していた豪族のようである。伝承では鬼のように伝えられているが、君津市六手では、阿久留王は「鬼」ではなく、住民のことを思う大変優れた文武両道の豪族であったといい伝えられている。

 房総半島は神武天皇の時代、阿波から技術者が派遣され開拓された地である。

遠見岬神社 千葉県勝浦市浜勝浦11
神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。

 阿久留王はおそらくこの天富命の後継者であろう。阿久留王自身住民のことを考えてこの土地を治めていたが、朝廷より国造の地位を朝廷に返上し朝廷から派遣された国造にしたがうように指示された。朝廷から派遣された国造は、庶民を押さえつける圧政を敷いたと思われる。庶民を大切に思っていた阿久留王は、それは受け入れられないと朝廷に反逆したのであろう。

 阿久留王は、朝廷から派遣された国造が拠点としていた高坂城(袖ケ浦市吉野田)を攻め落とした。これを聞いた恵絵行天皇は日本武尊を派遣したのである。日本武尊は阿久留王と対決した。日本武尊は、まず近くの滝口城を攻め落とし、次いで高坂城を奪回し、この城の近くを流れる鑓水川(小櫃川の支流)で阿久留王らと戦った。この戦いで、阿久留王は討ち死にし、武尊の軍が血に染まった槍を川で洗ったといわれている。

 日本武尊の東征伝承の中でも大規模な伝承であり、弟橘姫が亡くなった直後に行動を起こしていること、日本武尊はわざわざ上陸地の反対側に回りこんで攻めていることなどから考えて、阿久留王討伐は大和出発時からの大きな目的の一つだったのではあるまいか。そのため、浦賀水道を渡って房総半島に上陸しているのである。

阿久留王と日本武尊軍との戦いの跡が各地に地名となって残っている。
鑓水川・・・袖ケ浦市吉野田 日本武尊軍が血に染まった鑓を洗い流した川
鬼塚・・・ 吉野田 阿久留王軍の兵士を葬った場所。
鬼泪山・・・ 富津市 阿久留王が涙を流し命乞いをした場所
染川・・・ 「血草川」あるいは「血染川」といい、阿久留王の流した血で真っ赤にそまったことから付けられた。
血臭浦・・・千種新田の海辺 戦いの後にこの海辺から血のにおいが立ち上ったからだという云い伝えによる。
皿引・・・ 君津市周南地区 もとは「血引」といい、傷ついた阿久留王が、血を流しながら通り、まるで血を引きずっているように見えたことから名づけられた。
阿久留王塚・・・ 阿久留王の胴体が葬られたといわれる。
お八つが塚・・・ 阿久留王の頭部が葬られたといわれる。
日本武尊との戦いに敗れた阿久留王は、六手の地で八つ裂きにされたと言い伝えられている。

君津市六手では今でも、阿久留王は「鬼」ではなく、住民のことを思う大変優れた文武両道の豪族であったといい伝えられている。

御太刀神社 千葉県君津市皿引221
 大和国家草創の頃、鹿野山に阿久留王、別名六手王という土着の豪族が在って小糸川流域を支配していた。第十二代景行天皇の御代、日本武尊は東国開拓の先駆として、吉備武彦、大伴武日連、七掬脛、等を伴なって相模から海路房総に上陸し遂に阿久留王と鬼泪山で対戦することゝなった。阿久留の軍勢は勇敢で尊は苦戦したが、山頂に諸神が現れ激戦の未漸く勝利を収めるが、この時阿久留王は多くの手下を失い、自らも深手を負って故郷の六手へ敗走することゝなる。皿引の地はこの時阿久留王が血塩を引きながら通過したという事から、始め「血引村」と言っていたものを「血」を改め「皿」に変えたものと伝える。

八雲神社 千葉県富津市岩坂74
 当八雲神社は、景行天皇の御代40年、皇子日本武尊が東夷御征討の御時、相模の走り水より、御船にお乗りになり上総にご渡海せられ、上総国に御上陸の上、鹿野山の東夷の首長阿久留を討たれましたがこれにさきだち岩坂山に於いて神籬岩境の神祭りを執り行われ、素盞嗚尊の神霊をお祭りされた事を以って当社の始まりと伝えている。

 この伝承は袖ヶ浦市吉野田と少し違っている。木更津に上陸した日本武尊は鹿野山の阿久留王本拠地の南側に回り込み鬼泪山で戦いを行い、苦戦をしたが土地の豪族が味方をしたために、阿久留王を打ち破ることができ、阿久留王は皿引を通過して逃走し、六手で打ち取られたというものである。

 阿久留王一族は兄弟か親子である大将が二人いたのではないかと考える。木更津はその二人の大将の本拠地の中間に位置している。仮に吉野田の阿久留王を吉野田阿久留王、鹿野山の阿久留王を鹿野山阿久留王と呼ぶことにする。

 木更津に上陸した日本武尊は弟橘姫の死を悲しむ間もなく阿久留王襲撃を行ったのであろう。

 軍を吉野田攻撃隊と鹿野山攻撃隊の二手に分け、吉野田攻撃隊は木更津から東へ小櫃川を遡り、滝の口の城を落とし、鑓水川を遡って吉野田の阿久留王を襲撃し、勝利を得た。こちらは比較的簡単に落とせたようである。

 鹿野山攻撃隊はおそらく日本武尊自身が率いたと思われる。木更津から海に出て、海路南に迂回し、八雲神社の地に上陸した。八雲神社の地から鹿野山を目指して進軍していると、途中の鬼泪山で阿久留王の待ち伏せにあった。ここで、激しい戦いが行われたようである。吉野田に派遣された軍が小糸川を遡り鹿野山の背後から阿久留王を襲撃したのであろう。阿久留王はたちまち敗走し、本拠地の六手でつかまり処刑された。日本武尊は阿久留王の残党狩りをしたようである。

 祭祀

 阿久留王退治の後の日本武尊関連伝承は祭祀系の伝承がほとんどとなる。これも阿久留王退治が東征の主目的だったためであろう。

八坂神社 千葉県市原市椎津230
人皇十二代景行天王40年、日本武尊東征の時に東夷鎮撫の祈願をしたと伝えられる。

姉埼神社 千葉県市原市姉崎2278
人皇第十二代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ、ここ宮山台においてお妃を偲び、風の神志那斗弁命(シナトベノミコト)を祀ったのが始まりという。

島穴神社 千葉県市原市島野1129,1130
景行天皇の40年(西暦114)、日本武尊命が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に見遭われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くしますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、無事上総国へ着くことができたので日本武尊命は、弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当社をご創祀されたのであります

大宮神社 千葉県市原市五井1597
日本武尊御東征の時創祀

 日本武尊は阿久留王退治後行く先々で祭祀を行っている。弟橘姫の霊を慰める目的、今後の旅の安全を祈願したものと考える。大宮神社創建後日本武尊は房総半島を横断している。

 南宮神社 千葉県長生郡一宮町宮原1130
日本武尊、上総国長柄郡金田郷大宮台に到着、御自身の大使命達成の前途は、更に長くけわしいので、この際前途の安全を祈ろうと決心し、ここにお宮を建て、海神の御娘、豊玉姫命をお祀りした。

 この南宮神社だけが、他の伝承地から大きく離れているのである。順番から考えて、大宮神社の後に立ち寄っていると思われる。立ち寄った後、すぐに引き返しているところをみると、この南宮神社の地は訪問しなければならない何かがあったことになる。

 この神社のすぐそばに上総国一宮玉前神社がある。上総国で最も格式の高い神社である。祭神は鵜茅草葺不合尊・玉依姫であり、神武天皇の父母である。由緒は不明であるが、房総半島は神武天皇の時代に開拓されており、神武天皇に対する信仰が強かったのではないかと考えられる。日本武尊の時代でもその信仰の中心地だったのではあるまいか。

 土地の人々に慕われていた阿久留王を退治したために、土地の人々の心が朝廷から離れてしまうのを恐れた日本武尊がこの地方の最高の聖地を訪れ、祭祀をすることで、人心の離反を防ごうとしたことがうかがわれる。

 南宮神社を創建後再び房総半島を横断し八劔神社の地を訪れた。

 八劔神社 千葉県千葉市中央区南生実町885
人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、御東征の際、相模国三浦より御渡海、此の地に御幸在して国乱を平定し給う。当時東国は国号定まらざりしを二ヶ国に分割して、從是南を上総地、北を下総地として永く国境とせよと宣へり。土民御徳恩に浴し深く敬ひて此の神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社と崇敬し当日神両社を合わせ祀りて今に易らず崇敬す。

蘇我比咩神社 千葉県千葉市中央区蘇我町1-188
第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が、東国地方を統一すべく勅命を受け、弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。このとき弟橘姫は「竜神の怒りに触れた」とこれを静め和らげんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比・がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来た。又里人達は、日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。

 日本武尊は現在の千葉市辺りから出港し東京湾を横断し、船橋近辺に上陸した。

 意富比神社 千葉県船橋市宮本5-2-1
当船橋大神宮は、景行天皇の御代40年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。当時隅々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。

 入日神社 千葉県船橋市海神3-7-8
当町鎮守「式内元宮入日神社」は、皇統第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し、先づ上総国に上陸、次いで軍団は上総国を出帆せられ下総国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当たると伝えられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つその御偉徳を忍び、併せて郷土守護・五穀豊饒・豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。

 東京都区部

 

 東京湾を航行中、嵐に遭遇した。弟橘姫が入水することによって何とか木更津に上陸できた。

 木更津南方の鹿野山に阿久留王がいて、朝廷に反抗していた。日本武尊は阿久留王を討つために、その南の八雲神社の地に移動し、南から阿久留王を襲撃し討った。

 その後、房総半島西海岸沿いに北上し、船橋に上陸した。船橋から印旛沼を経て、銚子方面に出た。この経路上でも方々で神を祀って人心を掌握しようとしている。

 奥州路

 日本武尊一行は銚子から太平洋岸を北上し、奥州路に入った。

1 稲村神社 茨城県常陸太田市天神林町3228 景行天皇40年日本武尊東征の際この地に天神七代の霊を祭る
2 津神社 茨城県多賀郡十王町伊師805-1 日本武尊御東征の時、石浦に上陸、土賊征討の際赤見台に祠を建て戦勝を祈誓したと云う。
3 佐波波地祇神社 茨城県北茨城市大津町1532 日本武尊命御東征の砌、大津の沖皇浦に於て逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って枕頭に立ち給ひ「我佐波波神なり、今皇子の御船を守護せんが為来れり、直に順風にさせん」と、夢さめれば果たして其の言の如くなる。早速使を奉幣、報賽の誠をささげられたといふ。
4 温泉神社 福島県いわき市常磐湯本町三凾322 日本武尊当地進駐の折、大和国現在奈良県三輪大社の主神、大物主大神「大巳貴命」が合祀されて、以来二神が郷民によって祀れた。
5 益多嶺神社 福島県相馬郡小高町大井字宮前144 第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷平定の際、出雲太社より御分霊を勧請された神社で、昔から甲子大国社と尊称される。
6 多珂神社 福島県原町市高字城ノ内112 景行天皇の40年7月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。
7 鹿島御子神社 福島県相馬郡鹿島町鹿島字町199 第12代景行天皇の御宇(西暦917)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。
8 佐倍乃神社 宮城県名取市愛島笠島字西台2 祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇40年の日本武尊御東征の時から、毎年4月20日を祭日としている。
9 配志和神社 岩手県一関市山目字舘56番地 十二代景行天皇のとき皇子日本武尊詔を奉じて軍を率い遠く道の奥に入り蝦夷の地にいたる。進んで営を此の地、中津郷の山要峰に移し(神社地内)その嶺頂に登り賊を平治せんことを祈り自ら矛を収め三神を鎮斎し東奥鎮護の神として祠を建て、火石輪と称した。今の配志和神社である。
10 三峯神社 岩手県胆沢郡衣川村大字下衣川字松下64番地 日本武尊東夷を征討し給ふ時武州三峯山に登り給ひ古昔伊弉諾尊伊弉冉尊、天の浮橋の上に立せ給ひ天の逆鉾を以て豊葦原の国を平け賜ひし神威の徳功を仰いで諾冉二尊を奉祀し夷賊鎮撫の大業を成就し給ふ
11 駒形神社 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字西根字雛子沢8番地2 第十二代景行天皇40年、日本武尊東夷征討の折、当地駒ヶ嶽山頂に国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の神として勧請し給う
12 吾勝神社 岩手県一関市萩荘字芦ノ口286番地 日本武尊東夷征伐の折、吾勝大神を祀る。
13 駒形根神社 宮城県栗原郡花山村字本沢北ノ前5-2 日本武尊御東征の折、大日・尊(おおひるめのみこと)外五柱の主神に祈願創建
14 駒形根神社 宮城県栗原郡栗駒町沼倉字一の宮7 『日本武尊御東征の折、大日・尊(おおひるめのみこと)外五柱の主神に祈願創建

 銚子から太平洋岸を北上し、北上川を遡り岩手県の一関まで到達した。途中の伝承地のほとんどは神を祀ったというものばかりである。戦いというよりも神を祀ることによって、人心を掌握し、朝廷に従うことを約束させたものと考えられる。この地域は饒速日尊が統一している地域である。人々は饒速日尊に対する信仰心が篤かったのである。

 地方豪族の方も朝廷が直接軍を派遣してくるということに畏れたのと、神を祀ることによって、戦いが目的ではないことを知り、安心して朝廷に従ったものであろう。中には朝廷に反抗したものもいたであろうが、朝廷軍の前に敗北したのであろう。

 岩手県以北は朝廷の支配地外である。饒速日尊でさえも統一できなかった地であり、饒速日尊の神の威力は通じない地域である。いくら神を祀ったところで人心掌握ができないのである。無駄に戦っても利無と考えた日本武尊はこれ以上北上することは考えず、南方のまだ立ち寄っていない地域を回ることとした。

 奥州路帰還

1 大高山神社 宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字神山1 日本武尊が夷賊征伐の際、この地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭した。
2 須川南宮諏訪神社 福島県福島市伏拝字清水内34 御鎮座伝記に「日本武尊、御東征の砌り、此地を御通過せらるるや、山川の勝景を瞻望し、将来人民の棲息に適し、拓殖の業、大いに興すべき地相を以て、常に尊敬する、武御名方神(諏訪大明神)を鎮祭す。」と。
3 都々古別神社 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。
4 加波山神社 茨城県新治郡八郷町大塚3398 人皇第十二第景行天皇の朝、日本武尊当山に登り御神託により詞を建て三神を祭
5 羽梨山神社 茨城県西茨城郡岩間町大字岩間上郷3161 昔日本武尊東征途に磐麻に到りて陣を布く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ、時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。尊は何人なるやを尋ねしに「磐筒男・磐筒女」なりと、尊凱旋の後この地に到り朝日丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す
6 磯部稲村神社 茨城県西茨城郡岩瀬町磯部779 創建は人皇第十二代景行天皇40年10月、日本武尊伊勢神宮荒祭宮礒宮を移祀す、

 奥州から内陸を通って関東平野まで戻った。

 この地域でも神を祀るのが中心である。

 関東平野

1 高椅神社 栃木県小山市高椅702-1 景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約1粁)に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
2 柴崎神社 千葉県我孫子市柴崎174 景行天皇の40年、日本武尊が征途の安全を祈り、武運長久を祈願したところ
3 亀戸浅間神社 東京都江東区亀戸9-15-7 往古日本武尊東夷御征討の折暴風に遭はれその時皇妃弟橘比売命は海に身を投じまして尊の御難を救い給ふ。尊は深く此のことを哀悼せられ此の地に御陵を作る。弟橘比売命の御笄と御櫛の内、御笄が此の辺り高貝洲(笄洲・現9丁目)に漂着いたしたとあり此れを御聞きなされた十二代景行天皇大層愁いて、ここに祠を立てて祀る。
4 吾嬬神社 東京都墨田区立花1-1-15 抑当社御神木楠は昔時日本武尊、東夷征伐の御時相模の國に御進向上総の國に到り給はんと御舟に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御舟危ふかりしに御后橘媛命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかになりぬれ共御舟を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思議にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御舟をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹き来たりて橘媛命の御召物海上に浮び磯辺にたゞ奇らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ。橘媛命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上海中の守護神たり尊神こゝに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸2本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にさゝせ給ひしに此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり。
5 鷲神社 東京都台東区千束3-18-7 日本武尊が東夷征討の時、戦勝を祈願し、お帰りの時、社前の松に熊手をかけて戦勝を祝い、奉賽(お礼参り)されたといわれております。その日がたまたま11月酉の日であったので、その日を神祭の日(神様をお祭りしておなぐさめする日)と定めたのが鷲神社例祭であり、一般にいわれる酉の祭です。
6 鳥越神社 東京都台東区鳥越2-4-1 鳥越神社は景行天皇(人皇十二代)の皇子。日本武尊が東夷を御征伐の御時に、この所へ暫く御駐在遊ばされました。土地の人々はそのご徳を慕い尊び奉り、白鳥神社(明神さま)をその地へお祀り申し上げました。
7 五條天神社 東京都台東区上野公園4-17 第十二代景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります(約1880年前)。
8 根津神社 東京都文京区根津1-28-9 日本武尊が東国平定の折に、武運を祈って千駄木の地に創祀したと伝えられる古社
9 天祖神社 東京都文京区本駒込3-40-1 駒込 日本武尊、高きより味方の勢を御覧じて、扨も駒込みたりと宣しより名付し也。根津の縁起の中に見えたり。
10 尾崎神社 埼玉県川越市笠幡1280 日本武尊御東征の折、奥州地へ追討に向われし時、秩父山脈の枝郷つゞきと称すべき終先の高台地で立ち寄りし地に尾崎の宮と称しお祀りしたと伝へられております。
11 堀兼神社 埼玉県狭山市掘兼2221 堀兼神社由緒 社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地に来て、水がなく住民が苦しんでいるのを見て、水を得ようとして富嶽を遥かに拝し、井を掘らせ、水を得ることができたので浅間神社を祭った、と創祀の起源を伝えている。
12 野々宮神社 埼玉県狭山市北入曽276 日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰途、当地に立ち寄り、水を得るため堀難の井を掘らせたという。日本武尊の死後、彼の叔母・倭姫命の一族が、この地に来て土地を拓き、社殿を建立して日本武尊並びに倭姫命を祀ったのが始まりと伝えられる。
13 広瀬神社 埼玉県狭山市上広瀬1612 遠く景行天皇の御代、日本武尊命東夷を征討の折り、当地が大和国川合の地に酷似せりと称し親ら幣帛を奉り、広瀬の神を斎き祀り武運長久国家安泰を祈誓せられしより創始せりと言う。
14 我野神社 埼玉県飯能市吾野226-1 人皇第12代景行天皇の御宇40年庚戌の年、日本武尊東夷征伐の為当地をご通行の折、祖神天之御中主神を勧請して此地に祀られたのが、我野神社の始めと伝えられている。
15 出雲祝神社 埼玉県入間市宮寺1 人皇第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においでになり、天稲日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。
16 神明宮 東京都杉並区阿佐谷北1-25-5 日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称した現阿佐谷北51-35)に一社を建て、伊勢神宮を勧請したのが当宮の始まりといわれております。
17 御霊神社 東京都新宿区中井2-29-16 景行天皇の40年日本武尊は諸族を討夷し皇威を東国に伸展された時、常陸鹿島神宮の神孫達もこれに従い、遠境までも国土を鎮撫された。この拡大された地域の一部が当地で神孫の一族が統治支配した。
18 氷川神社 東京都渋谷区東2-5-6 景行天皇の御代の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞鳴尊を勧請
19 氷川神社 東京都港区白金2-1-7 景行天皇の御代(1880年前)関東の経国を命ぜられた日本武尊は日夜その使命の達成に苦心しておられたが、素盞鳴尊を崇敬される尊は、日々この丘に上がって武蔵野国一宮(埼玉県氷川神社)を遙拝され、その御加護を熱心にお祈りになられた。お陰によってめでたく東国を平定されたことが求涼雑記に見える。
20 大鳥神社 東京都目黒区下目黒3-1-2 日本武尊は、東夷征討の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の傷目の直らん事をお願いなされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の傷目も直って、再び剣を持って働く事が出来るようになったので、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申します。(現在当社の社宝となっております。)
21 雉子神社 東京都品川区東五反田1-2-33 御祭神日本武尊は景行天皇四十年、神禮ありと社傳にあります。
22 寄木神社 東京都品川区東品川1-35-8 日本武尊東夷御征伐の砌、相模國の海中にて南風烈しく吹き、御船覆らんとする時、弟橘姫命は御船救わんとし、海中の怒りを鎮めようとして御入水せられ、其の砌、当浦へ船木流れ寄り、其の所に神霊を勧請したと謂う。
23 潮田神社 神奈川県横浜市鶴見区潮田町3-131-1 人皇十二代景行天皇40年の御代、日本武尊が東征の途中、相模から海上を上総へ向かわれた時、征途の安全、御守護を祈願して、海岸老松のうっそうとした潮田の地に小祠を奉斎したことに由来すると伝えられています。
24 杉山神社 神奈川県横浜市港北区新羽町2576 景行天皇の御代40年、東方十二国御平定の折、日本武尊、此の地方を御通過され、尊崩御の後、村民其の御徳を慕い奉りて祠を造り奉斎したと云う。
25 皇武神社 神奈川県相模原市淵野辺本町4-20-11 第十二代景行天皇の第三皇子日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。
26 石楯尾神社 神奈川県津久井郡藤野町佐野川3448 第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。

 関東平野に戻った日本武尊はまっすぐに南下し、東京都に入っている。弟橘姫を失った思いが強く、東京湾岸で彼女を祀っている。埼玉県狭山周辺巡幸後、相模を通過して甲斐国に入った。この地域でもほとんど神を祀っている。戦いの伝承は全くない。

 甲斐国

1 牛倉神社 山梨県北都留郡上野原町上野原1602 日本武尊東征の際随従して一属共に此大宮を出て転ず。後に倉庫の趾に神社を奉建す。故に大宮と称し或はウシ倉の社と称す。
2 諏訪八幡神社 山梨県南都留郡西桂町小沼1613 人皇第十二代景行天皇41年(西暦111)日本武尊東夷御平定御帰路の途上富士山を遥拝された時 諏訪大神を東国開拓国家鎮護の祖神 地方の守護神として創祀せられ科野(信濃)国諏訪朝臣禰範公を大祝部として奉仕せしめた 
3 北口本宮冨士浅間神社 山梨県富士吉田市上吉田5558 景行天皇四〇年日本武尊が東征のおり、当地御通過、親しく大塚丘に立って富士山の神霊を遥拝され大鳥居を建て、御山は北方より拝せよと祠を建ててまつったのが、始まりといわれている。
4 稲村神社 山梨県大月市笹子町黒野田740 御神体は球状の天然石及び船形の石であるが、それはかって、日本武尊御東征の帰路この地に御休憩され、里人尊の御功績を称え慕い、海路の御困苦を偲び奉るとして、この御神体を求め祀ると伝えらる。嘉暦・天文・慶安・享保・寛政の棟札あり、明治6年村社となる。
5 美和神社 山梨県東八代郡御坂町二之宮1450 本神社は景行天皇の御宇日本武尊により甲斐国造塩海足尼が大和の大三輪神社から勧請した古社である。
6 酒折宮 山梨県甲府市酒折3-1-13 人皇第二十代景行天皇御代40年、皇子日本武尊、東夷の賊徒を平定し、御帰還の途次常陸国より武蔵国を経て相模国足柄御坂を越えて甲斐の国に入り此の地酒折の宮に御駐輦せられ給いし事は古事記・日本書紀に記述されている。尊、御着宮(おつき)の夜、宴を開き群臣共の旅愁を慰む。宴中ばにして、尊過ぎ来し事ども思召されて「新治筑波を過ぎて幾夜かねつる」と詠じ、旅の程を問い給いしにお答へ申す者がなかった。その時傍で庭燎を焚く老翁、庭前に進み「かゞなべて夜には九夜日には十日を」と続け奉りしにより、尊、厚くその聡を賞した。この歌をもって我国連歌の濫觴なりと云う。石碑は古天神前にある。尊はしばらく御滞在になり国内を巡視なされ、やがて信濃国に向はせ給う時、塩海足尼(しおのみのすくね)を召して「汝は此の国を開き益を起し、民人を育せ、吾行末こゝに御霊を留め鎮まり坐すべし」と宣り給いて「火打嚢(ひうちぶくろ)」を授け給えり。ここにいう「火打嚢」は。尊が御東征に向かわれるとき、伊勢の皇大神宮に御参拝の折、同宮の祭主であり、叔母君の倭比売命から「草薙剣」と共に賜られしもので途中駿河国で、国造(くにのみやつこ)に欺かれて野原に火を放たれ火攻めに遭われたが、剣で草を薙ぎ撥い、嚢の口を解き開き、向え火打って難を免れたものという。塩海足尼謹みて御命を奉戴し、後に社殿を建て「火打嚢」を御神体として鎮祭すこれ本宮の起源なり。古来、古天神と敬称し、御旧蹟は本社より4、5丁を距れたる山腹にあり.
7 熊野神社 山梨県甲府市朝気1-11-1 景行天皇の御宇皇子日本武尊御東征の砌、酒折宮に御仮泊、翌朝この地に煙の立ち上がるを御覧あって、御来駕、邑人は歓び迎えて朝餉を献る故にこの地を「朝気」と名付く。爾
8 諏訪神社 山梨県北巨摩郡長坂町塚川2439 当神社は日本武尊御東征の折、信濃の国から建御名方神を勧請し武運を祈念されたと伝えられ、古くは松宮諏訪明神と称した。
9 建岡神社 山梨県北巨摩郡長坂町大八田6822 当神社は日本武尊が天津神を祀り建岡と称したといわれ、後に黒源太清光公が諏訪明神を配祀した。
10 伊勢大神社 山梨県北巨摩郡高根町村山東割960 日本武尊御東征の時当國を通路あり小丘に後休憩里人に天照大神の霊代を賜りて立ち去りたり。里人此の処に宮を造り安置す。境内に樹齢壱7・8百年を経た御神木あり、町の天然記念物に指定さる。現在の神楽殿は昭和58年に改築されたものである。
11 建部神社 山梨県北巨摩郡高根町箕輪1364 日本武尊 誉田別名 建御名方命 往古は日本武尊が東国遠征の折、当社東南方にある御手洗池にて身を清めこの地に神々を祀ったのが始まりと伝えられる。この池で旱魃の時は住民が雨乞の行事を行った。
12 船形神社 山梨県北巨摩郡高根町長沢2606 昔、日本武尊御東征のみぎり酒折の宮より科野国、国坂の神に事向け給う時この地に奉幣した。今尚社辺に口を漱いだ泉があり。
13 神部神社 山梨県北巨摩郡須玉町小尾3805 日本武尊が東征の折り、東小尾で湯治し当社前を通り猛獣、毒蛇、叛賊を退治して東征に向かった。
14 大嶽山那賀都神社 山梨県東山梨郡三富村上釜口617 畏くも人皇十二代景行天皇御代、皇子日本武尊東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給ふ時、靄霧四呎を弁せず岩室に山営を張り三神に祈念を凝らし給ひし時、神宣ありて皇子の向ふべき路を示し給ふ、依って武尊神恩奉謝の印として岩室に佩剣を留め給ひ以て三神を斎き給ふ、爾来大嶽山奥の古院として代々剣を立てて三神を奉斎せり。

 中央道に沿って、上野原から甲斐国に入った。富士山麓を回って、甲府市を通り、北杜市周辺を巡幸後、甲府に戻り、笛吹川を遡り、秩父方面へ抜けた。

 この地域でもほとんど祭祀である。土地の人々が喜んで迎えている様子がうかがわれる。

 上野から信濃へ

1 三峯神社 埼玉県秩父郡大滝村三峯298-1 三峰神社由緒 当社の由緒は古く、景行天皇が国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折り、尊は甲斐の国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。
2 御嶽神社 埼玉県秩父郡横瀬町横瀬1645 当社は、人皇第12代景行天皇の御代(約1900年の昔)皇子日本武尊がご東征の折、当山山頂に武具を埋められて、関東の鎮護となされたのを起源と致します。
3 椋神社 埼玉県秩父郡吉田町下吉田7377 人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う.
4 宝登山神社 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828 第12代景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)は勅命により東北地方平定の後、御凱旋の途次当山にお登りになり、山頂にて御三柱の神をお祭りあそばされたのが、当神社のはじめと伝えられます。尊が登山に先立ち心身をお浄めになられた「玉の泉」はいまなお御社殿後の玉垣内に遺されております。
5 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮750 景行天皇41年日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火打石を御室山に収めて天照大神素盞嗚命二柱を奉斎
6 菅原神社 群馬県佐波郡境町小比木2167 古伝によれば、日本武尊命御東征の折、当地一帯朝陽きらめくを眺められ、朝日の里と名づけられたという。
7 母衣輪神社 栃木県足利市福居町631 倭建命(日本武尊)が東国征討の砌りにこの地に駐屯され、武具(母衣)を奉納し天神地祇を祀り、武運を祈願した神跡と云い伝えられる。
8 小石神社 群馬県前橋市敷島町255-1 南橘村橘山にありて日本武尊が東征のみぎり山頂に一つの石を置きて須佐能命を祀り戦勝を祈願したとある。
9 中之嶽神社 群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1246 倭建尊(日本武尊)が勅命に依り関東巡行の際に妙義山に登嶽せりと伝へられる。
10 八幡宮 群馬県碓氷郡松井田町坂本968 景行天皇40年10月 日本武尊の勧請と云う。
11 熊野神社 群馬県碓氷郡松井田町峠1 十二代景行天皇の御代皇子日本武尊、東夷を征伐し武蔵上野を経て碓氷嶺に登り給う途、坂本に来られた。其の時山に住む神が白鹿に化して手向いしたので、蒜を打つけて之をこらすと急に濃霧が立ちこめて真暗くなってしまった。尊は進む事もならず迷っていると、一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、尊の御前に落とし前導するように飛んでいくのでそれについて山路をわけつつ遂に領土に達せられた。暫く休んでいると、雲霧が次第に晴れて来て眼下に関八州の景観が展け遥か彼方にはかつて御通過の地常陸の筑波山が見え、其の先は雲か海かの風景である。そこで相模灘で尊の御身代りとなって入水せられた后弟橘姫の事を偲ばれ「吾嬬者耶」と三度御嘆きになったという。この時尊は更にお考えになって先祖の神武天皇八咫烏の先導によって紀州熊野山を越え、大和の土賊を平定せられた。今自分もここで八咫烏の導にあったのは正しく熊野神靈の御加護によったのであると当熊野三社を奉祀せられたという。時に景行天皇40年10月であったと伝えられている。

 神社伝承には、東征・征討・征伐などという表現が使われているが、神を祀ったという伝承ばかりで、実際の戦い伝承はほとんどない。やはり、神を祀ることによる人心掌握が目的だったのであろう。日本武尊一行は甲斐国から秩父を通り、上野国から信濃へ抜けたのである。

 信濃で吉備武彦を越国へ遣わしている。新潟県柏崎市大字曽地1325番地の多多神社に

 景行天皇の御代、日本武尊の御東征の際、吉備武彦に随従して遣わされた多臣襲木彦が此の地の里長の女を娶り、此の地に留まりて御祖神、神八井耳尊を斎奉り、神日本磐余彦尊を配祀し奉り、多多神社と称したと云う。

 と伝えられている。

 信濃から尾張へ

1 熊野皇大神社 長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1 当社の創立はその由緒記によれば「人皇十二代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐凱旋の際、武蔵、上野を経て碓氷山嶺に登り給う途、坂本に到り餉いし給える時き、荒ぶる山神白鹿に化けし尊を苦しめんと御前に来たりしを、其眼に蒜を打付け殺し給う。此の時雲霧忽ち道を遮り咫尺を弁ぜず尊道に迷い給える八咫烏紀の国熊野山の梛の葉を噛み持ち来たりて尊の御前に落とし、尊を嚮導する状なれば夫れに随いて嶺上に達し給う。時に雲霧全く晴れる。尊東南の方を望観し紀橘媛を偲び給い、三嘆して曰く「吾嬬者耶」と。是より坂東の諸国を吾妻と云う事起これり。しこうして尊曰く大祖神武天皇八咫烏の嚮導により熊野山を越え大和の士賊を全滅し玉えり、今我東夷を平定しここに八咫烏の瑞相に応ぜしは、正しく熊野神霊の加護ならん事を知食し、熊野三社を勧請し給えり。時は景行天皇40年10月なりしという。
2 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野3267 日本武尊が、東征凱旋の時たち寄られた。
3 阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 この地は古代東山道の沿線にあたり、鎮座地昼神の地名は日本武尊東征(やまとたけるのみこと)よりの帰路神坂峠を越えんとして峠に住む荒らぶる神の毒気に遮られて進むことができず、たまたま噛んでいた蒜(ひる=にんにく)を吹き掛けた処、悪神たちどころに倒れて進むことができた。それよりこの地を蒜噛(ひるがみ)という(日本書紀)と伝え、後好字に替えて昼神になったとせられ
4 恵那神社 岐阜県中津川市中津川字正ケ根3786番地の1 日本武尊御東征の帰途、恵那の大神を拝せられし事あり。
5 南宮神社 岐阜県中津川市苗木字三郷3917番地 津戸の地は、古く日本武尊東征のおり、臣吉備武彦が付知川渓谷を下り、木曽川を「亘理(わたり)」で渡り、千里林か茄子川のいづれかの地で日本武尊と会した、
6 内々神社 愛知県春日井市内津町24 日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告した。日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内津神社で、神社の有る町を内津というようになったという
7 幡頭神社 愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60  「景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の際、大功をお立てになった建稲種命は帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社
8 志葉都神社 愛知県幡豆郡吉良町大字津平字中谷3 当社ニ、往古日本武尊東征ノ砌リ、建津牧命又ノ御名津比良彦命、御父ノ建稲種命ニ従ヘ供ニ供奉シ給ヒ、当国ノ梟師等ヲ平定サレシ後、幡豆郡ノ地ヲ御兄建蘓美彦命ト共ニ開発シ給フ故、御名ヲ以テ当地字名(津平)トナセリ。
9 宅美神社 愛知県一宮市大字西大海道字中山73 祭神、武田王。当社ハ本国神名帳ニ従三位宅美神社ト見エ日本武尊ノ御子、仲哀天皇ノ皇弟武田王ヲ奉祀ス、王ハ丹羽建部君ノ御祖ニシテ、此ノ地ニ在ラセラレ土地ヲ墾キ産業ヲ勧メ美術工芸ヲ指導守護シ給イ古来此ノ地ヲ工ト称シ奉ル所以モ亦是ニ起因セリ、御所屋敷跡ハ現在ノ参道南部一帯デアル。
10 熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1 御鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父景行天皇から絶対の御信任を受けた尊は、御東征の帰途、尾張国造の御女宮簀媛命をお妃にお迎えになり、やがて草薙神剣をこの国に留めて崩じられました。その後、宮簀媛命は日本武尊の御遺志を重んじられ、神剣を今の熱田の地に祀られました。
11 八剱神社 岐阜県羽島市竹鼻町3298番地の1 人皇第12代景行天皇の皇子日本武尊が伊吹山賊を御征討の際その御通路であった里人が後世尊の御雄姿を景迎して奉斎したもの

 信濃と美濃の国境の神坂峠に賊がいたようであるが、打ち破ることができ、美濃から熱田に戻ることができた。

熱田の地で宮簀媛命(乎止与命の娘)と日本武尊が東征からの帰途に結ばれた。その後、日本武尊が伊吹山へ出立する際に天叢雲剣を預けた。現在熱田神宮の御神体となっている。

 伊吹山の戦い

  尾張に滞在中伊吹山に賊がいることが分かり、この賊を退治することにした 。日本武尊は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出陣した。
伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きな猪が現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。ところがこの猪が山の神自身が変身していたのだった。山の神は日本武尊に大氷雨を降らせため,大きな痛手を被ってしまい,やがて病にかかり伊吹山を下りた。
 日本武尊が攻撃されたのは伊吹山3合目付近の日本武尊遭難碑のあるあたりである。

 伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いた日本武尊は玉倉部の清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。
 滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」があり,この伝説が残っている。昔,醒ヶ井は中山道を往来した人たちの休憩所でもあった。日本武尊が傷をいやしたことから「居醒の清水」と呼ばれるようになったと言われている。

 この伝承に、配下を連れていったというものがない。賊を退治するのに素手で戦うというのもおかしな話である。また、賊と戦ったという伝承もなく、伊吹山に登る途中に天候が急変し事故に遭って遭難したものではないだろうか。

 遭難し命からがら下山し、米原町醒ヶ井に達したものであろう。

 日本武尊の死

1 春日神社 滋賀県彦根市松原町512 第十二代景行天皇の御宇41年辛亥の年日本武尊伊吹山の悪神御退治の御時此里へ立寄らせ給いて吾常に千々の里には霊告の掌ありとて神体一函を納め給う云々とあり。
2 建部神社 滋賀県神崎郡五個荘町伊野部457 日本武尊御東征ノ帰路近江国造リノ祖意布多牟和気ノ女布多運能伊理賣ヲ娶ラル御子神霊ヲ奉シ大神ト共ニ千草嶽ニ合祀サレ近江一ノ宮建部大明神ト稱シ建部ノ氏神ト定メラレ給フ 
3 長瀬神社 三重県鈴鹿市長沢町2201 景行天皇の皇子日本武尊の霊を長瀬郷長沢村に祀って長瀬神社と称した。「長瀬」は「能知瀬」の訛ったもので、「のち」は「命が終る」の意味だと、日本武尊の最期を偲ばせる土地柄を示している。
4 加佐登神社 三重県鈴鹿市加佐登町2010 伊勢国鈴鹿郡荘野駅より10町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を蔵めし所と語りつぎ、また其よりやや離れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡とあるはこれなり。
5 能褒野神社 三重県亀山市田村町1409 日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた。明治12年、前方後円の古制により十六のばい塚をもつ女ケ坂を以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。

 日本武尊は岐阜県養老町あたりにたどり着いて休憩した。しかし,足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった」と言った。後にこの地を当芸野と呼ぶようになった。しばらく休んだ後,再び大和へ向かって歩き始めた。
 鈴鹿の山を見ながら現在の三重県四日市市から鈴鹿市に入った日本武尊であったが大変疲れていた。目の前の急坂を上るために,杖をつきながら歩いたという。そこでこの坂を杖衝坂といい,旧東海道に残っている。約200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていたのでここで洗った。(日本武尊御血塚と祠=三重県四日市市采女町)
 大和を目指して歩き続ける日本武尊であったが,体力は衰え,「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語った。このことからこの地を三重と呼んだ。(石薬師付近)
 日本武尊は終焉の地となる能褒野に着く。そして,ここで力尽きた。その知らせは宮にいる妃たちにも届いた。そして,能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいった。

 伊吹山を降りた日本武尊は米原の方で傷をいやし、体調は一時回復したと思われる。日本武尊は再び尾張の方に向かっている。そのまま大和に帰るならば、琵琶湖に沿って南下すればよいのであるが、妻の元(熱田神宮)へ戻ろうとしたのではあるまいか。養老に達した時に再び体調が崩れたものであろう。破傷風にでも感染したのであろうか。破傷風は潜伏期間が3日から3週間といわれており、一度回復したが急激に悪化している様子から破傷風が疑われる。

 体調が悪くなってきた日本武尊は生きている間に景行天皇に復命しなければならないと考えたのだろうか。大和に戻ることにした。今の名阪国道に沿って大和への岐路に着いた。この時、配下の者が帰還を助けていると思われる。ところが、ますます体調が悪化し、能褒野の地で息を引き取ったのである。

 日本武尊死去後に白鳥が飛び立ったといわれているが、これは何であろうか。旅の途中で日継皇子である日本武尊が亡くなったということは一大事件である。日本武尊の死去を伝える使者が大和へ向かったことを意味しているのではないだろうか。

 日本武尊の崩年

 日本書紀では日本武尊の崩年は景行41年に30歳で亡くなったとされている。景行40年10月に東征に出発し、翌41年に亡くなったというのであるが、日本武尊の東征経路を現在の地図で確認すると、その行程は約2000kmである。途中で寄り道しているので実際の行程は3000kmほどであろうと思われる。当時の行程は1日当たり陸行10kmで、水行20km程である。この速さで3000kmを移動するには最低300日は必要である。この当時は半年一年暦なので1年は180日となり、景行40年に出発して景行41年に亡くなるということはあり得ないことである。 

 滋賀県大津市の近江一宮建部大社の伝承によると、日本武尊は景行43年に32歳で亡くなった事になっている。日本武尊の東征は半年一年暦の3年となり、約540日程になり、3000km移動に無理のない日数となる。日本武尊の崩年に関して建部大社の伝承が正しいと判断できる。

 換算干支で15年のずれがあることを考慮すると、実際に日本武尊が亡くなったのは景行28年(AD311年後半)で、年齢47歳(現行24歳)となる。このとき、嫡子の足仲彦(仲哀天皇)は10歳(現行5歳)であり、日本書紀仲哀紀に「自分が20歳に満たないころ、父が亡くなった。」と記録されているのと合致している。

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