孝昭天皇
孝昭天皇は和名を観松彦香殖稲尊といい、AD103年に綏靖天皇の皇子として誕生している。孝昭天皇の父としては安寧・懿徳天皇も考えられないことはないが、生誕時の年齢から綏靖天皇の子と判断する。
AD117年に世襲足媛を皇后と決定し、AD118年に懿徳天皇より譲位を受けて31歳(現年齢16歳)の時、第5代孝昭天皇として即位した。
皇后の選定
孝昭天皇の皇后世襲足媛は尾張一族出身である。
海部氏系図による世襲足媛
┏━天忍人━━天登目建登米━━建宇那比━━━建諸隅━━━━倭得魂彦 素盞嗚尊━━天火明┓ ┏━天村雲━┫ (饒速日尊)┣━天香語山━┫ ┗━天忍男┓ 高皇産霊神━天道媛┛ ┗━高倉下 ┃ ┣━━世襲足姫┓ 大山祇命━━鴨建角身━玉依彦━━━━剣根命━賀奈良知姫┛ ┣━━孝安天皇━━━孝霊天皇 ┃ 神武天皇━━綏靖天皇━━━孝昭天皇┛ |
饒速日尊が丹波国統一した時、天道媛(三穂津姫)との間に生まれた子が天香語山命である。天香語山命はそのまま丹波国に留まり、天村雲命と高倉下命が誕生した。高倉下命は紀伊国に移り、神武天皇東遷に協力し、大和朝廷成立後、神武天皇の命により天村雲命は尾張国の開拓をした。その天村雲命の孫が孝昭天皇の皇后となっているのである。
孝昭天皇が尾張一族から皇后を迎えたのは、尾張一族が尾張国から東海地方一帯に勢力を伸ばし、強大化したためではなかろうか。
孝昭天皇時代の系図
西暦 | 孝昭 | 孝安 | 中国干支 | 半年干支 | 記録 | |||
103 | 癸卯 | 辛丑 | 壬寅 | |||||
104 | 1 | 甲辰 | 癸卯 | 甲辰 | ||||
105 | 2 | 3 | 乙巳 | 乙巳 | 丙午 | |||
106 | 4 | 5 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | |||
107 | 6 | 7 | 丁未 | 己酉 | 庚戌 | 安寧天皇即位・年38 倭国王帥升等生口160人を献ず |
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108 | 8 | 9 | 戊申 | 辛亥 | 壬子 | |||
109 | 10 | 11 | 己酉 | 癸丑 | 甲寅 | |||
110 | 12 | 13 | 庚戌 | 乙卯 | 丙辰 | |||
111 | 14 | 15 | 辛亥 | 丁巳 | 戊午 | |||
112 | 16 | 17 | 壬子 | 己未 | 庚申 | |||
113 | 18 | 19 | 癸丑 | 辛酉 | 壬戌 | 懿徳天皇即位・年34 | ||
114 | 20 | 21 | 甲寅 | 癸亥 | 甲子 | |||
115 | 22 | 23 | 乙卯 | 乙丑 | 丙寅 | |||
116 | 24 | 25 | 丙辰 | 丁卯 | 戊辰 | |||
117 | 26 | 27 | 丁巳 | 己巳 | 庚午 | |||
118 | 28 | 29 | 戊午 | 辛未 | 壬申 | 世襲足媛を皇后に決定(孝昭29) 七年間不作が続き餓死者が多く出た。天皇は飢饉救済、食料確保に腐心され窮状を克服した。(神皇紀・安寧22年) 不作が続き餓死するものが頻々として国民の心は穏やかでなかった。この機に乗じて隠岐の島・佐渡島にのこる国賊残党は大軍で北陸に侵攻、暴挙の限りを尽くした。天皇は坂本日吉太夫と諏訪武彦の両将に命じ鎮圧させた。(神皇紀・懿徳10年) |
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119 | 30 | 31 | 己未 | 癸酉 | 甲戌 | 国賊の一味が東南の島〃に集まり大挙して東海の国々に乱入した。天皇自ら元帥となり武部中連命を副将軍として南西の兵を率いて東征、賊軍は頑健にて鎮圧に十五年を必要とした。この天皇は高潔な天皇であったと云われている。皇后以外に娶る女人もなく宮中で心服しない者はいなかった。(神皇紀・孝昭30年) 孝昭天皇即位・年31 |
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120 | 32 | 33 | 庚申 | 乙亥 | 丙子 | 富知六所浅間神社創建(孝昭2) 神武天皇崩御。 氷川神社(埼玉・祭神素盞嗚尊)創建(孝昭3) |
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121 | 34 | 35 | 辛酉 | 丁丑 | 戊寅 | |||
122 | 36 | 37 | 壬戌 | 己卯 | 庚辰 | |||
123 | 38 | 39 | 癸亥 | 辛巳 | 壬午 | |||
124 | 40 | 41 | 甲子 | 癸未 | 甲申 | |||
125 | 42 | 43 | 乙丑 | 乙酉 | 丙戌 | |||
126 | 44 | 45 | 丙寅 | 丁亥 | 戊子 | 天足彦(孝安兄)誕生(ホツマツタエ・孝昭45年) 反乱平定完了 |
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127 | 46 | 47 | 丁卯 | 己丑 | 庚寅 | |||
128 | 48 | 49 | 1 | 戊辰 | 辛卯 | 壬辰 | 国押人(後の孝安天皇)生誕、(孝昭49年) 天降神社(福岡・祭神鵜茅草葺不合尊一家)創建(49年) |
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129 | 50 | 51 | 2 | 3 | 己巳 | 癸巳 | 甲午 | 阿須賀神社(和歌山・祭神事解男命)創建(51年) |
130 | 52 | 53 | 4 | 5 | 庚午 | 乙未 | 丙申 | |
131 | 54 | 55 | 6 | 7 | 辛未 | 丁酉 | 戊戌 | |
132 | 56 | 57 | 8 | 9 | 壬申 | 己亥 | 庚子 | 石津神社(大阪・祭神事代主神))創建(孝昭7) |
133 | 58 | 59 | 10 | 11 | 癸酉 | 辛丑 | 壬寅 | |
134 | 60 | 61 | 12 | 13 | 甲戌 | 癸卯 | 甲辰 | |
135 | 62 | 63 | 14 | 15 | 乙亥 | 乙巳 | 丙午 | |
136 | 64 | 65 | 16 | 17 | 丙子 | 丁未 | 戊申 | |
137 | 66 | 67 | 18 | 19 | 丁丑 | 己酉 | 庚戌 | |
138 | 68 | 69 | 20 | 21 | 戊寅 | 辛亥 | 壬子 | 国押人命を皇太子に決定・年20(孝昭68) |
139 | 70 | 71 | 22 | 23 | 己卯 | 癸丑 | 甲寅 | |
140 | 72 | 73 | 24 | 25 | 庚辰 | 乙卯 | 丙辰 | |
141 | 74 | 75 | 26 | 27 | 辛巳 | 丁巳 | 戊午 | |
142 | 76 | 77 | 28 | 29 | 壬午 | 己未 | 庚申 | |
143 | 78 | 79 | 30 | 31 | 癸未 | 辛酉 | 壬戌 | |
144 | 80 | 81 | 32 | 33 | 甲申 | 癸亥 | 甲子 | |
145 | 82 | 83 | 34 | 35 | 乙酉 | 乙丑 | 丙寅 | 孝昭天皇崩御。 |
146 | 36 | 37 | 丙戌 | 丁卯 | 戊辰 | 孝安天皇即位。年36 | ||
147 | 38 | 39 | 丁亥 | 己巳 | 庚午 | 孝昭天皇を埋葬(孝安38) |
孝昭天皇の在位期間
綏靖・安寧・懿徳天皇の在位期間から推定すると、孝昭天皇の即位は孝昭天皇はAD119年後半となる。孝昭天皇は31歳で即位しているので生誕がAD104年後半となる。綏靖天皇40歳(現年齢20歳)の時生誕となる。
このまま83歳で崩御するまで天皇として在位したとすると、孝安天皇の即位がAD140年後半となり、孝安天皇の崩御がAD179年となり、孝霊天皇の伯耆国遠征の記事と合わなくなる。ホツマツタエによると、孝霊53年に孝霊天皇は吉備津彦に吉備国遠征を命じている。これは孝霊53年には孝霊天皇が即位していることを意味しており、前後関係から判断して、孝霊53年は、孝霊天皇が即位した直後と思われる。孝安天皇の崩御は孝霊52年ではないだろうか。
孝昭天皇の生誕を前倒しにすると、孝昭天皇生誕時の綏靖天皇が若すぎることになる。孝安天皇38年に孝昭天皇を埋葬しており、孝昭天皇の崩御はこの直前となる。
孝霊天皇以降は半年一年干支が正確である。神武天皇も半年一年干支が正確なので、綏靖・安寧・懿徳の兄弟相続を直系相続にした影響と、誕生からの年数を即位からの年数と考えてしまった影響により、綏靖天皇から孝安天皇までの干支が年数と一致しなくなってしまったのである。
孝昭天皇の事績
孝昭天皇即位前、干ばつが続き不作が続いた。このことは年輪分析によるこの時期の降水量変遷でも推定されている。神皇紀によると孝昭天皇即位前年(安寧天皇22年=懿徳天皇10年)、東日本地域で反乱が起こっている。孝昭30年(即位前年)自ら元帥となり、この反乱を平定した。
神皇紀では国賊の反乱となっているが、生活の苦しさから勃発した略奪集団の横行であろう。略奪集団が大集団化したため、地域の有力者では鎮圧できず、朝廷に平定を依頼したものであろう。この頃は、政治体制が確立されていないため、略奪集団が巨大化しやすかったのである。
孝昭天皇はAD125年まで15年かけて反乱を平定したが、人々の心が安定させるのを目的として、東海地方から関東地方にかけて、数多くの神社の創建をさせたのである。
孝昭天皇は神武天皇より後の天皇としては初めての長期間在位(27年)である。具体的事績は記録されていないが、多くの神社を創建している。日向系の神々、出雲系の神々双方の創建にかかわっている。その中で関東地方に氷川神社を創建していることは意味があると思われる。それまで、関東地方の開拓は饒速日尊が近畿地方の人々を率いて開拓していたものであるが、孝昭天皇は出雲地方の人々を関東地方の開拓に参加させているのである。出雲系の人々は素盞嗚尊の信仰が厚く、近畿地方から派遣された饒速日尊の信仰をしている人々とは異なるのである。
綏靖天皇が大陸に技術者を派遣し、技術を学んで戻ってきたのであるが、それらの技術者を出雲地方にも派遣し、同時に出雲地方から多くの人々を関東地方の開拓に赴かせたのである。これも、東倭を大和朝廷の支配下に組み入れる対策の一環であると思われる。
このような提案をしたのは第4代懿徳天皇ではあるまいか。懿徳天皇は出雲を行幸しているが、その目的は出雲の人々を関東地方に派遣することを提案するものであったのであろう。出雲としては、大和朝廷の地方開拓により、出雲地方が日本列島から取り残されているような感覚があったのではないかと予想される。出雲の人々は素盞嗚尊系の祭祀を全国に広めたいという気持ちもあったと思われ、東倭を朝廷の支配下に組み入れたいと思っている朝廷側と思いが一致し、出雲の人々の関東地方派遣が決定したのであろう。
懿徳天皇の偉業を受け継いだ孝昭天皇が関東地方に派遣された出雲の人々のために氷川神社の創建を命じたのであろう。氷川神社の創建は孝昭天皇3年といわれているが、孝昭天皇即位3年(孝昭天皇33年)と推定する。
孝昭天皇は即位直後に出雲系の神社の創建に力を入れており、孝安天皇が誕生後に日向系の神社の創建に力を入れている。即位直後は出雲一族を関東地方に派遣し、出雲一族との関係を重視し、東倭を大和朝廷の支配下に組み込むための下準備をしていたためと思われる。
ところが孝安天皇が誕生した127年頃より、日向系の神社の創建に力を入れている。この時期までの大和朝廷は、分裂を避けるために出雲系の一族を重視してきたのであるが、この状態は日向から神武天皇と共にやってきた一族の反感を買ったのであろう。大和国内で出雲系と日向系の対立が起こるようになり、孝昭天皇も両勢力のバランスを取るために、日向系の神社の創建に力を入れることになったと思われる。
孝昭天皇の時代に創建された神社
神社名 | 祭神 | 鎮座地 | 県名 | 由緒 |
阿須賀神社 | 事解男之命 | 新宮市阿須賀1-2-25 | 和歌山県 | 第五代孝昭天皇御世(孝昭天皇51年) |
天降神社 | 瓊瓊杵尊,太玉命,児屋根命,彦火火出見命,豊玉姫命,玉依姫命,彦五瀬命,稲飯命,三毛入野命,磐余彦命,鵜草葺不合尊 | 田川郡川崎町大字川崎3868 | 福岡県 | 創立孝昭天皇四十九年秋、 |
石津神社 | 八重事代主神,大己貴神,天穂日神 | 堺市石津町1-15-21 | 大阪府 | 五代孝昭天皇の御宇7年8月10日、勅願により創建。 |
伊豆山神社 | 伊豆山神 | 熱海市伊豆山708-1 | 静岡県 | 人皇御五代孝昭天皇の御代創建 |
狭野神社 | 神倭伊波礼彦天皇 | 西諸県郡高原町大字蒲牟田117 | 宮崎県 | 人皇第五代孝昭天皇の御代に、神武天皇御降誕の霊跡を卜して御創建せられたと伝えている。 |
東霧島神社 | 伊弉諾尊 | 北諸県郡高崎町大字東霧島1560-イ | 宮崎県 | 第五代孝昭天皇の御代に創立されたものと伝えられております。 |
楡山神社 | 伊邪那美命 | 深谷市原郷336 | 埼玉県 | 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。 |
箱根神社 | 箱根大神,瓊瓊杵尊,彦火火出見尊,木花咲耶姫命 | 足柄下郡箱根町元箱根80-1 | 神奈川県 | 人皇第五代孝昭天皇の御代、聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされる。 |
斐伊神社 | 素盞嗚尊,稲田比売命,伊都之尾羽張命 | 大原郡木次町大字里方463 | 島根県 | 本社の創立は甚だ古く孝昭天皇3年に御分霊を武蔵国元官幣大社氷川神社に奉遷したと古史伝に記載されている。 |
氷川神社 | 素盞嗚尊 | 港区白金2-1-7 | 東京都 | 新編武蔵国風土記に「武蔵国一宮は、孝昭帝の御字3年勅願として出雲国氷の川上に鎮座する杵築(きつき)大社をうつし祀ったことから、氷川神社の神号を賜る。」とあり、 |
氷川神社 | 素盞嗚尊,稲田姫命,大己貴命 | 新宿区下落合2-7-12 | 東京都 | 当神社の御創建は第五代孝昭天皇の時代 |
富知六所浅間神社 | 大山祇命 | 富士市浅間本町5-1 | 静岡県 | その創建は人皇五代孝昭天皇2年 |
ホツマツタエの記録
天鈴二百四十三年、正月九日、天津日嗣を受け継いで香殖稲の天皇は大礼を施行。皆臣の拝礼をうけ四月五日に母君を御上后として敬った。葛城掖上池心宮に都を移す。出石心命をケクニ臣とする。君はまだ三十一歳であった。未だ君が若い時内侍六人、お下四人、青女三十人が仕えていた。
即位二十九年正月三日に正妃を迎えた。世襲足姫で未だ十五歳であった。神武天皇が酒の席で妃の小百合姫を弥彦命に下賜された事を前述したが、この世襲姫は弥彦神と小百合姫の間の御子で、越後で生まれた天抱命の子の天忍雄命の孫娘であった。
即位三十一年内宮の兄沖津世襲命をケクニ臣とした。
即位四十五年五月十五日に后が御子を生んだ。諱を押杵、天足彦国と云う。
即位四十九年后が又男子を生んだ。諱押人、大和足彦国御子、子の御子誕生のとき朝日が輝き吉兆を予感せれた。
即位六十八年正月十四日押人尊を若宮とした。御年二十歳、次の日兄の押杵尊を治君とし、春日の姓を賜った。
即位八十六年、天皇罷かる。歳百十三歳であった。新后皆宮中にとどまり喪に仕えた。御子は祭司を司り三十五歳で日嗣の君となり民をおさめた。兄の治君もよく仕えその子大宅・粟田・小野・柿本も忠誠であった。
ホツマツタエの年数は即位後の年数ではなく、誕生後の年数を表していると考えられる。
神皇紀の記録
この天皇は高潔な人格で皇后以外に娶る女性が無く品格高く朝臣で心服しない者はいなかった。
孝昭天皇崩御
和名の観松彦香殖稲尊は田植えを意味する名のようである。大陸からの技術により田植えが本格的に行われるようになり、米の収量もアップしたのであろう。
御所実業高校の西側の一帯を「よもんばら」と呼び、高校正門の脇に『池心宮跡伝承地』の碑が建っている。このあたりが孝昭天皇の宮跡である。孝昭天皇はこの周辺地域の農地開発を行ったのであろう。この周辺には玉出遺跡があり、孝昭天皇とのかかわりが考えられる。
孝昭天皇はAD145年83歳(現年齢42歳)で崩御し、孝昭天皇陵に葬られる。
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