孝霊天皇即位

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 第6代孝安天皇は楽楽福命(後の第7代孝霊天皇)が伯耆国に派遣されている孝霊52年(AD173年後半)大和にて崩御した。この時、孝安朝の有力者は地方に派遣されていて、大和国内には不在であった。早速大和から有力者の派遣先に孝安帝崩御の訃報が伝わった。

 楽楽福命は皇太子であるため、第7代天皇の位を継承するために大和に帰ることとなった。同じく各地に派遣されていた有力者は大和に帰還したと思われる。楽楽福命は孝安天皇の葬儀を行うとともに第7代孝霊天皇として即位した。

 孝霊天皇の東倭対策

 瀬戸内海沿岸地方の対策

 伝承から判断して孝安天皇は慎重派だったようで、積極的に地方に働きかけをした様子が見られず、地方との交渉が長期化していたのである。これに対して孝霊天皇は積極派であったようであるが、即位直後はまだ物事に慎重だったようである。

 孝霊天皇即位直後、兄である大吉備諸進命が体調を崩し、派遣されていた吉備国に戻れない状況にあった。大吉備諸進命には二人の子があり、兄は彦狭島命(吉備津彦)、弟は稚武彦命(若建吉備津彦・吉備武彦)と呼ばれていた。この兄弟は後の時代の吉備津彦と合わせて様々な名で呼ばれており、吉備津彦伝承を複雑化している。

 大吉備津彦命が崇神60年281歳で亡くなったとの伝承をもとに逆算すると、大吉備津彦命生誕は孝安75年となり、これはAD160年に該当する。この年が、兄の彦狭島命の生誕年とすれば、孝霊天皇が即位した孝霊53年には現年齢で13歳になっていることになる。彦狭島命が吉備国に派遣されて活躍するには古代といえども若すぎると思われる。少なくとも成人年齢に達していたと思われ、13歳なのは、弟の稚武彦命の年齢であろう。兄の彦狭島命は15歳か16歳程ではあるまいか。両者とも父である大吉備諸進命と共に吉備国に派遣され父と共に活躍していたと思われる。

 この吉備津彦兄弟は血気盛んであったようで、吉備国に対してかなりの積極策を孝霊天皇に提案したようである。

 この頃の瀬戸内海沿岸地方には海賊が出没し、大和と九州との交流に大きな支障が出ていた。外国からの先進技術も入りにくい実態があり、瀬戸内海の交易路の安定は最優先しなければならない程のものであったが大吉備諸進命の対策は話し合いが中心であり、その様子を見ていた吉備津彦兄弟は武力による平定を考えるようになっていったのであろう。

 古事記の孝霊天皇の条に,「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは,二柱共々に,播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。」と記録されており、この兄弟の最初の行動は播磨の氷河の碕における祭祀であることが分かる。現在この地には日岡神社(兵庫県加古川市)が建っている。稚武彦兄弟は、ここで戦勝祈願したものであろう。ホツマツタエによるとこの年は孝霊53年であり、孝霊天皇即位の年である。孝霊天皇が即位した直後に吉備津彦兄弟を派遣しており、瀬戸内海沿岸地方の安定はかなり急務だったことがうかがわれる。

 まだ迷いのあった孝霊天皇に対し、武力平定を強く訴えたのが吉備津彦兄弟であろう。瀬戸内海沿岸地方の安定は急がれるので、孝霊天皇は武力平定を裁可したのであろう。

 伯耆国対策

 孝霊天皇は即位後暫らくした孝霊55年ごろ伯耆国を再び訪問している。

菅福の里(立花書院発行「日野川の伝説」)

 孝霊天皇は大倉山・鬼林山に鬼が出没するうわさを聞き、皇后細姫、歯黒王子を伴い鬼退治に出発した。丁度上菅の里に着いたとき、 皇后細姫の陣痛が始まった。戦いに向かう途中なので何の準備もなく、日野川の河瀬の大岩の平坦なところに菅の葉を敷き、しばらく休んで もらうことになった。これにより、この周辺を下菅、中菅、上菅と呼ぶようになった。

 やがて、細姫はかわいい姫を産まれ、福姫命と名づけられた。そのとき産湯を使われた産盥という場所も残っている。

 福姫命は13歳までこの地で過ごされたといい。そのときの行宮が高宮神社の小高い丘である。福姫命はこの地から 4キロほど離れた井原の温泉場に出かけられることがしばしばあり、この地の対岸の福長という地名は福姫命が井原までの長い道のりを歩か れたことに由来するという。

 菅の里というのは、菅を刈って敷物を作り小屋掛けをされたところから名づけられ、「鏡石」は細姫命が肌身離さず持っておられた鏡を石の上 に置かれたところ、鏡のあとがくっきりと残ったところから名づけられた。また、孝霊天皇と細姫命、福姫命がしばらく過ごされた頃、 このあたりは仮の都となり、地名も「都郷(都合)」と呼ばれるようになったという。

 孝霊天皇は鬼たちとの戦いになかなか勝つことができなかった。福姫命が13歳になったとき、印賀にも鬼が現れ、孝霊天皇は細姫命、 福姫命を印賀の里に連れて行った。

 福姫は15歳の時印賀の里で亡くなっている。このとき、母の細姫存命中で、細姫は孝霊71年に亡くなっている。これらより、逆算すると菅福の里に孝霊天皇がやってきたのは孝霊56年頃となるのである。

 孝霊54年に兄の大吉備諸進命が亡くなっているので、兄の葬儀後孝霊天皇は伯耆国を再び訪問したことになる。この時、同伴している妃は朝妻姫ではなく細姫である。細姫は孝霊天皇即位2年(孝霊54年)に皇后となっている、孝霊天皇は孝霊55年に細姫を伴って伯耆国にやってきたのであろう。

 孝霊天皇は伝承では菅福の里に13年間滞在したことになっているが、天皇の身分にある者が13年(現年齢計算で6年半)にもわたる期間他のことを差し置いてこのようなことは可能だろうか。実際この期間中に岡山県の吉備中山にも滞在していたようであり、孝霊天皇は妻子を置いて地方を巡回していたと思われる。

 大倉山・鬼林山の鬼たちと戦っている最中、その近くに祭祀を置き去りにして他の地に滞在するというのは考えにくいことである。大倉山・鬼林山の鬼との戦いには吉備国平定中の吉備津彦が加わっており、大倉山・鬼林山の鬼との戦いは吉備国平定完了の孝霊72年以降のことと思われる。

 孝霊天皇一族が菅福の里に来たのは戦闘目的ではなく、平和の使者であったのではないだろうか。伯耆国は孝霊45年からの孝霊天皇の活躍により朝廷の支配地に入っており、孝霊55年頃は争いがなかったのではないかと思われる。干ばつ続きで人々が苦しんでいたためにこの地方の人々に農業技術を伝えるために細姫はこの地に滞在していたのではないかと考える。

 伯耆国の中心地である妻木晩田遺跡周辺は新技術の導入で人々の生活が改善されていたので、細姫が奥地の開発に参加していたのであると思われる。平和であったからこそ孝霊天皇は妻子を残して他の地方を巡回できたのである。

 伯耆国へやってきた孝霊天皇は出雲国との交渉を重ね、一段落した孝霊58年頃大和に帰還しているようである。

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