鬼住山の決戦

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 伯耆国で最も詳細が伝えられている鬼伝承は鬼住山の鬼伝承であろう。その伝承は以下のようなものである。

鬼住山伝説

その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
 先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
 されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
 或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
 うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
 麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、
「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。
                                       楽楽福神社古文書より

このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。

鬼住山伝承別伝

 伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
 これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
 大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
 また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。

                                     溝口町発行「鬼住山ものがたり」より


この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
 鬼を退治した人物
    ・ 四道将軍の大吉備津彦説
    ・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説

   ・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝えられている。
    ・ 楽楽森彦命説
    ・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
 鬼住山に来た方向
    ・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
    ・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
    ・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
 楽楽福の社名の由来
    ・ 笹で葺いたためという説。
    ・ 大吉備津彦か稚武彦の別名が楽楽葺という説。
    ・ 金屋子神のササ(砂鉄)をフク(吹く)という説

鬼住山の戦いの時期推定 

 鬼住山の戦いがあったのはいつのことだろうか。それを決定づけるのが、鶯王である。鬼住山の戦いの総大将が鶯王になっており、鶯王はこの戦いで戦死している。鶯王は孝霊天皇と朝妻姫との間にできた子で、孝霊天皇が伯耆国訪問したのが孝霊45年なので、孝霊48年頃生誕していることになる。この鶯王が総大将となるためには鶯王自体がある程度の年齢に達していなければならない。孝霊天皇と出雲国との戦いは孝霊73年まで行われており、孝霊48年生誕とすれば孝霊73年の時点で26歳(現年齢計算で13歳)であり、現代では中学1年に相当する年齢である。これでも若すぎる感があるが、13歳であれば、配下の者がしっかりとしていれば、総大将をこなすことができないこともないと思われるぎりぎりの年齢である。

 また、鬼住山に対峙して鶯王が陣を張ったのが、南側にある笹苞山である。これは、孝霊天皇は鬼住山の南にいたことを意味している。菅福に都していた時以降と思われる。菅福に孝霊天皇が戻ってきたのは孝霊68年の大倉山の戦いの時であるから、これ以降となる。

 菅福に都していた時、孝霊天皇は北側からきていると思われ、この時、鬼住山には鬼はいなかったようである。孝霊天皇が菅福にいたわけであるから鬼住山に鬼が出没していればもっと早期に鬼退治していたはずである。鬼住山の鬼は戦いの直前に北方面からやってきたことを意味している。この頃伯耆国は安定統治されていたので、この鬼は出雲軍で出雲から派遣されたものと考えられる。

 以上のようから判断して、鬼住山の戦いは孝霊72年の鬼林山の戦いの後と考えられ、孝霊73年と判断する。

出雲軍鬼住山に布陣

 鬼林山に派遣した出雲軍に少し遅れて、鬼住山に出雲軍を派遣したと思われる。孝霊71年に鬼林山の戦いが始まって、鬼林山の鬼のゲリラ戦に対して孝霊天皇軍が鬼林山にくぎ付けになっている状態である。出雲振根は、日野川の下流(北側)から出雲軍を派遣して孝霊天皇軍を挟み撃ちにしようと考えていたのではあるまいか。

 出雲振根は孝霊72年日野川下流域(現在の米子近辺)に出雲軍を派遣した。妻木晩田遺跡に住んでいた人々がこの出雲軍の出現を宮内にいた孝霊天皇に伝えた。孝霊天皇は自らは鬼林山に布陣しているので動けないが、鬼林山の出雲軍と挟み撃ちにされるとまずいので、やむなく、鶯王を総大将として日野川を下らせたのである。

 両軍は溝辺周辺で出会った。両軍ともに強く、戦いに決着がつかず、出雲軍は鬼住山に、鶯王軍は笹苞山に陣を張って長期戦となった。鶯王軍としては、溝辺の地で出雲軍を食い止め、鬼林山の鬼との連携を食い止めるのが目的であったので、長期戦でもよかったのである。

 溝辺周辺の人々は、菅福に都していた頃の細姫の努力により、農業生産に関する新技術を伝授されており、鶯王に対して好意的であり、鶯王軍の方に食糧などを供給していた。出雲軍の方には食糧が不足するので、土地の人々から強制的に食糧を調達するようになり、鬼住山の鬼が人々を苦しめるといった伝承につながったのであろう。

鬼住山総攻撃

 土地の人々が鶯王軍に味方しているので長期戦になると不利になると判断した鬼住山の出雲軍は、敵の大将の鶯王を捉えようとしたのではあるまいか。ある日鶯王が若干の配下を従えて、山から下りてきたのを狙って鶯王を襲撃した。出雲軍は鶯王を捉えるのに失敗し、誤って鶯王を殺害してしまった。

 土地の人々は鶯王が殺されたのを悲しみ、鶯王を葬り楽楽福宮で鶯王を祀った。

 このことを知った孝霊天皇は大変悲しんだ。ちょうどその頃、吉備国からやってきた稚武彦が鬼林山の出雲軍を降参させたので、孝霊天皇自身が稚武彦、新之森王子、那沢仁奥を率いて鬼住山を総攻撃した。

 鬼住山の出雲軍は総攻撃に耐えることができず、降参した。この頃の戦いは、殺戮が目的ではなく、降参したものはそれを許し味方に加えることが多かったようである。

 孝霊天皇としては、出雲を直接支配することを目的としている。素盞嗚尊の故事に習い、武力制圧による統治が目的ではなく、祭祀による統治が目的である。無用な殺害は人々から反発を受け、当初の目的の達成を難しくするのである。

 孝霊天皇は投降してきた出雲軍と話し合った。孝霊天皇の出した条件は「今後朝廷に服属するなら、この溝辺周辺の統治を任せる」と言ったものである。出雲軍大将は鶯王を殺害されたのに、この土地を治めらせてもらえることに感動し、朝廷に服属したのであろう。

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