神武天皇日向発港

 東遷準備が整った狭野命一行は波見港をAD78年後半3月10日出航した。

  東遷出発関連地図

 1.波見港出航

 大和平野と南九州の共通の地名が多いが、最も多いのは大隅地方でついで薩摩地方、最も少ないのが日向地方である。このことは、東遷一行に加わった人物は大隅地方の人々が多かったことを意味している。狭野命の出航地が波見港であることを裏付けている。
 東串良には毎年3月10日に古くから、凧を揚げる習俗及び船を沖に出して遠見をする慣習がある。これは、神武天皇が船出の際、日和見をしたり、お見送りをしたりした遺風であると言い伝えられている。
 出航の準備が整った狭野命一行は出航の時、土地の人々が日和見をし、凧を揚げて見送ったことが推定される。AD78年後半3月10日のことである。 

神武天皇発港記念碑 波見港

 2.夏井着岸

 波見港を出航した狭野命一行は夏井港に着岸した。夏井には「神武天皇は志布志夏井の御磯から御船出になった。」という言い伝えがある。波見港を出航した日の夕方、夏井に着岸したものであろう。波見港から夏井海岸まで海上約17kmである。

夏井御磯記念碑 夏井海岸

 3.宮崎皇宮屋までの航路

 夏井を出航してから宮崎の皇宮屋に達するまでの寄港伝承地は見当たらない。しかし、日南の吾田神社に次のような記録がある。
 「手研耳命は神武天皇と吾平津姫との間に生まれた長子であるが、手研耳命が亡くなられると、吾田の小碕に葬り、その小碕は、今の神社の下を昔から小碕といっており、宮の上の古墳と見るべき地があるのを手研耳命御陵としている。」
 手研耳命は神武天皇と共に東遷に参加しているので、この伝承は弟の岐須耳命のものであると考えられる。また、
 「神武天皇御東遷に先立ち、宮崎の宮より、妃吾平津姫命及び皇子達を従え妃の出生地たるこの地に至り暫く御滞在あらせしと伝う」
 これより、波見港を出航した時は、妻の吾平津姫及び二皇子が同伴していたが、油津で別れたことが分かる。
 この当時の一日の水行距離は約20km程と推定している。夏井を出航後油津までは距離が大きすぎ、都井岬の難所を通過する前の串間に着岸したことが予想される。串間にはムカツヒメの墓(王の山)が存在しているため、東遷の挨拶に参拝したものと考えられる。夏井から串間まで海上約8kmである。
 串間を出航後、都井岬を迂回して油津に上陸した。海上45kmほどなので、間で1泊していると予想される。都井岬を回った直後の宮浦辺りではないだろうか。次の日が油津である。油津に暫く滞在して、もう二度と会えないであろう妻吾平津姫及び次男岐須耳命との別離をした。長子手研耳命は現年齢で6歳ほどで、岐須耳命は4歳ほどではなかったろうか。手研耳命は東遷団に同行することになった。
 油津を出航してそのまま宮崎に上陸することは一日では難しい。宮浦(海上17km)・青島(海上16km)辺りで停泊したものと判断する。そして、皇宮屋(海上16km)に到着した。

 4.皇宮屋

 神武天皇東遷前の皇居跡といわれている。大淀川河口から少し奥地に入った微高地で、大人数を滞在させるにはちょうど良い場所である。この周辺は日向一族の発祥の地であるので、各地の人々に挨拶する都合があったものと考えられる。暫く(2・3ヶ月)滞在したものであろう。

 5.湯之宮神社

 湯之宮神社に「神武天皇御湯浴場跡」がある。その脇に泉のような場所があって、そこを石の柵で囲っている。狭野命が東遷前にここに立ち寄り湯浴みをしたと伝えられている。
その湯之宮神社から農村の細い道を隔てたところに座論梅という梅園がある。
 「この老梅は神武天皇が東征の際この地においてお湯を召されご休憩の後、梅の枝を突きたてたまま出発して、その後、その杖が芽をふき元木となり成長して今日に至ったもの」と伝えられている。
 皇宮屋を出航した東遷団は一ツ瀬川の河口の下富田神社の近くに船を泊め、湯之宮神社の方に川を遡り湯浴みをしたと考えられる。この方面に東遷の挨拶をしなければならない人物が居たためと考えられる。下富田神社には神武天皇幼少時の遊興跡であると言い伝えられている。幼少時の滞在地から離れており、また、湯之宮神社までの船を泊めておける最短地であるので、ここに船を泊めたと判断する。皇宮屋から下富田神社まで海上23kmほどで約1日の行程である。

神武天皇浴場跡 湯の宮神社 下富田神社

 6.鵜戸神社

 鵜戸神社はその昔、鵜葺草葺不合尊が内之浦から戻ってきて上陸した所で、この直後狭野命が誕生している。この由緒ある小丸川河口の蚊口浦に一泊しているようである。下富田神社の地からここまで海上11kmである。半日の行程であろう。

 7.甘漬神社

 甘漬神社は口碑によれば、「神武天皇御東遷の御途、暫しこの甘漬に滞在された。その時、自ら大神を奉斎し、群臣将兵と共に、武運長久と国土の平定を御祈願あらせられたのが創祀の始めである。また、天皇滞在中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内の中央にある。」とある。
 さる東遷団に随伴していた高貴な人が亡くなったので、ここに葬ったのが、ここに滞在した理由とも考えられる。しかし、この甘漬の地は名貫川の河口であり、その上流に神武伝承の矢研の滝がある。矢研の滝に行くためにここに滞在したとも考えられる。鵜戸神社の地からここまで、海上12kmでこれも半日の行程であろう。

 8.矢研の滝

 尾鈴山から流れ出て都農沖の日向灘に注ぐ名貫川があって、神武天皇一行はその名貫川沿いに尾鈴山の山中に入ったと思われる。饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が高天原から尾鈴山に降りて、そのまま乗り捨てて行ったと伝わる大きな岩石「天の磐船」がある。東遷を成功させるためには人々の心を一つにする必要があり、そのために、先祖神の祭祀は重要なことで、この伝説の地は東遷に向かう狭野命にとっては立寄らざるを得なかったものと考えられる。
 狭野命は「天の磐船」に祈願すると、その下流200mにある、高さ70mの美しい瀑布のそばまで来て、戦士達にはその滝の水で矢を研ぐように命じた。
 狭野命にとって、大和は饒速日尊の国である。饒速日尊にその成功を祈るのは重要なことであった。そのために饒速日尊の旧跡地をわざわざ訪問したと考えられる。
 甘漬神社の祭神は大己貴命であるが、大己貴命と饒速日尊は多くの神社で混同が見られ、甘漬神社の真の祭神は饒速日尊ではないかと想像する。甘漬神社の地から矢研の滝まで片道16kmで往復4日程度の行程であろう。

天の磐船 矢研の滝

 9.都農神社

 都農神社も祭神は大己貴命となっているが、別伝に大年命(饒速日尊)となっているものがある。神武天皇が東遷のとき、この地に滞在して国土平安、海上平穏、武運長久を祈願した所と伝えられている。また、ここに着いた時、賊慮の蜂起があって、鎮撫を祈ったとも伝えられている。
 ここは大年命が南九州へ進行する時、滞在した所ではないかと考えている。その旧跡地で狭野命が祭祀したのが神社の創祀ではないだろうか。というのもすぐ近くの甘漬で祭祀しているので、都農で同じような祭祀をする必要がないと思われるからである。
 甘漬は名貫川の河口であるということと、貴人が病に倒れたために祭祀をしたと考えられ、都農は饒速日尊の旧跡地のために祭祀をしたと考えるのである。甘漬神社の地から都農神社の地まで海上5kmなので、或いは陸行であったかもしれない。

 10.美々津

 都農を出航した東遷団は次の日美々津に着いた。美々津では本格的に航海するための造船伝説があり、暫く滞在したようである。都農から美々津までは海上11kmである。美々津の伝承地を探ってみよう。

 美々津に到着した狭野命は「神の井」(新町の八坂神社内)に行宮を造り、出港までの住まいとした。

 耳川の河口から上流約2.5kmの所に余瀬という土地があり、そこの神立山から楠材を切り出してきて、今の美々津橋の河上の左岸にある匠河原で船を建造した。幾百艘という軍船が次々と造られ、河口一帯の海岸を埋め尽くした。
 この頃狭野命は今の権現崎の山頂から西北一帯の遠見という所にお出ましになり、凧を揚げて風の方向を調べたり、船を沖合いに出して潮の流れを調べたりして御船出の準備をしていた。
 数百の軍船は遠見の東の「ふなまち」に繋がれ、天気や準備の都合で長い間とどまっていた。この間にお伴の民人は漕術や水練を習って立派に御奉公申し上げようと考え、海岸と沖の七ツ礁(ななつばえ)の間の海で一心不乱に練習を続けた。
 神武天皇は立磐神社の境内にあって、今は御腰掛岩というようになった岩に腰掛けて、あれこれ指図をしていた。
 軍船も完成して港に集まり、水軍の訓練も進み、いよいよ(旧暦)八月二日を出港の日と決めた。ところが、予定より一日早い八朔の四更(旧暦八月一日の午前二時)の頃に遠見山の見張り番が、風向きも潮の流れも今がいい、との報告があって急に出発すことになった。
 それを聞いた村人達は、「おきよ、おきよ、出発されるげな」と家々を起こして回った。
 村の男達は出発の加勢に出向き、女達は献上する予定であった団子をつくる時間もないままに、その材料の米粉と小豆を混ぜ合わせて、捏ねて、蒸して、臼で搗いて、団子らしきものを作って差し上げた。
 このときに、御腰掛岩に立って進み具合を見ていた神武天皇の衣服のほころびを見つけた少女に、天皇は立ったままで繕わせた。それ以来、美々津のことを「立ち縫いの里」というようになった。
 夜明けに立磐神社と向こう岸の湊柱神社に武運と航海の安全を祈願して、いよいよ出発することになった。
 神武天皇の軍船団は美々津のすぐ沖の七ツ礁(ばえ)と一つ上((かみ)の間を通って東征に向かった。美々津ではこの二つの礁の間を「お舟出の瀬戸」と呼ぶようになり、以来この間を地元の人は通らないようになった。二度と帰ってこない人にならないように縁起を担ぐようになったからである。また、遠見の山では今でも秋凧といってこの時期に凧を揚げる習慣がある。
 その後、美々津においては、八月一日に「おきよ祭り」が行われるようになった。急ごしらえの団子は「つきいれもち」と呼ばれる美々津の有名なお菓子として今も受け継がれている。

 狭野命は波見港で船を造り海路美々津まで来ている。しかし、この美々津にも造船伝説がある。船を造りなおしたということだろうか。美々津の伝承を元に判断したいと思う。

 一説には狭野命は美々津までは陸路を通ってきたというが、ここまでの立ち寄り伝承地の多くは海岸(河口)であり、船が繋ぎとめられる場所である。陸路を通った場合はこのような場所に伝承地が数多くできるとは思えない。以上の点から狭野命一行は海路美々津まで来たと判断する。

 狭野命一行は美々津で船を造るだけではなく、漕船技術も学んでいる。この伝承から判断して美々津は古代の日向において海洋技術の先端地となる。おそらく、北九州と日向を物資交流する時、ここから北は豊予海峡という難所が続くため、往路・復路共に船の修繕を必要としたのであろう。そのために、美々津は造船・漕船の海洋技術の先端地となったのである。柏原で船を造ってから5箇月がたっている。柏原での不十分な技術ではかなり老朽化していたのではあるまいか。ここで、新しく船を造ったり、修繕したりして、豊予海峡を通れるだけの船にしたものと判断する。日本書紀では10月5日出航になっているが美々津では8月1日と伝えられている。

八坂神社 匠河原

 11.細島

 狭野命は、美々津出航後細島に立ち寄った。この地は鉾をお立てになった土地であるということで、鉾島といい、訛って細島となった。今鉾島神社がある。寄港日は10月8日と伝えられている。美々津から細島までは海上16kmほどである。
 天皇は巨鯨を退治した時の御鉾を建てられた事から細島といわれているが、伊勢ケ浜から上陸した神武天皇は大御神社に立ち寄ったあと、徒歩でこの鉾島(現米の山)頂上に登り、鯨退治の鉾を立て、再び伊勢ケ浜に戻ると、そこから延岡を目指して舟出した。この時、皇大御神を奉斎する御殿(大御神社)に武運長久と航海安全を祈願されたという。大御神社は瓊瓊杵命が北九州往復の時立ち寄ったと伝えられている。

細島 鉾島神社

 12.櫛津神社

 細島を出た狭野命一行は延岡市土々呂の櫛津神社の地で潮の変わり目をこの地で待たれたといわれている。細島から海上18kmほどである。

櫛津神社

 13.五ヶ瀬川河口

 河口に神武天皇が停泊されたと伝えられている。櫛津から海上12kmほどである。

 14.細野浦

 上入津の細野浦に伊勢本社がある。神武天皇を奉祀し、古来から、皇宗御着船の聖地と伝承している。神社の御神体は皇船をこの浦に寄せた時に用いられた御水入の古土器であるといわれている。
 五ヶ瀬川河口から細野浦まで距離がありすぎるので、北浦町古江、蒲江あたりで停泊したものと考えられる。蒲江を出航してしばらくすると、大嵐に見舞われ、必死の様で蒲江の入津の湾に避難をした。
 土地の人から食糧をもらい船を修理してもらった。
   
 船団は、最初に尾浦の浜に上がろうとしたが、船が多すぎて、さらに奥の入江に向かったので、天皇は、この尾浦を泊まり浦と名付けた。さらに、あちこちの浜に接岸しようとしたが、波が激しく、その音が騒がしいので、大騒津、小騒津と名付け、さらに奥の入江に向かい江武戸鼻を廻り上陸した。そこが,現代の畑野浦地区の宮路ガ浦である。このような地名は、現在も残っている。
 天皇は、嵐が早く止むように、村の大漁を祈願し、浜に大きな一本の旗を突き刺した。この地が旗立の浜と言われるようになった。また、大きな入江や山々を眺め、この地方のリアス式の曲がりくねった入江の美しさに見とれて美しき曲(わだ)の浦の地と言われた。
 それから後、この地は”わだのうら”と呼ばれ、訛って、”はたのうら”となり、漢字が当てられ、今では畑野浦と言うそうである。
 天皇は畑野浦の奥の松合山で(神武ガ原)で天候を占い、荒れ続く嵐が静まるように、さらに この村の安泰を祈願して、十二本の矢を弓につがえ海に放ちました。
 村人達は感謝し、今でも伊勢本神の社殿を建て祭っており、社殿の浜の小石は、旅行祈願のお守りとされている。
 やがて、嵐はおさまり、天皇一行は、米や水を積んで出航した。村人達は大王の航海の安全を祈り、浜の二つの小岩にしめ縄を張り、海の三海神に願いをかけ三つの灯明をつけたという。
 後に、その近くに江武戸神社を祭り、嵐の日には灯明を照らすとしずまると、漁師の間では信じられている。
 大、少の騒津の間に、折り伏しの鼻があるが、村人達が、天皇をなごりおしみ見送った場所と伝えられている。
 このように、畑野裏地区には、神武天皇が寄港したという伝説に縁のある地名や神社が多く残っている。
 細野浦からは、航海になれている多数の海人部族が、徴しに応じて馳せ加わったので、皇船は船足が速くなり、10kmほどで、米水津へついた。

伊勢本社 伊勢本社 細野浦

 15.居立の湧水

 米水津村 小浦 神武天皇が上陸した際,水がなかったので弓矢で地を穿ったところ水が出た,という伝説のある名水である.居立海岸の砂浜に、真水がコンコンと湧き出る「神の井」、神武天皇はここで米と水を補給し、「米水津」の地名がついたと言われている。
 この後、鶴見崎を大きく回らなければならないため、ここに立ち寄ったものであろう。細野浦から10kmほどである。

居立の湧水

 16.大入島

 鶴見崎の突角の東を西へ迂回し八島と三栗島との間を北へ、更に、片白島と大入島との間を過ぎて大入島の日向泊へ着いた。居立の湧水より海上27km程となる。大入島は佐伯の沖にある島で、日向泊に神武天皇一行が停泊したという伝承がある。日向泊の海辺に満潮の時は海水中に沈むが、潮が引いた時に現れる「神井」と呼ばれる井戸がある。
 狭野命は飲み水を求めて日向泊の海岸に立ち寄った。しかし、そこには谷川も泉もなかった。そこで狭野命が持っていた折弓をつき立て「水よ出でよ」というと、清らかな水がこんこんと湧き出した。その上には日向泊神社があり、その東南の海岸に皇船を繋ぎとめたといわれている綱取石、王石と呼ばれている二個の大きな巌がある。
 あくる朝の舟出の際、浦人たちは感謝をこめて焚火で航海の無事を祈ったそうである。これにちなんで、大入島ではトンド火まつりが現在でも毎年1月に行われている。 
 大入島を出た後は浦戸崎、観音崎を迂回する必要があり次の寄港地は津久見であろう。 

日向泊上陸記念碑 神井
日向泊 大入島

 17.津久見

 神武天皇が東征のおり、一行が船団を保戸島につけて、津久見湾に船を入れ、徳浦と青江の間にある水晶山に登ったさい、地元民がミカンを献上したという。このため皇登(こうのぼり)山という別名もある。
 大入島を出た一行は14kmほどで保戸島につく、ここから14kmほどで津久見である。

水晶山跡地

 18.佐賀関

 津久見を出航した日の夕方、狭野命一行は佐賀関に達した。海上20kmほどなので、1日で行けると思われる。佐賀関で、珍彦(うずひこ)に出会った。珍彦は彦火火出見尊の御子と伝えられている。狭野命は珍彦を水先案内人として向かい入れた。狭野命は珍彦に椎根津彦という名を与えた。狭野命は椎根津彦の案内で速吸の門(豊予海峡)を通過して、佐賀関町大字関字須賀の日向泊に着岸した。佐賀関半島を迂回するのに10kmほどなので、半日ほどであろう。
 狭野命が珍彦と出会ったのはどこであろうか、日本書紀では「曲浦(うらわ・佐賀関)で釣りをしていたところ、船団が見えたので、迎えに来た」と珍彦が言っている。このことより、狭野命が海岸伝いに佐賀関に着こうとした直前のようである。佐賀関は半島部の付け根が細くなっており、その南側が漁港、北側が佐賀関港である。狭野命は南側の漁港周辺で珍彦に出会ったのであろう。半島の北側に出るには、流れが速い海の難所である。速吸の門を通過しなければならず、危険が予想されるため、水先案内人の珍彦を向かい入れたものであろう。佐賀関の下浦に椎根津彦神社があり、御神体は椎根津彦が使っていた船具と言われている。
 この早吸の水門を通過する際、潮の流れを静めるために黒砂(いさご)、真砂(まさご)という2人の海女の姉妹が海中にもぐって、大蛸が守護するその昔イザナギ命が落としたという神剣を蛸より受け取って天皇に献じた。これによって天皇は無事早吸の水門を渡ることができたという。
 その神剣を御神体として、天皇御自から祓戸の神々を早吸の神として奉斎し、建国の大請願をたてられたのが早吸日女神社の創祀である。黒砂、真砂の二神は若御子社として境内に祀られている。

椎根津彦神社 速吸の門(豊予海峡) 早吸日女神社

19. 碇山

 佐賀関を出港した狭野命一行は23km程西へ行ったところにある大分市の碇山に到着した。現在は標高56mの小山であるが、当時は碇島という島であった。神武天皇の御座船が碇島に碇を打って停泊したと言われている。山頂には熊野神社がある。次の日はおそらく別府市で、その次の日が守江港であろうと思われるが、伝承は全く残っていない。この近くに王子という地名あり。狭野命寄港地と推定。

20. 柁鼻神社

 椎根津彦命に先導された神武天皇一行は柁鼻の地に上陸されたといわれている。守江港より20kmほど進むと国東港(国東市)がある。国東港より25kmほど進むと竹田津港に着く。竹田津港から柁鼻神社まで24kmほどである。これらはいずれも停泊には適している港であり、狭野命一行は佐賀関→守江港→国東港→竹田津港→柁鼻神社の経路で国東半島を迂回したと推定する。
 国東半島を迂回した狭野命一行は寄藻川河口から川沿いに奥へ入り、宇佐市和気にある柁鼻神社の地に上陸した。
 宇佐神宮より1kmほど下流に宇佐神宮末社の椎宮神社がある。この地に椎根津彦命が上陸したという伝承があり、狭野命が柁鼻神社の地に滞在している時、椎根津彦がここに上陸し宇佐神宮の地にいた菟狭津彦、菟狭津姫と交渉したと思われる。

柁鼻神社 柁鼻神社

21.宇佐

 宇佐神宮背後の御許山に比売大神(イチキシマヒメ)が降臨し、菟狭津彦はその子であると伝えられている。また、タカミムスビの子天活玉命の子孫と伝えられている。年代から考えると、タカミムスビはムカツヒメと同世代なので、天活玉命がウガヤフキアエズと同世代になる。菟狭津彦は狭野命と同世代であると考えられるので、菟狭津彦の父が天活玉命、母がイチキシマヒメとなる。この地はスサノオが九州統一の拠点としたところで、スサノオが去った後タカミムスビが支配していた。イチキシマヒメは安心院の三女神神社の地でAD20年ごろ誕生しており、AD30年ごろには御許山を越えて宇佐の地に移動したものであろう。菟狭津彦もAD40年ごろには誕生しているのであろう。
 狭野命が立ち寄ったAD79年頃は菟狭津彦がこの地方を治めていた。その本拠地は宇佐神宮の地であろう。菟狭津彦は狭野命を受け入れた。狭野命はしばらく宇佐神宮の地に滞在した。一行はこの地で休息と共に船の修繕をしたものであろう。
 菟狭津彦はこの間に駅館川(菟狭川)流域の拝田の地に一柱騰宮を建てて狭野命一行を歓待する準備を始めていた。

22.安心院

 一柱騰宮が完成したので菟狭津彦は拝田に狭野命を招き入れることにした。狭野命は船で駅館川を遡り、拝田の一柱騰宮についた。ここで菟狭津彦の歓待を受けた。狭野命は大変歓び、菟狭津彦の妹の菟狭津媛を重臣の天種子命の妃として娶わせた。人々は大変喜んだことであろう。
 一柱騰宮伝説の候補地は拝田以外にも、三女神神社、妻垣、宇佐神宮に存在しているが、菟狭川流域であることで三女神神社と妻垣、拝田がのこる。三女神神社と妻垣はいずれもスサノオ・ムカツヒメの聖地であり、東遷途中の狭野命が立ち寄ったと云う伝承がある。この伝承と一柱騰宮の伝承が重なったものと判断している。残るは拝田のみである。宇佐神宮の地に菟狭津彦が滞在していたわけであるから、一柱騰宮はそこからあまり離れていないと考えられ、拝田が最有力となる。
 狭野命は拝田で菟狭津彦から歓待を受けた後、スサノオ・ムカツヒメの聖地である安心院へ向かったと考えられる。安心院の伝承によると、神武天皇は三女神神社の前の川岸に船を着けたと云われており、狭野命はここまで船で駅館川を遡ってやってきたものと考えられる。
 三女神神社、妻垣の地を訪問した後、宇佐に別れを告げ出航したものと考えられる。宇佐から多くの人々が皇軍に参加したとも言われている。

妻垣神社のある丘陵 妻垣神社
妻垣神社磐座 拝田一柱騰宮址

23.国玉神社

 宇佐を出航した一行は20kmほど海上を航行した後、現在の中津市(山国川河口付近)に着岸した。ここから、佐井川そして、その支流岩岳川に沿って遡り、求菩提山の山頂に登り、天神地祇を祀った。
 求菩提山の山頂にある国玉神社に「神武天皇東征ましまさんとして、先ず筑紫を平らげ給ふ時、この山にて天神地祇を祭り給ひし所にして、その地を人皇が嶽と号す。蓋し天皇の龍駕し奉る地なるが故御尊号を称し奉りたる可し。」と記録されている。
 狭野命が求菩提山に登った目的は何であろうか。河口から山頂まで20kmほどあり、往復で4日ほどはかかったと思われ、わざわざこの山に登って祈願するにはよほどの理由があったと思われる。
 この頃北九州(筑紫)地方は文化の最先端地であり、日本国と倭国の合併後、海外の先進技術を取り入れる先端地であり、また、大和へ向かったマレビトの旧地でもあるという場所である。大和朝廷成立後に最も重要視されるべき所となるので、狭野命にとって大和朝廷成立後の協力体制を固めておく必要が是非とも必要である。古事記・日本書紀には記録されていないが、狭野命はこの後、北九州地方を巡回している。その成功を祈って、筑紫がよく見える求菩提山の山頂で筑紫の山々を見ながら筑紫巡幸の成功を祈って祈願したものではあるまいか。国玉神社はその聖地であろう。
 国玉神社の地から英彦山まで尾根筋をたどって10kmほどで達することができる。当初、狭野命はここから筑紫に入ったものと考えたが、次の簑島に神武天皇滞在伝承地があった。

国玉神社 国玉神社奥宮

24.簑島

 簑島神社の伝承に「天皇筑紫日向国より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ。後島民其の行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」とある。中津から海上20kmほどなので、中津を出航した日の夕方簑島に着岸し天照大神を祀ったものと考えられる。
 ここからの経路であるが、次の神社の伝承より判断したいと思う。
 撃皷神社・・・「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」
射手引神社・・・「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。」
 ここにいう阿柯小重とは赤村の我鹿のことであり、これらの伝承より、ここまで陸路を通ったと判断される。
 蓑島から今川に沿って遡ると赤村(我鹿)を経由して英彦山まで達する。ここで、一行は二手に分かれ、船団は関門海峡を通過して岡田宮を建て、狭野命自身は何名かを引きつれ蓑島から今川を遡り赤村方面に進んだものと考えられる。

簑島 簑島神社

25.関門海峡通過

 簑島を出航した一行はそのまま関門海峡を通過するには潮待ちの時間も必要であるし、その前日はその入口に着岸したと考えられる。伝承は残っていないようであるが、関門海峡入口の田之浦あたりに着岸したのではあるまいか。
ここまで、簑島から26km程である。

26.岡田宮到着

 北九州での最初の滞在地(岡田宮)は経路から判断して北九州市八幡西区黒崎の岡田神社の地と推定される。田之浦からここまで、32kmほどあるが、関門海峡の潮の流れは速く潮に乗れば一挙に距離を稼げるであろう。関門海峡を抜けた一行は、洞海湾に入り込み当時海岸であった黒崎の地に着岸し、そこに北九州巡幸の拠点となる宮を建てたものであろう。美々津出航後滞在日数を除き約1ヶ月(30日)程の航海であったと思われる。日本書紀では11月9日に到着したとある。日本書紀では10月に美々津を出航したことになっており、岡田宮まで1ヶ月を要しているが、この頃の1ヶ月は15日なので、約15日航海したことになる。しかし、宇佐で少なくとも一柱騰宮が完成するまでは滞在したはずであり、かなりの日数を費やしていると思われる。また、嵐の日には出航を見合わせているであろうから、少なくとも50日以上は経過しているのではないだろうか。その点を考慮すると、美々津8月1日出航、岡田宮11月9日到着(約50日)が妥当のように見える。

 波見港・美々津間日程推理 ここで云う1ヶ月は15日ほど

波見港出航  AD78年後半3月10日
   ↓ 1日
  夏井   数日滞在
   ↓ 半日
  串間   王の山参拝
   ↓ 2日
  油津港  吾平津姫との別れ・数日滞在
   ↓ 3日
  皇宮屋  都城近辺あいさつ回り・2ヶ月程滞在 5月ごろ出航?
   ↓ 1日
  下富田神社 佐野原・西都周辺挨拶回り・数日滞在
   ↓ 1日
  鵜戸神社
   ↓ 1日
  甘漬神社  祭祀・矢研滝訪問・数日滞在
   ↓ 半日
  都農神社 祭祀・暴徒鎮圧
   ↓ 1日
  美々津 船の修繕・航海技術訓練 2・3ヶ月滞在 AD78年後半8月1日出航
   ↓ 1日
  鉾島 米山・大御神社訪問 数日滞在
   ↓ 1日
  櫛津 潮待
   ↓ 1日
  五ヶ瀬川河口
   ↓ 3日
  細野浦 嵐に遭い退避、数日滞在
   ↓ 1日
  米水津  居立の湧水
   ↓ 1日
  大入島 神の井
   ↓ 1日
  保戸島
   ↓ 1日
  津久見 水晶山登山 数日滞在
   ↓ 1日
  佐賀関漁港 椎根津彦と出会う   AD78年後半9月1日頃と思われる
   ↓ 1日 速吸の関通過
  佐賀関港 
   ↓ 5日
  柁鼻神社
   ↓ 1日
  宇佐 数日滞在
   ↓ 半日
  拝田 一柱騰宮で歓待を受ける  AD78年後半10月頃と思われる
   ↓ 1日
  安心院 三女神神社・妻垣で祭祀。数日滞在
   ↓ 2日
  中津 国玉神社で祭祀、少なくとも4日は滞在 AD78年11月1日頃
   ↓ 1日
  簑島 天照大神を祭祀、狭野命はここから今川を遡り、船団は関門海峡を越える
   ↓ 2日 関門海峡通過
  岡田宮 A78年後半11月9日到着

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神武天皇と北九州
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