月支国来襲

 月支国来襲

 孝霊61年朝鮮半島の月支国の船団が来襲したという伝承が日御崎神社に伝わっている。孝霊天皇関連伝承において、孝霊61年より前は戦いの伝承が存在しないが、これ以降積極的に武力を使っている伝承が残されている。月支国の来襲は孝霊天皇に大きな影響を与えたものと思われる。

孝霊天皇61年(修正178年)の日御碕神社(島根県出雲市)の記事である。
 「孝霊天皇61年 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。」 

 また、次のような伝承もある。
 土鈴の由来(授与鈴の説明文より)
出雲日御碕大神宮社記によると、第7代孝霊天皇の御代、日御碕の海上に数十隻の軍船が襲来した。これは神代の昔、新羅国から持ちきた日御碕の地(出雲の風土記にある)を恢復すべく月支国の彦根に王が攻めてきたのである。よって天葺根命(宮司家の祖神)の十一世の孫 明速祇命は必死の勇を奮って防戦につとめられた。この時、スサノオの大神様は天井より大風を発し、神威を振はせられたのでさすがに月支国の軍船も大破沈没し大敗したという。この故事により災害避除悪魔退散の御守りとして【鬼面守】の土鈴を広く流布するものである。

 ほぼ同じ時期に朝鮮半島の新羅本紀南解王11年に次のような記録がある。

「倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。」

 孝霊天皇61年は、178年前半であり、新羅本紀にある倭人が新羅に侵入した年は179年前半である。これらの記事が真実を伝えているとすれば、互いに関係があることになる。

 日御崎神社の土鈴の言い伝えは、月支国王の出雲への侵攻を意味しているが、これはありえないことと判断する。この時代数十隻の船で、遠く離れた出雲を戦闘で陥れること自体がほとんど不可能であろう。仮に一地域を占拠しても、補給ががない状態では、じり貧で滅亡することになる。唯一可能なのは、国内に協力者がいる場合である。その場合その協力者からの補給があるので占拠状態を維持できるのである。

 この伝承に登場する明速祇命は天葺根命の11世孫であるが、天葺根命は素盞嗚尊と同世代なので、BC30~AD30年頃に活躍したと考えられる。11世差は305年±30年ほどである。そうすると、天葺根命の活躍年代は270±30年となり、倭の大乱時より、100年ほどもずれ、垂仁天皇から景行天皇の時代に該当する。

 明速祇命の活躍時代は景行天皇の時代で、出雲王朝が廃止され、朝廷の支配の元、朝廷は新羅に頻繁に攻撃を仕掛けていたころに該当する。新羅に倭からの襲撃が頻繁に起こっているので、新羅の方も出雲の湾岸の地域を襲撃に来たことがあったのかもしれない。それを、天葺根命が撃退した伝承が、孝霊天皇時代の伝承とつながった可能性が考えられる。

 月支国とは

月支国は辰王が都するところといわれているが、どこにあった国であろうか。

 『後漢書』馬韓伝には月支国は次のように記されている。

 韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り, 十二カ国、その北に?貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。伯済は、その一国なり。大領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。

 この当時倭は現在の韓国の領域であり、その北に韓が存在している。月支国は韓の東側にあるので、現在の北朝鮮領域の南東の海岸沿いにあった国であり、新羅国の北にあったと考えられる。新羅国と月支国との争いは伝えられていない。

 この頃の朝鮮半島はどのような状況にあったのであろうか。朝鮮半島の現韓国の領域は倭国の領域であった。素盞嗚尊が統一した結果、倭国の一領域になっていたのである。朝鮮半島に伝承がほとんど残っていないために、この当時の朝鮮半島が朝廷の支配下にあったのか東倭の支配下にあったのかが定かではない。しかし、出雲国との関係が深くなることを朝廷が恐れていることからに朝廷に所属していたのではないかと考えられる。

 韓の領域は現在の北朝鮮の領域とほぼ重なる。古老の伝承によると、辰韓は「古之亡人(いにしえのぼうじん)」すなわち春秋戦国期より前の亡命者が、秦末の動乱時に到来し、最初、馬韓の東部を分割されて入り(月支国)、その後6国から12国にまで増えた。とされている。

 月支国は中国の秦からの亡命者が作った国のようである。三国史記百済本紀によると、温祚王26年馬韓を攻め馬韓を弱体化させ、翌27年馬韓を滅亡させた事が記録されている。温祚王26年は孝霊58年に相当し、遼東半島地域に建国直後の百済が、東方の馬韓領域に勢力を広げている様子がうかがわれる。

 当然馬韓の東にある月支国にも百済の勢力が及ぶようになり、月支国も新羅・東倭連合との協力関係を築いて安定を図ろうとしていたことがうかがわれる。

 倭国内の新羅国ではあったが、次第に独立色を強めてきており、朝廷としても新羅国を警戒し、貢物を要求するということは十分に考えられる。建国したばかりの新羅国は大和朝廷からのさまざまな干渉を嫌い、次第に気持ちが朝廷から離れていったのであろう。その北隣りにあった月支国とはこのようにして同盟関係になっていった。新羅国は日本列島内の出雲国とも使者を交換し出雲国とも仲良くなっていったのである。

 これらの状況より、倭の大乱に至るまでの経過を推定してみよう。

 百済建国と出雲と新羅の接近

 新羅建国は144年である。当初は倭国領域内にできた自治領域だったのである。しかし、次第に力をつけてきたために、大和朝廷から警戒されることとなった。大和朝廷としては毎年貢物の献上があれば、朝廷に従っている証拠として安心していられたのであるが、この頃より不作続きであり、新羅としても朝廷に貢物を送ることができなくなっていったのである。朝廷は新羅から貢物が届けられないのを朝廷の支配から離れるのではないかと危惧し、新羅に圧力をかけた。

西暦 孝霊 中国干支 半年
干支
日本 半島暦 百済 新羅
164 33 35 甲辰 癸卯 甲辰 太瓊命を皇太子に決定・年26(孝安76) -18 温祚即位・百済建国
165 35 36 乙巳 乙巳 丙午 -16 靺鞨が北辺を侵す。急襲
166 37 38 丙午 丁未 戊申 -14 日食(6年)
167 39 40 丁未 己酉 庚戌 倭迹迹日百襲姫生誕(孝霊39) -12 靺鞨が攻めてくる
168 41 42 戊申 辛亥 壬子 九州で騒乱発生。孝安天皇親征(神皇紀・孝安80年) -10 靺鞨が北辺を侵す(10年)
169 43 44 己酉 癸丑 甲寅 -8
170 45 46 庚戌 乙卯 丙辰 孝霊天皇山陰遠征(孝霊45)日野郡誌
倭迹迹日百襲姫大和出発
倭迹迹日百襲姫、東讃引田の安戸の浦上陸し、水主神社の地に滞在(孝霊46)。
-6
171 47 48 辛亥 丁巳 戊午 -4
172 49 50 壬子 己未 庚申 -2 楽浪が攻めてきた。
靺鞨が攻めてきた(18年)
173 51 52 癸丑 辛酉 壬戌 孝安天皇崩御 1
174 53 54 甲寅 癸亥 甲子 孝霊天皇即位 吉備津彦兄弟吉備国へ出発
大吉備諸進命没(孝霊54)
3 楽浪軍来襲
175 55 56 乙卯 乙丑 丙寅 菅福に宮を作る
福姫誕生
5
176 57 58 丙辰 丁卯 戊辰 7 馬韓が弱体化(26年)
177 59 60 丁巳 己巳 庚午 9 馬韓滅亡(27年)
178 61 62 戊午 辛未 壬申 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せり 11
179 63 64 己未 癸酉 甲戌 13 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。

 百済が164年に建国された。百済は建国直後より靺鞨の攻撃を頻繁に受けている。靺鞨(沿海州に本拠)より頻繁に攻撃を受けるということは、靺鞨の南に接するように百済が存在していたことを意味している。百済は遼東の東側で遼東半島周辺で建国したが、すぐさま東に勢力を伸ばしたのであろう。そのために、靺鞨と衝突することになったのである。この支配領域は馬韓の領域であり、その東には月支国があったと思われる。百済はそれらの領域に侵入してきたのであろう。百済の侵入により、月支国は危機的状態になったであろう。月支国を代表とする辰韓地域はこの状態を打破するために新羅と手を結ぶことになった。新羅は大和朝廷に圧力に対抗するために、辰韓と手を結ぶことにした。新羅は急激に勢力を拡大することになった。

 その新羅と出雲が使者を交換し友好を深めようとしているのである。大和朝廷としては、新羅と出雲が手を結ぶことは何としても阻止したいという思いがあった。

 孝安天皇は出雲国・新羅国・月支国が関係を深めていくことに危機的なものを感じてきた。そのままにしておくと、折角まとまった日本列島が分裂する懸念があったのである。

 孝安天皇はそれまでの天皇と違い出雲関連の神社の創祀を行っていないのは、孝安天皇の即位したころより、出雲が新羅に接近していったために、孝安天皇の気持ちが出雲から離れていったのであろう。155年出雲神宝を検校することにより、出雲に大和朝廷に反抗する意思がないことが分かって、朝廷は一度は手を引いたのではあるが、新羅との接近は看過できないことであった。

 出雲は当時の東倭領域の盟主国である。この当時の東倭の領域は現在の中国地方と北四国地方である。出雲国が祭祀を強めるとこれらの国々が出雲を中心としてまとまるだけではなく、素盞嗚尊信仰の強い北九州地方まで東倭に取り込まれるようになり、それが、新羅国・月支国と連合を組めば朝廷としては取り返しのつかないこととなるのである。

 月支国来襲過程の推定

 孝霊55年から58年にかけて孝霊天皇は菅福の里にいた。菅福を拠点として出雲との交渉を行っていたと思われる。孝霊天皇の監視が厳しく、出雲は新羅・月支国との連合交渉を進めることができなかった。

 孝霊58年、孝霊天皇は他の地方の巡回のために大和に帰還した。出雲振根はチャンス到来とみて新羅・月支国との交渉を進めることとなった。

 この頃吉備国では、吉備津彦の活躍が目覚ましく、出雲国の拠点が次々と落とされていったのである。このままでは、吉備津彦が吉備国を平定し、出雲にやってくるのは時間の問題であった。新羅・月支国の王にこの状態を伝え、このままでは、東倭・新羅・月支の連合国構想は夢と終わるので、出雲振根は新羅国・月支国に応援を要請したのではないだろうか。

 このとき、新羅国は倭の一領域であり、朝廷からの役人もきており、表立って動くことができず、軍船集めは月支国に任せた。月支国は倭の領域ではないために朝廷の役人はいなかったのである。

 出雲振根は月支国軍の援軍を得て吉備津彦軍との戦いに備えようとしたのであろう。月支国軍は月支国から朝鮮半島東岸を南下し、新羅国の浦項の迎日湾に軍船を集結し、新羅国の援助を受けて、日本海に船出をし、孝霊61年日御崎沖に大挙してやってきたものであろう。しかしながら上陸直前に嵐によって軍船の大半が沈んでしまったと考えられる。

 孝霊天皇の対応

 新羅国襲撃

 月支国来襲の報に最も衝撃を受けたのは孝霊天皇であろう。これまで、孝霊天皇は交渉による打開を図ろうとしており、孝霊天皇自身が戦闘を命じたという伝承は存在しない。

 しかし、孝霊61年以降は孝霊天皇の戦闘伝承が数多く伝わっている。孝霊天皇は月支国の来襲に衝撃を受け、少しでも早く出雲を平定しないと、東倭・新羅・月支の連合国が完成してしまうと危惧した。それまでの話し合いによる解決法は時間がかかり、出雲国に有利にはたらくことが分かった。孝霊天皇の意識が話し合いから武力平定に変わったのである。

 孝霊天皇が最初に売った策は、新羅をおとなしくさせるために、孝霊63年新羅の海岸地方を襲撃させた。

「倭人が兵船を百余隻繰り出して海辺の民家を略奪したので、六部から精兵を徴発してこれを防いだ。すると、楽浪が我が国の内部が虚弱だと見て、全く不意に侵入してきて金城を攻めた。」(南解王11年=孝霊63年=AD179年前半)

 このころ楽浪郡は新羅国から離れているので、攻めてきたのは楽浪ではなく、朝廷の出張所の軍であろう。孝霊天皇は月支国も襲撃したと思われるが伝わっていない。新羅国はこの襲撃に驚き、以降連合国構想から離れることとなった。

百襲姫讃岐国中央へ移動

 孝霊63年、孝霊天皇は讃岐国の百襲姫の元を訪れているようである。この年百襲姫は25歳(現年齢13歳)になっており、讃岐の水主神社の地で成長していた。彼女は近郷近在に知られる程の大天才であり、幼少といえど数々のアイデアで土地の人々の難儀を救っていたのではないかと考えられる。

 この当時大天才が生まれた場合、その能力の高さから、周りの人々には、神が宿った人物を見えるのではないだろうか。孝霊天皇もその一人であったのであろう。孝霊天皇は出雲国の扱いを百襲姫の判断に任せようと思っていたのではあるまいか。

 百襲姫自身は孝霊天皇からの要請を受けた時、情報不足であったせいかすぐには行動を起こしていない。情報が足りないと有効策は大天才といえども打てないのである。先ずは讃岐国中央に出て、讃岐国の人々の生活を安定させることを要求したのではあるまいか。そうしながら、情報集めをして、有効な対策を考えようとしていたのではあるまいか。

 百襲姫は孝霊天皇の訪問を受け水主神社の地を出発して香川県高松市仏生山町甲1147の船山神社近くの船岡山の地に移動した。

 船岡山は水主神社から倭迹々日百襲姫命がこの周辺に移動して来て最初に住んでいたと伝えられるところ。山すぐ近くに船山神社がある。倭迹々日百襲姫命はこの地で農業振興のために溜池を作ることを思いついたと思われ、手前の船岡池が最初に作られたため池ではないかと考えている。倭迹々日百襲姫命はこの後田村神社の地に移動している。

 百襲姫はこの頃より、ため池を作っていったのではないかと思われる。香川県は現在でもため池が多く、その起源は不明である。百襲姫が中央より池を作る技術者を招いてため池作りをさせたのではないかと考える。このため池によって、讃岐国の農産物生産は安定し、人々から農業の神として崇められることとなった。

 田村神社 香川県高松市一宮町286
由緒  
倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。   
1.  境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。   
2.  境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった 。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。
3.  神社の東三丁のところに休石がある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。

 百襲姫は船岡山の地を1年ほどで離れ、孝霊65年ごろ、この田村神社の地に滞在し、数々の功績を残した。百襲姫は27歳(現年齢14歳)になっていた。

 孝霊天皇吉備中山到着

 孝霊天皇は百襲姫を船岡山に送り届けた後、瀬戸内海を渡り、吉備津彦が統治している吉備中山に到着した。宮跡は現在の吉備津彦神社の地であろう。孝霊天皇が祭神として祀られている。

 吉備津彦はこの時点で、備前国・美作国の平定は終了していたが、出雲系の人々が時々反乱をおこす状態になっており、吉備津彦は残党を抑え込むのに苦労している状態であった。

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