縄文中期

 5500年前~4500年前

 縄文時代前期から中期にかけての時期は温暖な時期であり、中期末の今から4500年前ごろには縄文人の人口はピークの30万人程度に達していたと思われる。縄文文化の最盛期である。この時期を境に寒冷化が始まる。

 阿多カルデラ噴火

 7300年前ごろに鬼界カルデラの噴火があり、西日本の縄文人は壊滅した。その後1000年程人が住めない状況になっていたが、徐々に回復し、2000年ほどたった5500年前には縄文社会は再び盛況を迎えていた。この時期が縄文時代前期である。ところが、この約5500年前には鹿児島湾入り口近くの阿多南部カルデラで大噴火が起こった。このとき、池田湖が形成された。これとほぼ同時に発生したマグマ水蒸気爆発により山川湾、成川盆地、鰻池、池底、松ヶ窪などの噴火口群が相次いで形成され、鍋島岳や開聞岳が形成され現在に至っている。 池田カルデラの水蒸気爆発の後、さらに花崗岩岩片を含む火山堆積物を噴いてから大規模な軽石の噴出があり、大隅半島にも厚く積もった。吾平町での埋蔵文化財調査の現場では、この軽石層が20~30cmの地層になっていたそうである。噴出当時は1mくらいの厚さであったと推定され、当時住んでいた縄文人は再び壊滅したことであろう。

 縄文時代前期には温暖化が進み、海進によって漁労が盛んになった。沖合に出てマグロ・サメなどの大型魚やクジラ・イルカの捕獲もしており、その中で縄文人の遠洋航海能力が飛躍的に向上していた。そういった時に起こったのがこの阿多カルデラ噴火である。7300年前の鬼界カルデラ噴火時、当時の縄文人は遠洋航海技術が乏しく、命からがら、やむなく外洋航海に出たと思われる。緊急避難的に太平洋や大陸に避難した人々がおり、数十年後、それらの人々が戻ってくることにより、海外の情報がもたらされ、海のかなたには別の住める土地があることを知った。

 海外計画的移住

 7300年前の鬼界カルデラ噴火の時は緊急的に海外に避難したようであるが、5500年前の阿多カルデラ噴火の時は海外で土器が見つかるなどするため、計画的に海外に移住しているようである。

 八丈島進出

 八丈島の縄文人の痕跡は鬼界カルデラ噴火直後の湯浜人であり、この痕跡は間もなく消滅する。次に縄文人の痕跡が現れるのは5500年前頃からであり、この時は南関東や近畿・中部地方系の土器が出現していることから複数箇所からの移住であり、計画的に行われたものと考えることができる。この頃の縄文人は外洋航海技術を習得していたことになる。

 南米で縄文式土器出土

 エクアドルのバルデイビア地方で縄文土器そっくりの土器が数多く発見された。九州地方の縄文土器の形式をしているが、その原料は全てエクアドルの土であることが判明した。約5000年前、九州を出発した縄文人が南米大陸に移動したようである。5000年前は阿多カルデラが大噴火した時期とほぼ同時期である。阿多カルデラ噴火で九州に住めなくなった人々が、船に乗って計画的に船出したと思われる。

 九州から船出して黒潮に乗れば一日100km前後は移動できる。太平洋横断に6000kmほどなので、60日ほどで北アメリカ大陸沿岸に着くことになる。さらに海流に乗って南下すれば、エクアドル近辺に着くことができる。

 縄文前期の漁労生活により外洋航海技術を磨き上げ、また、鬼界カルデラ噴火によって海外に避難して戻ってきた人々より、海の向こうに何があるかを知っていた縄文人は思い切って太平洋に乗り出したのであろう。

 通常土器をはじめとする先端技術は基礎技術があって初めて出現するのであるが、バルデイビア土器は、基礎段階がなくいきなり出現している。これから、土器製造技術は外から技術がもたらされたものと考えることができる。時期・土器の特徴から縄文人がもたらしたと考えるのが自然である。縄文人の小集団がエクアドルに上陸後、そこを拠点として生活をして、現地の人々に溶け込んだものと考えられる。縄文人は本来他地域の人々と人的交流を活発にする人々であるので、現地の人々と共同生活をする中で自らの持っている技術を伝え、現地に溶け込むことになったのであろう。そして、その影響を受けた現地の人々が新しく文明を起こすことになるのである。

 南米大陸に上陸した縄文人はゴム生産を始めたと考えられる。ゴムはアステカ文明やマヤ文明でもその使用が見られる。この製法は 先ずゴムの木より、樹液を採取し加工する。樹木の幹に斜めに切り口を作り、流れ出る樹液を器に貯めて集めるが、この方法は漆器の製法と同じである。縄文人は漆の木に斜めに切り口を刻み樹液を採集していた。このゴムの樹液の採集方法を現地の人々に教えたのではないだろうか。

 この頃より、古代アンデス文明が始まっている。この文明に渡来した縄文人がかかわっているようである。

 バヌアツで縄文式土器出土

 南太平洋のバヌアツ共和国で約5000年前の縄文土器が発見された。バヌアツはオーストラリアの東、ニューカレド ニア島の北に位置するニューヘブリデス諸島が1980年に独立して出来た国である。そのエファテ島のヤムイモ畑を耕しているところから出てきた土器の図版が、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェによるバヌアツの考古学調査論文に収載されているという。それは縄の押檫文をもった細長い独特の形をした土器で、 3年後にその土器を検討した芹沢長介は縄文の円筒下層C,D式に酷似していると発表した。円筒式土器の出土地域は日本列島のなかでも東北地方北部と北海道南部に限られており、当然ながら三内丸山遺跡からも 出土している。更に、バヌアツ土器の成分分析をおこなった結果、青森県出土の縄文土器と一致したという。 バヌアツは日本列島から、約6000キロも離れているが、比較的小型の土器が多いようである。しかも、出土した土器の時代に幅があるので、偶然に1回行っているのではなく、何回か往復していることがうかがわれる。

 この仮説は、釣り針の研究からも裏付けられている。シベリア、日本、ミクロネシア、ポリネシアの釣り針は同系列であり、同型の釣り針が太平洋上に点々と存在すると云うことは、その点線上に交通線が存在し、人が移動し、文化(釣り針)も移動したということを意味している。

 東北地方から、伊豆諸島に移り住んだ人々が伊豆諸島、小笠原諸島と南下し、マリアナ諸島、カロリン諸島、ソロモン諸島、バヌアツと移動したものと考えられる。往復している様子が見られるので、この移動は緊急避難ではないようである。

 朝鮮半島進出

 5000年前ごろより、朝鮮半島東部からシベリア日本海沿岸にかけて、縄文系土器や隠岐の島の黒曜石が出現するようになる。これは縄文人がこの地域に移住したものと考えられる。この移動も一時的なものではなく恒常的なもののようで、環日本海交流ルートが完成したようである。

 環状集落の発達

 環状集落とは中央広場を中心としてその周辺に住居が存在する縄文時代の典型的な集落である。環状になっているということは、中心となる人物が存在していないということを意味し、すべての人々が平等で身分差が生じていないことを意味している。

 縄文時代前期に生まれた環状集落は、最初は数軒だったが、中期になると数10軒にまで増えてくる。人口の増加が原因と考えられる。ドングリの森は、大所帯の食料が十分に賄えるほど成長しているのであろう。人々は、大人数で暮していく術を身につけて、社会が形成されてきている。

 具体例として中期の埼玉県嵐山町の巨大環状集落である行司免遺跡について考えてみよう。

 全体の特徴

 この環状集落は、中央広場に土坑群、その周囲に掘立柱建物群、さらにそれらを囲む住居群と貯蔵穴群が配置されていた。このムラは、径約100メートルの広場を持つ典型的な環状集落である。家は10数軒から多いときで20軒ほど。人口は50から100人くらいと考えられる。ムラは数100年にわたって、途切れることなく続いた。260軒以上の住居跡が、びっしりと重なり合って発見された。このことは、数100年の間に家の新築や建て替えが何度も行われたことを意味している。

 住居の様子

 竪穴式住居は、地面を50センチメートルくらい掘った穴の底が床になる。4本から6本の柱で屋根を支え、出入口は日が射し込む南向きにし、中央には石を組んだ炉が作られている。夏は涼しく、冬暖かい家と推定される。行司免遺跡の場合、床面積は11から53平方メートルほど。平均12、3畳といったところで、1軒には5人から、大きな家で8人くらいが暮していたと考えられる。

 中央広場の様子

 ムラの中央広場は、径100メートルもある広い空間である。ムラが続く数百年間、家が建てられることはなかった。ムラ人共有の場という約束事が守られていたようである。広場には墓地があり、折々にはマツリも行われたと思われる。神聖な領域であったようである。ムラの西側と北には、浅い谷を利用したゴミ捨て場が決められていた。行司免遺跡では8カ所の墓穴が見つかったが、住居跡の数に比べて極端に少なすぎ、骨の残りにくい土壌と考えられなくはないが、交流が激しい村なので、死が迫った人はこの村から出ていったことも考えられる。

 外来土器の存在

 勝坂式、阿玉台式と呼ぶ様式の土器が出土する。勝坂式は西関東から中部地方に、阿玉台式は関東地方東北部に分布の中心がある土器群である。また、甲信地方で生まれた曽利式土器様式のものも含まれている。このことから、色々な地域から人々が集まってきてムラを形成しているようである。

 中核のムラ

 縄文時代中期は最も遺跡数が多い時期である。比企丘陵でも川に沿って連綿とムラが営まれている。ところが個々に調べると、長期間続いた大規模なムラは、現在のところ僅かに4か所しか存在しない。中でも嵐山町の行司免遺跡は別格で、中期の中ごろから終末までずっと継続していた。一般の小規模の集落は長く続かずに数十年ほどで移動しているが、特定のムラのみが長期にわたって繁栄しているのである。行司免ムラはちょうど平地の突きあたり、山地の入口に位置している。山に住む人と海沿いの人がともに集まりやすい、便の良い道筋にある。ムラは物資の集積所、輸送の中継基地のような性格だったのではないか推定する。基地ならば数が少ない方がより多くの物が集まるし、常に決まった場所になければ不便である。行司免ムラは荷を運び、必要な品を手に入れる人々の行きかう、地域の中核だったと思われる。

 周辺のムラの人々は、この中核のムラに来ることによって、新しい物や情報を交換する場として活用していたのではあるまいか。このムラはその目的のために作られていると考えられ、ここに住んでいる人々は、物々交換や情報交換のために働いていたと考えることはできないだろうか。そのために、働ける人々が周辺集落から集まってきて、働けなくなった人々は本来の自分のムラに戻って亡くなったのではあるまいか。そのために、このムラ内に土壙墓が極端に少ないのではないかと考える。

 この中核となるムラも後期になると同時に消滅している。寒冷化により、人口が減少し、こういったシステムが継続できなくなったのではないだろうか。

 縄文人の生活

 縄文人は個人所有の概念がなく、すべてのものが共有のものであったようである。そのため、縄文人が旅をするとき、どこのムラに行っても歓迎してくれることになり、そこでしばらく共同生活するということがよく起こっていたと考える。行司免のムラでも、時々来訪者があり、ムラの人々はその来訪者を歓迎した。ムラの人と来訪者が結ばれることもあり、その来訪者が10年ほど共同生活してから、元の自分のムラに帰っていくのであったろう。このようにして縄文人同士交流が活発であり、情報交換、物々交換も頻繁に行われるような環境にあったといえる。

 縄文中期のムラは環状集落が多い。環状集落は広場を中心として周辺に掘立柱建物群、さらに外側に竪穴式住居がある。この状況から、縄文人の生活パターンを推定する。縄文人にとって最も大切なのは広場であろう。広場は共同活動の場で、交流の場である。遊びの場であり、祭りの場である。これは、そういった活動時間が長かったことを意味する。通常古代の人々は生活のための食料調達にほとんどすべての時間を費やす状況が考えられるのであるが、この時代は食料が多く、食料調達の時間は一日4時間程度だったともいわれている。その残り時間を生活を楽しむために使っていたことが想像される。

 そのために、人々は装飾に気持ちが向くようになり、縄文人は自らの装飾に走り、遺物も装飾系のものが多くなってくる。ムラ同士の戦いもなく、身分制もなくすべての人々は仲良く、共同生活を楽しんでいるという状況であった。

 ここまでは世界最先端の縄文文明であった。ところが、海外の人々は厳しい環境で生活していたため、様々な工夫を凝らすことになり、海外先進文明に遅れることになったようである。

 ヒスイ製勾玉の制作開始

 北海道の美々4号遺跡、ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、新潟糸魚川の長者ヶ原遺跡、寺地遺跡、長野の離山遺跡などからヒスイ製勾玉が出土している。縄文中期(BC5,000年)にあたるこの頃から作られるようになったようである。特に長者ヶ原遺跡や寺地遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、この工房で作ったヒスイ製勾玉を各地に配ったようである。

 勾玉は守り神の性格を持つもので、最初は動物の牙を守り神としていたのが、次第に石の加工品となっていったものと言われている。守り神兼装飾品と言ったところであろうか。

 勾玉は最初、滑石や蝋石などの柔らかい意志が使われていたが、5500年前ごろより、翡翠の勾玉が作られるようになっている。翡翠は硬度6.5~7.0ほどもある、非常に硬い石である。加工が大変なはずなのであるが、長い時間をかけて少しずつ削っていったものと考えられる。特に孔を開けるのは大変な作業だったと思われる。細い矢竹のようなものを持 って、水と砂をかけながら、手でもんだり、弓錐でもって穿けていくという根気の要る作業だったであろう。

 このような、大変な作業を要するのに、わざわざ翡翠の勾玉を作ったのはなぜであろうか。その一つに固いがために傷がつきにくく長持ちをするということ。色が緑色ということも理由の一つのようである。ほぼ同じころに広まったストーンサークルも緑系の色の石が多用されている。また、同じ翡翠でも他の色の翡翠は勾玉としては制作されていない。緑色は当時神聖な色と認識されていたようである。神聖な緑色をしており、傷がつきにくい翡翠は貴重な存在だったのであろう。そのため、時間をかけて丁寧に制作されたものであろう。

 太陽信仰の始まり

ストーンサークル

 前期末に長野県阿久遺跡で最古のストーンサークルが見つかっているが、中期には徐々に北方へ広がっている。ストーンサークルの特徴は山のふもとの舌状台地に築かれ、少し離れた場所に日時計状配石があり、そこから、ストーンサークルの中心を見るとその方向は夏至の日の日の出の方向と重なっている。太陽を意識していることは明らかである。近くに川があり、石はその川から運ばれてきているようである。周辺には祭祀系土製品が出土することが多い。

 

 
 野中堂環状列石内の日時計状列席の模型

 ところが、墓を伴うことがあったり、日常生活系の土器があったりなかったりと、その運営方法はばらばらのようである。ストーンサークルの共通の扱い方というのはないようであるが、ある種の祭祀系施設であることは確かなようである。

 縄文時代前期より、食用植物の栽培が始まっており、種子を植える時期や作物を採取する時期というのが重要な要素となる。その時期を判定する装置として考え出されたのが、ストーンサークルであろう。

 ほぼ時期を同じくしてイギリスのストーンヘンジ等海外でのストーンサークル用施設も作られるようになっれいる。前期の鬼界カルデラ噴火によって海外に避難した人々が、戻ってきたときに、太陽をもとに時期を判定する方法を持ち込んだものと考えられる。この方法が次第に周辺に広がり、ストーンサークルが次第に作られるようになっていったものであろう。しかし、統一的な祭祀形態というのは、まだ形成されていないようで、各地でバラバラに活用されていたと考えるべきであろう。

 この時期の巨大縄文遺跡である三内丸山遺跡にはストーンサークルは見つからないが、6本柱の巨大モニュメントが存在している。この6本柱の1本から日の出の太陽の光の差し込む方向を調べると、下の図のようになっており、季節を探る役割をしていることが分かった。ストーンサークルの代わりをしていると考えられる。

 

 日の出の方角から、その季節を知り、作物の栽培、収穫の時期を判定するのに用いていたと考えられる。

 火焔土器

 縄文時代中期になると異様に派手な装飾をした火焔土器が新潟県を中心として出現する。火焔型土器は殆どが深鉢形土器で、胴部は粘土紐を貼り付けてS字状、渦巻状などの文様を施している。縄文による装飾はほとんど見られない。上部には原則として4か所に大ぶりの突起があり、これは複雑な形状で、粘土紐によって装飾され、把手以外の口縁部は鋸の歯状に形作る。これらの装飾が何を表したものかは不明であるが、全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから「火焔型」土器と呼ばれている。集落内の特定の場所で発見される傾向はなく、またオコゲがついているものも出土することから、煮炊きに使われたものもあると考えられる。しかしその形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われることがあったと思われる。

 file-107 国宝・火焔型土器はアートか?~縄文文化を探る旅(前編)
笹山遺跡出土、国宝・火焔型土器・十日町市博物館

 この火焔型土器を真上から見た形は、ストーンサークル内の日時計状列石とよく似ている。4方向に大きな石があり、その間に小さい石が配置してある。火焔型土器も4方向に大きな取っ手があり、その間に炎のように見える小突起がある。出現時期もほとんど同じであるので、目的が同じではないかと思われる。集落内の特定の位置に方向を特定して設置すればストーンサークルと同様の役割ができるのではあるまいか。ストーンサークルは作るのが大変であるが、火焔型土器は小規模で簡単に作ることができる。また、火焔型土器は真上から見ると太陽のようにも見え、太陽崇拝の始まりではないかと考えることができる。

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縄文後期
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