天皇御陵の推定(古墳時代中期)

 

 古墳時代中期は大規模古墳が築造されている時代ではあるが、天皇の推定没年と指定された古墳の築造時期がずれているものがある。古代史の復元の推定没年をもとにして、矛盾の少ない古墳を推定してみよう。現在は次のように指定されている。

各天皇陵の大きさ時期との整合性
代数 天皇 没年 墳長 御陵 所在地 古墳名 推定築造時期 整合性
15 応神天皇 394 425 恵我藻伏崗陵 大阪府羽曳野市誉田6丁目 誉田御廟山古墳(誉田山古墳) 400~420年頃 時期・大きさ共に整合
菟道稚郎子尊 396 80 宇治墓 京都府宇治市莵道丸山 丸山古墳 400~450年頃 大きさが不整合
16 仁徳天皇 427 525 百舌鳥耳原中陵 大阪府堺市堺区大仙町 大仙陵古墳(大山古墳) 420~460年頃 時期・大きさ共に整合
17 履中天皇 432 365 百舌鳥耳原南陵 大阪府堺市西区石津ヶ丘 上石津ミサンザイ古墳 400年頃 時期が不整合
18 反正天皇 437 148 百舌鳥耳原北陵 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁 田出井山古墳 450年頃 大きさが不整合
19 允恭天皇 459 227 恵我長野北陵 大阪府藤井寺市国府1丁目 市ノ山古墳(市野山古墳) 470~490年頃 時期・大きさ共に整合
20 安康天皇 462 菅原伏見西陵 奈良県奈良市宝来4丁目 古墳ではない 不明 古墳でないことが不整合
21 雄略天皇 485 75 丹比高鷲原陵 大阪府羽曳野市島泉8丁目 島泉丸山・平塚古墳 470~490年頃 大きさが不整合

 御陵が正しいかどうかの判定基準を次のように設定したい。
その1  天皇在位者なので同時期の他の豪族の陵墓よりは大きい。
その2  没年の10年程度後に完成していると思われるので、推定築造時期が没年の10年程度後に合致している。
その3  この時期の開発中心となっているのは河内平野なので、陵墓の所在地が大阪府である。
その4  不整合がない以上伝承を優先する。
 ただし、これらは原則であって個別には検討を必要とする。実際に真実かどうかを確定するには発掘をして、墓碑銘などが出なければ確定できない。そのため、これは、あくまで可能性の高い古墳の推測である。

 判定基準と照合すると、応神天皇陵・仁徳天皇陵・允恭天皇陵は真実の陵墓と判定できる。

 応神天皇

 応神天皇陵は:大阪府羽曳野市誉田に存在する誉田御廟山古墳と宮内庁に治定されている。墳丘長:約425m、後円部直径:250m、高さ:35m、前方部幅:300m、高さ:36m、体積:約143万㎥の全国第2位の巨大前方後円墳である。

 下の表は応神天皇時代に築造されたと思われる巨大前方古墳の一覧である。前期形式の古墳と中期形式の古墳を同時並行で築造しているように思える。天皇陵と推定されているのが前期形式の古墳で、中期形式の古墳は被葬者が特定できていない。朝廷の重要人物の陵墓は比較的大型で前期形式で築造されたことが推定される。それに対して中期形式の古墳は前期形式に比べて少し小さいようである。実験的に築造されていることが伺われる。

時期  古墳名 所在地 築造時期 墳長m 伝承・説 推定 没年 時代
 前期 佐紀陵山古墳 奈良県奈良市 370~390 210 日葉酢媛命 成務天皇 329 応神
 前期 宝来山古墳 奈良県奈良市 370~390 227 垂仁天皇 仲哀天皇 332 応神
 前期 佐紀石塚山古墳 奈良県奈良市 380~400 218 成務天皇 忍熊王 367 応神
 前期 五社神古墳 奈良県奈良市 390~400 267 神功皇后 神功皇后 389 応神
 中期 津堂城山古墳 大阪府藤井寺市 360~380 202 允恭天皇 応神
 中期 築山古墳 奈良県大和高田市 370~390 208 顕宗天皇 応神
 中期 佐紀池ノ尻古墳 奈良県奈良市法華町 380~390 200 応神

 応神天皇陵は巨大であるために築造期間が10年以上にわたったと考えられ、この年数から考えると中期形式で最初に計画されたの天皇陵と考えられる。前代までは天皇陵は前期形式だったことを考えると、応神天皇の時代に古墳形式の意識が変わったことが考えられる。この意識を変えたのは応神14年の弓月氏の来朝ではないかと推定される。弓月氏は朝鮮半島南部に住んでいた工人集団でその先祖は秦始皇帝とされている。この工人集団が養蚕・機織・土木技術などを伝え、その技術を利用して巨大古墳の築造を新形式で作ろうとしたものと考えられる。これら応神天皇時代の中期形式古墳の被葬者は全く特定できない。前期形式は丘陵を加工する形で築造されているが、中期形式は平面からの築造形式になっている。その分高度な技術が必要である。また、前期形式は副葬品に祭祀的要素が強いのに対して中期形式は武具・馬具など実用的要素が強くなる。このようなことから被葬者は弓月氏のリーダー的存在の人物ではないだろうか。来朝した一族に中期形式の前方後円墳を実験的に築造させたのではあるまいか。

 その移動規模は1万~2万程度とされており、集団移住により彼らの持つ先進技術を最大限に活用しようとしたのであろう。その中で特に重視したのが土木技術と思われる。その証拠に、これ以降、丘陵地が少ない河内平野に巨大墳墓が出現し、同時に日本書紀でも池を作るなど土木工事に関する記事が増えてくる。

 初期の中期形式の前方後円墳を数基築造することにより、中期形式の前方後円墳が朝廷に正式採用され、その頃亡くなった応神天皇の陵墓を最大規模で作ることになったのであろう。

 菟道稚郎子に関して

 この人物は応神天皇時代の皇太子である。394年応神天皇崩御後、第16代天皇として即位すべきであるが、長子こそ後継者になるべきとして長子の大鷦鷯尊を次の天皇に推薦したが大鷦鷯尊は応神天皇が決めた菟道稚郎子が天皇になるべきと互いに譲らなかった。しかし、この時期朝鮮半島の混乱時代であり、天皇空位は許されないとして396年大鷦鷯尊を天皇にするために菟道稚郎子は自殺した。大鷦鷯尊はやむなく第16代天皇として即位するに至った。

 このような状況で即位した仁徳天皇がその陵墓を墳長80m程の古墳にするとは思えず、巨大陵墓ではないかと推定している。「神道原典」と言われる書物には応神天皇と仁徳天皇の間に仁照天皇という存在があったと伝えているが、この天皇は菟道稚郎子の事ではないかと思われる。またこの頃朝鮮半島からの大量の移民があって、この人々を用いて様々な土木工事をしている。その関係で、この時期巨大古墳が登場することになっており、菟道稚郎子の御陵は巨大古墳ではないかと推定する。

 そこで考えられるのが現履中天皇とされている上石津ミサンザイ古墳である。この古墳の推定築造時期が応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳より古いことはほぼ間違いがないとされている。履中天皇の没年と上石津ミサンザイ古墳の築造時期が明らかに会わないのである。そうすると、上石津ミサンザイ古墳の被葬者は誰かということになる。上石津ミサンザイ古墳の墳長は365mと大山陵古墳、誉田御廟山古墳に次いで第三位の大きさを誇っている。これだけの大きさの古墳が400年ごろに築造されているのである。この時期は応神天皇の没年後であり、年数から考えると応神天皇陵となるが、応神天皇陵は誉田御廟山古墳と考えてほぼ間違いがないので、応神天皇の実績に匹敵する者を持つ人物の墓となる。これほどの巨大墳は天皇でないにしても天皇級の人物しか考えられず、該当する人物として菟道稚郎子しか考えられない。

 菟道稚郎子は皇太子であり、応神天皇末期には天皇の代理として活躍しており、天皇となるべき人物であったが、長子の大鷦鷯尊を天皇とするために自害したのである。仁徳天皇がこの人物を粗末に扱うことは考えられず、また、土木工事が盛んな時期でもあり、菟道稚郎子の陵墓は巨大なものとなったと考えられる。それが、上石津ミサンザイ古墳ではないだろうか

 上石津ミサンザイ古墳の築造開始は応神天皇陵の築造開始よりは少し後であろうと思われるが、古墳の規模の違いから上石津ミサンザイ古墳の方が先に完成したものであろう。

 仁徳天皇

 応神天皇時代に築造されたと思われる墳長200m超の古墳は7基であるが、仁徳天皇時代に築造されたと思われる墳長200m超の古墳は10基である。応神天皇の在位期間は27年、仁徳天皇の在位期間は30年であり、一年あたりの築造古墳数は応神天皇が0.26基/年、仁徳天皇が0.33基/年となり、仁徳天皇時代の方が数多くの古墳築造している。以降は允恭天皇までの30年間で5基、5世紀末までの40年間で4基と一年あたりにすると、それぞれ0.17基/年、0.10基/年と次第に築造数が減少している。古墳築造が最も盛んだったのは仁徳天皇時代である。その影響が関連しているためか、最大の大山陵古墳が仁徳天皇陵とされている。時期・規模当時の状況等を考えると仁徳天皇陵は大山陵古墳に間違いがないであろう。

 履中天皇

 上石津ミサンザイ古墳が履中天皇陵でないとすると、真実の履中天皇陵はどの古墳に該当するのであろうか。履中天皇の没年から大阪府にある天皇陵に匹敵する規模の古墳は以下のとおりである。

履中天皇陵候補   
古墳名 所在地  推定築造時期  墳長 
西陵古墳 大阪府泉南郡岬町 420~440 200
御廟山古墳 大阪府堺市 420~450 203
太田茶臼山古墳 大阪府茨木市 440~460 227
墓山古墳 大阪府羽曳野市 400~430 224

 この中で西陵古墳と太田茶臼山古墳は前後の天皇陵の所在地と大きく離れており、履中天皇陵と考えにくい。そこで、候補に残るのは御廟山古墳と墓山古墳である。墓山古墳は推定築造時期が履中天皇の没年と被ってはいるが、築造に10年程度かかることを考えれば、履中天皇の没年よりは若干早いと思われる。そうすると、残るのは御廟山古墳のみである。

 御廟山古墳は百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古墳の南東に位置する。墳丘長約203メートルで、百舌鳥古墳群では4番目の大きさである。墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。発掘調査により、かつては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったとされるが、万代山古墳のみが現存している。 主体部の構造や副葬品などは不明。現在では宮内庁が応神天皇の陵墓参考地に指定している。また、『宋書 倭国伝』に記載のある倭隋を被葬者とする説がある。

 このように御廟山古墳は大きさ・築造時期共に履中天皇陵としては十分と言えよう。また、『宋書 倭国伝』の倭隋(倭の五王の年代推定)を被葬者とする説もあるが、古代史の復元ではこの倭隋を履中天皇と考えている。

反正天皇陵・允恭天皇

 次に反正天皇陵を考えてみよう。現在宮内庁が反正天皇陵として治定しているのは田出井山古墳である。反正天皇の没年が437年で田出井山古墳の推定築造時期が450年頃とされており、築造時期は合致しているが古墳の規模が他の天皇陵に比べて墳長148mと小さく、天皇陵としては不自然さを感じる。宮内庁は他に陵墓参考地として土師ニサンザイ古墳を当てている。この古墳は墳長288mで天皇陵としては十分であるが、推定築造時期が470年~490年頃と5世紀後半であり、没年との間に大きなずれがある。他の候補古墳は履中天皇の古墳候補と同じとなる。この中に反正天皇の条件に該当する古墳は太田茶臼山古墳である。この古墳は時期・大きさ共に条件を満たしている。存在する場所が同時期の天皇陵と大きくずれている。

 允恭天皇陵は宮内庁の治定通り、築造時期・規模共に条件を満たしているので市野山古墳であろう。履中・反正・允恭各天皇陵を御廟山・太田茶臼山・市野山各古墳と仮定して共通点を考えてみよう。

 いずれも三段築造の前方後円墳であり、墳丘断面・築成様式に共通規格が見られる。特に太田茶臼山古墳は、市野山古墳とほぼ同形であり、共に御廟山古墳の築造様式を継承したと考えられている。また、円筒埴輪・形象埴輪(家形・人物・馬形など)が儀礼空間としての造出しに埴輪を集中配置されている。太田茶臼山古墳の埴輪は新池埴輪製作遺跡(高槻市)から供給され、古市古墳群との技術的連携が指摘されている。

 このように太田茶臼山古墳を反正天皇陵とすると、同時期の御廟山古墳・市野山古墳との共通点がかなり見られ、時期・規模・構造などが、反正天皇陵と考えて矛盾はない。しかし、存在する場所が同時期の天皇陵と大きくずれているのである。

 これに関しては、反正天皇の妃・津野媛が摂津国の豪族・丸邇氏の娘とされており、摂津地域(現在の大阪府北部)との関係が深いことが関係しているのではないかと考えられる。

安康天皇

 安康天皇陵の菅原伏見西陵は奈良にある。他の天皇陵は大阪府にあるのに安康天皇陵は違うようである。ところが、菅原伏見西陵は古墳と考えるには疑いがあるとされている。安康天皇陵の地形や構造が古墳の典型的な形状(前方後円墳など)とは異なり、城郭的な要素が見られ天皇陵ではないものと考えられている。真実の安康天皇陵はどこなのか推定してみよう。安康天皇の没年462年を基準に該当する古墳を大阪府の中から探してみると、築造時期・大きさ共に条件を満たしているのは土師ミサンザイ古墳のみである。ただ、在位3年しかなく、暗殺された天皇が他の天皇陵より大きい288mの古墳だというのが不自然であるが、後継の雄略天皇が兄の死を悼み、また、自分の権威を示すために巨大古墳を築造したと考えれば説明がつく。そう考えないと、天皇陵よりも大きいこの古墳の被葬者は天皇以外の誰なのかという疑問が新たに生じる。

 奈良県内には同時期の天皇陵に匹敵する古墳はヒシアゲ古墳が存在する。大きさ築造時期共に条件を満たしているが、この古墳が存在する地域がコナベ古墳(磐之媛)、ウワナベ古墳(八田皇女)と仁徳天皇の関係者の古墳が集中している地域であり、安康天皇陵とするには不自然さが残る。そのような理由で土師ミサンザイ古墳を安康天皇陵として推定する。

雄略天皇

 雄略天皇陵は島泉丸山・平塚古墳が治定されているが、墳長75m程で、天皇陵というにはあまりに貧弱である。宮内庁の陵墓参考地はもう一つある。岡ミサンザイ古墳である。岡ミサンザイ古墳は大阪府藤井寺市にあり墳長238mで、築造時期が480年から490年頃と推定されており、雄略天皇の没年485年とも合致している。大きさ築造時期共に条件を満たしており、岡ミサンザイ古墳を雄略天皇陵として推定する。

 巨大中期古墳一覧(推定築造順)

古墳名 所在地 築造期 築造時期 墳長m 伝承・説 推定 没年 時代
津堂城山古墳 大阪府藤井寺市 4 360~380 202 允恭天皇 応神
築山古墳 奈良県大和高田市 4 370~390 208 顕宗天皇 応神
佐紀池ノ尻古墳 奈良県奈良市法華町 4 380~390 200 応神
仲津山古墳 大阪府藤井寺市 5 380~410 286 仲姫命 仲姫命 仁徳
巣山古墳 奈良県北葛城郡広陵町 5 390~410 204 武内宿禰 仁徳
上石津ミサンザイ古墳 大阪府堺市 5 390~410 365 履中天皇 菟道稚郎子 396 仁徳
室宮山古墳 奈良県御所市 5 390~410 240 葛城襲津彦 仁徳
コナベ古墳 奈良県奈良市 5 400~420 204 磐之媛 磐之媛 414 仁徳
市庭古墳 奈良県奈良市 5 400~420 250 平城天皇 仁徳
西陵古墳 大阪府泉南郡岬町 5 420~440 200 紀小弓 仁徳
誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市 6 400~420 425 応神天皇 応神天皇 394 仁徳
墓山古墳 大阪府羽曳野市 6 400~430 224 応神培塚 仁徳
新木山古墳 奈良県北葛城郡広陵町 6 400~430 200 押坂彦人大兄皇子 仁徳
大仙陵古墳 大阪府堺市 6 420~460 525 仁徳天皇 仁徳天皇 427 履中
御廟山古墳 大阪府堺市 6 420~450 203 安康天皇 履中天皇 432 反正
ウワナベ古墳 奈良県奈良市 6 440~460 265 八田皇女 八田皇女 允恭
太田茶臼山古墳 大阪府茨木市 6 440~460 227 継体天皇 反正天皇 437 允恭
田出井山古墳 大阪府堺市 7 440~460 148 反正天皇 允恭
ヒシアゲ古墳 奈良県奈良市 7 450~480 218 磐之媛 雄略
市野山古墳 大阪府藤井寺市 7 470~490 227 允恭天皇 允恭天皇 459 雄略
土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市 7 470~490 288 反正天皇 安康天皇 462 雄略
岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市 8 480~490 238 仲哀天皇 雄略天皇 485 清寧

 古代史の復元推定中期天皇陵

代  五王  天皇 没年 古墳名 所在地 築造時期 墳長 伝承・説
 15   応神天皇 396 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市 400~420 425 応神天皇
    菟道稚郎子 394 上石津ミサンザイ古墳 大阪府堺市 390~410 365 履中天皇
 16  讃 仁徳天皇 427 大仙陵古墳 大阪府堺市 420~460 525 仁徳天皇
 17  隋 履中天皇 432 御廟山古墳 大阪府堺市北区 420~450 203 倭隋
 18  珍 反正天皇 437 太田茶臼山古墳 大阪府茨木市 440~460 227 継体天皇
 19  済 允恭天皇 459 市野山古墳 大阪府藤井寺市 470~490 227 允恭天皇
 20  興 安康天皇 462 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市 470~490 288 反正天皇
 21  武 雄略天皇 485 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市 480~490 238 仲哀天皇