縄文草創期

 16500年前~12000年前

 最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われ、コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

 このような環境変化の中で人々の生活も大きく変わった。石器においては、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現した。使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった。

 この時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていったようである。狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。

 旧石器時代の人々は、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。この頃(16000年前)最初の縄文式土器が作られるようになった。縄文早期になると定住生活が始まった証しである。

 縄文土器の出現

 氷河期の最寒冷期を超え、次第に暖かくなるにつれて、草原が消滅し落葉広葉樹林や照葉樹林でおおわれるようになる。その影響で大型動物が活動しにくくなり、次第に減少していった。その上に人々が大型動物を食料としていたためにナウマンゾウをはじめとする大型動物は17000年ほど前に絶滅してしまった。

 大型動物が主たる食料源だった人々は、他の食料源を求める必要が出てきた。そこで、代わりのたんぱく源として求められたのがどんぐりである。どんぐりはかなりの高カロリーの食物であるが、残念なことにタンニンが多く、そのままでは食べられない。タンニンは水溶性なので数日間水につけておけば食べられるようになる。また、どんぐりの中には虫がいることが多く、殺虫する必要があった。過熱してやれば簡単に殺虫でき、さらに柔らかくなる。

 おそらく、当初は温泉にドングリをつけることでこの処理をしていたのではないかと思われる。しかし、これは、温泉地でなければできず、住居近くでこれをするためには、煮沸する容器が必要となる。これが土器の始まりである。最初の土器が発見された大平山元|遺跡は青森県にある。青森県は全国一温泉が多い県である。縄文人も温泉を最大限に活用していたことであろう。

 縄文土器は基本的に煮沸用の土器である。熱をよく通すためには薄く仕上げて、しかも割れにくい工夫をしなければならない。縄文人は焚火をした後の粘土が固くなることを経験的に知っており、土器を作ることを考え出したのであろう。粘土で土器の形を作り、ゆっくりと加熱しなければならない。それでも煮沸中に割れることが多く、粘土に獣毛を混ぜ込むことでこれを解決した。ここまでかなり試行錯誤したことであろう。最古の土器は大平山元|遺跡で発見された16500年前の世界最古級の無文土器である。これ以降を縄文時代という。

 大型動物はいつでも捕獲すれば食べられたが、植物食に代わると季節によって食べ物が変わってくる。保存用の土器も必要であった。

 定住生活の始まり

 鹿児島県指宿市に水迫遺跡がある。この遺跡は15000年前と思われる遺跡で、最古の集落遺跡である。当時東日本では縄文土器が出現していたが、この地域では、まだ、土器が出現しておらず、旧石器時代の扱いである。

 水迫遺跡は指宿市のほぼ中央,標高126mの尾根上にある。水迫遺跡では,約15000年前の石器とともに,竪穴建物跡や炉跡,石器を作った作業場や道の跡などが発見されている。約15000年前の最古の生活痕跡があり、移動生活から定住生活へと移り変わる時期の遺跡である。

 日本列島ではこの頃より定住生活が始まったと考えられる。土器が出現と定住は深い関係がある。頻繁に移動する環境では土器は作れない。大型動物を捕獲していた時代は大型動物を探して移動する必要があったが、氷河期が終わり、動物食主体から植物食の比率が上がるにつれて、堅果を採取する必要があった。

 小動物の狩猟

 石器は長いのが槍で短いのが弓矢に使われた鏃である。槍や鏃が数多く出土している。鏃が出土するということはこの当時弓矢が発明されていたことを意味し、これは、狩猟対象が小動物であることを意味している。また、「スクレーパー」とよぶ動物の皮をなめす道具も出土している。なめしてやわらかくなった皮は服やふくろ,あるいはひもなどに加工されている。大型動物がいなくなったこの時代、小動物を捕獲していたことがわかる。

 堅果類の採取

 堅果類(栗・ナッツ・どんぐり等)は、そのまま、あるいは炒るなどの簡単な加工で食べられるものが多く、油脂などの多量の栄養分を含み、また穀物などと違い採集が容易であったため、狩猟採集社会においてナッツは食生活の根幹をなしている。しかし、日本列島内ではナッツの収穫は秋に集中することになり、また長期保存が可能であることから、ナッツは主に秋に大量に収穫して冬を越すための保存食とすることになった。13000年前の遺跡である福井県の鳥浜貝塚においては、クリやヒシなどのナッツ類が予想消費量をはるかに越えて出土しており、これは保存していたことを示している。また、クリやハシバミのように明るい場所を好むナッツ類は、人々が伐採や火入れなど手を加えた後に進出して繁茂する性質を持っている。それを利用してナッツの実る木が育ちやすいように周囲の環境に手入れを行うというある種の栽培の始まりのようなこともやっていたようである。 

 漁労の開始

 石錘のうち石の凹部を打ち欠いたものを打欠石錘というが、この時期の鳥浜遺跡で、この打欠石錘が見つかっている。石錘は魚網の錘に使うもので、この当時魚網を用いた漁労が行われていたことがうかがわれる。漁労で手に入れた魚を土器で煮炊きして食べていたようである。

 魚類の調理

 北海道や福井県の遺跡から出土したこの時期の縄文式土器の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを日英などの研究チームが見つけた。チームは、料理に使われた世界最古の土器としている。 このことは栄養価の高い魚類を料理していたことも示すという。このチームは北海道や新潟、福井、長野、鹿児島の13遺跡から縄文式土器計101個を集め、焦げ跡を分析した。 このうち鳥浜貝塚(福井県若狭町)と大正3遺跡(北海道帯広市)の土器片の内側に付着した成分を詳しく調べた結果、鳥浜貝塚で35個のうち17個、大正3遺跡では2個のうち1個から魚の油分が劣化したとみられる脂肪酸を検出。海の魚か川魚かは分からないが、深鍋の土器を300度近い高温の状態に熱し、煮炊きした証拠と判断した。 チームは詳細に分析していない他の遺跡でも、焦げ跡の炭素や窒素の同位体比から、ほとんどの土器は煮炊きに使われたとみている。素材はサケの可能性が高いという。

 自然との共生

 縄文草創期にあたるこの時期は、食材の幅が非常に広くなっている。縄文土器が発明され、保存・調理が可能になったために、それまでに食べることができなかった食材までその幅が広がっているのが特徴である。小規模ながら定住生活が始まっているので周辺で採取できる食材を調達していたようである。

 多種多様な縄文人の食材 (小林達雄著 「縄文文化が日本人の未来を拓く」より) 

 系統 食材 
 哺乳動物 シカ、イノシシ、クマ、カモシカ、タヌキ、キツネ、サル、ウサギ、ムササビ、ヤマネコ、オオカミ、テン、ネズミ他 
 鳥類 キジ、ガン、カモ、ヤマドリ、ハクチョウ、アホウドリ、ミズナギドリ、ワシ、タカ、トキ、トビ、フクロウ、コノハズク、ツル、スズメ、モズ、ツグミ、ヤマガラ、ホオジロ他 
 昆虫類 イナゴ、ハチの子、キクイムシ、クリムシ、ゲンゴロウ、ザザムシ他 
 海獣 クジラ、イルカ、トド、オットセイ、アザラシ、ジュゴン 
 魚類 カツオ、マグロ、フグ、イワシ、タイ、サケ、コイ、アユ、ウナギ 
 貝類 アサリ、ハマグリ、シジミ、カラスガイ、ハイガイ他 
 海藻他 海藻、ウニ 
 堅果類 ドングリ、クルミ、クリ、トチ 
 植物性 緑豆、ヒョウタン、エゴマ、ユリ、ゼンマイ、ワラビ、ノビル、カタクリ、キノコ類 

 まず、これらの食材を季節ごとに整理してみると、

 春・・・ゼンマイ・ワラビ・ノビル・トド・アザラシ・貝類
 夏・・・貝類・イワシ・カツオ・タイ・フグ
 秋・・・サケ・クリ・ドングリ・ノブドウ
 冬・・・ウサギ・サル・イノシシ・シカ・クジラ・イルカ

 貝塚を調べてみると、貝が捨てられているときは土器が捨てられていない。土器が捨てられているときは貝が捨てられていないのである。そして、貝が捨てられている時期には割れた土器をひもでつないで修復しながら使っている様子が見て取れる。そして、土器が捨てられているまだ使える土器が捨てられているのである。これは、土器はある時期に集中して作られており、それ以外の時期には土器が作られていないことを意味している。土器製作時期は、時期ごとの食料を考えてみると、どうも冬のようである。冬は大型動物を採っていることが多く、また、秋にとれた堅果類を保存して食べている時期なので、土器を作る時間を多く確保できたものであろう。また、暖を取るための焚火を土器製作に使ったことも考えられる。

 上にあげた食料は草創期以外のものを含んでいるが、このように多種多様な食料を調達していることが分かる。これらの食べ物の多くは季節性があり、適当に漁って手に入るものではない。縄文人は当然ながら、どの時期にどこを探せばどのような食料が手に入るかを知っていたことになる。さらに発掘状況より、それぞれの食料は旬の時期に食べていたことが分かっている。これらの中には採取が困難なものや、フグやキノコのように食材とするには危険なものまで含まれている。これらを食材とするには相当な量の知識と工夫が必要である。縄文人たちはこのような知識をどのようにして手に入れていたのであろうか。

 海外の集落(都市)遺跡では、人々が定住すると、その周辺は次々と開発され人工物化していくのであるが、縄文文化では集落の周辺は自然のままである。これが、縄文文化は未開であったと解釈される理由の一つであるが、このような小集団の中でこれだけの知識と工夫はなかなかできるものではない。

 このようなことができたのは他地域との協力体制があったためと考えるのである。旧石器時代より、石器の移動範囲が広く、人々の移動が活発であったことがうかがわれるが、縄文時代を通して戦闘があったと思われる遺物は存在しない。これは、縄文人には争うという概念がなく、人同士は助け合うものであるという概念の下で生活しており、人々の移動範囲は広く、様々な情報を共有していたと考えられないだろうか。

 小集落から誰か(マレビト)がある別の小集落を訪問すると、そのマレビトは自分の持っている知識を伝えると同時に、その集落の持っている知識をマレビトに惜しげもなく伝えるのである。そして、自分の集落に戻ってきたマレビトは、自分の集落の人たちにその知識を伝えていく。自然とそういった情報網が形成されていったと考えられる。そのために、縄文人たちはそれぞれの生活環境の中で最大限効率的な生活ができたのではないだろうか。

 また、採取する小動物は成獣のみで、幼獣を食料としていた形跡は見られない。幼獣を食料とすることはその種の絶滅を意味している。縄文人は自然の恵みをいただいているという概念を持っていたのではないだろうか。集落の周辺は自然のままに残し、決して取りすぎることのない生活をしていた。そのために、自然を破壊することなく、長期にわたって平和な縄文時代が継続することになったと考えている。

 こういった生活も知識の共有があって初めてできることではないだろうか。いくら自然に溶け込んだ生活と言っても、食糧難で生死がかかっていては、きれいごとは言ってられない。共有知識によって幅広い食材を効果的に取得することができたからこそ、食糧難にならず、自然との共生が実現したのではないだろうか。外国人は虫の音を雑音としか聞けないが、日本人は虫の音を声として認識している。自然とは征服対象ではなく共生対象として認識していたからこそ、縄文人は自然の音を心を落ち着かせる音として認識していったと考えることができる。

 集落の訪問者

 ある地に集落が形成されていたとする。その集落には時々周辺集落から、あるいは遠方から訪問者があったはずである。その訪問者と知識や物品を共有する文化があったと考えている。訪問してきたが誰であろうが暖かく向かい入れ、しばらくは共同生活をしたことであろう。その中で互いに持っている知識を共有したと考えられる。その訪問者の多くは男であり、マレビトと呼んでいる。中にはその集落に住み着き、その集落の住人となってしまったマレビトもいたことであろう。縄文時代のY染色体ハプログループがほぼ一様に分布していることからこのように判断している。弥生時代になり、海外からの流入が多くなってもこの文化が残っており、弥生集落にもマレビトが入り込み、集落内の女性がほとんど弥生系であっても男性のY染色体が縄文系であるというおかしな現象が見つかっていることの説明ができる。

 縄文時代を通して人同士の戦いはなかったようで、このことは、縄文人には個人所有の概念がなかったことを意味している。自然から手に入ったものすべてが自然からの頂き物で共有財産だったと考えられる。そのために、訪問者を温かく迎えることができたのであろう。また、縄文時代を通して幅広い範囲から同じ産地の遺物が見つかっているということも説明できる。

 集落内の人物も時々新しい知識を入れるために、他の集落に遠征するといったこともあったのであろう。そのため、縄文人は周辺の事情をよく知っていたことであろう。

 災害への対応

 日本列島は災害が多い地域である。地震・洪水・津波・台風などで被害を受ける集落も数多く存在したと考えられる。縄文集落の多くは河岸段丘の上部に存在することが多く、これも、互いの情報を交換することで安全な地域を知っていたと考えられる。また、災害にあった集落の人々は新しい土地に移動したり、周辺の土地の人たちに助けられたりして、共助の精神も育っていったのであろう。

 障碍者福祉

 北海道洞爺湖町にある入江貝塚と呼ばれる、今から約4000年前の縄文時代の遺跡の発掘調査で、15体の遺骨が発見された。  その内の一体は、頭部が普通の成人女性の大きさなのに、両腕と両脚が極端に細く、とても立って歩くことなどできないような骨格であった。調査の結果、この人物は、幼少期に急性灰白髄炎(ポリオ、小児マヒ)を患い、殆ど寝たきりの状態であったものの、死亡推定年齢約20歳までの寿命を全うしたことが判明した。

 また、当時の平均寿命は30歳前後であった中60歳まで生きたと思われる女性の人骨が見つかったが、この人骨には歯がなかった。歯がない状態では固いものが食べられないはずである。

 当然ながらこの状態で一人で生きていけるはずはなく、集落内で他の住人の援助を受けながら生活をしていたことは確実である。このように障碍者や弱者とともに生きていくという概念が縄文人にはあったのである。生存競争の激しい社会では社会的弱者は切り捨てられるのであるが、縄文社会はそれと共存する社会だったのである。これらも、縄文人が共助の精神を持っていた証である。

 縄文人に共助の精神が育った原因

 このように人同士が助け合うという概念は縄文時代になって急にできたわけではなく、その前の旧石器時代からの流れと解釈できる。日本列島に流入してきた人々は雪原のマンモスやナウマンゾウなどの巨大動物を捕獲していた人々である。巨大動物を捕獲するには数多くの人たちとの協力体制と知恵と工夫が必要である。大型動物を捕獲したときのチームプレー体制が日本列島に移住してきても維持されていたものと考える。それに加えて、日本列島は災害が多く協力体制を維持するには十分だったのであろう。

 縄文時代には世界最古ではないかと思われるような遺物が多い。縄文土器、磨製石器、石錘、調理土器、丸ノミ石斧など、世界最古級のオンパレードである。このように世界最古が多いのも何か理由があるはずである。それが、協力体制に裏打ちされた情報共有体制であろう。情報共有体制があるので、新しく見つけた情報は共有され、継承されることになる。そして、その知識の上にさらに積み重なった知識・工夫が生まれるのである。そう考えれば、日本列島に世界最古が多いのも当然といえる。

 土器に縄文が入る

 16500年前に最初の土器が制作されたが、その土器は無文土器であり、縄文はついていないのである。煮炊きの目的のみに使われていたようである。ところが、13000年ほど前の土器から縄文が施されるようになるのである。長崎県佐世保市の泉福寺洞窟で見つかった豆粒文土器に初めて文様がつけられた。これ以降は様々な土器に文様がつけられるようになっている。

 土器の文様というのはなくてはならないものではない。なくてもよいものである。生活が苦しい中ではそのような無駄なことはせず、必要最小限のことをするが、文様が入る時点で、生活に余裕があったことがうかがわれる。縄文人に装飾の概念が生まれているのである。美しいものを美しく感じる心の余裕があったからこそ、文様が入ったと考えられる。

 

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