銅鐸について

 銅鐸は三輪山山頂から昇る太陽の姿を表している。北九州でもサルタヒコが生産した。

このページの内容
第一項 出現時期
第二項 銅鐸の使用目的
第三項 北九州での生産
第四項 伝承との照合
第五項 北九州生産の終焉
第六項 扁平紐式銅鐸


13節 銅鐸について

第一項 出現時期

 銅鐸は,紐の部分に注目して,菱環紐式,外縁付紐式,扁平紐式,突線紐式と分類されている。銅鐸の謎を解くためには,その出現時期が重要となってくる。外縁付紐式の流水文が中期初頭の櫛描流水文土器と密接な関係にあることから前期末あたりを紀元と推定されているが,三木文雄氏の中期後半開始説がある。根拠を挙げると,

①西日本における青銅武器の国産開始時期が中期中頃以降である。

②古式銅鐸と共伴する青銅武器が中期末から後期初頭のものである。

③古式鐸の鋳造規格が後漢尺に適合する。

④流水文鐸に見える絵画図文が畿内第四様式以降の土器に存在し,後期の木器に流水文を彫刻した例(石川県猫橋遺跡)がある。

 などである。

 銅鐸に鋸歯文が多用されてニギハヤヒに関連したものと考えられること,外縁付紐式銅鐸は瀬戸内地方にも分布しているが,近畿地方と瀬戸内地方との交流が盛んになったのは土器から判断して,中期末以降であることから,中期後葉起源説を採用したい。

第二項 銅鐸の使用目的

銅鐸

 銅鐸が東日本地域に急激に広まっている。それまで,鳴り物であった銅鐸が巨大化し,見るのが目的になってきた。銅鐸にはほとんどすべてに鋸歯文が刻まれ,銅鐸鋳造の時,絵の部分がはっきりしない場合,そのままになっているが,鋸歯紋がはっきりしない場合は追刻をしている。これは,銅鐸の鋸歯紋に特別な意味があることを意味している。鋸歯文はニギハヤヒの霊廟である三輪山の形を表したもので,ニギハヤヒのシンボルであり,大和朝廷のシンボルとして使われていたと考えられる。この鋸歯文が銅鐸に多用され,しかも重要視されていることから,銅鐸はニギハヤヒの祭器であろうと思われる。

 銅鐸の成分分析により,菱環紐式と,外縁付紐式の一部が朝鮮半島の青銅から作られていて,それ以降は華北の青銅から作られていることが分かっている。さらに,菱環紐式は畿内で作られたと考えられているが,外縁付紐式は,畿内以外に北九州でも作られている。以後の銅鐸は北九州では確認されていない。さらに,菱環紐式は少ししか出土していないが,外縁付紐式以降は多量に出土している。これらから,外縁付紐式の時代に銅鐸生産に大きな転機があることがうかがわれる。

 菱環紐式は鳴り物と考えられるが,外縁付紐式は紐に外縁が付くようになっている。紐に外縁が付くこと自体吊り下げにくくなるため,この形式の銅鐸から,鳴り物としての目的以外にも使用されたと考えなければならない。

 なぜ,外縁が付いたかであるが,銅鐸に鋸歯文(三輪山)と渦巻文(太陽)が多いこと,当時の畿内は三輪山から出てくる太陽の姿が祭祀の対象になっていたこと,一つの祭祀があるところへ別の祭祀が入ることは考えられないことなどから,紐の部分は太陽を表し,その下の部分は三輪山を表していて,銅鐸自体が三輪山から昇る太陽を表しているのではないかと考える。そうだとすると,紐の部分に最初外縁が付き,次に内縁が付き,突線(太陽光か?)が付くという変化が説明できる。そして,新しい形式の銅鐸では,紐の部分に何重にも鋸歯文が彫り込まれ,これら鋸歯文は太陽の輝きのようにも見える。銅鐸にこのような意味があるとすれば,銅鐸は神聖な物として扱われ,祭礼に使われると言うことも説明できる。

第三項 北九州での生産

 銅鐸の起源は朝鮮半島の朝鮮式銅鐸であると言われている。銅鐸が中期後葉に出現したとすれば,これは,朝鮮半島に渡ったスサノオを通して,ニギハヤヒが畿内に持ち込んだものと解釈される。ニギハヤヒは朝鮮半島から手に入れた青銅を使って小銅鐸を生産し,それを東日本統一のシンボルとしたと考える。銅鐸が重要な扱いになるにつれて,菱環紐式銅鐸を作るようになり,さらに,祭器としての意味を強化するために外縁付紐式銅鐸を作り出したと考える。ところが,当時の畿内では,外国との交易ルートが十分でないために,原料である青銅が不十分で,必要量の生産ができなかった。たちまち限界がやってきた。

 北九州から銅鐸の鋳型が見つかっているが,これは,外縁付紐式銅鐸である。この鋳型は後期初頭の土器と共に出土しており,後期初頭に作られていたものと考える。しかし,これ以外の形式の銅鐸は確認されていない。さらに,銅鐸の鋳型が出土したのは北九州の四遺跡と近畿地方の九遺跡であり,鋳型の出土量から考えて,畿内に匹敵するほどの需要があったと考えられるが,北九州からは銅鐸本体はほとんど見つかっていない。作られた銅鐸はどこへ行ったのだろうか。

 銅鐸の鋳型の紋様は畿内と九州に共通するものがあり,畿内勢力が北九州勢力に銅鐸を作らせたと考えれば説明が付く。おそらく,ニギハヤヒが畿内に持ち込んだ技術や青銅では大量生産ができないため,北九州に頼み込み,外縁付紐式の銅鐸を生産してもらい。できた銅鐸を中国地方や近畿地方に持ち帰ったものと考える。そのために,青銅の成分に変化が起こったと考える。その証拠に外縁付紐式の銅鐸の分布領域は他の銅鐸よりも西に偏っている。   

第四項 伝承との照合

 これを伝承面から考えてみることにする。「女王アマテラス」によると,後期初頭の北九州にはニギハヤヒの出雲での子であるサルタヒコが治めていた。サルタヒコは,スサノオの晩年,北九州地方の統治を任され,北九州の青銅器生産をしていたと考えられるが,サルタヒコの本拠地と考えられる福岡県春日市周辺から,銅鐸の鋳型が出土しているということから,青銅不足に悩んでいたニギハヤヒが,その子であるサルタヒコに銅鐸の製造を頼んだということが推定される。畿内で重要な意味を持つ銅鐸を,全く関係ない勢力に頼むと言うことは考えにくく,自分の子供がいたからこそできたことではないだろうか。サルタヒコは,倭国が持つ中国との交易ルートを通じて青銅を入手し,それを使って銅鐸を生産した。

第五項 北九州生産の終焉

しかし,北九州で銅鐸を生産するという状態は長くは続かなかった。日向勢力は後継者問題で出雲を降伏させた後,急逝したオシホミミの代わりに,ニニギを押し立てて,サルタヒコの統治する北九州南西部の引き渡しを要求してきた。サルタヒコは日向勢力と一戦を交えることも考えたが,戦いを避けて,北九州を明け渡し,故国出雲を立て直すために出雲に帰っていった。その時を最後に北九州での銅鐸生産は終わり,以後の形式の鋳型が出てこないと解釈される。

倭国は主に朝鮮半島との交流をし、朝鮮半島から青銅器の原料を手に入れていたが、北九州の豪族が、中国との交流をしており、また、朝鮮半島が三韓時代で政情不安なため、サルタヒコは後漢が成立して安定している中国との交流を行うようになり、中国の原料を入手するようになっていたと思われる。日向国王のムカツヒメはそれを利用して中国との交流を本格化させたのである。サルタヒコは出雲に帰る前にそのルートを技術とともに大和側に伝えた。これにより、中国から畿内への青銅ルートが確保され,以後,畿内で多量の銅鐸生産ができるようになったと考える。

 出雲に帰ったサルタヒコは,鹿島町の佐太大社の地に政庁を作り,祖父のスサノオの手法をまね,出雲勢力圏の代表者を集め,合議制による政治を行った。これが現在の出雲大社に伝わる神在祭の起源になっている。また,山陰地方に外縁付紐式銅鐸の出土が多いが,これもサルタヒコによって,もたらされたものと考える。

第六項 扁平紐式銅鐸

 次に,扁平紐式銅鐸の分布と伝承との関連を調べてみることにする。

次の扁平紐式銅鐸は,東部瀬戸内沿岸地方から畿内にかけての分布である。この銅鐸は後期中葉あたりのもので大和朝廷成立後のものと推定され,平型銅剣との共伴が多い。紋様も平型銅剣と共通するものが多いことから,共通の工人によって作られたものと推定されている。扁平紐式銅鐸の多い東部瀬戸内沿岸地方は大和入りする前のニギハヤヒが治めていた地域であるため,ニギハヤヒ信仰の強い地域である。ニギハヤヒが始めた祭祀の祭器である平型銅剣を,畿内から派遣された銅鐸工人が扁平紐式銅鐸と共に作るようになり,平型銅剣にニギハヤヒのシンボルである鋸歯文が刻み込まれ,このような出土状況になったと考える。

 

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