飛騨王朝誕生前夜

 日本列島にはシュメール文化を思わせる遺物が複数存在している。次のようなものが存在している。

 ペトログリフ

 全国にペトログリフが存在し、シュメールのくさび文字が多い。ペトログリフは神社の神域内に存在していることが多い。

 彦島(山口県下関市)

  彦島にはペトログラフが発見されている。彦島杉田遺跡のペトログラフは大正13年(1924年)に発見された。一説にはシュメール文字ではないか、という見解もある。彦島には宮の原遺跡があり、縄文時代前期から後期の土器が出土している。この遺跡の岩から、合計30個のペトログラフが検出され、それらの文字は、セム語系(シュメール、バビロニア文字)と北方ツングスのエニセイ文字系のものが入り混じったものである事が指摘された。その多くの文字は、紀元前2000年から紀元300年頃までの幅広い年代のもので、発掘品がないために、絶対年代の特定は出来ないが、「古代のいつの時代か、シュメール文字を知っていた集団が何らかの形で彦島に上陸し、祭祀(さいし)をした神殿ではないか。」と推定されている。
 これらのペトログラフを解読すると、「日の神や大地の女神、大気の神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王が祈り奉った」と解釈できる。

 国東半島(大分県)

 国東半島にもぺトログラフが見つかっている。訳すと『この場所を焼き、大地を耕せ。霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ。これは不合25代天皇の言葉である』となるそうである。神代文字で「トミアキタラシナカオキテンノウ」と書かれており、「ウガヤフキアエズ王朝」の25代天皇である「富金足長息天皇」に該当するようである。用語が後世のものと推定されるので、縄文時代のペトログラフではないようであるが、「ウガヤフキアエズ王朝」の存在はうかがわせるものである。

 宮島弥山(広島県)

 宮島の獅子岩展望台の巨石群に、ペトラグラフと呼ばれる古代の文字や文様が刻まれた岩石が見つかっている。このペトログラフはメソポタミアのシュメール人が使用していた楔形文字と思われ、日神ラー・女神・イシス・男神ゲブなどシュメールに伝わる神を表す文字が刻まれている。

 淡島神社(福岡県北九州市)

 淡島神社のペトログラフは昭和63年9月6日、当宮参道の岩垣から発見された。正面に向かって右側の岩には、今から四千年前の古代シュメール王朝のウルク神殿に彫られている「七枝樹」(豊穣を祈る神の紋章)を中心に、大気の神、大地の神、大地母神などに「奉る」と記されている。また左側には、大地神、母神、女神などと彫った中央に、佐賀県江北町鳥屋で見つかったと同じ「燕」時代の甲骨文字らしいものが彫られている。

 幣立神宮(熊本県)

 幣立神宮のご神体の鑑石(かがみ石)に刻まれたペトログラフが存在している。ないようは「ひふみ祝詞」である。
「ひふみよいむなやこともちろ らね しき るゆゐ つわぬ そを た はくめ かうお えにさり へての ます あせ ゑ ほれ け」
であり、意味は
「日の神、月の神は人々の苦悩を去らしめ、悪神がとりつくことから守る。田畑の穀物は豊かに実り、海では豊漁となる。老若男女を問わず喜びと共に働き、日々を生きれば飢えることはない。朝に出て、日に背に汗し、夕に帰る喜びに感謝し、日の神、月の神の出現を祈り拝せよ。」
とされている。

押戸ノ石(熊本県阿蘇郡南小国町) 

 南小国町の中原地区のマゼノ渓谷の近くに標高845mの押戸石山がある。山頂には多くの石群があり 古代人の祈りの場であったといわれている。多くの巨石の中でも最大の石が押戸石(おしどいし)と言われており 三角錐のピラミッド形をした石で高さ 5.3m 周囲 15.3m もあり西の面に古代文字(ペトログラフ)が刻まれている。
 押戸石(おしどいし)に刻まれているペトログラフは「神、雨、祈る」などを表しているといわれており、 現地の説明板によると4000年前のシュメール文字であるとされている。

 笠置山(岐阜県恵那市)

 岐阜県恵那市の笠置山には4つのピラミッド石と笠置神社がある。ピラミッド状の岩たちは、笠置山山頂から冬至の日の日の出の方向に一直線に並んでいる。これらの岩にペトログラフが存在しているが、笠置山の中にある岩に刻まれた古代文字の中で、一番有名なものは「イルガガ」と発音するシュメール文字で、意味は「水を我らにと祈る」とされている。
 笠置山は縄文時代からずっと雨乞い信仰の山である。また、無数に点在する主要な岩たちを地図上に落とすと、夜空の星座とまったく同じ配置に置かれている事がわかっている。笠置山は古代の天体観測の山と考えられる。

 水窪遺跡(静岡県磐田市)

 昭和35年に水窪町の水窪遺跡(縄文時代の遺跡、紀元前600年頃と推定)から「水窪石」が出土した。「水窪石」には神代文字が刻まれている。「古代フェニキア文字」らしく、「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」という意味になると言われている。
 フェニキアは紀元前8世紀頃にアッシリアの圧迫により衰退するが、同じ頃同様にアッシリアの攻撃によりイスラエル北王国が滅びイスラエルの失われた十支族が世界へ散らばったと云われている。天竜川の源である諏訪大社(上社にある池が諏訪湖、天竜川の源流と云われます)の御頭祭で明治初期まで行なわれていた神事は古代イスラエルの祭事に似ているという。フェニキア人は良質の鉄を求めていたとされ、天竜川流域の縄文鉄との関連性が考えられる。

 美々津海岸(宮崎県)

 神武天皇が船出した場所の「神武天皇船出の磐」といわれてきた岩から、シュメール古拙文字もしくはシナイ文字と判断される文字が見つかった。昔からその岩には、三柱の神様が刻まれていると言い伝えてきた岩であった。また、この美美津市の石庭から、シュメールのウル、ウルク王朝にゆかりのある「七支樹」の岩刻が発見されている。

 百穴遺跡(大分県)

 シュメール・バビロニア系統の文字、女神像などが発見され、また、百穴を見下ろす山々には、900本の環状列石が近年まであって、それに楔形文字が刻まれていたことが確認されている。 

 角島(山口県)

 これぞシュメールの紛れもない証拠というべき独特の積み石が発見されている。これは地元の人には昔からある当たり前の構造物で、古くから風や波で壊れたところの補修をするときには、わざわざ福岡県の宗像から海女たちを呼び、海中のだれも触っていない岩を引き揚げて長くこれを守ってきたものだという。シュメール文字で「牛」「大地男神」「大地母神」と刻まれているようで、この岩は「アルダ(牛神)石」と呼ばれている。

 位山(岐阜県)

 位山の山頂付近にの天の岩戸と呼ばれる岩にペトログリフが存在し、シュメール文字で「イル、ガ、カ」と書かれており、「祈る」という意味だそうである。この文字は今から4千年ぐらい前のペトログリフとのこと。 また、シュメールで太陽神を意味する図形も見つかっている。

 ペトログリフの実態

 日本全国にはこのほかにも数多くのペトログリフが見つかっている。環太平洋一帯に見つかっているが、海外では人里から離れた位置におかれていることが多いのに対して日本では神社など信仰の対象になっている場所に多い。このことは、ペトログラフにかかわる信仰が当時から現在まで継続されていることになり、信仰の断絶がないことを意味している。

 これらのペトログリフの内容を大きく分けるとBC2000年ごろのシュメール人関係とBC700年ごろのフェニキア人関係のようである。おそらく、BC2000年ごろシュメール人の集団が日本列島に上陸し、BC700年ごろフェニキア人が上陸したと考えればよいのであろう。飛騨王朝成立にかかわったのはBC2000年ごろのシュメール人の上陸であろう。

 皇室とシュメールとの関係

① 天皇の古語は、すべてシュメール語で解釈できる。
  日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、「シュメール」とも発音されていた。 さらに、「スメ」は、「神」という意味で、天皇=神ということになり、スメル国というのは漢字で書くと「皇国」となり、「神の国」という意味になる。 ちなみに、「スメラギ」は、「スメル(Sumer)」の複数形である。 「ミコト(尊、命)」や「ミカド(天皇)」は、「Migut(ミグト)」が訛って、変化したもので、「天降る開拓者」を表し、それはすなわち「神」を意味している。

② 通称「菊の御紋」と呼ばれる十六八重菊花紋は、日本の天皇や皇室を表すが、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれている。シュメールの王の紋章と言われている。 

③  「草薙の剣」 「八咫鏡」 「八尺瓊勾玉」 の三種の神器が存在するが、シュメールにも 「武神のシンボルの剣」 「日像鏡」 「月像の首飾り」 と同じような神器がある。

④  さらに、日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、「草薙の剣」を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話がある。 これらを関連付けると、日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできる。  

⑤ シュメール人は、自分たちの国を『キエンギ』と呼び、それは「葦の主の国」という意味である。古代日本では、『豊葦原中国(とよつあしはらなかつくに)』と称していて、「豊かな葦の原の国」という意味で、『キエンギ』と、とてもよく似た意味である。 

 古代日本とシュメールには以上のような共通点がある。これは単なる偶然であろうか。偶然とするにはあまりにも似すぎている。皇室と関連している内容が多いが、皇室とシュメールとの関係を考えてみたいと思う。

 現天皇家はその血筋の人物のY染色体ハプログループがD1a2a系統であることから縄文系であることは確かである。高度な文明を持ったシュメール人が縄文人を征服して王朝をたてたということではなく、シュメール人の協力を得て縄文人が王朝を成立させたと考えるべきである。

 日本列島とシュメールの交流の可能性

 シュメール人が日本列島に上陸するというのはどのような状況が考えられるであろうか。メソポタミア地方ではシュメール人の最後の王朝であるウル第三王朝がBC2004年に滅亡している。この後、シュメール人はメソポタミア地方から消滅しているのである。日本列島をはじめとする環太平洋一帯のペトログラフはBC2000年ごろのものとされている。時期的にシュメール人の消滅と一致しているので、この時、シュメール人が方々に移動したと考えられる。

 メソポタミア地方から日本列島にやってくるには外洋航海技術が必要であるが、メソポタミア地方が内陸であり外洋航海技術が発達する環境になかったといえる。しかし、古代エジプトではBC3000年ごろから外洋航海していたようである。この流れを組んでシュメール人もある程度の外洋航海技術は持っていたであろう。しかし、シュメール人の行動範囲はメソポタミア近辺に限られており、日本列島まで移動するという発想はなかったと思われる。縄文時代に日本列島で農耕がほとんど始まらなかったのは、食糧が豊富で農耕の必要がなかったためである。それに対してメソポタミア地方は農耕なしでは食糧を得ることができない地方で、農耕技術が発達したのである。メソポタミア地方で外洋航海技術が発達する環境にないために、シュメール人が独力で日本列島にたどり着くことはほとんど不可能であったと思われる。

 それに対して縄文人は、日本列島に住んでいたため海洋生物を食糧としていた。クジラやマグロなどの巨大外洋生物を食糧としていたこともあり、外洋航海技術は発達しやすい環境にあった。それに加え、7200年前及び5500年前のカルデラ噴火により緊急的に外洋へ避難品しなければならなくなり、日本列島外に出る機会が生まれた。その結果、海外にも人の住むことのできる土地が広がっていることを知り、外洋航海技術の発達に伴って海外に出ていくことが多くなったと考えている。

 日本列島とメソポタミア地方はかなり距離が離れている。交流するということは縄文人がメソポタミア地方に行くか、シュメール人が日本列島に来るかどちらかが必要である。シュメール人に外洋航海能力は確認されていないが、縄文人は5500年前の阿多カルデラ噴火以降、海外渡航実績を持っている。つまり外洋航海技術を持っているのである。

 7300年前の鬼界カルデラ噴火の時に緊急避難的に海外渡航をし、しばらくして戻ってきた縄文人がいたと思われる。近くだけではなく遠くまで流された縄文人がいたと思われ、戻ってきた縄文人から海外にもいろいろな国があることが分かったと思われる。5500年前の阿多カルデラ噴火までは計画的に海外に出た形跡はないが、この間に高度な外洋航海技術を身に着けていたと思われ、阿多カルデラ噴火以降、南米やバヌアツに縄文土器が出現するようになるなど、外洋航海をするようになっている。これら縄文人の外洋航海は継続的であるので、流されてたまたま上陸したのではなく、計画的に移動していると思われる。この中にはメソポタミア地方まで外洋航海した縄文人がいても不思議はない。

 メソポタミア地方は最古の文明と言われているように、進んだ文明であり、訪問した縄文人がその技術を学んで日本列島に持ち込んだということが考えられる。このシュメール文明は天文学が発達しており、縄文人の外洋航海技術に拍車をかける結果になったものと考えられる。その縄文人たちにより、ペトログラフが環太平洋一帯に広がったと考えることができる。

 縄文人が外洋航海をする理由

 縄文人は、どういった理由で外洋航海していたのであろうか?外洋航海技術を持っているとしても大変危険なものには違いなく、命がけであったことが想像される。そういった状況でも縄文人は外洋航海をしているのである。当初は緊急退避であったが、緊急事態でなくても外洋航海している。バヌアツでの縄文式土器の継続的な出土状況から縄文人は計画的に航海していたことが推定される。

 外洋航海の目的として第一に考えられるのが「移住目的」である。縄文後期になると気温が低下して、食糧不足になった。その結果豊富な食糧が得られるところを探して外洋航海したと思われる。3800年前ごろ三内丸山遺跡が消滅しているがこの人々の行く先が分かっていない。ところが、バヌアツで出土した縄文式土器は時期的に三内丸山遺跡が消滅した時期と重なり、また、バヌアツで出土した土器が青森県を中心として分布している土器である。このことから、三内丸山遺跡に住んでいた縄文人の何割かが南方に向かいバヌアツまで移動したことが考えられる。

 縄文時代に海外から入ってきたと思われる作物は「瓜(西アジア)」「里芋(東南アジア)」「レンコン(インド)」「ヒガンバナ(中国)」「ノビル(中国)」「ニラ(中国)」「シャガ(中国)」「ヒデリコ(中国)」「カラスビシャク(中国)」「カラムシ(中国)」などがあり、これらは細々と栽培されていたと思われる。とくに「瓜」は西アジア原産であり、オリエント地方から持ち込まれたものと考えられる。

 また、ヒッタイトからと思われる縄文鉄(明神平)の出土や上記の作物など外洋航海して戻ってきた人々からもたらされたと考えられる出土物が存在している。このことは新技術習得や食糧の調達のために外洋航海していることも考えられる。同じ日本列島内でも東北地方と九州地方で同系統と思われる出土物が数多く見つかるように縄文人は日本列島内をかなり激しく行き来していたようである。このことは、各地に拠点集落と思われる遺跡が存在し、外来系土器がかなりの頻度で見つかっていることからもわかる。

 このとき、土器を直接移動させるには山や川を越えて徒歩で運ぶよりは、海面を舟で運ぶほうが楽であり、海運技術も発達していたと考えるべきであろう。この延長で新技術を求めて日本列島外に出て戻ってくることは十分に考えられる。

 中にはメソポタミア地方まで移動した人々がいてもおかしくはない。そして、数年後に戻ってくることは可能である。縄文人の中には太平洋を横断して南米大陸まで移動した人々や八丈島やバヌアツまでも移動している。これに比べれば大陸に沿うことのできるメソポタミアまでの移動の方がより安全であろう。

 BC2004年にシュメール人のウル第三王朝が滅亡したとき、多くのシュメール人は各地に分散したと思われる、このうちの一部の人々を縄文人が日本列島に導いたということは十分に考えられるのである。

 海外の人々が日本列島にやってくるということも考えられるが、日本列島周辺のアジア地方で、この時代外洋航海技術を持っていたと思われる種族はいない。中国が後に黄河・揚子江文明を発達させるが、これらは内陸であり、外洋航海するという意識はなかったと思われる。縄文人は海外に何があるかを知っていたが、海外の人々は日本列島が存在していることを知らなかったのである。こういった点から縄文人が海外渡航をしたと考えるほうが自然である。

 オリエント地方に残る伝承

 アラビア半島の国オマーンにあるバハラ地方の少数ユダヤ人の言い伝えによると、
  バハラは、イスラエルの10部族は囚われの身となっていたアッシリア帝国から逃れ、東の方へさまよい出た。
そして長年アジア大陸を放浪し、最後に「中国のかなたの神秘な国」に定着したと伝えられている。
 また、キルギスタンでも、同様の言い伝えがある。
昔ふたりの兄弟がいて、一人は山の方へ向かってキルギス人の祖先となり、もう一人は海の方へ向かって日本人となった。またキルギス語には、日本語と共通する単語が数千もあるのだといわれている。

 これらは、時代がかなり後の時代であるが、当時の人々は東の方の日本という存在を知っていたことになり、そのことを知っているということは戻ってきた人々がいたことを意味している。少なくとも縄文時代にメソポタミア地方と日本列島との人々の交流があったことは確かであろう。

 交流の時期

 縄文人とシュメール人が交流したのはいつのことであろうか。飛騨の岩内遺跡のストーンサークルが他地域のストーンサークルと異なり放射状になっている形跡があることから、これは16弁菊花紋を意識していると思われる。その後の日輪神社では16方向に聖地が存在しており、これも16弁菊花紋と関係があるように思われる。これ以前にこのようなものは存在確認されていないので、16弁菊花紋の意識が生まれたのはストーンサークルが作られた4000年前頃と思われる。

 4000年前と言えばシュメール人のウル第三王朝(メソポタミア文明の発祥)が滅亡したのがBC2004年とされており、まさにこの時期である。ウル第三王朝滅亡後シュメール人は忽然とメソポタミア地方から姿を消している。どこかに再登場したということもなく、シュメール人の持っていた高度な文明も失われているので、ウル第三王朝滅亡後、シュメール人は少人数に分かれて分散したというのが真相であろう。

 この時にメソポタミア地方を縄文人が訪問していたと考えればどうであろうか。この縄文人が国の崩壊から逃げるシュメール人を日本列島に導き、そのシュメール人から多くのことを学んだ考えるとこの現状が良く説明できる。縄文人からすればシュメール人の持つ高度な知識を手に入れる機会であり、シュメール人からしてみれば平和な生活をする機会を得ることになる。しかし、当時の外洋航海技術は多人数を運べるものではなく、日本列島に到達したシュメール人はごく少数(数十人程度)だったと思われる。

 4000年前と言えば、飛騨王朝が誕生する前である。皇室関係にシュメール文明と関連するものが多いことから、現天皇家にまで、シュメール文明の影響がつながっていると考えられる。しかし、天皇家は縄文系なので、シュメール人が飛騨王朝を築いたのではないと思われる。シュメール人からのアドバイスを受けて縄文人が飛騨王朝が成立したと考えれば、状況をよく説明できるのである。

 飛騨王朝成立前の日本列島内の環境

 縄文中期までの遺跡の形態

 縄文中期は気候も温暖で、食糧が豊富であった。人々は、食糧採取・工作物作成などの労働を一日のうち4時間程度していたと推定されている。こういった状況では生活に余裕があり、装飾に力を入れるようになり、縄文式土器は装飾が多く、人々が着ていた衣装も装飾が多いものであったとされている。縄文遺跡は中央に広場があり、その周辺に住居があるという形をしている。これは、人々が集会・祭り・娯楽などを常に集団でおこなっていたことを意味する。こういった遺跡の状況から縄文人は生活を楽しんでいるという様子が浮かびあがってくる。

 縄文時代は人々の移動が活発で、食糧や物品は個人所有よりも共有財産という意識が強かったようである。訪問者にも食糧や物品が遠慮なく与えられる環境にあったと思われる。これも生活に余裕があったからこそできたことで、そういった体制が自然に出来上がっていたからこそ、人々は気兼ねなく方々を旅することができたのであろう。そのために、物流が活発となっていたといえる。

堂之上(どうのそら)遺跡(縄文中期の拠点集落)

 縄文時代中期は気候が温暖で人口が多く、多くの遺跡が存在していた。この頃が平和な時代ということになる。この頃は、人々の身分に上下がなく、その中で拠点集落というのが存在していた。住居遺構は少ないが色々な地方の土器が出土し、多方面の人々が訪問していることが推定される遺跡である。中期の埼玉県嵐山町の巨大環状集落である行司免遺跡が代表的遺跡であるが、飛騨地方ではこれに該当する遺跡が堂之上遺跡であろう。

 堂之上遺跡は飛騨川上流、標高約700mの高地に位置し、昭和48年以降7次に亘る発掘調査の結果、縄文前期から中期を中心とした 典型的集落が、約7,500㎡の小舌状台地にほぼ完全な状態で残されていた。堂之上遺跡では、集落がコの字の形をしており、そのむいている方向は位山の方向である。また、集落の中央付近に祭祀遺構が見つかっているが、その方向も位山の方向であり、位山を崇拝していた遺跡であると確認できる。祭祀があるということは、祭主に該当する人物が存在したと思われ、これが、後に飛騨王朝につながると思われる。

 この遺跡は、飛騨川を見下ろす台地上にあり、往時から今日まで地形の変化を殆ど受けずに集落跡の姿を留めており、 学術上も重要な遺跡として認められ、昭和55年国の史跡に指定された。

 縄文前期中葉から中期終末期までの竪穴住居址が、中央広場の土壙群を取巻く形で43軒も良好な状態で発見されており、岐阜県下最大規模の集落跡である。出土遺物は多量の土器・土製品・石器・石製品・炭化物などがあり、地理上の位置関係や出土した土器形態より東西日本・表裏日本との文化伝播・交流等が活発であったことが推定され、飛騨地方の拠点集落と考えてよい。

 住居の柱の用材は、住居址から出土した炭化材の材質鑑定の結果、すべてがクリ材であることが判明した。クリを食用にしていたようである。台地中央部の一帯は、約150箇所の土壙群が密集している。土壙は大小様々で、深さも30cm~2mほどの掘り込みがあり、内部からは焼土・焼骨・木炭などが含まれているケースもあった。これらの土壙群は住居群地域からは分けられている。

 この遺跡を通して飛騨地方の縄文中期には北陸・信州との文化交流が強く窺え、北陸地方に出土例が多い彫刻石棒や、信州地方の影響が色濃い土器類、東日本・太平洋岸地方との交流を窺わせる各種アクセサリーなど高度に発達した生活文化を持っていた。

 本遺跡は700mほどの高地にあり、堂之上縄文人は厳寒期を乗り越える方法を知っていたと云える。内陸にあり険しい山々に囲まれた飛騨地方は、東西南北に通じる格好の地理条件を最大限活かし、独自の縄文文化を築いたと考えられる。この頃の信仰の中心は位山と考えられる。この頃より位山は特別な山であったのであろう。

  この堂之上遺跡は中期がおわり、後期になると同時に消滅している。この時までは人々に身分差がなく、祭主のような地位の人物は存在していたようであるが、飛騨王朝は存在していないと思われる。飛騨地方は後期になり堂之上遺跡が消滅すると入れ替わるように垣内遺跡が発達してくる。

 今から4500年前ほどになると、次第に気候が寒冷化してくる。堂之上遺跡ではクリ材がよく使われており、主食はクリであったことが推定される。しかし、寒冷化によって食糧不足が起こり、飛騨地方に住んでいた人々の多くは暖かい地方(西日本中心)に移動していくことになる。

 しかし、残された人々は数少ない産物を効果的に採取する必要が生まれてきて、農耕が始まったと考えられる。日本列島での農耕開始は海外に比べてはるかに遅れているが、これは、採取で十分に食糧が確保できたためであろうと思われる。

 拠点集落の実態

 多くの地方に拠点集落というものが存在している。規模が大きい集落遺跡であるが、外来系土器が多い、規模が大きい割に住居遺構は少ない、等の特徴を持っている。また、日本列島全体で縄文人は行動範囲が広く、東北地方から九州地方まで移動していた痕跡も見つかっている。頻繁に移動していたようである。この移動している縄文人が立ち寄るのが拠点集落で、飛騨地方では堂之上遺跡がこれに該当する。このため拠点集落には常にいろいろの地方の人々が訪問してきているということになる。拠点集落に住んでいる人々は、訪問してくる人と様々な交流をしている様である。この遺跡が今でいう市場や市役所のような役割をしていたのではないかと推定する。縄文人の多くは拠点集落ではなく周辺の集落に住んでいて、何か必要があるときに拠点集落に集まり、情報交換・物々交換をしていたと考えるのである。

 縄文土器の変遷は一つの地域で変化していくばかりではなく、別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることがおおい。また、西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動もある。 また、ある型式の土器が移動し、在地の土器と混合しないで、一軒の住居跡から発見されることもある。このようなことから縄文人の集団の移動や集団間の接触・交渉が活発であったことが推定される。

 拠点集落堂之上遺跡には祭祀施設がある。コの字型の遺構が残っており、その向いている方向が位山である。位山をシンボルとして祭祀をしていたと思われ、訪問者もその祭祀に参加していたであろう。祭祀があったということは祭祀を司る人物がいたはずで、この人物をリーダーとして拠点集落は運営されていたと思われる。この司祭者の系統が飛騨王朝につながると考えている。そして、その祭祀形態が地方に伝搬することにもなっていく。

 縄文人の移動の目的

 縄文人は拠点集落を利用し活発に移動していたと思われるが、何を目的として移動していたのであろうか。考えられるものとして以下のものがある。

① 物々交換

 これは市場である。後の時代でも毎月特定の日に市場を開き、色々な地方の人が物を持ち寄り、必要なものと交換するシステムである。当然ながらこのシステムは縄文時代も存在していたと思われる。拠点集落の中央広場で行っていたのであろう。しかし、物々交換だけにしては、縄文人の移動規模が大きすぎるのである。自動車がない時代で、物資を運ぶのは大変であり、市場が開かれるとなると周辺に住んでいる人々の間で行われるのが普通であるが、拠点集落から出土する土器から判断すると、数百km(中には千km以上)離れた地域の土器が出土しているので、物々交換だけが目的の移動とは考えにくい。

② 新技術の習得

 弥生時代になって弥生人の開いた農地に縄文人が訪問してきている痕跡が数多く見つかっているので、どこかで新しい技術開発がなされたという情報が流れてくると、そこに行って自分たちもその技術を仕入れようとはるばる遠くに移動することが考えられる。これなら九州から東北まで移動していることが説明できる。しかし、その情報はどうやって手に入れたのであろうか。通常、新しい技術革新が起こっても離れた地域に住んでいる人はその事実を知らないはずであるから、移動することもないはずである。

③ 情報交換

 次に情報交換である。「どこどこで何が開発された」とか「どこどこにはこういった食べ物がある」「どこどこにはこういった物品がある」などであるが、これらの情報はそれ程頻繁に変化する情報なので、頻繁に遠くに移動する理由としては弱いと思われるので、主たる情報ではないように思える。そこで、移動している縄文人が求めていた情報というのは「物語」ではないかと考えるのである。ある地域で何か事件があると、その事件が物語化され地方に伝搬されることになるというものである。中には創作されたものや尾ひれがついているものもあったと思われる。

 縄文時代、特に中期は人々の生活に余裕があった時代である。このような時には空いた時間をどのように使うかが重要となる。人々には娯楽が必要なのである。今ではネットやテレビなどの娯楽があるが、この当時はそのようなものはない。江戸時代では講釈師が人々に物語をしていたことが知られている。また、お伊勢参りなどの旅をしてきた人からその様子を聞くのも一つの娯楽であった。縄文時代もこのようなことがあったのではないだろうか。

 ある集落から誰か旅にでる。その人は周辺の見聞きし、旅先で出会った人から色々な話を聞き、その話を土産に自分の集落に戻ってくる。そこに住んでいた人たちは戻ってきた人からその話を聞く、という様子がうかがわれるのである。また、遠くから来た人から物語を聞くというのもあったであろう。人々はそれらの物語から生き方や勇気を学んだのであろう。生活に余裕があった時代だからこそこのようなことになったのではないかと推定している。このような自然に出来上がった体制が後の飛騨王朝の地方統治につながっていると考えている。

 フグを食糧とする

 情報交換の一つの裏付けとしてフグが考えられる。縄文遺跡から相当量のフグの骨が出土している。縄文人はフグを食料としていたようである。フグは猛毒を持っており、そのまま食べれば命がない。食べられる部分のみを切り取って食べることになるのであるが、それでも失敗すると命はない。縄文人はこのようなフグをしかも多量に食べているのである。フグを食べて生きていた人がどこの部分を食べたかの情報が集まり、次第に調理方法が確立されたのであろう。情報交換が活発でないとできないことである。

 移動方法

 縄文人はこのように活発に移動していた。当時は陸上を荷物を持って移動するのはかなりの労力である。そのために、舟を使って海上や川を移動するのが主たる移動方法であったことであろう。その移動の延長線上に海外があったと思われる。海外に活発に出ていくことによって、どの方向にどれぐらい移動すると、どういった地域があるかの情報は日本列島全体に伝わっていたのではあるまいか。縄文人はメソポタミア地方の情報もすでに取得していたと思われる。

 これまで発見された縄文時代の丸木舟は波よけ用に舷側を補強した跡や、推進力強化のために帆を使った形跡はない。このような丸木舟で外洋航海は現代的感覚では不可能なように見える。しかし、 活発な海上交通があったことは数え切れないほどの考古学上の物証が示している。今まで発掘された丸木舟は160艘ほどであるが、これほど活発に移動していたのであれば、使われた丸木舟は相当数あったはずで、外洋航海用の舟はまだ見つかっていないのかもしれない。いずれにしても縄文人には計り知れない航海力があったというほかないのである。

 気候の寒冷化

 縄文時代後期になって気候が寒冷化してきても、この人々の移動状況は維持されていたと思われる。しかし、気候が寒冷化してくると、食糧が少なくなり、生活が苦しくなってくる。そのために集落を捨てて暖かい地方に移動していった人々もいたことであろう。今まで旅人から得られていた知識で移動先が選ばれたことであろう。

 食糧が少なくなってくると人々の心は落ち着かなくなる。食糧確保が最優先課題となる。食糧の採取時期をより効率化させ、さらには可能な作物から農耕を始めることになるのである。農耕が始まると忙しくなり、今までのような余裕がなくなってくる。そのために、人々の心を一つにするために祭祀を強化する流れが起きてくる。これがストーンサークルであろう。

 ストーンサークルは今でいう神社の前身のような存在である。神社は神が存在し、その神に対して祭礼をするという形であり、一方向を向いている。神の概念はあったと思われるが、神に対する祭礼の形式はないようである。人々が集まる場としてのストーンサークルであろう。拠点集落の中央広場のような概念である。人々が集まる場であり、情報交換の場であり、祭祀の場であることになる。大湯のストーンサークルはその中でも最大で、200年かけて、7-8km先から岩が運ばれてきて作られているようで、大変な労力である。その労力から当時の人々にとっては非常に重要なものであったと推定される。このストーンサークルには日の出の位置から季節を知ることができるようになっており、収穫の時期・作付けの時期を探ることができたと思われる。そして、その時期にはストーンサークルで祭りがおこなわれていたことであろう。

 ストーンサークルは神聖と思われる山を眺望できる位置にあることが多い。山頂に立つとその地域が一望でき、当然ストーンサークル全体も見渡すことができる。そういったことから山頂が聖地として扱われるようになったのであろう。そのうちこの二つが一体化してピラミッドが誕生したと思われる。

 縄文人のメソポタミア地方への海外渡航

 岩手県大槌町明神平には、カキの貝がらを媒溶剤に用いたと思われる鉄宰が散見される。海抜数百mほどの峠のこの地点では、一日中強い風が吹いており、浅い盆状の野焼炉を作って火を起こし、細かい高純度磁鉄鉱の一種「餅鉄」をセ ッ トするだけで、数時間のうちに還元鉄ができる。推定3600年前である。ヒッタイトが最初の製鉄を行ったとされている。縄文人が偶然見つけたのかもしれないが、ヒッタイトからの技術導入ではないだろうか。しかし、この製鉄は一般的ではなくできた鉄は質の悪いもののようで広まらなかったと思われる。 諏訪地方にも縄文時代の製鉄の痕跡らしきものが見つかっている。また、西アジア原産とされ、4000年前ほどに西アジアで栽培が始まったとされる。瓜自体は縄文時代早期から日本列島に持ち込まれていたようであるが、この瓜が日本列島で縄文時代に栽培されており、これも、西アジアとの交流をうかがわせる。

 これらは絶対的な証拠には弱いが、西アジアとの交流を思わせるような事実である。しかし、ペトログリフの文字がシュメール文字であることは決定的な証拠と言える。4000年ほど前に西アジアとの交流があったのは確かであろう。

 それでは、シュメール人はどうやって日本列島にたどり着いたのであろうか?シュメール人自身がユーラシア大陸を東に移動したというのであれば、途中にその痕跡が残ってもよさそうなものであるし、わざわざ日本列島まで来なくても中国大陸でも平和に暮らせそうである。いくらウル第三王朝が滅亡してシュメール人が散り散りになっても日本列島まで来る理由がない。

 それに対して、縄文人の方は、海外事情に詳しくなっており、海外各地に移動した痕跡がある。縄文人がメソポタミア地方を訪問し、シュメール人を日本列島に導いたと考えるほうが自然である。後の飛騨王朝の成立から考えて、飛騨地方から海外に出た縄文人がシュメール人を連れて戻ってきたと考えられる。

 飛騨王朝成立時期

 飛騨から地方に人々が散っていったのはいつ頃であろうか。縄文時代中期には飛騨地方に数多くの縄文遺跡が存在しているが、中期から後期にかけて激減している。飛騨の縄文遺跡が激減するのと時期を同じくして西日本地域の縄文遺跡の数が急増しているのである。その境の時期はBC2000年頃である。小山修三氏によると、中部地方の縄文人の推計人口はBC2300年頃(中期)72000人ほどであったのが、BC1300年頃(後期)には22000人、BC900年頃(晩期)には6000人ほどである。

 日本列島にシュメール人の痕跡が現れるのはBC2000年(4000年前)ごろからである。シュメール人が日本列島にたどり着いたのはBC2000年頃と考えてよいであろう。シュメール文字が記されているペトログリフがほぼ同時に全国に散らばっているので、たどり着いたシュメール人が王朝をたてたと考えるには不自然である。

 当時の縄文人が頻繁に列島内を移動していたので、シュメール人が日本列島に上陸したという情報はすぐに列島全体に伝わったと思われる。しかし、シュメール文字を刻んだ岩が列島内複数個所にほぼ同時に出現する説明にはならない。縄文人がシュメール人の情報を得たとしてもそれをもとにして各地にペトログリフを書き込むとは考えにくいからである。縄文人がシュメール人から文字を学んでペトログリフを描くことはありえないことではないが、列島全域に広がっていることから考えて、ペトログリフは縄文人が書いたものではなく、地方に派遣されたシュメール人が書いたものではないかと推定する。王朝なしでこのようなことが起こると考えにくく、飛騨王朝が成立し地方統治の政策上シュメール人が地方を回ったと考えれば、この状況が説明できる。

 縄文後期の縄文遺跡の状況から、飛騨地方を統括するような指導者がいたと思われるが、シュメール人が日本列島へやってくる前に地方を統治できるような王朝が成立していたとは考えにくい。それに対してシュメール人が日本列島にやってきたと思われる時期の直後、日本列島全域にペトログリフが出現しているので、王朝の影響力が日本列島全域に及んでいると思われ、飛騨王朝が成立し地方統治を始めたのはBC2000年ごろと推定する。

 シュメール人が縄文人に導かれて日本列島に上陸した。この縄文人たちは飛騨地方から出発していたので、上陸後飛騨地方に招待されることになった。この頃の飛騨地方は、縄文後期になってしばらくたっており、飛騨地方から西方へ人々移住をし、次第にさびれている頃であった。

 採取生活から農耕生活への切り替えのために作付け、収穫時期を適切に知るためにストーンサークルを作り始めたころで、人々の分業が始まっている。リーダー的立場の人も誕生していた。このような時にシュメール人がやってきたと思われる。

 シュメール人は日本列島の縄文人社会を見て平和であることに驚いたのではあるまいか。メソポタミア地方は戦乱が続いており、その結果自らの国は滅亡してしまったのである。当然、この平和が続くことを願って、縄文人にアドバイスをしたのではないだろうか。

 「今は平和であるが、そのうちにあちこちに小さな国ができ、それらの国同士が争うことになり、平和な時代は終わるよ。国ができていない今こそ、日本列島全土をまとめれば、未来永劫平和が維持できるのではないか?」
 「メソポタミアでは神格化された王の時は安定し、そうでない王の時は不安定になっているので、国の安定のためには神格化された王が必要である。滅亡したわが国では16弁菊花紋が王家のシンボルだった。」

 このようなアドバイスの下で飛騨王朝が成立したと考えれば、皇室関係の用語の多くがシュメール語に似ていることが説明できる。

 縄文人はこのアドバイスを聞き、それまで円形だったストーンサークルを16弁菊花紋を意識して放射状に変更し、その祭主を王としてあがめることにした。飛騨王朝の誕生である。

 飛騨王朝の地方統治・・・縄文連絡網の構築

 縄文中期までは縄文人に身分差はなく、人々は自由に往来していた。食糧や道具・知識は共有財産であり、訪問者にも遠慮なくふるまうという風習があったのである。飛騨の人々がシュメール人と出会ったころは、ストーンサークル構築の共同作業が始まったころで、指図する人と実働する人に分かれてきたころである。縄文後期になり人々の生活が苦しくなってきたころであり、シュメール人からの情報で神格化された王の存在があれば、人々は良く治まることを知った。

 メソポタミア地方は戦いが繰り返され、国同士の興亡が繰り返されている実態を知った。この当時日本列島の縄文人は争うこともなく平和に暮らしているが、海外から人々が流入すると争いが起こる可能性も指摘された。また、日本列島をまとめ高度な先進技術を全国に伝えることの必要性も感じることになった。

 そのために、中期に存在した拠点集落に倣い、地方に拠点集落を作り、その拠点集落に地方の産物を持ち込み、他の地方の新技術や情報を伝えるようにし、それ以外の土地に住んでいる人々はその拠点集落に行くことによって、珍しい食物や新技術や新情報を得ることができるようなシステムを作ることを考えた。これが実現すれば、日本列島全体がまとまるであろうと思われた。この拠点集落の周辺にピラミッドを作ったものであろう。これによって、くさび文字のペトログリフが全国に散らばるようになったと考える。

 その指図を行い、日本列島全体を統括する人物が必要となる。この人物が後の飛騨王であろう。飛騨王は新技術を得るのを目的として、世界各地に人々を派遣したと思われる。その人々によって新技術が伝わったと考えることができる。

 この方法で海外から伝わったと思われる技術の一つが製鉄技術である。3600年前に明神平で縄文鉄が見つかっている。この頃には製鉄が行われたようであるが、これは、ヒッタイトが世界で最初に製鉄をした時期とほとんど同じである。また、3200年前に水稲栽培が始まっているが、これも海外に出た縄文人がその技術を持ち込んだものと考えられる。また、里芋が日本列島に持ち込まれたのが縄文時代後期と推定されており、これも、海外派遣された縄文人が持ち込んだものであろう。

 

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