鬼林山の決戦

 大倉山の決戦に勝利した孝霊天皇は、菅福の地に暫らく滞在しながら、残党の行方を捜していた。

 印賀の鬼退治と福姫の死

大宮の楽楽福神社伝承

 福姫命は13歳まで菅福で過ごされた。この頃、印賀にも鬼が現れ、福姫命は孝霊天皇に連れられて、印賀の里に移り住んだ。のどかな山里で楽しい毎日を過ごされるうち、15歳になったある日、孝霊天皇が印賀の鬼退治をして留守をしていたとき、福姫命は畑にたくさん育ったえんどう豆を採りに行かれた。ところがえんどう豆の蔦が竹に絡み付いて思うように採ることができず、力いっぱい蔦を引っ張ったところ竹の端が目に突き刺さってしまった。
 福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。
 村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。

 霞の戦いで逃走した残党が印賀にいることが分かったので、孝霊68年、孝霊天皇は軍を率いて印賀に進駐した。この時、細姫・福姫を伴っていた。印賀の鬼は分散していたので、探し出しては降参させるという戦いを行っていた。

 孝霊70年、福姫が15歳になった時、福姫に悲劇が襲った。伝承の通り目にけがをしたのである。福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。

 鬼林山の戦い

鬼林山の伝承

 孝霊天皇が大倉山と印賀の鬼退治を終えて菅福の地でしばらく休んでいると、鬼林山の鬼退治をしてほしいと人々が駆けつけてきた。孝霊天皇は再び歯黒皇子を連れて出かけることにした。
 孝霊天皇は宮内に居を移し、鬼退治をすることになった。鬼林山には赤鬼・青鬼の獰猛な鬼がいて簡単に倒せる相手ではなかった。この合戦のとき、急な病で最愛の皇后細姫が崩御された。孝霊天皇は悲しみの中で住居の裏山(崩御山)に細姫を埋葬した。

楽楽福神社由緒

「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。

孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。

その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。

これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌

  むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。

それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。

即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」

東楽楽福神社(宮内) 楽楽福神社(印賀)
菅福神社(上菅) 西楽楽福神社(宮内)

 石蟹族残党出雲振根に救援依頼

 鬼林山の鬼はかなり強かったようである。鬼林山は石蟹族の残党と思われるが、大将の石蟹魁師荒仁は大倉山で降参している。主力でない部隊の残党がこれほど強いとは考えにくく、出雲本国からの援軍があったのではないかと考えられる。また、大倉山平定は孝霊68年で、鬼林山の戦いは孝霊71年である。この間現年代計算で1年半経過しているのである。

 孝霊天皇が伯耆国で鬼退治をしているのに、出雲本国は何もしていなかったとは考えにくい。出雲族と考えられる石蟹族残党は出雲本国に救援を恃み、出雲本国も体制を整えて孝霊天皇軍を追い返そうとするであろう。

 吉備津彦が吉備国に侵入したのが孝霊53年であり、これ以降東倭地域で戦乱が起こっているのであるが、この期間出雲本国との戦いが起こっている気配がない。大和朝廷と出雲国(出雲振根)との間で和平交渉が継続していたためと思われる。出雲振根自身は素盞嗚尊を崇拝しており、祭祀で持って平和を維持しようとする気持ちが強く、祭祀の強化を大和朝廷に要請していたようである。

 大和朝廷側は武力で鬼退治を要請したが、出雲振根はあくまで祭祀による統治を希望した。瀬戸内海航路は大和朝廷にとっても生命線だったので、武力で動かない東倭の代わりに大和朝廷が武力で持って鬼退治をしたのである。

 そのような孝霊61年月支国から援軍がやってきて、孝霊天皇は東倭を大和朝廷の直接支配にしないと朝鮮半島の国々と連携して倭国は分裂してしまう危機を感じた。その後出雲国に大和朝廷の直接支配を受ける様に出雲国に要求していたのである。

 出雲振根は素盞嗚尊の聖地が大和朝廷の支配を受けることはあり得ないと、この申し出を拒否していた。しかし、すぐに全面戦争になっていないことから、出雲国内にも条件によっては大和朝廷の直接支配を受けてもよいという考えがあったのではあるまいか。その条件交渉を継続していたと思われる。

 そのために、孝霊天皇が菅福に長期滞在していても、出雲本国からの襲撃を受けなかったのであり、平和が維持されていたのであろう。以下は状況から判断した推定である。

 そのような中、吉備国の鬼たちが、出雲国の役人(石蟹魁師荒仁)と連携を図り、大和朝廷と戦うようになってきて、出雲振根も、石蟹族の武力支援をせざるを得なくなった。

 出雲振根は最初は傍観していたのであるが、石蟹族が霞の戦いで敗れた残党が日野川を遡り、現在の日南町多里より、萩山川を遡り、峠を越えて斐伊川を伝って、出雲国の出雲振根に救援を求めてきた。出雲振根としては大和との戦いは避けたかったのであろうが、石蟹族の残党の要請を受けて大和朝廷との戦いを決心した。

 出雲振根飯入根を殺害

 出雲振根の弟である飯入根は大和朝廷に友好的であった。大和朝廷との戦いの決心をした出雲振根に対して、強く反対を申し出たものと考えられる。大倉山の戦いから鬼林山の戦いまで半年暦で3年かかっているのは、出雲国内で出雲振根と飯入根の論争があったためと考える。

 出雲国内でいつまでも論争していたのでは次第に大和朝廷に有利になると考えた出雲振根は飯入根の殺害した。その様子が、日本書紀崇神天皇60年の条に記録されている。

 崇神天皇は群臣に詔して「武日照命の天からもって来られた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるが、これを見たい」と言った。武諸隅を遣わせて奉らせた。このとき出雲振根は神宝を司っていたが筑紫国にいて会えなかった。その弟の飯入根が皇命を承り、神宝を弟の甘美韓日狭とその子の鸕濡渟に奉らせた。出雲振根が筑紫から帰って来て神宝献上を聞くと、弟の飯入根を責めて「数日待つべきであった。何を恐れて容易く神宝を許したのか」と言った。
 兄の出雲振根は年月が経っても恨みと怒りは消えず、弟の飯入根を殺そうと思った。それで弟を欺いて「このごろ 止屋やむやの淵に水草が生い茂っている。共に行って見たいと思うのだが」と言うと弟はこれに従った。兄は真剣によく似た木刀を差していた。弟は真剣を差していた。淵のほとりに着くと、兄は弟に「淵の水はとてもきれいだ。共に水浴しようではないか」と言った。弟は兄に従い、それぞれ刀を外して置くと、水の中に入った。兄は先に陸に上がると弟の真剣を差した。弟は驚いて兄の木刀を差した。互いに斬り合うことになったが、弟は木刀のために抜けず、兄は弟を殺した。

【日本書紀 崇神天皇六十年七月己酉条】

 出雲振根が飯入根を殺害した場所は出雲市の阿須利神社の地であるといわれている。 この神社は『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社で、『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、 とあり、また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話がある。 この神社は本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していたそうで、この周辺で出雲振根は飯入根を殺害したと判断される。 ここは斐伊川河口周辺で荒神谷遺跡から数kmほどしか離れていない。
また、次のような伝承もある。

 飯入根が朝廷に神宝を渡した翌年の真夏の日、振根は弟飯入根を前の川(赤川)に遊泳に誘った。二人はしばらく遊泳をした後、兄は弟より先に堤に上がり 弟の剣を自分の竹の剣と取替え、弟の上がるのを待ち構えて斬りつけた。弟は遂に切り殺された。飯入根の墓は赤川沿いのすくも塚である。

 このように飯入根の殺害された場所が2箇所ある。出雲振根・飯入根ともに出雲の神宝の管理をしていたようで、神宝を安置していたところは神原の代寶垣と呼ばれるところであると伝えられており、出雲振根・飯入根の本拠地は神原の地であったと考えられる。このことから、飯入根終焉の地はすくも塚の近くといえよう。振根が数年後に飯入根を殺害したということは殺害理由が祭器を朝廷に渡したからだけではなく、別の理由があるのではないだろうか。大乱後飯入根の子である 鵜濡渟命が朝廷から初代の出雲国造に任命されており、これは、飯入根が朝廷に対して好意的だったことを意味している。 飯入根は振根と違い出雲が朝廷の支配下になることに賛成していたのではあるまいか。そのために、振根に殺害されたと思えるのである。

 飯入根を殺害した出雲振根は、大和朝廷との戦いを宣言し、軍卒を集め体制固めをした。孝霊天皇は菅福に滞在しているので、石蟹族の残党に協力し、出雲軍を斐伊川を遡らせ、多里から日野川を下らせた。

 出雲軍との最初の戦い(鬼林山)

 これらの伝承をまとめると次のようになる。

 印賀での鬼退治が終わった孝霊天皇は細姫と共に菅福の地に戻ってきて、その地に暫らく滞在していた。孝霊71年、石蟹族の援軍である出雲軍は日野川上流の多里に進軍してきた。周辺の人々が出雲軍の出現を孝霊天皇に伝えた。出雲軍は相当強い事が予想され危険だと思い、孝霊天皇は細姫を菅福に残して、軍を率いて日野川を遡った。鬼林山の麓の宮内で両軍が激突した。

 孝霊天皇軍の方が優勢であり、戦いに不利と感じた出雲軍は鬼林山に逃げ込んだ。以降ゲリラ戦となり戦いが長引くことになった。この時細姫はお産が近い状況だったようであるが、孝霊天皇を慕って宮内にやってきた。宮内は住みやすいところだったので、鬼林山の対岸にある西楽楽福神社の地に宮を作って滞在した。

 しかし、その直後細姫は急な病で他界することとなった。孝霊71年4月2日の事である。細姫は背後の崩御山に葬られた。この後孝霊天皇は東楽楽福神社の地に移り住んで、鬼林山の残党と対峙した。

 孝霊天皇は孝霊72年になっても鬼林山の鬼退治ができなかった。このような時、吉備国の小田川流域の平定をしていた稚武彦命から、平定を完了したとの連絡を受けた。孝霊天皇は稚武彦命を呼び出した。稚武彦命はすぐに宮内にやってきて、鬼林山の残党を一掃した。

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