秦徐福上陸

 秦徐福関連地図

 中国の歴史書「史記」によると、斉国・琅邪(ろうや・現在の山東省)の方士「徐福」が、不老不死の妙薬をほしがっていた秦始皇帝に対して「遥か東の海のかなたに三神山があり、そこに住む仙人が不老不死の霊薬を作っております」と申し出た。始皇帝は五穀・百工・童男童女三千人を乗せた大船団を徐福に与えた。大船団を率いて出港した徐福は、平原広沢の地にたどり着き、その地の王となり中国には戻らなかった。

 これに対する日本側の伝承に徐福上陸関連のものがあり、徐福はこの日本列島に上陸したようである。小山修三氏の弥生時代人口推計より推定すると、弥生時代は年平均50人から100人程度の渡来があったと思われるBC300頃から紀元前後までは1万~3万の人々の流入と推定される。秦徐福が一挙に3000人を連れてきたと伝えられている。当時の人口規模からすると徐福の一団は相当な勢力となるのである。また、徐福は当時の最先端の技術を持った人々を多量に連れてきていますし、童男童女を主体として連れてきているので日本列島上陸後一族の人口が増大していると推定される。徐福のもたらした人々及び先進技術は後の大和朝廷成立に大きく影響を与えているはずである。ここでは、日本列島上陸後の徐福一族の行動について調べてみようと思う。

 弥生時代になってから日本列島に多量の人々の流入が起こっているが、その渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。このことは弥生遺跡から発掘された人骨とこの地方の人々の人骨が同等のものであることからわかる。この時代は中国の春秋戦国時代であり、争いを避けて流入した者、国が滅び逃げ出した者などが中心と思われる。いわゆるボートピープルと考えられる。ボートピープルの場合、日本列島に流れ着いてもこれら人々の間に組織力・技術力はほとんどないと思われる。そのため、縄文人のマレビトと融合しながら生活を送っていたと思われる。

 それに対して集団で渡航した場合には、技術力・組織力は維持できているはずで、これは、上陸後の日本列島の統一過程に大きな影響を与えていると思われる。このために、徐福一族の上陸は組織力・技術力において他のボートピープルとは状況が全く違うと考えてよい。

 徐福の出自

 徐福の先祖は春秋戦国時代の穀倉であった山東・江蘇・安徽の三省にかけて支配していた徐国(BC512年呉によって滅ぼされる)の偃王(えんおう)の子孫であった。同時に徐福の父は秦王に仕えていた。

 徐福は神仙思想・医学・薬学・農業・気象学・天文学・航海術の諸学に通じた方士である。また、インドに留学したという説もあり、インダス文明や仏教にも通じていたようである。徐国王の子孫という名門出身というだけではなく、その国際的な英知によって、始皇帝から重用されていた。

 徐福の計画した渡航計画は童男童女三千人、楼船85隻という大がかりなもので仙薬探しにしては大規模すぎ、巨額の資金も必要としたであろう。また、童男童女三千人というのは、長期間にわたって滞在することを意味し、徐福の亡命を疑ってもおかしくはない。実際に徐福は亡命に成功し再び秦に戻ることはなかった。徐福は最初から亡命を計画していたと思われる。徐福が渡航を計画しそれを始皇帝に進言し、始皇帝から認可されたものと思われるが、始皇帝ほどの権謀術策にたけた人物が徐福の亡命をなぜ疑わなかったのだろうか。

 始皇帝には別の計画があったと思われる。始皇帝は万里の長城の統合に苦労していた。その東北にいた燕が朝鮮半島と通交していることに注目し、燕が日本列島を狙っていると思っていたのではあるまいか。そのために、徐福を先遣隊として日本列島に定住させ、自らが日本列島を支配する足掛かりとしたのではないだろうか。徐福に日本列島征服の含みを持たせたとすれば、これほどの大部隊を徐福に与えたのもうなずけるのである。

 徐福渡航

 大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。

 記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。
 北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。
 南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い

 中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。

 2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。
 6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。
 10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。

 10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。

 海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。

 徐福の渡航目的

 徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。

 国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。

 「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。

 徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。

 佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どうしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、先住者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。

 徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。

 上陸伝承

 日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。

徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で,それを手でかき分けながら進んだという。

 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。

 しばらく滞在していた徐福一行は,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにした。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では,新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ,共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。

 一行は北に向かって歩き始めたが,この地は広大な干潟地であり,とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布」と呼んだ。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
 千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために,徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていたが,やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが,阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀った。
 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。

 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生している。

金立山には金立神社がある。祭神は保食神,岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。

 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し,村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが,BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されている。
 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。

 全国の徐福伝承地

 佐賀に上陸した徐福一行は、日本全国に分散したようである。その分散先に徐福伝承が残っている。以下が徐福上陸伝承地である。

青森県 小泊 徐福の里、権現崎、尾崎神社、熊野神社
秋田県 男鹿市 赤神神社、五社堂
東京都 青ヶ島(織物)、八丈島(織物)
神奈川県 藤沢市(妙善寺)
山梨県 山中湖、河口湖、河口湖浅間神社、波多志神社、太神社、徐福祠、聖徳山福源寺、鶴塚
静岡県 富士山=蓬莱山:不死山、清水市三保松原
愛知県 熱田神宮、莵足神社、本宮山、鳳来寺山、浪ノ上稲荷神社
三重県 波田須、徐福宮
和歌山県 徐福公園、阿須賀神社、徐福宮、熊野本宮大社、那智大社、速玉大社、蓬莱山
京都府 与謝郡伊根町新井崎神社
広島県 佐伯郡宮島町(厳島神社・聖崎蓬莱山)
山口県 豊浦郡豊北町(土井が浜)、熊毛郡上関町祝島
高知県 高岡郡佐川町(虚空蔵山)、土佐市、須崎市
福岡県 筑紫野市(天山)、八女市(童男山古墳)
佐賀県 黒髪山、伊万里市波多津町(焼き物)、武雄温泉、浮盃、金立公園、金立神社、金立山、古湯温泉、武雄温泉、犬走天満宮、吉野ヶ里遺跡
宮崎県 延岡市(蓬莱山・徐福岩)、宮崎市住吉(はまゆう)
鹿児島県 屋久島・種子島、坊津町、いちき串木野市(冠岳)

 やはり、薬草探しをしていたのであろうか、日本海側、太平洋側の海岸線に沿って移動しているようである。

 飛騨王朝との関係

 縄文人が中国大陸を訪問していたので徐福は飛騨王朝の存在を知っていたと思われる。そして、縄文連絡網の存在も知っていたと思われる。しかし、徐福伝承と飛騨王朝との関係はほとんど見られない。この頃は、メインルートが日本海ルートであったが、徐福上陸伝承地は太平洋岸に多い。

 しかし、徐福一族の持つ先進技術は飛騨王朝となにがしかの関連があると思われる。それが、丹波王国と吉野ケ里遺跡である。これに関しては、別の項であげることとする。

 宮下文書の存在

 徐福は最期に甲斐(山梨県)に移動し、そこで亡くなっている。亡くなる前に、周辺の住民が所持していた神代文字で記録されていた文書を散逸してはいけないと漢字にて書き残したのが富士宮下文書と言われている。この文書の内容は「古代史の復元」とは全く違った事実を記録しているのである。これはどういうことなのであろうか。

 富士宮下文書では、富士宮市を中心とする富士山西麓地方に富士王朝が存在し、その先祖は二つの川に挟まれた地域からやってきたとされており、これは、メソポタミア地方と思われる。集団移住してきて、この地に王朝を築いたことになっている。その後、九州にウガヤ王朝を築き、神武天皇が神倭朝を起こしたことになっている。ウガヤ王朝もウエツフミや竹内古文書では73代であるが、宮下文書では52代である。

 ここにある神代文字で記録されていた文書というのはAD800年の富士山噴火で消失しているようであるが、渡来した人々が記録していたものであろう。この渡来していた人々というのは何者であろうか。シュメール人の可能性も考えられるが、縄文人に導かれてやってきたと推定しているシュメール人とは異なり、自らの意思で、縄文人の誘導なして訪れているようである。富士王朝があったとされているが、飛騨王朝と比較して、その関連伝承が他の地域には見られないことから、実在していたとしても、地域限定の存在であったと思われる。もし、シュメール人であるならば、ペトログリフのように他地域に影響をなにがしか与えていると思われる。

 そこで、この集団はシュメール人ではないと判断し、他の伝承からこの集団を推定してみると、日ユ同祖論でいうところのユダヤ地方の伝承にある消滅したイスラエル10支族の一つが該当するように思える。物的証拠があるわけではないので可能性の一つとして考えておきたい。失われたイスラエルの10支族だとすると、日本列島渡来はBC700年ごろとなる。時期的にもありえないことではない。

 渡来してきた人々は先進技術を持っており、文字を使って記録として残していたことが考えられる。その記録が富士宮下文書と考えれば説明がつく。ところが、宮下文書は徐福の子孫がAD1400年ごろまで加筆していたとされており、加筆する段階で、事実が変更され、飛騨王朝や古事記・日本書紀と組み合わされ、今のような内容になったと推定している。

 吉野ヶ里遺跡

 徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の大半が残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。

 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本列島で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。

 徐福は北の方角を聖なる方角としていたが、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は祭祀施設の真北に存在している。往時の北墳丘墓の規模は南北約40m、東西約27m以上で平面形が長方形に近い形になるものと推定されている。北墳丘墓は黒色土を1.2mに盛った上に幾層にも様々な土を突き固めた版築技法で築かれている。4.5m以上の高さを持った墓であった可能性があると言われている。

 これまでの調査で、弥生時代中期前半から中頃にかけての14基の大型成人甕棺が墳丘内から発掘されており、そのうち8基の甕棺からは、把頭飾付き有柄細形銅剣や中細形銅剣を含む銅剣8本やガラス製管玉79個など、被葬者の身分を示すと考えられる貴重な副葬品が出土している。また、埋葬されていたのは成人だけであったため、おそらく特定の身分、それも歴代の首長および祭事をつかさどる身分の人の墓ではないかと思われ、世襲があったことが伺われる。その時期はBC三世紀末から紀元前後までと思われる。

 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。

 この吉野ケ里遺跡は徐福がもたらした高度な技術を持っており、周辺諸国家としてはそれが脅威であったと思われる。いつしか周辺諸国家との戦いが繰り広げられるようになり、筑紫野市あたりに戦死者のものと思われる人骨が多量に見つかるようになったのであろう。

 このような中、吉野ケ里遺跡に住んでいる人々が持っている先進技術は門外不出のものとなっていたととであろう。

秦氏

 徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、
① 松尾大社
② 伏見稲荷大社
③ 木嶋坐天照御魂神社

 松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えている。他に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏は饒速日尊を強く祭祀していることが分かる。

 秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の 「避」にちなんだ社号だといわれている。
 さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになった。

 しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。

 秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べている。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。

 これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた人々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろうか、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量移民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられる。そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇帝の子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。
 魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられる。
また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。

 徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。そのため、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王というのも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾は一つを残してすべて解決するのである。

 最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とはどういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫であれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもないのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、このようになることが考えられる。

 饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。また、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大変深い関係にあることになる。

 秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したのが 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていたようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂氏の分派と言うことになる。

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