秦徐福上陸

 中国の歴史書「史記」によると、斉国・琅邪(ろうや・現在の山東省)の方士「徐福」が、不老不死の妙薬をほしがっていた秦始皇帝に対して「遥か東の海のかなたに三神山があり、そこに住む仙人が不老不死の霊薬を作っております」と申し出た。始皇帝は五穀・百工・童男童女三千人を乗せた大船団を徐福に与えた。大船団を率いて出港した徐福は、平原広沢の地にたどり着き、その地の王となり中国には戻らなかった。

 これに対する日本側の伝承に徐福上陸関連の者があり、徐福はこの日本列島に上陸したようである。小山修三氏の弥生時代人口推計より推定すると、弥生時代は年平均50人から100人程度の渡来があったと思われるBC300頃から紀元前後までは1万~3万の人々の流入と推定される。秦徐福が一挙に3000人を連れてきたと伝えられている。当時の人口規模からすると徐福の一団は相当な勢力となるのである。また、徐福は当時の最先端の技術を持った人々を多量に連れてきていますし、童男童女を主体として連れてきているので日本列島上陸後一族の人口が増大していると推定される。徐福のもたらした人々及び先進技術は後の大和朝廷成立に大きく影響を与えているはずである。ここでは、日本列島上陸後の徐福一族の行動について調べてみようと思う。

 弥生時代になってから日本列島に多量の人々の流入が起こっているが、その渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。このことは弥生遺跡から発掘された人骨とこの地方の人々の人骨が同等のものであることからわかる。この時代は中国の春秋戦国時代であり、争いを避けて流入した者、国が滅び逃げ出した者などが中心と思われる。いわゆるボートピープルと考えられる。ボートピープルの場合、日本列島に流れ着いてもこれら人々の間に組織力・技術力はほとんどないと思われる。そのため、縄文人と徐々に融合しながら生活を送っていたと思われる。

 それに対して集団で渡航した場合には、技術力・組織力は維持できているはずで、これは、上陸後の日本列島の統一過程に大きな影響を与えていると思われる。このために、徐福一族の上陸は組織力・技術力において他のボートピープルとは状況が全く違うと考えてよい。

 徐福の出自

 徐福の先祖は春秋戦国時代の穀倉であった山東・江蘇・安徽の三省にかけて支配していた徐国(BC512年呉によって滅ぼされる)の偃王(えんおう)の子孫であった。同時に徐福の父は秦王に仕えていた。

 徐福は神仙思想・医学・薬学・農業・気象学・天文学・航海術の諸学に通じた方士である。また、インドに留学したという説もあり、インダス文明や仏教にも通じていたようである。徐国王の子孫という名門出身というだけではなく、その国際的な英知によって、始皇帝から重用されていた。

 徐福の計画した渡航計画は童男童女三千人、楼船85隻という大がかりなもので仙薬探しにしては大規模すぎ、巨額の資金も必要としたであろう。また、童男童女三千人というのは、長期間にわたって滞在することを意味し、徐福の亡命を疑ってもおかしくはない。実際に徐福は亡命に成功し再び秦に戻ることはなかった。徐福は最初から亡命を計画していたと思われる。徐福が渡航を計画しそれを始皇帝に進言し、始皇帝から認可されたものと思われるが、始皇帝ほどの権謀術策にたけた人物が徐福の亡命をなぜ疑わなかったのだろうか。

 始皇帝には別の計画があったと思われる。始皇帝は万里の長城の統合に苦労していた。その東北にいた燕が朝鮮半島と通交していることに注目し、燕が日本列島を狙っていると思っていたのではあるまいか。そのために、徐福を先遣隊として日本列島に定住させ、自らが日本列島を支配する足掛かりとしたのではないだろうか。徐福に日本列島征服の含みを持たせたとすれば、これほどの大部隊を徐福に与えたのもうなずけるのである。

 徐福渡航

 大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。

 記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。
 北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。
 南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い

 中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。

 2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。
 6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。
 10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。

 10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。

 海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。

 徐福の渡航目的

 徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。

 国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。

 「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。

 徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。

 佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どおしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、先住者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。

 徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。

 上陸伝承

 日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。

徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で,それを手でかき分けながら進んだという。

 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。

 しばらく滞在していた徐福一行は,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにした。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では,新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ,共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。

 一行は北に向かって歩き始めたが,この地は広大な干潟地であり,とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布」と呼んだ。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
 千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために,徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていたが,やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが,阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀った。
 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。

 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生している。

金立山には金立神社がある。祭神は保食神,岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。

 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し,村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが,BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されている。
 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。

 吉野ヶ里遺跡

 徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の大半が残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。

 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それがヒノモト内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。

 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。

 弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。

 高良大社との関係

 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に筑後国一宮の高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。

 徐福一行は童男童女3000人が主体である。成人集団より人口増加率は高かったと思われる。西暦紀元前後には数万人規模になっていたのではないだろうか。佐賀平野だけでは収まらず、筑後平野にも進出していったと思われる。この一族の墓制は中国長江流域と同じく甕棺墓であると思われる。甕棺墓こそ佐賀平野・筑後平野一帯に広がっており、徐福の子孫が筑後平野にも進出していったことがうかがわれる。佐賀平野・筑後平野を一望できるのが高良山(高良大社)である。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)は式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、誰なのであろう。
 高良玉垂命は古えより筑紫の国魂と仰がれている。筑紫の国魂は筑紫神社では白日別命のこととされており、白日別命は筑紫神社の五十猛命と共に祭られており、九州で五十猛命と行動を共にしたのは素盞嗚尊であること、また、玉垂命とは潮干玉、潮満玉を扱う神で海神を意味している。海神とは素盞嗚尊である。このことから高良玉垂命は素盞嗚尊であると思われる。
 筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

 ここで、徐福一行と高皇産霊神がつながった。徐福伝承は大和朝廷成立にかかわる神話伝承には全く出てこない。しかし、これほどの技術者集団が大和朝廷成立に全く関わっていないということは考えにくく、神話上のどの神かにつながっているのではないかと思っていたが、その神が高皇産霊神であったようである。

 徐福一団は佐賀平野から筑後平野に広がっていき、一つの国を形成したこの国名を仮に高良国と呼ぶことにする。高良国王は高皇産霊神の神である。高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の人々にも伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて統一されたのである。

 狗奴国との関係

 高良国が勢力を持ちだすと南の球磨国(狗奴国)と衝突するようになってきた。球磨国はBC473年に滅亡した呉の子孫が日本列島に漂着して作った国である。その呉は徐福の先祖の国である徐国を滅ぼしているのである。たがいにそのことは意識していたと思われ、徐福一行の高良国と球磨国は対立関係になったと思われる。甕棺墓をはじめとする徐福一行のものと思われる遺跡・遺物はいずれも熊本県最北端で止まっており、そこから南には全く見えない。これも両国の深い対立関係がうかがわれる。吉野ヶ里遺跡にも戦争を思わせるものが出土しているが、その相手国は球磨国であったのではないだろうか。

 北九州沿岸諸国との関係

 玄界灘沿岸地方の伊都国・奴国は朝鮮半島との関係が非常に深いようである。BC108年漢武帝が朝鮮を滅ぼして帯方郡を設置しているが、その頃より、発達してきている。 朝鮮半島からの移民団によって建国されたものとも考えられるが、発掘された遺骨の分析では頭示指数・ABO式血液型分析による結果が、朝鮮半島のものとは大きく異なっている。 この地域も中国の江南地方の影響が強いようである。日本列島で朝鮮半島の血筋に近い人々が多いのが近畿地方である。大阪湾岸に来た人々が朝鮮半島からの大量移民団と思われる。 それ以外の地方の弥生人は、中国からの大量移民団が主流と考えられる。おそらく朝鮮半島からBC108年頃多量の移民団が北九州に上陸しようとしたが、先に上陸していた江南地方からの移民団によって 阻まれたのではあるまいか。この集団はやむなく、瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのであろう。この集団は戦闘的性格が強かったようで、大阪湾岸の縄文人との間で戦闘が行われたようである。 この集団は方形周溝墓の墓制を持っており、拡張意識が強く、100年ほどの間に近畿地方一帯はもとより、北陸地方・東海地方まで進出していった。

 弥生時代前期から中期の初め頃まで、伊都国に朝鮮半島系の支石墓が出現するが、埋葬されている人々が縄文人なので、この頃には朝鮮半島からの文化の導入はあっても人の大量移民はなかった ものと考えられる。

 BC210年頃秦徐福が一挙に3000人を連れてきて高良国を建国した。高良国は暫らくのち、佐賀平野から筑後平野一帯に進出した。南の球磨国との衝突が起き、北の方に移動していったようである。 この時点で遠賀川流域には甕棺墓がほとんど見られず、遠賀川流域までは進出していなかったのであろう。このようにこの当時の渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと 思われる。

 北部九州の戦闘遺跡を分析すると、弥生人どおしの戦いのようで、縄文人との戦いの形跡はほとんど見当たらない。最古の王墓と考えられているのが福岡市早良区にある吉武高木遺跡で中期初頭 (紀元前2世紀)頃のものと思われる。この周辺の遺跡には朝鮮半島系の青銅武器が多量出土していると同時に戦死者と思われる人骨も多量に見つかっている。この遺跡の衰退と入れ替わるようにして 伊都国の中心遺跡である三雲遺跡が発達している。これらの王墓には副葬品が多く、権力集中型の王墓と考えられる。

 戦闘遺跡が最も多いのがBC2世紀から1世紀にかけての筑紫野近辺である。その南北において勢力の拮抗があったものと考えられる。

 伊都国王は周辺の小国を従えた連合国を形成していたのではないかと考えている。武力により周辺を併合して行った様で、権力集中型の王だったと思われる。

 これらのことより以下のように推定される。

 BC473年中国呉最後の王夫差の子「忌」が熊本県菊池市近辺に上陸し狗奴国を建国、BC209年秦徐福が佐賀県佐賀市近辺に上陸し高良国を建国した。また、ほぼ同じころ中国の山東半島付近から (済州島経由?)で北九州北西部沿岸に人々が多量に上陸。これらの人々は秦の始皇帝によって滅ぼされた国の人々であると思われ、ボートピープルであるため組織力がなく、北九州上陸後、 出身地ごとに小国乱立状態を作り、それぞれの小国間での争いが頻発する状態となったが、次第に伊都国に集約されていったとおもわれる。

 高良国は北に伊都国を中心とする小国家連合、南に球磨国に挟まれた中で独立を保っていたのであろう。遠賀川流域、豊国地方はまだ未開の地で国としてのまとまりはなかったものと考えられる。これが紀元前後の北九州一帯の状況であった。

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