大倉山の決戦

 孝霊67年、吉備国中心領域が平定されたので、孝霊天皇は出雲平定を目指して高梁川を遡り、吉備津彦兄弟は小田川流域(吉備下道)を西に平定していった。

 

小田川流域・備後国の平定(孝霊68年~孝霊72年)

明剣神社(岡山県小田郡 矢掛町下高末)
「吉備津彦命が放った矢が、鬼ノ城の麓にある蛇高の岩に当たり、その岩が砕け散り、20km離れた 矢掛町まで飛んだ。その岩が明剣神社の磐座」

鵜江神社
「『鵜江』は、 嵐山を挟んでの戦いに敗れた温羅が、鮎となって水中に逃げた。 吉備津 彦命は鵜となって追い、鮎になった温羅を捕えたことから、付けられたとされる。」

鬼ヶ嶽温泉(岡山県小田郡美星町鳥頭1690-1)
「岡山県小田郡 矢掛町と岡山県小田郡美星町の境にあり、ここには出雲国に抜ける古代の道が通っている。温羅は鬼ケ岳に陣取り、輸送する物資を略奪していた。これを聞いた 吉備津彦命が鬼ケ岳に討伐に出向いた。傷付いた温羅は山間の「いで湯」で治療しては戦った。このいで湯が鬼ケ岳温泉」

羽無宮
「『羽無(はなし)』は、鬼ケ岳の温羅退治の際、 吉備津彦命の放った矢が、樹間を通る間に矢の羽が抜け、羽の無い矢が飛んで来た、ことから名付けられた」

矢掛町嵐山
「「 矢掛」は、 吉備津彦命が温羅退治をする時、 嵐山を挟んで東の山に陣取り、西の山を根拠地とする温羅と合戦。この時、 吉備津彦命の矢が嵐山の松の木に掛かったことから始まる」


御崎神社(岡山県小田郡矢掛町南山田)
「吉備津彦命が賊平定のために当地方に来られたとき、抵抗を続けた賊を平定して村人を救われたので、命を祭神としている」

青龍神社(岡山県後月郡吉井町簗瀬)
「吉備津彦命、この国を平定し給ふ時、村内小田川に簗を架し魚を獲る事を始め給ふにより簗瀬という。祭神の霊夢により鉱山相稼ぎ村民繁栄のもととなる。」

井森神社
(井原市井原町1669)

「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」

岩倉山神社(岡山県井原市岩倉町)
「吉備津彦命、賊徒平定のとき、陣営であった。山容位置が吉備中山に似ているので同命を奉斎した」

岡山神社
(広島県深安郡神辺町道上)
「四道将軍吉備津彦命が西道平定のために派遣されていかれる途中、備中から備後国に入られて、現在の神社の場所でお休みになられた。そして、さらに西へ向かわれた。」

吉備津神社(広島県尾道市山波町尾道造船所内)
「吉備津彦命の上陸地、命がこの地に上陸したとき、目印に杖をさしたのが芽を吹いて大樹になったのが境内のウバメカシである。また、命が船をつないだという『ともづな石』も残っている。」
 この地は海抜10m以下である。吉備津彦の活躍していた時代には海の底のはず。と思ってよく調べると、この神社の地は「元の海岸の位置から270mほど移動した」という記録が見つかった。

艮神社
(広島県尾道市山波町)
「吉備津彦命が休息した場所」

 これらの伝承の中に温羅との戦いの様子が含まれているが、吉備国中央が平定完了した孝霊67年以降、温羅の残党や、略奪集団を吉備津彦が平定して回ったのであろう。その最西端は尾道であろう。当時の吉備国は東は兵庫県の加古川、西は広島県の三原あたりまでの広大な領域だった。三原より西は安芸国である。安芸国は、神武天皇東遷時出雲国から譲渡を受けており、略奪集団が出てきても役人(安芸津彦)により武力平定されており、鬼は存在しなかったのであろう。

 これらの伝承をまとめると、吉備津彦命は吉備中山から総社を経由して小田川沿いに西へ平定し、広島県の神辺、府中と平定し、福山から海路尾道まで進軍したことが伺われる。この戦いで吉備国全土が平定完了している。片山神社社記によると孝霊72年のことである。

 高梁川流域の平定(孝霊55年)

石蟹魁師との戦い

 新見市石蟹に伝承が伝わっている。
 「石蟹で強賊の石蟹魁師(いしかにたける)が、石窟に居城を構えて横暴を極めていた。吉備津彦命がこれを征服して殺した。そして、この地を「伊波加爾(いはかに)」と称せよと申された。

 日野郡誌
 「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
 別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
 備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」

 大倉山の伝承は次のようになっている。

 昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子 を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。
 牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに 攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。
 このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。

 石蟹魁師荒仁とは

 これらは、いろいろと矛盾する伝承である。どれが正しいのであろうか。
 石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところが あり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。

 伯耆国の伝承のほうでもこの人物は備中出身となっている。これを元に双方の伝承をつないで見ると、出雲族の一派である石蟹族が、伯耆国日南から備中国石蟹までを統治していた。その本拠地であるが、この石蟹というには狭すぎる。この支配地で最も開けているのは新見盆地である。おそらく、新見盆地を本拠地としていた出雲族の豪族であろう。

 吉備津彦が戦っていたのは略奪集団(鬼)である。出雲族との戦いは吉備津彦も避けていたのではないかと思われる。しかし、この頃になって略奪集団が出雲族と連携するようになって、吉備津彦はやむなく出雲族と戦うことになった。それが、石蟹魁師荒仁である。

 大倉山の戦いの時期

 大倉山の戦い時の孝霊天皇の本拠地が伝承によりばらばらである。

 菅福の地にいる時に大倉山の戦いがあった・・・日野川沿い民間伝承。
 宮内に住んでいる時に大倉山の戦いがあった・・・日野郡誌

 孝霊天皇の本拠地は菅福→印賀→宮内と変遷している。石蟹魁師荒仁は南から北に移動し、大倉山で最期を遂げているのは共通なので、孝霊天皇・吉備津彦は南から攻めたことになる。孝霊天皇は妻子を菅福に残して吉備国に移動しているので、大倉山の戦いは菅福に妻子がいるころの事件ということになる。孝霊68年福姫13歳の時菅福から印賀に移っているので、大倉山の戦いは孝霊68年と推定できる。

 孝霊天皇は菅福に妻子を残しているので、伯耆国は平和を維持していたと思われる。大倉山や鬼林山での戦いが起こっているが、これは、吉備国からの出雲族の移動によって起こったものと推定される。

 吉備国中心域にすんでいた出雲族の残党が高梁川を遡り、新見地方の豪族石蟹魁師荒仁と協力して孝霊天皇軍と対峙したものと考えられる。出雲族の残党は大倉山・印賀・鬼林山などに分散し、孝霊天皇軍と敷く戦ったのであろう。

 大倉山の戦いの概要

 石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、 土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。吉備国中心域の出雲族が吉備津彦によって平定され、残党の多くは百襲姫の和平案を受け入れ朝廷側に下った。それを承知しない出雲族が高梁川を遡ってきたので、石蟹族は彼らと連合して、孝霊天皇軍と戦うことにした。

 まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃った。孝霊天皇軍だけでは太刀打ちできず膠着状態になったので、吉備から稚武彦命の援軍を頼み、稚武彦が応援に駆けつけた。石蟹族はたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は高梁川を遡って退却し、桑平峠から石見川流域に入り込んだ。

 石蟹魁師荒仁がこのまま川を下ると孝霊天皇の妻子のいる菅福に達する。孝霊天皇はこれはまずいと思ったのであろう。稚武彦にそのまま追撃させ、孝霊天皇自身は先回りをしたと思われる。石見川から沿いから北に経路を通り、都合谷を下れば菅福にでる。孝霊天皇が以前菅福に住んでいた時があるので、この経路を知っていたのであろう。

 菅福の地に出た孝霊天皇軍は日野川を遡り生山に出た。生山で、石見川を下ってきた石蟹魁師荒仁軍と出くわした。石蟹魁師荒仁は稚武彦軍と孝霊天皇軍に挟まれた形になり、霞に退去し拠点を構え孝霊天皇、稚武彦連合軍と戦った。

 石蟹魁師荒仁軍はここでも敗れ、石蟹魁師荒仁自身は大倉山へ逃げたが他の大将たちはどこへ逃げたか見失った。

 このようにして大倉山の戦いが始まったのである。

 孝霊天皇は稚武彦命を総大将として大倉山総攻撃をすることになった。まず、稚武彦命がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。
 石蟹魁師荒仁軍は稚武彦の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに石蟹魁師荒仁軍に攻撃を始めたので、さすがの石蟹魁師荒仁も降参した。
 このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。

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