綏靖・安寧・懿徳天皇年代推定

 神武天皇時代の推定年表

(神武天皇は即位後の年数・他天皇は年齢を示す。緑の領域が天皇在位期間を示す)

西暦 神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 中国干支 半年干支 記録
83 1 2 癸未 辛酉 壬戌 神武天皇即位・大和朝廷成立
84 3 4 甲申 癸亥 甲子 鳥見山霊峙を行った。(神武4年)
85 5 6 1 2 乙酉 乙丑 丙寅 九州巡幸・綏靖天皇生誕(神武5年?・産宮神社)
全国的に大飢饉となった。(神皇紀・神武6年)
86 7 8 3 4 丙戌 丁卯 戊辰
87 9 10 5 6 丁亥 己巳 庚午
88 11 12 7 8 戊子 辛未 壬申 日向御巡幸の時、この地に着きて大元祭をおこなう。(神武12・五社八幡神宮・行橋市)
89 13 14 9 10 1 2 己丑 癸酉 甲戌
90 15 16 11 12 3 4 庚寅 乙亥 丙子
91 17 18 13 14 5 6 辛卯 丁丑 戊寅
92 19 20 15 16 7 8 壬辰 己卯 庚辰 手研耳の変(己卯)
越後の乱・高倉下を派遣(神武20年・ホツマツタエ)
93 21 22 17 18 9 10 癸巳 辛巳 壬午 神沼河耳命を皇太子とする。(神武42年)
94 23 24 19 20 11 12 甲午 癸未 甲申
95 25 26 21 22 13 14 乙未 乙酉 丙戌
96 27 28 23 24 15 16 丙申 丁亥 戊子
97 29 30 25 26 17 18 1 2 丁酉 己丑 庚寅
98 31 32 27 28 19 20 3 4 戊戌 辛卯 壬辰 橿原に遷都(神武31年)
99 33 34 29 30 21 22 5 6 己亥 癸巳 甲午
100 35 36 31 32 23 24 7 8 庚子 乙未 丙申
101 37 38 33 34 25 26 9 10 辛丑 丁酉 戊戌 綏靖天皇即位・年33
102 39 40 35 36 27 28 11 12 壬寅 己亥 庚子
103 41 42 37 38 29 30 13 14 癸卯 辛丑 壬寅 国賊の残党が東北の国で反乱を起こした。天皇は自ら元帥になり中国の兵を率いて七年間も親征された。(神皇紀綏靖6年)
104 43 44 39 40 31 32 15 16 1 甲辰 癸卯 甲辰 大臣向山土木毘古王を甲斐に派遣
105 45 46 41 42 33 34 17 18 2 3 乙巳 乙巳 丙午
106 47 48 43 44 35 36 19 20 4 5 丙午 丁未 戊申
107 49 50 45 37 38 21 22 6 7 丁未 己酉 庚戌 安寧天皇即位・年38
倭国王帥升等生口160人を献ず
甲斐開拓工事着手
108 51 52 39 40 23 24 8 9 戊申 辛亥 壬子
109 53 54 41 42 25 26 10 11 己酉 癸丑 甲寅
110 55 56 43 44 27 28 12 13 庚戌 乙卯 丙辰
111 57 58 45 46 29 30 14 15 辛亥 丁巳 戊午
112 59 60 47 48 31 32 16 17 壬子 己未 庚申
113 61 62 49 33 34 18 19 癸丑 辛酉 壬戌 懿徳天皇即位・年34
東北の国賊が大軍で乱暴狼藉を極めた。東北の武将案房武正命その他三将に命じてこれを鎮撫した。(神皇紀安寧13年)
114 63 64 35 36 20 21 甲寅 癸亥 甲子
115 65 66 37 38 22 23 乙卯 乙丑 丙寅
116 67 68 39 40 24 25 丙辰 丁卯 戊辰
117 69 70 41 42 26 27 丁巳 己巳 庚午
118 71 72 43 44 28 29 戊午 辛未 壬申 世襲足媛を皇后に決定(孝昭29)
七年間不作が続き餓死者が多く出た。天皇は飢饉救済、食料確保に腐心され窮状を克服した。(安寧22年)
不作が続き餓死するものが頻々として国民の心は穏やかでなかった。この機に乗じて隠岐の島・佐渡島にのこる国賊残党は大軍で北陸に侵攻、暴挙の限りを尽くした。天皇は坂本日吉太夫と諏訪武彦の両将に命じ?圧させた。(懿徳10年)
119 73 74 45 30 31 己未 癸酉 甲戌 孝昭天皇即位・年31
国賊の一味が東南の島〃に集まり大挙して東海の国々に乱入した。天皇自ら元帥となり武部中連命を副将軍として南西の兵を率いて東征、賊軍は頑健にて鎮圧に十五年を必要とした。この天皇は高潔な天皇であったと云われている。皇后以外に娶る女人もなく宮中で心服しない者はいなかった。(孝昭30年)
120 75 76 32 33 庚申 乙亥 丙子 神武天皇崩御(神武76)

 神武天皇はどうしてこのような計画的天皇即位を実行したのであろうか。その第一には皇位継承に対する不安感があったのではないかと考える。この三天皇に朝廷を支配するだけの能力があったのであろうか。また、天皇の位がまだ安定していないために、皇位を狙う別の勢力が存在していたとも考えられる。

 手研耳の変

 神武天皇にそのような決断をさせたのが己卯年(神武19年=92年前半)に起こったと思われる手研耳命の皇位を狙った企てであろう。日本書紀では、神武天皇崩御後、神渟名川耳尊によって誅殺され、この事件により、兄に神八井耳命が弟の神渟名川耳尊に皇位を譲ったことになっているが、同じ日本書紀で神武42年に神渟名川耳尊を皇太子にしているので自己矛盾である。

 手研耳の変に詳しいのがホツマツタエである。

七十六年正月十五日に詔りがありました。
 「我すでに老い、政事を直り中臣と大物主の親子の臣に任すべし。諸神これと若宮を立てよ」と、遺言されると内殿に籠りきりになり、遂に三月十日に神となられました。 この偉大な大君を信じ、共に苦しみつらい戦いを越えて歩んだ歳月が夢であったかのように、吾平津姫と奇甕玉はいつまでもいつまでも長い喪に入っていました。それは、あたかも君がまだ生きておられる時のようにお仕えしておりました。  実は、天田根子と奇根と宇佐麻呂は、皇太子の神沼河耳に葬送の儀についてご相談になられましたが、天皇の崩御以来、急に手研皇子が独善的に一人で政事を執ろうとなされて、直り三臣の意見を聞こうともせず、又問えど返事がなく臣と手研皇子の間に不和が生 じていました。本来ならば、皇子は喪に入って政事は両翼の臣にまかせるべきであるのに、君の葬送も拒否し続けて延び延びになっていました。  六月に入ると、手研皇子は密かに二人の弟を殺そうと陰謀を企てて、ガラリと態度を変えると、あえて弟達に友好的に振る舞うようになりました。 手研皇子は、犀川の花見と称して畝傍山の麓の犀川に假室を用意すると、二人の 弟とその母五十鈴姫を室屋に招待して、花見の宴を開きました。その席で、母五十鈴姫は普通ならば、高屋か社で開かれる花見の歌会が、このような閉ざされた狭い室屋で行われることに不自然さを感じとっていました。 二人の息子達に危険が迫っていることを伝えるために、五十鈴姫は二首の歌を綴ると、急ぎ二人の皇子達に歌の添削を頼む振りをして渡しました。皇太子が歌札を取ってみたところ、色々の意味にとれる歌が記されていました。

 犀川や  雲立ち渡り  畝傍山  木の葉さやぎぬ  風吹かんとす
 畝傍山  昼は雲問ひ  夕去れば 風吹かんとぞ  木の葉さやぎる

 この歌を読んだ皇太子は、しばし考えた末に、母の送った歌の本意を悟って、今夜にもこの犀川辺 で、我ら兄弟と母を巻き込んだ恐ろしい殺りくが迫っていることを予期しました。一刻の猶予も許されません。神沼河耳は、神八井耳 の皇子にそっと耳打ちして、手研皇子について話しました。 
 「兄は昔、君の后であった伊須気依姫を犯そうと企んで失敗した男だ。その時は、親子の情けで内 々に済んだものの、今は政事を我がものにしようと、わがままに振る舞っている。本来なら臣に任せておくべきではないか。どういうつもりなんだ。葬儀も兄が拒んで未だ行えずじまい。今日我らを招いたのも陰謀だ。先手を打って速やかに計略を練ろう」
 と言うや、神沼河耳は、弓削の若彦に急ぎ弓を作らせ、真名浦に真籠の矢尻を鍛わせると、神八井皇子に靫を背負わせて、兄弟は一緒に片尾神室(磯城郡多付近十市町)に居る手研皇子の所に向いました。 丁度その時、手研皇子は昼寝の最中で床に伏っていて、二人が来たのも知りませんでした。神沼河耳皇太子が、小声で言うには、「兄弟が互いに張り合っても意味がない。我が先ず室に入るから、汝が射殺せ」と言って、 兄に功を譲り、室の戸を突き上げて乱入すると、物の気配で目を覚ました兄は、「靫(ゆき)を背負って踏み込むとは、ふとどき者め」と剣を抜い て二人に斬りかかってきました。  この時、弓を射るはずの神八井皇子の手足がガタガタとわなないて、突っ立つたまま弓を射ることが できません。とっさに皇太子は兄から弓矢を引き取って、一の矢を胸に、二の矢は背中に当て、手研皇子は絶命しました。後に、死骸をこの地 に手厚く葬って、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祭りしました。神八井は、自分の腑甲斐なさを恥じて、自ら身を引くと、十市( 現磯城郡十市町)に住んで伊穂野臣ミシリツヒコと名を変え、神道に身を置いて、兄手研耳の御霊をねんごろにお祭りして生涯を閉じました。

 手研耳命は神武天皇東遷時に日向からついてきた、日向の吾平津姫との間にできた子である。AD75年頃には生誕していると思われ、AD92年には現年齢で22歳前後であったと思われる。神武天皇の日向での皇子であるということで特別な権力を持っていたようであるが、神武天皇亡き後の皇位に就こうと何か画策をしていたようである。

 しかしながら、大和朝廷を安定維持させるためには、皇位継承者は旧ヒノモトの血を受け継いでいる者でなければならない。手研耳命には皇位継承の資格がないのである。手研耳命の画策に頭を痛めた神武天皇自身が手研耳命を誅殺したのではないかと思われる。

 皇位継承のルールをはっきりさせる必要を感じた神武天皇は長子の神八井耳命を除く三皇子にヒノモトの有力豪族の媛を皇后にさせ皇位継承を生前に行ったのではあるまいか。

 日本書紀・ホツマツタエは共に神沼河耳命の生誕を神武26年(冬)としている。実際は神武5年と推定しているので、ここに21年の差が生じている。神沼河耳命の立太子が神武42年であるが、この21年のずれがそのまま続いているとすれば、神武21年が立太子となる。年齢は同じ17歳(現年齢9歳)である。

 AD92年の手研耳命の変の直後にあたるAD93年が神沼河耳命の立太子の年となっている。日本書紀では即位直前に手研耳の変があったのであるが、古代史の復元では立太子の直前である。

 この当時は末子相続が原則であったが、手研耳の変が起こったことをきっかけとして、神武天皇は早く皇太子を決めておく必要を感じたのではあるまいか。この当時、師木津彦玉手見命(後の安寧天皇)はまだ9歳(現年齢5歳)であり、大日本彦鋤友命(後の懿徳天皇)は、まだ生まれていないのであり、意志が確認できる最年少が神沼河耳命だったのである。

 三天皇即位の理由

 伝承にはあまり伝えられていないが、神武天皇自身地方巡回をかなり行っているようである。大和朝廷が成立しても地方が大和朝廷に従わなければ、朝廷は維持できない。神武天皇自身特に東日本地域の巡幸は是非にとも行う必要があったのである。この時大和に天皇不在では都合が悪く、この三天皇を順次即位させて、神武天皇自身は地方巡幸に力を入れたと考えることができる。

 当時の末子相続の原理によると、第4代懿徳天皇が正規の後継者となるはずであるが、天皇に即位すると、自ら判断して決断する必要もあり、成人している必要があった。当時の成人年齢は現年齢換算で15歳程であり、当時の年齢で30歳程と思われる。神武天皇は綏靖天皇が成人するのを待って即位させたものと考えられる。実際は33歳で即位しているのは宮地の選定あるいは皇后の選定に手間取ったためではないかと考えられる。

 大和朝廷は武力によって統一されたわけではないので、中央の大和で大合併が成功しても地方がそれに承諾しなければ、たちまち瓦解してしまう恐れがあったのである。神武天皇は即位後すぐに東日本地域を中心として地方巡回を行っている。

 地方巡回する中で神武天皇は物部氏の存在の大きさに気付いたことであろう。物部氏は饒速日尊について九州より降臨した一族であり、その子孫が河内地方一帯の豪族を引き連れ東日本地域の開拓に移住しているのである。物部氏は地方を統括しているといっても過言ではないであろう。

 その物部氏の宗家が宇摩志麻治であった。宇摩志麻治の協力が得られるかどうかは大和朝廷の継続と深いかかわりがあるのである

 綏靖・安寧・懿徳三天皇の皇后はいずれも宇摩志麻治の三兄弟の娘である。神武天皇は物部氏の協力を仰ぐために、三天皇の皇后を物部氏から迎えたのである。そして、順次皇位継承させることにより三娘をいずれも皇后にしたのである。

 これにより、物部氏は天皇家に忠誠をつくすようになり、大和朝廷の地方支配は盤石化したのである。

綏靖・安寧・懿徳三天皇即位年の推定

  綏靖・安寧・懿徳三天皇の即位の状況は他の天皇とはかなり異なるようである。

天皇 古事記崩算 在位 即位年齢 没年齢 皇后 御陵
綏靖 45 33 51 84 五十鈴依姫
川派媛(磯城県主娘)
糸織媛(春日県主娘)
河俣毘売(磯城県主娘)
高丘宮(奈良県御所市森脇) 桃花鳥田丘上陵(奈良県橿原市四条町)
安寧 49 38 19 57 渟名底仲姫(天日方奇日方娘)
阿久斗比売(磯城県主娘)
川津媛(磯城県主娘)
糸井媛(大間宿禰娘)
浮穴宮(橿原市四条町付近) 畝傍山西南御陰井上陵(橿原市吉田町)
懿徳 45 34 43 77 天豊津姫(息石耳命の娘)
飯日比売(磯城県主娘)
泉姫(磯城県主娘)
曲峡宮(橿原市見瀬町) 畝傍山南纖沙溪上陵(橿原市西池尻町)

 

                    ┏━━神八耳命
                   ┃
                   ┃┌──磯城県主
            ┌─彦湯支命─┃┤
            │      ┃└──川俣媛━┓
            │      ┃       ┣━孝昭天皇━━孝安天皇
日向津姫━鵜茅草葺不合尊━━神武天皇━╋━━綏靖天皇━┛
            │      ┃
饒速日尊─宇摩志麻治──┼─彦葉江命─┃──阿久斗媛━┓┏息石耳命
            │      ┃       ┣┫
            │      ┣━━安寧天皇━┛┗磯城津彦
            │      ┃
             └大真稚彦命─┃───飯田媛━┓
                    ┃       ┣━武石彦奇友背命
                    ┗━━懿徳天皇━┛

 この三天皇の在位期間は大変短い。半年一年暦ではその半分となるので三代で50年ほどとなり、通常ありえない短さである。直系だとすると、懿徳天皇の生誕は安寧天皇17歳(現年齢9歳)となり、直系と考えるのはいかにも不自然である。

 実際に神武天皇即位年は考古学的事実(九州での畿内系土器の出土状況、漢式Ⅳ期の鏡の分布)などから1世紀後半であることは間違いないと思われる。この期間内にある辛酉年はAD83年しかない。また、崇神天皇の在位年から逆算した孝昭・孝安天皇の在位は2世紀前半である。これらのことから判断して、この三天皇の合計在位期間は最大でも30年ほどとなる。よって、この三天皇は何れも神武天皇の皇子であり兄弟相続と判断する。

 この三天皇の在位年数は何を意味しているのであろうか。実際の在位年数ではないようである。後の第5代孝昭天皇から第7代孝霊天皇までの在位年数は、生誕からの年齢を指しているように思える(詳細は後述)。この3天皇も年齢を指していると思われるが、没年だとすると三天皇とも非常に近い年数で何か不自然である。

 この頃は大和朝廷が成立したばかりであり、皇位継承のあり方を厳密に決めておかないと、後々複雑な問題を起こしかねない。また、皇位が安定したものになっていないので、幼帝を立てるわけにもいかない。天皇に即位するにはある程度の年齢が必要なはずである。当時は15歳程度が成人年齢とされていた。この三天皇の在位年数は成人年齢に近いのである。

 次の孝昭天皇の即位年齢は31歳であり、孝安天皇の即位年齢は35歳である。これらのことより、この三天皇の在位年数は即位年齢を意味していると判断する。

 古事記の宝算も3天皇よく似ている。死亡時の年齢ならもっとばらばらになるのではないかと思われる。余りにも数値がそろっているので、これも故意によるものとし、古事記の宝算は退位時の年齢ではないかと推察する。

 綏靖・安寧・懿徳三天皇の日本書紀の在位年数を即位時の年齢、古事記の宝算を退位時の年齢と仮定して、神武天皇即位後の年代に合わせたのが上の表である。先代の天皇の死去による即位ではないので、新年になるのを待って皇位継承をしたとして年代をつないでいくと孝昭天皇の即位年が119年となる。この後日本書紀の年代=年齢と解釈すれば、それ以降の天皇の年代と矛盾なくつながる。

 神武天皇の皇子は長子が神八井耳命で、以降綏靖、安寧、懿徳と4男(女子数は不明)が誕生したと推定する。当時長子は祭祀を司る役割を持ち、これは天皇に即位することよりも重要な役割であった。神八井耳命は祭祀者となったのである。 

神八井耳命

 大和遷都後の神武天皇の長子である神八井耳命はどういう活躍をしたのであろうか。神八井耳命の功績を伝える神社は以下のとおりである。

前利神社 愛知県丹羽郡扶桑町大字斉藤字宮添3 神八井耳命は神武天皇の第一皇子といわれ綏請天皇の兄とされています。上古では祭政二元制をとっており兄が祭事を司り弟が政事を行なう天皇に即位される慣わしとなっており祭事の相続権を持った兄が上位とされておりました。この尾張一帯はかつて上古の時代丹羽臣が支配しておりましたがその始祖が神八井耳命とされております。
飽富神社 袖ケ浦市飯富2863 綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始したと伝える。
多坐弥志理都比古神社 磯城郡田原本町多569 神八井耳命(多族の祖神)この地に降って天神地祇を祀る

 神武天皇が崩じた後、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は皇位に就こうとして、弟たちを害そうとした。この陰謀を母后の歌から察知した神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)・神八井耳命は片丘(奈良県北葛城郡王寺町)の大窖にいる手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという(タギシミミの反逆を参照)。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟が天皇として即位するに及び、これを助けて天神地祇を掌ることとなったが、3年後に薨じた。畝傍山の北墓に葬られたと伝えられ、現在、奈良県橿原市山本町の八幡神社(古く八井神社と呼ばれた)はその伝説地とされる。

 『古事記』・『新撰姓氏録』・『先代旧事本紀』・『阿蘇氏系図』によれば、神八井耳命の子孫は繁多に分かれ、多君・小子部連・坂合部連・火君・大分君・雀部臣・小長谷造・伊予国造・金刺舎人・石城国造・丹羽臣・茨田連・嶋田臣等がいる。このように多くの氏族の始祖になっていることは、3年後に崩じたということと矛盾する。

 おそらく神八井耳命はタギシミミの変後、3年間大和で祭祀をした後、地方に派遣され各地方で神を祭り、同時に数多くの子孫を造ったものと考える。

 橿原遷都

 神武天皇が即位したのは柏原の地であり、今の奈良県御所市柏原である。橿原神宮のある柏原とは異なる。神武天皇はいつかの時点で柏原から橿原に遷都したものと考えられる。その時期推定のカギとなるのが、日本書紀の下の記事であろう。

 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

 腋上の丘は柏原にある丘である。この丘に即位後31年たって登り、秋津洲と名付けるのも不自然である。丘に登って秋津洲と名付けたのは即位直後であろうと思われる。それをわざわざ神武天皇31年の条に記録されているのは、この年に5km程北東にあたる橿原に遷都したのではないかと考えられる。

 遷都の理由

 そもそも神武天皇はなぜ柏原の地で即位したのであろうか。これは、大和国内の豪族の複雑な事情にあるように思える。大和国内の2大豪族は葛城山麓の鴨一族と、三輪山麓の三輪一族及び物部一族である。その両者の力のバランスが考えられる。

 三輪一族との関係

 三輪一族は饒速日尊の末子の系統であり、旧ヒノモトの王家の系統である。神武天皇時代の代表者は天日方奇日方命であり、皇后五十鈴姫の兄である。神武天皇の皇后を輩出しているので天皇家と三輪一族の関係は良好といえる。

 物部一族との関係

 饒速日尊の大和での長子宇摩志麻治命の子である彦湯支命が日本書紀における弟磯城と考えられ、その娘の川俣姫が綏靖天皇の皇后となっている。安寧・懿徳両天皇の皇后もこの一族から排出されており、神武天皇は物部一族の取り込みに腐心している様子がうかがわれる。

 宇摩志麻治命は当初倭国ヒノモトの大合併に反対だったと思われるが、最後の最後に祖父にあたる長髄彦を誅殺して神武天皇に帰順している。日本書紀における金鵄の正体であると推定している。

 宇摩志麻治命は饒速日尊と共に地方開拓に尽力しており、その関係で饒速日尊と共に九州からやってきた物部一族と深い関係があったのである。宇摩志麻治命一族を味方につけておけば同時にこれら物部一族も味方になるので、神武天皇にとっては宇摩志麻治命は大切な存在であったのである。

 鴨一族との関係

 最も関係が難しかったのは鴨一族である。飛騨王家の系統である。饒速日尊と共に大和に降臨し葛城山麓を拠点として活躍していた。

 ヒノモト倭国の大合併にも尽力していたのであるが、飛騨王家の九州の系統なので、神武天皇と一族との婚姻関係にはなれなかった。他の一族に比べて軽く扱われることが多く、大和国内でも反主流派といった地位になったようである。

 賀茂建角身命が降臨した地と考えられる高天彦神社のすぐ近くに土蜘蛛塚のほかに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡がある。神武天皇即位前に神武天皇によって誅殺されている。同じ一族と思われるのに、なぜ、このようなことになったのであろうか。

 この一族は元来大合併推進派である。おそらく合併後の扱いの軽さに不満を抱き、反乱をおこしたものと考えられる。

 神武天皇は即位当初この鴨一族に配慮して、鴨一族の勢力圏の東端にあたる柏原の地を拠点としたのではあるまいか。遷都先の橿原の地は三輪一族と鴨一族のちょうど中間点にあたる位置である。

 神武天皇37年に綏靖天皇が鴨一族の拠点(御所市森脇)に宮を造っているので、天皇家は鴨一族をないがしろにしていないという意思を表明していると思われる。綏靖天皇が森脇に宮を作ることが決定した関係上、神武天皇は宮を橿原に遷すことができたのであろう。

 橿原の地は三輪一族と鴨一族の領域の境にあたりバランスが良い位置であり、以降懿徳天皇までの陵がこの周辺に造られることになったのであろう。

 孝昭天皇について

 直系相続の重要性

 孝昭天皇は年代を計算するとAD103年に誕生していることになる。日本書紀では懿徳天皇の子ではあるが、懿徳天皇はこの時現年齢計算で8歳程であり、懿徳天皇の子であるとは考えられない。年齢的に綏靖天皇の子であろう。綏靖天皇は孝昭天皇誕生時現年齢計算で19歳程である。

 皇位継承は兄弟相続ではなく直系相続が理想である。神武天皇生存中に直系相続の形を造っておく必要があった。物部氏を取り込むために綏靖・安寧・懿徳三天皇を兄弟相続させたが、正規の皇位継承はやはり直系相続である。兄弟相続は皇位継承争いの元となるのでやむを得ない時以外には行わないのが原則である。神武天皇としては、直系相続の形を生存中に造っておきたかったものと考える。そうして誕生したのが第5代孝昭天皇である。孝昭天皇は成人した直後のAD118年、31歳で即位したのである。

 以降、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇と直系相続が行われたのである。

 健磐龍命派遣

 熊本県天草地方は神武天皇を祀った神社が全国一多い。また、熊本県矢部町の男成神社の伝承によると、神武天皇の七六年二月、健磐龍命(たけいわたつのみこと)がこの地に下向の際、皇祖の三神を祭祀されたことに始まるとのことである。健磐龍命は阿蘇開拓の祖神であって、日向から高千穂を経て、阿蘇盆地にやってきたようである。
 熊本県一帯は球磨国(魏志倭人伝の拘奴国)であって、大和朝廷の支配を拒否し続けている。その関係で、神武天皇は球磨国を大和朝廷の支配下に組み込もうと健磐龍命を晩年(AD120年ごろ)球磨国に派遣したものであろう。

神武天皇はAD100年ごろ第二代綏靖天皇に皇位を譲った。日本書紀の神武天皇31年の記事が暗にその事実を伝えているのではないかと推定している。おそらくこの時、宮を柏原から畝傍山の麓の橿原に遷したのであろう。代わりに綏靖天皇の宮址が葛城山麓に造られることになる。

 神武天皇は治世76年(現年代計算で38年)でAD120年橿原神宮の地で生涯を終えた。畝傍山の麓の神武天皇陵に葬られた。現年齢計算で63歳の生涯であった。

 神武天皇御陵について

  地図ソフトによる計測では三輪山山頂・神武天皇陵中心付近間の距離は8360m、神武天皇陵・鏡作神社本殿間は8340m、鏡作神社・三輪山山頂間の距離は8360mと驚くほど正確な正三角形を形成している。神武天皇陵は後世に加工されており、その中心地を特定することが難しいので、地図上の区画の中心地で計測した。区画内の点を有効に取れば誤差無しの完全な正三角形となりうるのである。古代の測量技術には驚かされるものがある。神武天皇陵は後世決められたものという説があるが、これだけ正確な正三角形を形成していることは神武天皇陵の位置が古代における特別な位置であることだけは間違いがないことである。

 

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