北九州での神武天皇の痕跡

 北九州地方(福岡県)には神武天皇関連の伝承地が数多い。しかし、古事記・日本書紀には、その伝承は全く記載されていない。岡田宮に滞在したと記録されているのみである。北九州地方は大和朝廷成立後海外との交流の拠点となり、また、大和に多くの人々がマレビトとして行っているので、この地方の豪族の協力を得られないと大和朝廷の運営は失敗するのは明らかである。何としても豪族たちの協力を得ておかなければならず、北九州各地を訪問しているのは当然と言える。

 神武天皇が北九州を巡幸しているのは、大和朝廷成立後の体制維持のため各豪族から協力を得るためと考えられる。しかし、神武天皇巡幸地は遠賀川流域から博多周辺の狭い流域に限られており、糸島地方、筑後川流域、佐賀、長崎、壱岐、対馬、伽耶(朝鮮半島)なども重要地のはずであるが、神武天皇巡回伝承がない。『新撰姓氏録』が新羅の祖は稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされる。稲飯命と新羅の関連が認められ、稲飯命が壱岐、対馬、朝鮮半島巡幸をしている可能性が考えられる。

 美々津から岡田宮までの航海伝承に神武天皇以外の兄弟(五瀬命、稲飯命、御毛沼命)の行動伝承は見当たらない。彼らは神武天皇と行動を共にしていたのであろうか。
 神武天皇の未巡幸地はこれら兄弟が巡幸したのではないかと考えている。各兄弟の巡幸地を推定すると、高千穂に御毛沼命の伝承が見られること、高千穂を流れる川が五ヶ瀬川であること等から判断して、五ヶ瀬川河口で停泊した時、五瀬命、御毛沼命は五ヶ瀬川を遡り、高千穂、阿蘇盆地、筑後川流域、佐賀、長崎地方の巡幸をしたものと考える。また、稲飯命は蓑島から神武天皇が今川を遡ったとき、船団を率いて関門海峡を通過し、岡田宮を建て、糸島地方、壱岐、対馬、朝鮮半島を巡幸したのではあるまいか。伝承がほとんど残っていないので、確証はないのであるが、そのように考えるとこの矛盾点は解消する。

 ここでは、北九州の神武天皇関連伝承を探りながら、天皇の行動を調査してみることにする。参考文献 福岡県「神武天皇と北九州」より

 神武天皇北九州関連伝承地地図

1.京都郡油須原

 神武天皇が通過したと伝える。<高千穂問題と神武天皇聖蹟より>

2.英彦山

 この山は天忍穂耳命が降臨された霊山で北九州地方全域を一望することができる。神武天皇が日向に都している頃、天村雲命に勅してこの山に遣わされ天忍穂耳命を祭らせ給ふ。

 天皇は山頂で筑紫の地勢をみそなはし、それから川に沿ふて田川郡に下られた。

 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。 早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、 その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、 田川と呼ぶようになったという。
 ところがその後、天忍骨尊(吾勝命)が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、 八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。
 後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。 勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。
 神様が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山にも天降っている。宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、 宇佐(大分県)に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田町との境にある日王山(日尾山)に、宇佐から宗像に向う途中天降り母神天照大神を祭ったという話がある。
 今の赤村と津野一帯を昔は吾勝野と呼んでいたという。その由来は、吾勝尊(天忍骨尊)が岩石山に天降ったことから、岩石山は吾勝野と呼ばれていたし、 その東側の今川流域は吾勝野の名であったという。それが、景行天皇が熊襲を討つときこの山頂に登り、神々を祭って東側を見下し、「この山麓は豊かな土地であるが、 南北に連なって細長いので二つの村にしたがよい」との言葉からアカツノが分かれてアカ村とツノ村になったという。
<添田町HPより>

 宗像三女神はAD20年頃安心院の三女神神社の地で誕生している。また、大国主命は25年頃第二代倭国王に就任している。大国主命はその後倭国内を巡幸しているようで、北九州にやってきたのはAD28年ごろであろう。ムカツヒメから三女神の扱いを頼まれたものであろう。忍穂耳命がこの地方に降臨したのは、AD30年頃で大国主命がこの地にやってきた数年後であろう。大国主と三女神宇佐から此処にやってきたのであり、三女伸はこの後、海神族に嫁いで斎主として活躍し、倭国が北九州一帯の海上交通の実権を握ることに貢献したと考えられる。

3.田川市の伝承

川崎町帝階八幡神社御由緒
神日本磐余彦命(神武天皇)が日本巡狩の時、此川(川崎の地)に住まい、猪を狩猟した。これにちなんで猪膝、猪尻(井尻)、猪鼻などの地名になった。神日本磐余彦命は父母や祖父母神兄弟神を迎えて川崎に居を営み、この川を「高日﨑早日川」といい、後世の川崎の地名になった。 

2.厳島神社・牧野神社

 天皇陸路筑紫に御行幸ならせらるるとて。豊の上毛の蜘蛛手山を経て、田河邊より方に此処の御山を越え給はむとする時、御山自然に鳴動して風雨俄かに起り、多くの軍卒容易く越ゆべくもあらざれば、天皇甚だ驚き怪しみ思召すの時、身に藁蓑を着し頭に柴を翳し怖づ怖づながら寄来る翁あり。奏上して曰く、此の御山は昔比賣神まして、豊国宇佐島より宗像の沖合に鎮まり賜ひき。此の如き畏き御山なれば、漸く乗越え給はむこと禮なき事なりと、必ず比賣神の咎めたまふことにこそあるらめと奏し給ひき。時に天皇其の言の理あるを甚嘉したまひて詔はく、汝能く我が為に導せむやと宣せ給ひければ、翁畏み奉りて導ましき、天皇忽ち登山ましまして、先づ比賣神を厚く祭りたまひぬれば、神験立所に顕はれ、雨風止みて御山自ら静かになりぬ。天皇深く神徳の厳著なるを感喜ましまして、四方晴るるまにまに遠方近方を見晴らしましまし給ふ折柄、目近き戌亥の裾野に當りて、夥多なる馬の群立ち騒ぐ聲を聞召されて、仇や寄すらんと甚く驚き給ふ時に、翁又進み出て奏上なしけらく彼こそは吾村の放馬なれ、御覧じ給はんや、御覧じ玉ひて若し御心に叶ひ玉はむには必ず獻らむと奏しければ、天皇殊更に喜びましまして出給ふ時、如何なしけん足白の駿馬足鍬を附けしまま騒立ち、南を指して駆け出しぬ。故是に因りて此村を號けて鹿毛馬と云ふ。蓋し「馳け馬」ならん。或は云ふ其馬鹿毛なりしと。されば為すべき術なきまま、翁先立ちて彼是と撰み奉らんとする時、遥かに嘶く聲いかにも勇ましく聞こえぬれば、是れ好けむと引出して獻りぬ。天皇甚く笑み給ひて、是は却々に初めの馬にも勝りて宜しと宜ひ給ひて、直ちに乗らし鞭あてて駈出し給へば、如何なればか其馬も亦、南の高根を目懸けて駈け行きぬ。斯くして漸くに其高根の麓に到り給ひぬれば、奇しきかも先の馬甚だ疲れし状にて草喰ひて居ぬ。時に天皇其状を遥かに御覧じて、馬見ゆと詔り給ひき故是を以て此処を號けて馬見といふ。此処をも亦出御ましまして、此山本に沿ひて米の山越えより、遂に筑紫の岡田宮に到り給ひて一年ましましぬ。かかる尊き事の跡とめて、此の山の根に瑞宮建て、比賣神と共に天照らす御祖の神を斎祀りき。故其牧野尾に、狭野命と、豊宇気大山積の牧野尾神社と崇め奉りき。初め天皇寄り来らしし時に馬鍬掛けながら足白の馬の馳け出しこと是恐く外由もなかるべし、一向に使ひ疲らし為にかかりしならん。宜しく今より後五月朔日より七日まで休息させよと詔給ひき。<高千穂問題と神武天皇聖蹟>

 神武天皇御幼名狭野命と申奉る時筑紫を回り給ふとて豊前国より此村に移給ふ馬牧より足毛の馬を奉り其馬に乗せ給ひ嘉穂郡馬見村へ出給ふ迄老翁見送り奉るより当村駈馬村へ出給ふ村称の起源也<福岡県神社誌>

 ここでいう蜘蛛手山は求菩提山で、厳島神社のある山は目尾山で現在の鳥尾峠である。現在の鹿毛馬の厳島神社は昔山上にあったと云われている。

 頴田村、今カヒをカウと訛る。此の村に鹿毛馬と呼ぶ牧場址ありて牧野明神と名くる祠あり。この牧場址は今林野薮沢の閑地なれども、中に田畝もあり泉地もあり。長六町余横三四町、境線曲折あれど、其境線は全く石築して之を囲む。所謂神籠石の状あり、土俗牧之石と呼ぶ、按ずるに、牧は我古言馬城にて、牧馬の場をば、石を塁ね垣となし城郭の姿ありしを知る。<地名辞書より>

4.撃皷神社

 「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」

 「皇軍玆に至る時突如として馬進まず、天皇八田彦に異心あるに非ずやと詰問し彼の奏言により、当(白旗山)山頂の天照大神を祀る、大神託宣して曰く、筑紫国を綏撫静謐せしめて然る後発途せよ然らずんば後に内訌の虞あらんと教へらる」

5.射手引神社

 「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」

 ここで云う阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。

 田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

 赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する。

射手引神社 射手引神社 帝王山

6.高木神社

 「神産霊大神は神武天皇東征の時、宇佐島より田河邊を経て筑紫の国の岡田宮に出御の途次、山田邑の山路より此の村を過ぎ給ひで躬親ら斎き給ふ所の神なり、因りて此の山を号して神武山と云ふ。今神山と云ふは略称なり。」

7.天降八所神社縁起

 「馬見山の北麓、山澤四周して未だ開けず、道路泥濘にして歩行困難、人馬漸く疲れて進むこと能わず、天皇之を憂ひ給、教導駒主命に勅して曰く、前途悠遠、然るに人馬卒の疲労今既に此の如く甚だし、今転ずる道ある可きや
 駒主命は道を変へ、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠へと迂回して、目尾の神峰にある強石明神を祭らせられた。此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駈の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。此の付近一帯は宗像三女神の霊蹟である。
 天皇が目尾山にまします時、雲の間から一羽の霊鳥が飛んできて大きい松の梢にとまり、伊邪佐々々と三声啼き、静々と西南に飛び去らうとしたので、天皇が仰せられるにはこれは神の使いだ、よろしく尾行すべしと命ぜられたので、皇軍は活気付いて進行しましたが、その霊鳥のとどまったところを、後に鳥居又は鳥尾といひ、その霊鳥を祀って鳥尾大明神と崇め祀り、之を鳥野神と申し上げる。」

「天皇がここから西南に進まれるうち、俄かに御気分がお悪くなられたので、侍臣の種子命は、丘の上の杉の古木の下に天皇を休み奉り、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を請ひ、熱心にお祈り奉ったところ、直ちに御気分が健やかに爽やかにならせられたので、その杉を魂杉といひ、ここに、天皇と二人の侍臣とを併せ祀って魂杉大明神と申し上げたといふことです。この御休養、御祈願の丘が天降八所神社の神地で、今の佐与という神社の所在地名は、天皇が、御会話中に「左様か・・・」と仰せられたことに起因するといひ伝えてゐます。」 

天降八所神社 天降八所神社

8.皇祖神社社伝

 「神武天皇都を中州に定めんと欲し、出発の時、駒主命を鷹羽の吾勝野に得て、収めて先導となし、筑紫国に幸す。馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤淤泥の難路を跋渉して、漸く沼田(鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆蹕を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。
 沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌咫尺を弁ぜず、皇軍頗る悩む。」

 勝負坂・・当社の少し先に勝負坂と云うあり、神武天皇賊軍に勝たまひし所といふ伝説あり

皇祖神社

9.熊野神社社伝

 「立岩の前面を眺めしに、土地淤泥にして、而も大河横に流れ、舟なくしては容易に渡るを得ず、唯呆然として猶豫す。折柄八田彦と称する一魁首、衆卒を率ゐて車駕を迎へ、自ら進みて河の瀬踏みを為し、且つ、携へたる鉾を河中に突立て浅瀬の標とし、以て皇車の渡るを促す、?に於て一同始めて感喜安堵の念を為し、徐ろに其の河を渡り、上下恙なく彼岸に著することを得たり」 

「神武天皇御東征の砌雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を弁ぜず。時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す。其状恰も屏風を立てたるが如し。雷光林々の中岩上に神現れて曰く。我は天之岩戸神、名を手刀男神と言ふ。此の処に自ら住める悪鬼あり、其状熊に似て熊に非ず。蜘蛛に似て差に非ず。手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を恃みて恣に天皇を惑わさんとす。最も憎む可きなり。我巨岩を擲て其賊を誅す。自今吾が和魂は此の岩上に留つて筑紫の守護神たらん。又荒魂は天皇の御前に立ちて玉体を守護すべきなり。此処に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ」

 立岩の前面を眺めしに、土地淤泥にして、而も大河横に流れ、舟なくしては容易に渡るを得ず、唯唖然として猶豫す。折柄八田彦と称する一魁首、衆卒を率ゐて車駕を迎へ、自ら進みて河の瀬踏みを為し、且つ、携へたる鉾を河中に突立て浅瀬の標とし、以て皇軍の渡るを促す、玆に於いて一同始めて感喜安堵の念を為し、徐ろに其の河を渡り、上下恙なく彼岸に著することを得たり。

 天皇は八田彦の案内で遠賀川を渡り、片島の里に上陸した。この付近に王渡、徒歩渡、鉾の本、勝負坂等の地名が残されている。

熊野神社 立岩神社

10.伊岐須神社

 「天皇駐驛し、天照大神及び素戔嗚尊を祀り玉ふ依て邑叉山を神武と云ふ。」

11.若宮八幡宮縁起

 「天皇、この邊すべて水泥相混じて土地未だ凝結せず、天皇漸く此の地に達し、暫く御蹕を駐め給ふて宣はく、此の土堅き事岩の如し宜しく今より加多之萬となづくべし。また、宣はく、水泥相混すれば即ち田畠開けず、以後此処に水土の神を祭りて、宜しく其の擁護を祈るべしと、星即ち片島明神、貴船明神の起因なり。」

 天皇は地盤の固い片島の地にお上りになって、直ちに付近の丘に登られ、ここで改めて天祖の御霊を祭られました。ここを壇の上といひ、その御祭祀の所を嚢祖の杜といひ、嚢の御先祖を祭られた跡に納祖神社が祭られている。

12.物部旧跡地

 この近辺(白旗山、笠木山山麓)は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。これらの地(天照神社、笠木山等)で、神武天皇は天祖(饒速日尊)を祭ったと言われている。
 この地域は大歳命が統一した地域で大歳命(饒速日尊)に対する信仰心が篤い。饒速日尊は大和降臨の時、此の地の人々をマレビトとして大和に率いていったのである。狭野命は饒速日尊を祭る事によりこれらの人々の協力を得たものと考えられる。

春日神社(饒速日尊降臨地)

13.高宮八幡宮縁起

 「西街道椿庄伊岐須郷は神武天皇駐蹕の名所なり、故に往古邑又は山を称して神武と云う。時に大屋毘古の裔八田彦、多く属類を率ゐて奉迎す、天皇の其の言を用いて暫く蹕を渓間の小山に駐め、天照大神を東北岩戸山に祭る、また、小石をこの山の頂に衛立て天津御璽を見たてて、素戔嗚尊を祭る、是即ち邑又は山を神武邑、神武山といふ由緒なり。」

14.寶満神社縁起

 「天皇は八田彦の案内で、潤野の地に進まれ、改めて天祖の御霊をお祭りになったが、その御霊跡は姿見といひ、日の原ともいふ」

 「天照大神九州平定後東征すべしと託宣し玉ふ」

15.高祖神社縁起 

 「天皇は高田に進み給ひ、八田彦の伴った田中熊別に迎えさせられ、根智山の賊打猿といふものを征服するため、高田の丘から熊別と椎根津彦に討伐の命令を御下しになりました。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。」

高祖神社

16.高田神宮皇祖廟縁起

 「玉依姫尊と神武天皇とを祀る、大山祇命裔田中熊別、天皇を奉迎す。」

 「熊別稽首禮足虔んで奏して曰く、願わくば天皇暫く龍蹕を臣が茅屋に駐めて之を待て、臣椎根津彦を随へ必ず之を誅せしめん」

 椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、天皇は進んで山口に移られた。その間に打猿は捕らえられて遂に斬首された。この誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。

17.竈門山

 御祭神は神武天皇の御聖母玉依姫命であります。命は、海神の女で鵜・草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり五瀬命・神武天皇等四柱の御子を産まれた後御子の教養と建国の大業に心をくだきこの竃門山に登られて祈念されたと伝えられる。

 神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給うに及び天皇は諸皇子と共にこの山に登り給ひて、躬親から胸鏡を榊の枝に取り掛け巌の太玉串を刺立て建国の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ。

竈門山 竃門神社 竃門山山頂

18.筑紫郡大野の伝承

 天皇は大野の邑に赴かれ、ここの田中の庄で、邑長荒木武彦の奉迎を受けさせられ、ここで、筑紫郡の諸豪族を御綏撫の上、武彦の御案内で、宇美にお進みになられ、同時に四王子山(大城山)に使いを立てられ、山上に武甕槌尊を祭って王城の鎮守とされた。

19.蚊田の里(宇美八幡宮)

 「上古は蚊田と云ひしが、神功皇后王子を産み給ひしより宇彌と云ふ。古へ宇眉と作り、今は宇美の字を用ゆ。」・・風土記拾遺

 この宮の神官は、荒木武彦の後裔、荒木島主の後胤でありまして、代々神武(こうたけ)の姓を名乗り、此の宇美の地には、荒木とか、神武原とかの地名もあり、古い書物にフミ田とよばれている。フミ田は蚊田と連絡があり、魏志倭人伝の不彌国と思われる。

 永く宇美の地にましました天皇は、博多湾を指呼されながら若杉山で天祖の御霊をお祭りになり、中部糟屋を御巡視になり、しだいに御下りになって箱崎の地に成らせられ、筥崎八幡宮の處女躅跡を御印に成り、陸の住吉宮と、海の志賀神社を両翼とする大綿津見の海神族をみそなわした後、道を席内村に採られた。

20.糸島の伝承 

 芥屋の大門・・神武天皇が禊をしたと伝えられている
 可也山・・神武天皇がよく登り国見をしたと伝えられている。山頂に神武天皇を祀った可也山神社がある。
 日向峠・・神武天皇が通過したという伝承あり

21.若杉山

 太祖宮 祭神 伊奘諾尊若杉山山頂に鎮座し創建年代は不詳 

 この神社を創建したのは神武天皇と考えられる。

22.箱崎宮

 幾つかの石鳥居を通して志賀島が先端をのぞかせる。丁度、金印の出土地を指している。創祀は不明であるが、金印が埋納されたのはこの頃と考えているので、この神社の創建は神武天皇と考えられる。

箱崎宮 箱崎宮

23. 鷺白山 熊野神社 福岡県古賀市大字筵内1575

 神武帝が東遷のおり御船を海浜につなぎ、この山上の石に腰掛け四辺を展望されたことから「御腰掛石」が残っており、大小二石あることから「夫婦石」とも呼ばれている。田中熊別がここまで従軍申し上げて、老齢の故を以ってお別れを告げた。天皇は恩賞としてお手づから柳の木を折って、杖を賜った。

鷺白山 熊野神社 熊野神社

24.宗像大社 

 宗像大社の社伝では、宗像から湍津姫命が宇佐へ、市杵島姫命が厳島に遷座したとあるが、宇佐氏の伝承では三女神は宇佐から厳島へ遷座し、そこから宗像へ遷座したのだという。

 糟屋から宗像に進まれた天皇は内殿の王子神社で天神を祀られた。

25.神武神社 福間町大字津丸字裏谷

神武天皇が東征の折、この地にしばらく鳳輦を駐め給う。その陣跡に社を建立す。

神武神社

26.赤間

 赤間の由来は、神武天皇が東征の折、岡湊に着いた時、吉武地区の吉留にある 八所宮の神が赤馬に乗って神武天皇を迎えた事から「赤馬」と名付けられ、それが転じて「赤間」となった。 神武天皇が日向国から大和国に東征する途中、現在の 遠賀郡付近を通った折、祭神達が赤馬に乗って現れ、 人民を指揮し皇軍に従い、永く赤間の地の守護神であることを誓ったとされる。

八所宮

27.惣社宮 福岡県中間市中尾1丁目4-3

 御祭神 大己貴大神 稻田姫命 素盞嗚命 天照大神
神武天皇岡水門に行幸の時、祀ったと云われている。主祭神の大己貴大神であるが、地域性と神武天皇の他での祭祀状況からこの神は饒速日尊ではないかと考えられる。

惣社宮

28.一宮神社 福岡県北九州市八幡西区山寺町12-36

 元王子神社  古事記によれば神武天皇が豊前の宇佐から筑前の岡田の宮においでになり一年の間この所にとどまられ軍務を見られ所謂御宮居の地である。天皇御親ら祓いをされ地主の神をまつられたという礫をしきつめた社祠の跡が今も残って居る。この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので、考古学的にも貴重な資料であり本社が如何に古代からの社であったかを物語るものである。
 昔は稀に見る大社であったが残念なことには、大友氏の兵火により焼失した。規模の宏壯であったことは数々の文献や遺跡より明らかである。

一宮神社

29.岡田神社 福岡県北九州市八幡西区岡田町1-46

 古代洞海、菊竹ノ浜(貞元)に熊族が祖神を奉斉した地主神で岡田ノ宮と称す。神武天皇、日向国より東征の途次本宮に詣り天地神祇(八所神)を親祭し、ここに一年留まり給ふ由「古事記」にあり、この処を熊手と号す。神功皇后、三韓征伐の折りに熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭す

岡田神社 岡田神社

30.神武天皇社 

 岡田宮跡と伝えている。

神武天皇崗湊顕彰碑 神武天皇社
狭野命北九州巡幸推定経路

 北九州における狭野命の行動推定

 蓑島にて

 当時北九州地方は海外交易の玄関口であり、大和に入った物部一族の旧跡地でもある重要地である。狭野命が大和に入るには物部一族の協力は欠かせず、また、大和朝廷成立後の朝廷'の運営にも北九州地方は重要拠点となる。実際大和朝廷が成立したと思われる弥生時代後期中頃以降、北九州主要部には畿内系土器が集中出土するようになる。これは、連続的な変化であり、以前の状況との断絶が見られないことから、朝廷成立後畿内勢力が強引に北九州地方に進入したとするより、狭野命が北九州通過時にその下準備をしていたと考えるほうが自然である。

 蓑島に到着した狭野命一行はここで二手に別れる事にした。関門海峡を渡って海路北九州をめざす一行と、蓑島周辺を河口とする犀川(現在の今川)を遡って北九州に入る一行に分かれた。海路北九州を目指す一行は岡田宮を拠点とし壱岐、対馬、朝鮮半島と巡幸し朝廷成立後の海外交易の拠点作りをする。また、犀川を遡る一行は朝廷成立、また成立後の協力を得られるように拠点作りをする。海路北九州を目指す一行は朝鮮半島関連の伝承より稲飯命が率いたと思われる。これに対して、犀川を遡ったのは狭野命自身である。

 竈門山

 伝承をたどると神武天皇の北九州巡幸の目的地は竈門山のようである。この山の山頂には玉依姫の御陵伝承がある。玉依姫は神武天皇を生んだ後、この竈門山に来てこの地で亡くなり、この山に葬られたと伝えられている。玉依姫の御陵伝承はこの他に吾平山御陵内のウガヤフキアエズの御陵の隣、或いは日南市宮浦に玉依姫御陵伝承地がある。真実の玉依姫御陵はどこなのであろうか。
 玉依姫という名は魂が宿った女性と言う意味で、普通名詞のようである。複数の玉依姫がいたと思われる。しかし神武天皇の母となる玉依姫は唯一人である。宗像三女神も玉依姫と呼んだようである。
 狭野命の母となる玉依姫はウガヤフキアエズ命の妻である。狭野命の行動伝承を探ればその母の所在ははっきりとするであろう。狭野命は東遷に出発する前に挨拶回りしているが、そのとき、鹿児島市谷山の柏原神社に母の里に挨拶に行く時、ここに上陸したと伝えられている。この事から母である玉依姫の里は枚聞神社の地であると考えられる。ウガヤフキアエズ命はAD75年ごろ桜迫神社の地で亡くなっている。年齢は45歳前後であったろう。妻である玉依姫にはまだ余命がかなりあったと思われる。此の時玉依姫は薩摩半島部にいたようである。では、なぜ、北九州で玉依姫が大々的に祀られているのであろうか北九州の玉依姫は神武天皇の母とは別人かもしれないが、玉依姫が北九州に来た可能性について考えてみたい。
 糸島市に産宮神社がある。祭神は奈留多姫命 鵜鵜草葺不合尊 玉依姫命で、「奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓いて、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、以後、「産宮」と称えて安産守護の神と祭る。」と記録されているがこれは明らかに誤りである。鵜鵜草葺不合尊 玉依姫命がここで、奈留多姫命を産んだのではあるまいか。つまり、鵜鵜草葺不合尊はこの地を訪問しているのである。奈留多姫命は伝承されていないが、この地に滞在していたのではあるまいか。そして、成人後奈留多姫命自身が同じこの地で誰か重要な人物を産んだとも考えられる。 鵜鵜草葺不合尊は玉依姫命と共に、北九州を訪問しているようで、その時、玉依姫命が信仰を広めたのではあるまいか。鵜鵜草葺不合尊はこの時、伊都国のまだ倭国に加盟していない豪族たちを倭国に加盟させるために、日子穂穂出見命と共に伊都国に滞在し、その間に玉依姫が周辺地域に信仰を広げたと考える。神武天皇の母はこの功績により玉依姫と云う名をつけられたとも考えられるのであるが、どうであろうか?そうだとするとその時期はAD60年頃であろう。
 北九州の竈門山周辺では現在でも宝満神社が数多く存在し玉依姫が祀られている。相当強く信仰が残ったものである。玉依姫は人々の心をつかむような行動をしていたのであろう。それが、現在まで信仰が残っている原因と考えられる。

 赤村にて

 犀川を遡った狭野命一行は赤村に入った。油須原に通過伝承がある。ここは、その昔天忍穂耳命が滞在し、ここを拠点として周辺を統治した地である。この地に滞在している時、馬見物部の眷属である駒主命が馬を献上して協力を申し出た。彼と共に今川に沿って遡り、英彦山山頂に登り、筑紫地方一帯を国見し、彦山川に沿って田川へ下った。川崎町に神武天皇がしばらく滞在して猪狩りをしたと伝えられている。ここを拠点として田川郡一帯の豪族たちに朝廷成立後の協力を要請して回ったのであろう。まもなくこの地方一帯の豪族の協力が得られた。狭野命は天忍穂耳命の遺址を訪問した事と思われる。天忍穂耳命の御陵は不明であるが、降臨(国見)したと云われている岩石山などがその候補であろう。現在の田川市春日町の春日神社は饒速日尊降臨伝承地である。この地で饒速日尊を祀りこの地方の人々の協力を得たものと考えられる。

 鹿毛馬にて

 田河地方の人々から協力を得られたのち、田川市金田から小峠を越え鹿毛馬字牧野に達した時、風雨が激しくなり進めなくなった。この時一人の翁が現れ、「ここは三女神ゆかりの地なので、三女神を祀れば通れるだろう」と聞き、三女神を山頂に祀ることにより天候が回復し通過できた。これが現在の厳島神社である。これは、狭野命一行の通過を邪魔する一団があった。この人たちは三女神を信仰していたので、三女伸を祀ることによりこの人たちの協力が得られて、無事通過できたと考えることができる。この地にある厳島神社はその昔山頂の岩を御神体としていたようである。此処の地名牧野は昔馬を放牧していた牧があったために附けられた名のようである。この山の中に神籠石がある。祭祀した石はこの石で、ここで祭祀したのであろう。そして、この山の裾野には馬が放牧されており、この土地の人々から鹿毛の馬を献上されたので、この地を鹿毛馬と名付けた。
 狭野命は当初、そのまま飯塚近辺に進もうと考えていたのであろうが、伝承をたどれば、この後馬見山周辺に進んでいる。方向が全く違うので、予定変更をする何かがあったと思われる。 伝承では馬が逃げたためと云われているが、別伝では馬に乗って移動したとなっている。馬見までは直線で20km程もあり、後者が正しいであろう。馬見山の麓には高木神が祀られており、天忍穂耳命の旧蹟地の1つと考えられ、また、馬見山山頂はその昔ニニギ命が国見をしたところなので、馬見物部の胤である駒主命の進言が原因ではないだろうか?狭野命自身はこの時馬見山に関しては知らなかったのであろうが、駒主命の進言によって、馬見山北麓に行くことにしたのではあるまいか?この途中で馬が逃げだしたものと考えられる。
 駒主命の案内に沿って鳥尾峠目指して進んでいる時、道に迷い困っている時に鳥が現れ、道案内をしてくれた。鳥の止まったところを鳥尾と名付けた。そして、鳥尾峠を越えた。

 山田庄にて

 、鳥尾峠を越え、そこから中元寺川に沿って、そして、猪位金川に沿って遡り峠を越えると山田庄に達する。狭野命はおそらくそれに準じた経路を通って山田庄に達したものと考えられる。山田庄では、その東北に帝王山があり、この山で天祖忍穂耳命を祀ったと伝えられている。
 山田庄を出た狭野命は白木川沿いに遡り、白木を越えて小野谷に着いた。小野谷で高木の神(タカミムスビ命)を祀った。白木という地名は饒速日尊古伝承地に多いので、ここは饒速日尊古伝承地かもしれない。
 狭野命はこの辺一帯で忍穂耳及びその義父であるタカミムスビを祀っている。おそらく彼らの旧跡地なのであろう。忍穂耳関連の伝承の多くは失われているので、具体的に何があった地なのかは定かではない。この周辺の豪族たちは忍穂耳・タカミムスビに対する尊敬の念が強かったので、彼らを祭ることにより、豪族たちの協力を得ようとした事が伺われる。

 目尾を目指して

 ここから狭野命は当初の目的地である飯塚の方に進もうと遠賀川に沿って下ったが、当時のこのあたりはかなりの湿地帯であり、歩行が極めて困難で人馬ともに疲れ果ててしまった。そこで、狭野命は駒主命に道を変えることを提案した。其の地は現在の大隈辺りと推定する。ここから、遠賀川に沿って下るのをあきらめ、鹿毛馬から馬見に進んだ道を逆にたどることで、飯塚を目指すことにした。このために、鹿毛馬と馬見にかかわる伝承に混乱が生じたものと判断する。元来た道を逆にたどることで再び牧野の地に戻ることができた。
 この地から西南に進んだところ、狭野命は俄かに気分が悪くなり、種子命は丘の上の杉の古木の下に狭野命を休ませ、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を祀り、熱心に祈ったところ、直ちに御気分が回復したので、その杉を魂杉と呼ぶことにした。この休養した丘が天降八所神社の神地である。今の佐与という神社の所在地名は、狭野命が、会話中に「左様か・・・」と云ったことに起因するという。

 佐与から東に進むと鯰田(沼田)に着く、ここに着いた時、駒主命は、雲間に見えるのが竈門山で、玉依姫が祀られている事を伝えた。狭野命はこれを聞いて、諸皇子とをこの丘上に留めて竈門の神霊を祀ったこの地が皇祖神社の地である。鯰田から遠賀川を渡るために渡れる場所を探して、立岩の方へ進んでいくと進路を妨害する立岩を本拠とする一団があり、この一団と戦った。この地が勝負坂である。この後立岩で祭祀をし、遠賀川を渡ろうと浅瀬を探している時、この土地の豪族八田彦が現れ、鉾を河に挿して浅瀬を示してくれたので、無事に渡ることができた。渡った場所が片島である。この付近にこれに由来する王渡、徒歩渡、鉾の本と云う地名が残されている。ここに水の神を祀って農業技術を伝えた。片島明神、貴船明神である。
 狭野命は、また、地盤の固い片島の地の丘に登って、ここで改めて天祖の御霊を祭った。ここを壇の上といい、その祭祀の所を嚢祖という。ここが現在の納祖神社である。

 狭野命が目尾に向かった目的はその周辺で饒速日尊を祭っていることと、その古伝承地を巡っていることから考えて、饒速日尊信仰の強い人々の協力を得るためであることが考えられる。遠賀川上流域はその昔(AD10年頃)、饒速日尊(当時は大歳命)が統一した領域で彼がもたらした先進技術で生活が豊かになった地域であり、この当時(AD80年頃)も饒速日尊信仰が強かったはずである。饒速日尊はAD20年頃、大和にマレビトとして乗り込むためにこの地域の人々を大和に連れて行っている。それらの人々が大和で日本国統一の最前線として大活躍をしているとの情報は入ってきていたであろう。狭野命もその実績を継承してこの地域の人々の協力を得ようとしたものと考えられる。

 この地域の人々の協力を得るには饒速日尊信仰の篤さを利用するのが一番である。饒速日尊旧跡地を訪れ、饒速日尊祭祀を大々的に行い、これからの東遷の目的を伝えれば、この地方の人々の心をつかむことができるであろう。狭野命はそれを実践したのであろう。

 饒速日尊祭祀

 この近辺(白旗山、笠木山山麓)は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。狭野命は目尾を拠点としてこれらの地を回り、神武天皇は天祖(饒速日尊)を祭った。これによりこの周辺の人々の協力を得ることができたのであろう。また、笠木山は瓊瓊杵尊の滞在伝承のあるところで、ここにも立ち寄って饒速日尊を祀っている。狭野命は八田彦の案内で伊岐須、潤野、高田と進み各地で饒速日尊を祀っている。

 片島に着いた狭野命は納祖で神を祀った後、八田彦は一族を紹介する目的で伊岐須郷に案内した。八田彦は一族で狭野命一行をもてなした。狭野命はしばらくここに滞在した。ここで、八田彦から、この周辺の倭国と日本国との合併に反対する一団を統一してほしいとの願いを受け、狭野命は大和朝廷成立後のことも考えてこの申し出を受けることにした。この地方の人々の協力を得やすくするために、天照大神を東北岩戸山(現在の白旗山)に祭る、また、小石をこの山の頂に衛立て天津御璽を見たてて、素戔嗚尊を祭った。これによりこの邑又は山を神武邑、神武山というようになった。また、この時、饒速日尊が国見したという笠置山に登り、山頂に饒速日尊を祀った。これらの祭祀によって、周辺の反対派の承諾が得られることになった。

 伊岐須近辺が落ち着いたので、八田彦の案内により、潤野の地に進み、ここでも天祖の御霊を祭った。その霊跡には現在宝満神社があり、周辺を姿見或いは日の原ともいう。この周辺も安定化できたので、狭野命は高田に進んだ。ここで、八田彦の伴った田中熊別に迎えられた。この周辺で祭祀をしていた時、反対の意思をあくまで貫く一団があった。根智山に本拠を置く打猿一族であった。話し合いも限界に達し、打猿を誅することになった。高田の丘で熊別と椎根津彦に討伐の命令を下した。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。

 椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、狭野命は大分八幡宮に進み、そこに滞在中打猿は、米の山まで退却したので狭野命は山口に移った。打猿は米の山も打ち破られ大宰府まで退却し、さらに退却し捕らえられて遂に斬首された。この誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。

 打猿を誅した後、狭野命一行は他皇子たちと竈門山に登り、祭祀をした。

 宇美の地へ

 竃門山で祭祀をした狭野命はその東北の大野邑に赴いたところ、そこの邑長荒木武彦の奉迎をうけた。狭野命はここを拠点として武彦の協力を得て、筑紫郡一帯の豪族から大和朝廷成立後の協力を得る事に成功した。

 筑紫郡の豪族の協力を得られたので、狭野命は武彦の案内で宇美の地に移動し、この宮を建てた。この地は現在宇美八幡宮の地となっているが、これは、後の世神功皇后が神武天皇旧跡地であったこの地で応神天皇を生んだ事から宇美の名が付いたが、古来ここは蚊田といって、神武天皇ゆかりの地と伝えられている。この地を岡田宮とする説もある。この宮の神官は荒木一族の後裔であるが代々神武(こうたけ)の姓を名乗っている。また、近くに神武原(こうたけばる)という地名もある。
 蚊田の地に宮を建てた狭野命は、大城山に使いを立てて山上に武甕槌命を祭って王城の鎮守としたと伝えられている。また、福岡市内には神武天皇が関係しているのではないかと考えられる神社が存在している。若杉山、箱崎宮、住吉宮、志賀神社などである。狭野命は祭祀を活発に行うことによりこの地方の豪族たちの協力を得ようとしたものと考えられる。他皇子たちも周辺地域の巡回をしたものと考えられる。
 箱崎宮はその創祀は明らかではないが、鳥居が金印出土地を向いていることから察して、金印が埋納された時期と創祀の時期が同じと考えられる。金印は大和朝廷が成立した頃埋納されたと考えているので、箱崎宮創祀者は狭野命あるいは玉依姫ということになる。箱崎宮の祭神に玉依姫であるのと関係していると思われる。
 住吉宮は神話にある筑紫の日向の橘の小戸の檍原の地に建てられていると伝えられているが、檍原は宮崎と考えているので、この住吉宮はそれに該当しなくなるが、神代より鎮座していると伝えられており、相当古い古社である。志賀海神社も相当に古い社で景行天皇が祈祷したと伝えられているので、それ以前に創祀されたことになる。共に住吉三神を祀っている。北九州のこの周辺一帯はこの当時海外交易の拠点と言うべき所で、海上交易の安全祈願等に海の神を崇敬するのは当然といえよう。この周辺はイザナギ命を祀っている神社が多い。スサノオが南九州を統一し、イザナギ・イザナミが倭国統一の協力を申し出た時、まず最初に統一のためにやってきたのが、この伊都国の地であろう。イザナギ・イザナミはしばらく滞在して伊都国王を倭国に加盟させようと努力したのであろう。奴国(福岡市)周辺のいくらかの豪族は倭国に加盟したと思われるが、伊都国は失敗に終わっている。狭野命はイザナギ命の旧跡地を廻り彼を祀ったものと考えられる。狭野命は大和朝廷成立後この海上交易の拠点を受け継がなければならず、是非ともこの周辺豪族の協力は欠かせないところである。そのためにもこれら神社で祭祀をしたものと考えられる。

 伊都国が倭国に加盟したのはAD60年頃で、日子穂穂出見命の功績である。日子穂穂出見命はこの当時鹿児島神宮の位置におり、彼が、伊都国の地を去ったのはAD65年頃である。それから15年ほどたっている。

 金印埋納について

  伊都国が倭国に加盟したのはAD60年頃で、日子穂穂出見命の功績である。日子穂穂出見命はこの当時鹿児島神宮の位置におり、彼が、伊都国の地を去ったのはAD65年頃である。それから15年ほどたっている。金印は日子穂穂出見命がムカツヒメの命を受けAD57年に後漢から賜ったものであると推定している。その後、伊都国(前原市)周辺の豪族たちを倭国に加盟させ、海外交易の責任者であるという身分証明に使っていたと思われる。日子穂穂出見命にAD65年日向への期間命令が出た時、その後を受け継いだ伊都国王がこれを所持し、身分証明に使っていた。狭野命がここにやってきたAD78年頃もこの伊都国王が身分証明のために金印を所持していたと思われる。この後大和朝廷が成立してしまえば、朝廷の役人が海外交易の実験を握ることになり、日向国王の銘のあるこの金印は無用のものとなりそのまま活用すれば、後の自治国となる日向国との間に無用の争いを引き起こす元となるので、狭野命は伊都国王からこの金印を受け取り、代わりのものを何か授けたのではあるまいか。伊都国王はこの後、大和朝廷の管理下で海外交易の実権を維持することになったと考えられる。

 糸島地方に神武天皇伝承地がある。糸島地方へは日向峠から入ったのであろう。日向峠に神武天皇通過伝承がある。可也山に何回も登って周辺を国見したと伝えられているので、この周辺にしばらく滞在していたものと考えられるが、其の宮跡は不明である。伊都国王から金印を受け取るためであろう。

 伊都国王から金印を受け取った狭野命は海外交易の中継地である志賀島に埋納し、おそらくその上に社を建てて祭祀をしたものであろうが、それが時と共に忘れ去られ、社も朽ち果て、江戸時代に出土したような状態になったものであろう。狭野命はこの時蚊田から糟屋に移り、その後箱崎に移動し箱崎宮を創祀したものと考えられる。そのため、箱崎宮は金印出土地を向いていると判断する。
 これらの事は伝承にはないが、前後関係からしてこのように推察されるのである。

 出航準備のために岡田宮へ

 蚊田の地で暫らく滞在した狭野命一行は、箱崎の地から大和へ向かうための準備地として岡田宮を目指すことになった。この地は稲飯命が朝鮮半島を巡幸後、既に準備をしており、福岡県北九州市八幡西区山寺町の一宮神社の地と思われる。岡田宮伝承地は他にも存在するが、蚊田から北九州への神武天皇伝承地をつなぐと、蚊田→鷺白山→神武神社→宗像→赤間→惣社宮となっており、内陸をほぼ一直線につながっており、その延長線上には北九州市の岡田宮伝承地がある。遠賀川河口の岡湊伝承地はこのコースからずれている。また、北九州市には岡田宮伝承地が一宮神社の地と岡田神社の地があるが、この両社は1kmほどしか離れていないので、共に何かに関わった地であると思われる。それぞれの神社の伝承内容から推察すると、滞在したのは一宮神社の地で、祭祀場が岡田神社の地であったように思われる。
 筥崎を出発した狭野命一行は鷺白山までは田中熊別が船で送ったようで、そこからは内陸をまっすぐ一宮神社の地まで移動したように考えられる。海上を通ったのではないかも考えたが、神武天皇通過伝承地が悉く内陸部にあるために陸行したと判断した。
 遠賀川河口の岡湊伝承地にある神武天皇社にも岡田宮伝承があるが、この地は洪水の危険性もあり長期滞在には不向きと思われる。しかし、遠賀川中流域で物部一族に対して饒速日尊を祭祀しており、これは、単に豪族の協力を得るというよりも大和にその一族を連れて行くのが目的だったのではないだろうか。饒速日尊が以前にこの一族の中からマレビトとして大和につれて入っており、同じ一族を連れて行く事により、大和の人々の協力を得やすくする狙いもあったのではあるまいか。この一族が船を準備して集合したのが遠賀川河口の神武天皇社の地ではないかと推定している。狭野命はこの地を訪問し、これらの人々を労ったものであろう。

 岡田宮滞在期間について

 蓑島から蚊田までの行程は100km、箱崎から岡田宮まで60km程である。1日10kmとして16日、当時の暦で約1ヶ月である。途中でかなり滞在している。特に蚊田ではかなり長期間滞在していたようである。日本書紀に1年間滞在と記録されており、これは現在の暦で6ヶ月に相当する。現在暦で4ヶ月ほど蚊田に滞在し、残り2ヶ月ほど岡田宮で出航準備をしたのではないかと推定する。
 北九州における神武天皇関連伝承では、各地で神を祭っているが、その祭祀は3段階あるようである。第一段階は赤村から馬見山までの区間で、ここでは天忍穂耳命及びその関連人物を祀っている。第二段階がそこから竈門山までで、この区間では饒速日尊及びその関連人物を祀っている。第三段階はその後で、ここでは、伊邪那岐命、伊邪那美命及びその関連人物を祀っているのである。第一段階・第二段階はその地域がこれ以前にそれらの地域と深い関係があったためと考えられる。しかし、第三段階はどうなのであろうか。伊邪那岐命、伊邪那美命はAD15年頃、奴国統一に活躍しており、その旧跡地を廻ったのであろう。

 岡田宮出航準備

 岡田宮址は洞海湾奥深くにあり、船団をまとめて準備するには最適の場所である。稲飯命は蓑島で狭野命と別れてから、岡田宮に到達し、ここを拠点として壱岐・対馬・朝鮮半島部の巡幸をしたものと推定している。ここから大和に新しく加わる人々を乗せるための船を新造し、今までの船の修繕をしたりしていた。
 大和朝廷成立後北九州と大和とを繋ぐ瀬戸内海航路の確保をしなければならないが、この当時瀬戸内海沿岸地方は悉く東倭(出雲国支配下の国々)に所属しており、東倭は大和朝廷の支配を受けないことになっている。このままでは北九州の豪族たちの協力を得られても、大和との密接な交流ができないことになる。狭野命の次の任務は瀬戸内海航路の安定確保にある。
 瀬戸内海沿岸の島々に中継地を造り、航海する人々の食糧確保を確実なものとしなければならない。そのためには、瀬戸内海沿岸地方を東倭から譲り受ける必要があり、出雲との交渉が必要であった。その使者として選ばれたのが宇佐にいた市杵島姫である。市杵島姫はAD20年ごろ安心院の地で誕生しており、その後暫らく宗像に住んでいたが、この時は宇佐に戻っていた。狭野命は交渉役を彼女に頼んだ。彼女は宇佐地方の多くの人員を東遷団に参加させた。この一族も洞海湾に集結した事であろう。
 このように狭野命一行には、日向からの人々に加え、遠賀川流域の物部一族、宇佐からの市杵島姫一族が加わり大船団となって、岡田宮を出航することになった。AD79年前半11月の事であろう。

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