懿徳天皇

 懿徳天皇は大日本彦耜友尊といい、神武天皇の4男でAD88年(神武12年)生誕した。AD112年34歳のときに安寧天皇から譲位されて第4代懿徳天皇として即位した。AD118年に孝昭天皇に譲位するまで在位した。

 日本書紀の記録

 皇后

 皇后は宇摩志麻治の孫である飯田媛で、綏靖・安寧両天皇と同じく物部宗家の娘である。

饒速日尊─宇摩志麻治──┌─彦湯支命─┬磯城県主
饒速日尊─宇摩志麻治───彦湯支命─└川俣媛(綏靖天皇皇后)
饒速日尊─宇摩志麻治──┼─彦葉江命──阿久斗媛(安寧天皇の皇后)
饒速日尊─宇摩志麻治──└─大真稚彦命─飯田媛(懿徳天皇皇后)

日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─┌神八耳命
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─├綏靖天皇
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─┼安寧天皇
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─└懿徳天皇

 宮跡

  懿徳天皇の宮跡は軽曲峡宮と呼ばれており、橿原市白橿町にその伝承地が伝わっている。橿原宮伝承地より南南東に2km程の地である。

 事績

 出雲の人々を関東地方の開拓に向かわせる

 懿徳天皇の事績は神社伝承にも全く伝えられていない。『古今和歌集序聞書三流抄』には、天皇が出雲に行幸して、素戔嗚尊に出会うという逸話がある。中世の書物であり、その真実性には大いに疑問があるが、第三代天皇が出雲を意識していたので、懿徳天皇も出雲を意識していたのは確かであろう。

 そうであるならば懿徳天皇が出雲を行幸することは十分に考えられる。会ったのは素盞嗚尊ではなく、出雲国の統治者(素盞嗚尊5世の久志和都命と思われる)であろう。

 孝昭天皇3年、武蔵国に氷川神社を創建している。氷川神社の祭神素盞嗚尊は出雲国斐伊神社からの勧請である。これは、孝昭天皇3年より少し前に出雲から多くの人々が関東地方に移住したことを意味している。この移住を推進したのが懿徳天皇ではあるまいか。

 懿徳天皇は関東地方の開拓を推進しようとしていたが、人手不足を感じていたのではあるまいか。出雲の人々の手助けを願うために、懿徳天皇は直接出雲を訪問したと考えられる。

 この当時、中国地方は東倭の支配圏であり、大和朝廷の支配が及んでいない地域である。しかし、大和朝廷は出雲にも技術者を派遣し、大和朝廷の支配下にはいるように交渉していたと思われる。大和朝廷によって日本列島の大半が支配されることになり、祭祀は饒速日尊を対象としたものが中心となっていた。出雲国としては、大和朝廷誕生の父と呼べるのは素盞嗚尊なので、素盞嗚尊祭祀を全国に広めたいという意向を持っていた。

 懿徳天皇から提案のあった出雲の人々を関東地方の開拓に向かわせるのは、素盞嗚尊祭祀を広めたいと思っている出雲国としても願ってもないことであった。早速出雲から数多くの人々を関東地方に派遣することにした。

 懿徳天皇の和名、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとも)は鋤を友とするという意味で、農耕を率先して行った天皇と取れる。在位期間6年の間に畝傍山の南方地域を中心に農地開発をしたのであろう。

 在位末期の大乱

ホツマツタエの記録

 天鈴二百八年二月四日、若宮は歳三十六であった。天津日嗣を受け継いで大日本彦耜友天皇と祝福を受ける。天の法により先の如く大礼を行い暦の日付けを曲峡に改め先帝を送り喪に入った。
九月十三日に母君を御上后と崇め、正月五日に軽の曲峡に新都を移し、二月十一日に天豊津日姫を内つ宮、磯城猪手命の娘泉姫を典侍、太真稚命の娘飯日姫を心妙とした。
 即位五年三月、内宮は住吉にて御子を生む。薫殖稲諱を海松仁と名付けられ、父の息石命は治君に昇格された。飯日姫がタケアシにて田島御子を生まれた。諱を竹椎尊。
 即位二十二年二月十二日薫殖稲尊を世継ぎの御子とした。十八歳であられた。
 三十四年九月八日君罷る。若宮は喪に入り翌年まで君がさながら生きている如く御饗をし冬になり畝傍山の織沙谷に埋葬した。七十歳でおられた。仕えた臣達は無言の内で、若宮も言葉もなく、それぞれに帰って行かれた。

東日流外三郡誌の記録

 懿徳天皇三十三年、荒吐族再度大和に進駐して孝昭天皇之即位を一年遅らせる。

神皇紀の記録

 安寧天皇22年、七年間不作が続き餓死者が多く出た。天皇は飢饉救済、食料確保に腐心され窮状を克服した。

 懿徳天皇即位十年より不作が続き餓死する者が多く大民の不安は穏やかならず、世情の定まらない社会情勢であった。この機に乗じ壱岐・佐渡の国賊の残党は大軍で北陸諸国に攻め込み暴虐の限りを尽くした。天皇は坂本日良吉太夫・諏訪武彦命に両将に命じてこれを鎮圧した。懿徳の諡号はこの故に奉られたものである。

 孝昭天皇30年、国賊の一味が東南の島〃に集まり大挙して東海の国々に乱入した。天皇自ら元帥となり武部中連命を副将軍として南西の兵を率いて東征、賊軍は頑健にて鎮圧に十五年を必要とした。この天皇は高潔な天皇であったと云われている。皇后以外に娶る女人もなく宮中で心服しない者はいなかった。

 それぞれの事件の年が古代史の復元ではすべて一致している。

 古代史の復元では、安寧天皇22年は即位後22年と解釈し、AD118年前半である。懿徳天皇10年は、同じくAD118年前半で両者は同じ年を意味していることになる。記述内容も共に不作による餓死を伝えており、両者は同じ記事といえる。そして、孝昭天皇30年の記事は孝昭天皇30歳の時(孝昭天皇即位前年)で、AD119年を意味している。

 また、東日流三郡誌の懿徳天皇33年の記事は孝昭天皇の即位を一年遅らせているので、孝昭天皇即位前年AD119年を意味しており、ホツマツタエでも懿徳天皇の崩御を一年隠したことになっており、これに関するすべての記事は同じ出来事を指しているようである。懿徳天皇から孝昭天皇に皇位継承する時に何かあったようである。

 これらの伝承がすべてつながるような出来事を考えてみよう。

 安寧天皇22年(AD118年)には不作が7年続いていた。逆算するとAD115年頃から、不作だったことになる。木の年輪を調べることによって判明したこの時期の降水量分析によると、ちょうど110年代後半に、降水量が少なくなっている。不作が数年続いていたことが推定される。

 不作の中で、地方で略奪集団が誕生し、食糧が略奪されるという事件が頻発し始めた。この当時は地方を統治する有力者は存在せず、人々は共同体を形成して生活していた。そこへ大和から技術者がやってきて、共同体の人たちと共同生活することにより先端技術を伝授し、技術者が大和に帰る時に、その土地の産物を大和に送っていたと考えられる。大和朝廷はこの産物によって運営されていたと考えている。

 不作が顕著だったのは東日本地域であろう。不作が続くと、地方から中央へ送られる産物が激減することが考えられる。懿徳天皇は、新規土地開拓を計画し、出雲の人々を関東地方に派遣したのであった。

 しかしながら、開拓事業は始めてすぐに成果が出るものでもなく、人々が苦しんでいる状況に変わりはないのである。こういったときに地方に略奪集団が形成され、地方の共同体ではその略奪集団を鎮圧できず、朝廷に鎮圧依頼が来たのであろう。

 安日彦(の子孫)率いる北東北の人々はこの期に乗じて、この略奪集団をまとめ上げ、大乱を引き起こした。このような時に懿徳天皇が亡くなったのである。綏靖・安寧両天皇は譲位したのであるが、懿徳天皇は崩御したと思われる。

 神武天皇の正規の皇位継承者は末子である懿徳天皇である。次の第五代天皇は懿徳天皇の末子である懿徳天皇5年(AD115年)に誕生した竹椎尊(現年齢計算で4歳)と思われるが、皇位継承者は成人していなければならない時代であった。この当時の成人年齢は31歳(現年齢計算15歳)である。

 正規の皇位継承者がいなくなったのである。ただ一人AD104年に誕生した綏靖天皇の長子である観松彦香殖稲命(孝昭天皇)がこの年30歳になっており、皇位継承権を得るまであと1年であった。

 譲位している神武天皇は、懿徳天皇の崩御を一年隠すことにした。しかし、地方の混乱をそのままにしておくことはできず、観松彦香殖稲命は略奪集団の跋扈している地域に赴き、略奪集団を鎮圧していった。

 翌年(AD119年後半)、観松彦香殖稲命は第5代天皇として即位した。

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