安寧天皇

 安寧天皇は磯城津彦玉手看尊といい、神武天皇の三男である。AD96年に生誕し、AD107年、38歳(現年齢19歳)で天皇に即位した。AD112年45歳で懿徳天皇の譲位した。

 日本書紀の記録

 安寧天皇は神社伝承も存在せず、その業績は全く分からない。唯一島根県の日御碕神社に安寧天皇13年に勅命を出して祭祀をした記録がある。

 日御碕神社は天照大神(日向津姫)と素盞嗚尊を祀っており、日向と出雲をつなぐ神社といえる。その神社を祭祀するということは、安寧天皇は出雲国を意識していることを示している。

 この当時大和朝廷の支配圏は南東北以南の日本列島で、九州地方南部、中国地方、北四国地方を除く地域であった。中国・北四国地方は旧東倭領域で出雲国を盟主としてまとまっていた。大和朝廷としては、この旧東倭地域を支配下に組み入れることは一つの目標であったのであろう。その東倭地域を意識し、日御碕神社に勅命を出したものであろう。 

 皇后

饒速日尊─宇摩志麻治──┌─彦湯支命─┬磯城県主
饒速日尊─宇摩志麻治───彦湯支命─└川俣媛(綏靖天皇皇后)
饒速日尊─宇摩志麻治──┼─彦葉江命──阿久斗媛(安寧天皇の皇后)
饒速日尊─宇摩志麻治──└─大真稚彦命─飯田媛(懿徳天皇皇后)

日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─┌神八耳命
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─├綏靖天皇
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─┼安寧天皇
日向津姫─鵜茅草葺不合尊──神武天皇─└懿徳天皇

 皇后は綏靖天皇と同じく宇摩志麻治の孫の阿久斗媛である。

 宮跡

 宮跡伝承地は大和高田市・片塩町の石園座多久虫玉神社の地とされている。近くの三倉堂池から弥生時代後期の木棺・埴輪・七鈴鏡などが発掘されており、片塩浮穴宮と関係があると考えられる。

 この地は標高60mの線上にあり、当時の大和湖の湖畔付近と考えられる。湖畔付近の宮跡は地方との交流を重視していたためと思われる。綏靖天皇が大陸に派遣した技術者が戻ってきて、その技術者を地方に派遣する事業を安寧天皇が主体的に行っていたと思われる。そのために、当時の大和湖の湖畔付近に宮を作ったのではあるまいか。

 ホツマツタエの記録

  天鈴170年、七月三日、世継ぎの御子磯城(しぎ)仁(ひと)尊、歳三十三歳、天つ日嗣を受け継ぎ諱を玉手(たまて)看天(みあめ)と云われた。十月十日、綏靖天皇の亡骸を桃花鳥田丘に埋葬した。
 即位二年十二月に片塩の浮孔都を決める。
 即位三年、渟名襲姫を内つ宮とする。この姫は櫛名竹姫と櫛根命の間の姫で、兄建飯勝命と二人の兄弟の妹である。磯城葉命の娘川津姫は典侍となった。又、これより先に大間命野糸井姫は長橋で御子を生んでいる。諱を色杵と云い常根津彦尊である。そのため即位にあたって内侍后を大典侍后と昇格した。川津姫は御子磯城津彦尊を生み諱を鉢杵と云う。
 即位4年、4月15日内侍后の淳名姫が御子を生み諱を義仁、大日本彦耜友尊である。出雲醜命と建飯勝命がケクニ大臣となった。
 即位6年、正月15日に内宮が又御子を生んだ。諱時彦奇友瀬尊である。
 即位11年正月三日、八歳の義仁尊を世継ぎ御子とした。
 38年12月6日、天皇罷る。若宮は喪に入り48日間宮中の節会を中止。率川で禊し、宮を出て政治に携わった。新旧の臣を分けて先君の浮孔の神に仕えさせた。秋になり厳かに畝傍山の御陰井に埋葬した。行年七十歳である。

 神皇紀の記録

 安寧天皇13年、東北の国賊が大軍で乱暴狼藉を極めた。東北の武将案房武正命その他三将に命じてこれを鎮撫した。

 安寧天皇13年(AD113年)は懿徳天皇元年である。皇位継承時の混乱を突いたものかもしれないが、綏靖6年の東北の乱から20年(現行暦10年)が立っている。大和朝廷は北東北を大和朝廷の支配下に組み入れようと、北東北地方に圧力をかけたのであろう。その圧力に反発して戦いが始まったものと考える。この戦いも大和朝廷側が手を引いて治まったのであろう。

 安寧天皇の行年はホツマツタエでは70歳となっている。この通りだとすると、古代史の復元では、安寧天皇はAD89年生誕、AD107年第三代天皇として即位、AD113年懿徳天皇に譲位、AD124年に現年代計算で35歳で亡くなる、というものである。

大和朝廷の技術指導

 綏靖天皇のAD107年に後漢に生口を派遣し、技術を学ばせた。安寧天皇の時代にその人々が戻ってきたと考えられる。それらの技術者はどのように活躍されたのであろうか。

  畿内系土器の出土状況

 後期中葉に地方有力者が存在しなかったものと推定したが,それでは,初期大和朝廷は地方有力者が存在しない状態で,どのようにして 地方を治めていたのであろうか。

 後期中葉以降,各地から畿内系土器が見られるようになる。大和朝廷が成立して,畿内から誰かがやってきたためと考えられるが,北九州の玄界灘沿岸地方以外の畿内系土器には出土の仕方に特徴がある。それを挙げてみると, 

①北九州沿岸地方を除き,畿内系土器は,集中出土することなく,広い範囲にまばらに恒常的に出土している。これは畿内から少人数が定期的にやってきたことを意味している。そして,これらの畿内系土器は祭祀土器ではなく通常の生活で使うものが多い。

②在地系土器と混在する形で出土し,やや住居内に残りやすいといった点はあるが,特別扱いされている様子はほとんどない。これは,畿内から来た人物が在地系の人々と共同生活をしていたことを意味している。

③他の地域からの搬入土器が,在地系土器になんら影響を与えた形跡がないのに対して,畿内系土器は,在地系土器に対して,製作技法上の影響を与えている。これは畿内から来た人物が土器製作技術を伝えたことを意味している。

 大和朝廷の地方統治

共同生活

 畿内系土器が在地系土器に対して,特別扱いされていないことから判断して,畿内からやってきた人物は,役人や祭祀者ではないようである。そして,広い範囲に少しずつ,恒常的に分布していることから判断して,畿内から,定期的に,少人数がやってきたと考えられる。また,畿内系土器が畿内系の墳墓が見つからない地方にも見られることから,やってきた人々は,任期を果たして帰っていったか,別の地に移動したようである。

 これらのことと,この時期,農業技術が急速に進歩し,各地で人口爆発が起こっていることと考え合わせると,畿内から派遣されてきた人物は,各種技術者ではないかと推察する。スサノオ・ニギハヤヒは地方を豊かにすることによって,国家統一を果たしているわけであり,新技術が人々にスサノオ・ニギハヤヒを神と信じさせた。日向国も外国交易によって勢力を維持していた。ところが,旧日本国は外国交易ルートを持たなかったために次第に衰退の傾向があった。大和朝廷は,外国交易によって新技術を導入することこそ,地方統治には重要なものであると判断し,それを受け継ぎ,新王朝に対する地方の人々の不安を払拭するためと,地方を治めるために,技術者を派遣したものと判断する。文字のない時代であるから,派遣された技術者は,在地の人々と適当な期間,共同生活をすることにより,農業技術などを伝えたものと考える。

鏡と鉄剣の普及

 後期中葉以降,漢鏡や鉄剣をはじめ多くの遺物が全国から出土するようになっているが,これは,これらの技術者によってもたらされたものと考える。

 鉄剣は,スサノオが国家統一の時に携えていたもので,地方の人々に宝器として認識されていた。地方の人々は鉄剣を欲しがり,技術者は地方へ派遣されたときにこれを配ることにより,地方の人々にとけ込むことができ,共同生活をすることが可能になって,各種技術を地方に伝えることができたのである。数多くの鉄製武器のうち,鉄剣のみが全国に普及したのは,このような理由があったからである。

 一世紀後半から二世紀前半にかけて鋳造された漢式四期と五期に推定されている鏡は,ずっと後の時代の墳墓に副葬されている。共同体の持ち物として,伝世されていたと考えられる。技術者は,昇ってくる太陽の位置から農耕の時期を推定する暦法を伝えるとともに,鏡を使った祭礼も,伝えていたのではあるまいか。鏡は,大和朝廷の始祖ニギハヤヒが,太陽神天照大神として崇められていることから,鏡に朝日が反射する様子が祭礼の対象になったのではあるまいか。このようにして,鏡がニギハヤヒのシンボル,鉄剣がスサノオのシンボルとして地方に定着してゆくのである。   

朝廷と地方との関係

 これら技術者が,朝廷に帰参するときに,地方の情報をもたらし,地方の方も技術を教えてくれたお礼に,ということで,朝廷に対して献上品を送り,これによって,朝廷は運営されていたと推定する。

 後期中葉にあたるこの頃の墳墓の副葬品は大変少なく,特別な地方権力者というものは存在しなかったようである。宝器は伝世されるようになっている。地方に共同体が形成されていったようである。また、鉄製武器も激減していることから,貧富の差もなく平和で豊かな時代だったようである。地方の人々は,朝廷から教えてもらった技術で生活が豊かになり,朝廷に従うようになっていった。大和朝廷は技術を地方に伝え,その技術力で地方を治めていたのである。この統治方法は,スサノオやニギハヤヒが国家統一をしたときの手法から学んだものと考えられる。このような方法により,朝廷が各種技術を地方の人々に伝えていれば,地方の人々は朝廷を神と感じるようになり,後の朝廷の全国支配強化の礎になったと考える。

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