日本列島での人々の生活
旧石器時代の実態
旧人の流入
日本列島最古の旧石器遺跡は島根県出雲市の砂原遺跡である。松藤和人同志社大教授を団長とする学術発掘調査団の研究発表によれば、この遺跡からは、約12万年前の尖頭器など人間の手が入った石器が多数発掘されたという。石器の見つかった地層は、約11万年前にできた火山灰層の下にある地層で、約12万5000年前後に形成されたと言われている。また、岩手県の金取遺跡も8万年~9万年前と言われている。これらの遺跡は現生人類がアフリカを出る前の遺跡であり、現生人類ではなく旧人であると思われるが、人骨が見つかっていないので確定はできない。14万年ほど前、大陸と日本列島は陸続きであったと思われ、この時に朝鮮半島経由で日本列島に流入したものと考えられる。
いまから7万4000年前に、スマトラ島のトバ火山が1980年のセント・ヘレンズ山の噴火のおよそ3000倍の規模に相当する大噴火を起こした。この噴火の規模は過去10万年の間で最大である。噴出物の容量は2,000 km3を超えたといわれている。トバ・カタストロフ理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。この時期まで生存していた人類のほとんどは絶滅し、生き残ったのはネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のみである。生き残った現生人類はアフリカで2000人ほどになっていた。当然、日本列島に進出していた旧人も絶滅したと考えられる。
5万年前の遺跡
74000年前のトバ火山の噴火による寒冷化で、日本列島に住んでいた旧人は絶滅したと考えられるが、現生人類が38000年前に入ってくるまでの期間は遺跡が存在しないはずである。ところが、大分県速見郡日出町川崎にある早水台遺跡で発見された石英製石器の出土層のすぐ上の地層から九重第一軽石(Kj-P1、約5万年前)に由来する火山ガラスが検出され、この遺跡が5万年前のものと推定された。これが事実であれば、旧人がトバ火山の噴火から生き残っていたことになる。インドネシアの方で旧人が生き残っていた痕跡も見つかっているので、日本列島で生き残っていても不思議はない。
この場合、現生人類と交配していると考えられる。現日本人のDNAの中にネアンデルタール人・デニソワ人のものと思われるものが含まれているために、その可能性はありうる。
現生人類の流入
長野県飯田市で竹佐中原遺跡が発掘調査された。この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新しいことが分かった。
現在のところ、日本の旧石器で層位が間違いなく確認できる最も古いものは、3万8000年前のものである。日本列島に人類が上陸したのは3万8000年前と考えてよいであろう。
流入方法・経路
4万2000年前の海水面は現在より60mほど下がっていたが、40000年前よりさらに下降をはじめ、3万8000年前に最も下がり、海面は現在より100mほど下がっていた。この時期以降は海水面が上昇し、30000年前には現在より40m程下降した海水面になっていたと推定される。3万8000年前には、対馬海峡が陸続きになっていた可能性が考えられる。陸続きになっていないとしても、かなり狭くなっていたことは確かであろう。
日本列島に現生人類が流入するのは、この時しか考えられない。3万8000年前に朝鮮半島から、現生人類が流入したと考えられる。流入規模はおそらく数十人程度ではあるまいか。
流入した人々のハプログループ
縄文時代の人々と推定されるY染色体ハプログループはC1a1、C2a1、D1a2aの系統でいずれも日本独特のものとされている。この中でもD1a2aの系統が最も多い。先に流入しているため最も多いと考えられ、この時に流入してきたのがD1a2aの系統の人々と考えられる。現日本人のDNAにはネアンデルタール人やデニソワ人のDNAが5%程検出され他の人々より多く含まれているそうである。
トバ火山噴火後に現生人類でさえアフリカ以外では絶滅しているのに、ネアンデルタール人とデニソワ人はアジア大陸で生き延びている。寒冷気候に強い人々であったと思われる。双方の人骨が見つかっているのはシベリア南部である。デニソワ人は、ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い地域)に、約4万1千年前に住んでいたとされる。ネアンデルタール人もこの地域に生き残っていた。デニソワ人とネアンデルタール人が共存していた地域はこの地域しか見つかっていない。日本列島に流入した現生人類は、この地でネアンデルタール人やデニソワ人と混血したのであろう。この地域にいたと考えられるのがD1系統とC2系統の人々である。この時、寒さに強いDNAを獲得したのではないだろうか。この時期は氷河期といえども温暖な時期だったようである。
この頃の人々の主食は大型動物だったと考えられる。ナウマンゾウ(4t)は一度仕留めると50人の1か月分の食料になる。マンモスに至っては20tほどもあるので、半年分の食料になったであろう。大型動物は少人数で仕留めるのは難しく、大人数で協力して仕留めたものであろう。この中で人々の協力体制が出来上がったと考えられる。
D1系統の人々はアルタイ地方でD1a1系とD1a2系に分かれた。3万8000年前ごろには、アルタイ地方が寒冷化してきた。多くの人々はチベット方面に南下した。D1a2系の一部の人々がナウマンゾウを追って中国大陸北部から朝鮮半島に進んだ。この人々がほぼ陸続きになっていたと思われる対馬海峡を通過して、日本列島に入り込んだと考えられる。象を主食としていたため、人と人との協力体制は大切にしていたはずである。
日本列島の旧石器時代は、3万8000年前に始まり、縄文時代へと移行する約16,000年前までの約24,000年間続いた。遺跡は北海道から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。
前半期前葉(38000~33000年前)
この頃の日本列島は低地は草原地帯で高地が針葉樹林帯であったと思われる。人々は集団となってナウマンゾウをはじめとする大型動物を追い、食料としていた。大型動物を仕留めるには槍のような武器が必要である。これがナイフ形石器である。また、仕留めた動物の解体するのにもナイフ形石器や台形様石器が必要となる。これら石器の素材としてよく利用されるのが黒曜石である。黒曜石は成分から産地が特定できるために、この時代の人々がどの範囲で行動していたかが分かる。
伊豆諸島の神津産の黒曜石が3万8000年前に静岡や山梨で出土。また、北関東の高原山の採掘遺跡は日本最古のものと推定されており、氷期の寒冷な時期に当時の森林限界を400メートルも超える標高1500メートル近い高地で採掘されている。そして、その黒曜石が長野県や静岡県で出土している。
このことから、この時代の人々の行動範囲が非常に広かったことが分かる。黒曜石は当時の必需品なので、その産地を探して移動し、見つかれば、それを周辺の人々に配ったり、産地を伝えたりしたものと考えられる。
伊豆諸島の神津島は黒曜石の産地であるが、ここは、伊豆半島から60kmほども離れており、さらにこの間を黒潮の分流が4km/hで流れている。当時の人々は、これを突っ切って海上を船で渡ったと考えられる。当然航海技術もあり、丸木舟を作っていたと考えられる。この海洋技術はどうやって手に入れたのであろうか。
海洋技術の習得・磨製石器の出現
大陸から日本列島にやってきた人々は、その時点では海洋技術を持っていなかったはずである。日本列島に住み着いてから、生活の必要性から列島内で考え出したものであろう。
丸木舟は木を刳りぬく際に、焼石で焼き焦がして繊維をもろくし、そこを石斧で削ってはまた焼き焦がしという風に作り進めていく。その時、丸太の内側を細密に均等に削らなければならない。そのためには、微妙なバランスの安定した工具が必要である。バランスが悪いと海面上でひっくり返ってしまう。打製石器では難しく、より切れ味の鋭い磨製石器が必要となる。これが、世界最古の磨製石器の出現と関係しているのではないだろうか。
当初は打製石器で丸木舟を作ろうとしていたであろうが、均等に削るのが難しく、その打製石器を石で削ることで切れ味を上げ、しかも、刃先が滑らかになり、木を削りやすくした工具を考え出したのであろう。これが磨製石器の出現と考えられる。
磨製石器ができても、バランスの良い丸木舟を作るには技術の習得が必要であり、丸木舟を作る専門家がいたと思われる。その専門家は食料確保に動くわけにはいかないので、食料を確保する人々が必要となる。つまり、分業が成立していなければならない。分業が成立するためには、食料確保が厳しい環境では難しく、食料確保は簡単にできるほど周辺に食料が多い環境であったことを示している。このように人々の協力体制があったからこそ丸木舟の制作ができるのである。このようにして安定した丸木舟を作ることができるようになり、海を使って幅広く人々の交流ができるようになったのであろう。
日本列島に住み着いた人々は、磨製石器の制作や、海洋航海技術など世界最古級の技術を開発したわけであるが、なぜ、このような高度な技術を習得することができたのであろうか?その理由が大型動物の狩りにあると考える。大型動物を仕留めるには少人数では無理で大人数が必要である。そして、それぞれがばらばらでは不可能であり、役割を分担して協力する体制が、日本列島にやってきた人々には身についていたと考えられる。
丸木舟は、木を切り倒すところから、何人もの人物が何か月もかかって、丁寧に作り上げなければならない。その間の食料の確保もあるので、分担していないとできないことである。一つの集団では、丸木舟を作る人、磨製石器を作る人、食料を調達する人、子育てをする人と役割分担をしていたはずである。その人数はおそらく数十人、多い場合は100人を超える人数だったのではないだろうか。
丸木舟を作る場合、完成するまで移動するわけにもいかず、半定住生活をしていたものと考えられる。丸木舟が完成すれば、それを利用して魚を食料とすることもできるし、別の地域に移動することもできる。
世界最古と言われる磨製石器が、3万年前から3万8千年前までの秋田から奄美大島までの広い範囲で400点ほど見つかっており、このころすでに人々が日本列島内を激しく交流していたことがうかがわれる。これらも丸木舟がその行動範囲を広げたものと考えられる。
この頃の人々は協力体制を重要視している上に食料確保に全力を注ぐという環境になかったため、個人所有という概念がほとんどなく、なんでも分け合い、教えあうということが自然にできていたのであろう。生活が苦しい場合、奪い合うことが起こり、個人所有の概念が生まれるのである。そのために、ある集団が丸木舟を考え出せば、それが、列島全体に広がり、黒曜石の産地も列島に住んでいるすべての人が知ることになるのである。これが、その後の縄文時代の生活様式につながると考えられる。
日本列島で世界最古の文明が生じた理由
磨製石器は現在の所世界最古であり、神津島の黒曜石の採取もかなりの高度な技術が必要であり、列島内の交流も激しい。このような世界最古級の高度な技術が、なぜ、日本列島で誕生したのであろうか。
① 北方から大型動物を追ってきた人々であるために、人同士の協力体制ができていた。
② 日本列島は海岸線が非常に長く、現在でも海岸線の長さは約30000kmで世界第6位である。内陸は起伏が激しく、移動には海の利用が必須であった。海洋航海技術は小距離の移動から進化すると思われるので、離れている島しょ地域では海洋技術が発達しないと思われる。
③ 寒流(親潮)と暖流(黒潮)との接点であり、海洋資源(魚・海藻・貝等)が豊富でこれらを食料とするには、海に出る必要があった。
④ 四季があり、降水量が多く、食物資源が豊富であり、食料確保にすべてをかける必要がなく、生活に余裕がある。生活に余裕があるからこそ、新しいものを考え出し、作る余裕が生まれるのである。
⑤ 地震・洪水・台風などの災害が多く、人々が協力しないと生きていけない。
①を満たしている地域は、北方地域であり、シベリア・北アメリカ・日本が該当する。②を満たしているのは東南アジア地方・北アメリカ北部、北ヨーロッパ・日本あたりであろう。③を満たしているのは北アメリカ大陸東海岸・アイスランド・日本である。④⑤に至ってはほぼ日本列島のみである。①②③④⑤すべてを満たしているのは日本列島しかない。 これらの環境を考えてみると、日本列島は高度な文明が発達しやすい環境にあったといえる。そのために世界に先駆けて、新しい技術が次々と誕生していったと考えられる。
前半期後葉(33000~29,000年前)
この頃が温暖期のピークとなり、海水面も上昇してくる。海水面は現在より70mほど下がった状態であるが、38000年前よりは30mほど上昇している。日本列島は大陸から離れて、人々の移動はなくなったと思われる。
東日本地域では縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立して、石槍の発達が著しくなる。他方、西日本地域では横長剥片剥離技術が採用されることが多く、その発展型である「瀬戸内技法」が生み出される。その境界線は現在の東西の文化の境目と同じ関ヶ原近辺となる。石器時代からの文化の境界線が現在と変わらないのは面白い特徴である。このころは台形様石器と局部磨製石斧が少なくなる。
石刃技法は今から約35000年前から12000年前の期間にアフリカ・中近東・ヨーロッパ・シベリア・中国北部・朝鮮半島と広く流行した剥離技術である。日本列島と朝鮮半島との間はこの頃は海峡ができており、丸木舟で行き来をしていたと思われる。大陸に行った人々が戻ってくるとき、石刃技法を導入したものであろうと思われるが、近い西日本に広がらず、遠い東日本でこの技術が広まっている。
西日本の瀬戸内技法は世界に例がなく、独自の技術のようである。石刃技法をまねて瀬戸内技法を考え出したものと考えられる。この頃の東北地方南部や中部地方は、針葉樹森で、関東地方には草原が広がっていたと考えられ、西日本は落葉広葉樹の森や草原が広がっていたと推定されている。丸木舟を用いて人の交流は活発であったので、この技法の違いは対立ではなく、環境の違いが東西の文化の違いを生んだものと考えられる。
西日本は安山岩質のサヌカイトが石器の材料としてよく用いられている。東日本は頁岩である。確認はしていないが、それぞれの岩石の性質から地域による技法の違いが生まれたものであろう。
この時期は比較的温暖だったので、列島内の人口は増加したと思われる。小川修三氏は遺跡密度から2600人程度と推計している。
Y染色体ハプログループC1a1系統の流入
沖縄県那覇市山下町の山下町第一洞穴遺跡で約3万2000年前の化石人骨が見つかった。また、沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡より30000年前の人骨が発見されている。ミトコンドリアハプログループはスンダランドで発生したM7に該当するようであり、南方より沖縄地方に人々の流入がこの時期にあったようである。
この南方から来た人々のY染色体ハプログループはどれだと考えるべきか。下の表は縄文人と思われるハプログループC1a1、C2、D1a2aの各系統の地域ごとの存在確立分布を示している。全体の割合は、弥生時代に流入したO系統をはじめとする他の系統をすべて含む割合であり、3系統のみの比率は、縄文人と考えられるこの3系統のみの中での割合を示している。C1a1及びD1a2aはその系統のみであるが、C2には日本列島独自のC2a2及び朝鮮半島に多いC2bが含まれている。
全体の割合 | 3系統のみの比率 | |||||||
サンプル数 | C1a1 | C2 | D1a2a | 全体 | C1a1 | C2 | D1a2a | |
北海道 | 762 | 3 | 5.6 | 40.9 | 49.5 | 6.1 | 11.3 | 82.6 |
東北 | 181 | 3.9 | 5 | 31.5 | 40.4 | 9.7 | 12.4 | 78.0 |
関東 | 771 | 4.2 | 6.1 | 37.1 | 47.4 | 8.9 | 12.9 | 78.3 |
東海甲信 | 486 | 4.1 | 3.1 | 34.4 | 41.6 | 9.9 | 7.5 | 82.7 |
北陸(越) | 584 | 3.9 | 6.3 | 32 | 42.2 | 9.2 | 14.9 | 75.8 |
関西 | 487 | 6.2 | 5.1 | 30.6 | 41.9 | 14.8 | 12.2 | 73.0 |
中国 | 188 | 7.4 | 9 | 30.9 | 47.3 | 15.6 | 19.0 | 65.3 |
四国 | 637 | 6.1 | 6.9 | 28.3 | 41.3 | 14.8 | 16.7 | 68.5 |
九州 | 579 | 4 | 6.7 | 32.1 | 42.8 | 9.3 | 15.7 | 75.0 |
沖縄 | 279 | 10 | 2.2 | 40.1 | 52.3 | 19.1 | 4.2 | 76.7 |
全体 | 4954 | 4.8 | 5.7 | 34.2 | 44.7 | 10.7 | 12.8 | 76.5 |
アイヌ限定 | 19 | 0 | 10.5 | 89.5 | 100 | 0.0 | 10.5 | 89.5 |
参考・韓国 | 506 | 0.2 | 12.3 | 1.6 | 14.1 | 1.4 | 87.2 | 11.3 |
D1a2a系統は38000年前に朝鮮半島経由で入ってきた系統であり、それ以外でアイヌに多いのがC2系統である。C2a2系統は北から流入したと考えられる。C2系は西日本で少し高くなっているが、これは、朝鮮半島からの流入したC2bが含まれているためと思われる。残るは、C1a1系統であるが、南の方が比率が高くなっているので南からやってきた系統と考えられる。C1a1系統が九州で少なくなっているのは7300年前の鬼界カルデラ噴火による縄文人の絶滅が影響していると考えられる。
C1a1系統は日本独特のものであり、C1a1系統に分化したのは40000年前ごろと言われる。しかし、その子系統に分化するのは12000年ほど前となる。日本列島流入はこの間の期間となる。この移動ルートは謎に包まれており、最も近縁であるC1a2系統はヨーロッパ、アルメニア、ネパール人から検出されている。このルートのどこかでC1a1系が誕生していると思われる。同じく沖縄で発見された人骨のミトコンドリアハプログループがスンダランドで発生したと思われるM7系であるので、アルメニアあたりで分化し、スンダランドに達し、そこから日本列島にやってきたことが伺える。途中の経路にC1a1系統が見つかっていないのであるが、これは移動速度が速かったのが原因と考えられ、残った人々は人数が少なく、絶滅したものと考えられる。最初の流入は35000年ほど前ではないだろうか。
この頃、台湾は大陸と陸続きであった。この時の黒潮は台湾と与那国島の間を北に抜け、奄美大島と種子島の間を東に抜けるルートを通っていたと考えられる。台湾と与那国島との間の距離は111kmであり、奄美大島から種子島はトカラ列島沿いに移動すれば最大65kmの海路となる。
111kmの黒潮を黒潮を横切るのはかなりの難がある。最短距離の移動ではなく、台湾の最南端近くに陸地から与那国島を目指すとどうであろうか。この距離は400kmほどあるが、黒潮が7km/hほどの速さを持っているので、何もしなくても60時間ほどで流されることになる。移動してきた人々は、与那国島を目的としていたのではなく、海岸沿いに黒潮に流されてきた人々ではないだろうか。大人数で流されるというのも考えにくく、おそらく数人~十数人レベルではないだろうか。C1a1系の人物がスンダランドに残されていないので、何回かに分けての移動ではなく、一度の移動であると考える。
移動の理由は何であろうか。黒潮に流されるのは危険な状態なので、平和状態で移動するとも思えず、スンダランドに住めない何か理由があったと思われる。他の系統はスンダランドにそのまま残っているので、戦いに敗れたというのが推定される理由の一つである。C1a1系の人々は移動速度が速かったと思われ、ジャワから台湾南部に達したとき、すでに先に来ていた先住民に追い出されてしまったことが考えられる。
流入人数は少なかったが、南西諸島に長期にわたって住むことにより、次第に人口を増やしていったのであろう。
後半期前葉(29,000~20,000年前)
ハプログループC2a2系統の流入
29,000年前頃から、地球規模で急激に寒冷化が進行し、約20,000年前を前後する頃には最終氷期最寒冷期を迎えた。北海道は樺太および沿海州と陸続きとなり、大陸の動向と密接に連動している。この頃より長野県以北に荒屋型彫器という特徴的な細石器文化が広がるようになる。この文化は25000年前にバイカル湖周辺で発生し、中国東北部、朝鮮半島あたりを南限として北方アジア、アラスカまで広がっていた文化である。
シベリアバイカル湖畔にマリタ遺跡が存在している。マリタ遺跡は23000年前のマンモスハンターの遺跡である。小型の石刃、石錐、彫器など一万点を越す石器や剥片とともに、大きな板石やマンモスの骨と牙、鹿角などが集積したテント式住居の跡が数多く見つかった。推定48~60人、8~10軒の家で構成されたムラは、何度か引越しをしながら長期間この地に存在したようである。時期は25000年前から23000年前と推定されている。
マリタ遺跡では細石器が見つかっている。これは石器の先進道具であり、小さなカミソリ状の石刃は大変鋭利で、これを骨や木に溝を彫り細石刃を嵌め込んで槍先として使ったと思われる。その槍先は使う度に刃が欠けたと思われるが、同じサイズの細石刃を補充して繰り返し使っている。この道具の威力はかなりのもので、細石器で貫通したマンモスの骨が見つかっている。マリタ遺跡から発掘された人骨のY染色体ハプログループはC2a1a2であった。
マンモスを追ってシベリアにやってきた人々は、短い夏の間にマンモスを仕留め、長い冬をテント式住居の中でそのマンモスの肉を食べながら暮らしていたようである。しかし、23000年ごろ、最寒冷期が近づいてきたとき、この遺跡は消滅する。人々は集団でどこかに移動したようである。
この直後の20000年前ごろの細石刃を伴った遺跡が、シベリア東部から樺太、北海道(嶋木遺跡、柏台遺跡)で見つかっている。この頃はシベリアと陸続きになっていたので、マンモスを追って南下してきたものと考えられる。この遺跡は北海道最古のもので、この時まで、北海道は無人だったようである。
Y染色体ハプログループC2a2は日本固有であるが、細石刃が共通していることなどから、この北海道に流入した人々がC2a2系統であろうと推定する。流入規模は数十人程度ではあるまいか。
最寒冷期になったこの時期でも津軽海峡は存在していたので、古本州島(陸続きになっていた本州・四国・九州と属島)とは異なる推移を辿っている。本州島では、細石刃を含む石器群が約20,000年前には製作・使用されるようになった。この頃、全面結氷した津軽海峡を人の集団が横断したものと考えられる。
定住生活の始まり
大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で、22000年前の最古の住居跡が見つかった。深さ30cmの半地下式の竪穴住居で、底辺径6mの円錐状の住居と推定される。22000年前と言えば、最終氷期の最寒冷期にあたる頃である。シベリアのマリタ遺跡でも似たような住居が見つかっているので、防寒の必要性から誕生したのであろう。少し離れたところに土壙墓のようなものが見つかっており、一時的な住居ではなく定住していたことが推定される。
後半期後葉(約20,000~16,000年前)
ほぼ最初から細かな狭い地域性が確立し、北海道を除くと、東北、関東、中部、近畿、瀬戸内、九州などの区分ができる。それぞれの地域では石器の様式性が著しく発達した。これらの石器を製作するための材料である石材もまた、その地域ごとに異なる産地のものが利用される傾向が強くなる。クサビ形は中国東北部から当時は地続きの北海道を通じて東日本を中心に広がり、角錐状や船形は中国南部から直接九州に伝わってきたようである。
20000年前の最寒冷期を過ぎ、徐々に気温が上昇してきた時期である。定住生活が始まることにより、人々の移動が少なくなり地域性が出てきたものと考えられる。
滞在・居住場所が河川流域へ集中するようになり、その数自体も急増してきた。人口が増加したと考えられる。
終末期には、北海道にだいぶ遅れて古本州島にも細石刃石器群が展開する。それは北海道から東北日本にかけてと中部・関東以南から九州にかけての西日本にかけての大きく2地域に分かれた地域色がある。
旧石器時代の遺跡からは野牛、ナウマンゾウなどの大型動物の骨。ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中小型動物の骨が発見されている。 また、大型動物を解体する作業場も発見されている。 このことから、当時の人々は大型動物を狩って生活していたと考えられる。竪穴式住居の遺跡がほとんどないことや、植物加工用の石器よりも狩猟に使う石器の発見が多いことから植物はあまり摂取していなかったことが推定される。
最寒冷期において、本州・九州・対馬・屋久島・種子島は一つの島となっており、対馬海峡は約15kmほどであったと考えられる。暖かくなるにつれて落葉広葉樹や照葉樹林が広がるようになり、草原は次第に姿を消していった。大型動物は移動しにくくなり、次第に減少して来た。
海水面が上昇するにつれて対馬海峡が広がり、黒潮から分かれた対馬海流が日本海に流れ込むようになった。その結果、日本海側に魚類や貝類が豊富となった。沖縄のサキタリ洞遺跡で23000年前の貝製の釣り針が見つかった。この時代には釣りをしていたことが推定される。
また、黒潮が分流することにより奄美大島から九州にわたりやすくなり、沖縄にいた港川人をはじめとするC1a1系統の人々が九州に上陸してきたと思われる。また、逆に九州にいたD1a2a系統の人々も南西諸島に進出し始めたと考えられる。
人口が増加していることから食料確保が次第に容易になってきたものと判断される。しかし、この時期の終わりごろ、ナウマンゾウが絶滅している。数少なくなった大型動物を食料にしたのが原因であろう。ナウマンゾウが絶滅することにより、それまで主食だった大型動物がいなくなり、次第に食料確保の幅が広がっていき、小動物・魚類などから植物採取も始まってきたと考えられる。
この植物採取が縄文式土器の誕生につながるのである。