今宮神社

(吉備津神社境内社)

H17.04.09



庄原市高町


 祭神 神武天皇




由緒
 貴重なる関係文書なきため詳細不明なるも、古老の言によれば、広島にご滞在中当地方まで御巡遊ある中に出雲方面との関係を生じ当地にその間数度御足を止められ御視察あり、物資を出雲方面より御取り寄せ遊ばさる。御滞在在りし由
                                               (神武天皇聖蹟誌・広島県)

神武天皇が長期間にわたり安芸国に滞在した理由を探っていたときに出てきた神社である。安芸国に滞在していた神武天皇は何回も出雲との往復をしていたことが分かる。安芸国からは弥生後期中ごろより畿内系土器の出土が始まる。このことから、安芸国への滞在は東倭から安芸国を大和朝廷に譲り受けるためだったのではないかと推定。この神社の位置は地図では確認できなかったが、芸備線高駅の裏に存在した。神武天皇はここを通って出雲往復をしていたようである。
 その経路は現在のところ確認できていない。

 都辨志呂神社
能義郡広瀬町

H17.04.09


祭神 素盞嗚尊,岐戸大神

由緒 上古素盞嗚尊が岩坂の方から駒返り峠を越えて飯梨川筋へ出られ、流域を巡行せられし際、現在の広瀬町中町字札場のあたりで休息し。安来方面に向かって出発せられし際、その腰掛け給いしところに御杖を忘れおき給いしを、郷人、こは尊の御杖なれば畏しとて、その御杖と腰掛け給いし石とを霊代として、その東方約一町の地、すなはち現在の鍛冶町後丁の地に社殿を建て、素盞嗚尊を主神とし、これにそのとき道案内をし給いし岐神を配してお祀りした。

 スサノオが出雲国を建国したBC10年ごろ、周辺の国々が次々に出雲国に加盟し出雲国は次第に巨大化してきた。スサノオは加盟してきた国々を巡回している。そのときの様子が伝えられている。吉田大洋氏による「古代出雲帝国の謎」によると、出雲国の創始者は岐戸大神となっている。岐戸大神は道案内の神ということで、道案内した人物はすべて岐戸大神とされているようである。多くの神社でサルタヒコとして祭られている。しかし、サルタヒコとは活躍していた時代が異なり、本来の岐戸大神はスサノオに加盟した一つの小国の国王だったのではないかと推定している。岐戸大神の子がオオクニヌシであったとすれば、オオクニヌシはスサノオの娘スセリ姫と結婚したため出雲国をスサノオから受け継いでいる。男系で見れば出雲国の創始者は岐戸大神となり、富氏の伝承(古代出雲帝国の謎)と重なるのである。

母塚山

H17.04.09

鳥取県米子市


 母塚山

 母塚山はイザナミ御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、イザナミを祭った神社が山頂にあったそうである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、イザナミ御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである。今回山頂まで言ってみようと思ったが、時間がなくて行くことができなかった。登山道ははっきりしているので、又いつか予定を立てて登山しようと思う。

 この周辺地域にイザナミ伝承がほとんどないので、母塚山が真のイザナミ御陵とは思われない。孝霊天皇がイザナギとして神話上で扱われている様子から判断して、孝霊天皇が伯耆国で生活していたときの現地妻の一人の御陵ではないかと想像している。倭の大乱終了後、米子近辺は孝霊天皇の皇子の誰かが吉備国と共に治めていた(その拠点が福市遺跡ではないか?)と思われる。ここに葬られたのはその母であろう。

楽楽福神社(上安曇)

参道

拝殿

 写真は華日宮有華様から提供していただきました。参道と拝殿が同じ方向を向いていないのでその方向を確認すると、拝殿は真北を向いていました。何か理由があるのか?

 楽楽福神社は孝霊天皇関連伝承地にある神社です。この神社には伝承は伝えられていませんが祭神は孝霊天皇です。孝霊天皇がこの周辺まで来ているという証のようです。
 吉備国から侵入してきた孝霊天皇は鬼住山の出雲軍を打ち破った後、ここに来たのではないかと思っています。伯耆国にはイザナギ(孝霊天皇)が伯耆から出雲に入ったという伝承があり、孝霊天皇は倭の大乱の最後の決戦のとき、ここを拠点として島根県伯太町安田関を経由して広瀬の佐々布久神社の地までいき、そこで軍をまとめた、と判断した。

長者屋敷跡

仁多町佐白

H17.04.16

元結掛けの松 八重垣神社跡

 元結掛の松
「足摩椎、手摩椎の末娘櫛名田比賣が髪を結うとき元結を掛けたと伝える松は巨木となって今日まで何代も生え変わった。現在の松は昭和の中頃に台風で折れた大松の跡に生えたもので6代目とも8代目ともいう」

と記録されていた。すぐそばの階段を登ると八重垣神社の跡があった。ここは足摩椎、手摩椎の屋敷があったところでスサノオがヤマタノオロチ退治をした後しばらく住んでいたと伝える。

 大森神社

木次町東日登

H17.04.16

大森神社 神社前の風景

神社に由緒書きがあった。大変読みにくく解読に誤りがあるかもしれないが、おおよそ以下のような内容である。
祭神 素盞鳴尊、稲田姫命、大己貴命、天日腹大科度美命
「素盞鳴尊がヤマタノオロチを退治した後、須貿に向かう時、この地に立ち寄った。その後、出雲王国最後の天日腹大科度美命が住んでいた場所」

城名樋山

木次町里方

H17.04.16

出雲国風土記に
「城名樋山。郡家の正北1里1百歩。天下所造らしし大神、大穴持命、八十神を伐たむと為て城を造りき。故、城名樋山という。」

とある。大穴持命=出雲振根、八十神=大和朝廷と考えると、倭の大乱における木次会戦の出雲軍の陣地と考えることができる。斐伊川をはさんで反対側の粟谷天辺に吉備津彦の陣があり、木次で対戦した様子が伺われる。

 八口神社
   (壺神様・木次町西日登)

H17.04.16

壺神様 山奥にある神社

 スサノオがヤマタノオロチを退治するとき仮屋を建てたところで、ヤマタノオロチに飲ませる酒を入れておく壺を8つ用意したがそのうちの一つがここにある壺神様である。

かなり山奥にあり、この神話の実態については今のところ明らかではない。

温泉神社
木次町

H17.04.16

足摩椎、手摩椎の神陵 萬歳山

 天が淵に迫る山を萬歳山という。足摩椎、手摩椎は姫を連れてこの山麓に住んでいた。ヤマタノオロチが来ると、後ろの山に駆け上り逃れていた。この屋敷跡は国道改修のために取り壊されるようになり温泉神社境内に移されました。なお、萬歳山の山頂近くに大きな岩があり、両神の御陵という。

大宮八幡宮
 比婆郡高野町南

「南村高大宮に太古より鉾を神宝として伝える。これは、神武天皇が鬼城山の鬼神を退治したときの鉾である。近くに玉来山がある。この山の麓に高龍宮があり、ここを高島という。
 神武天皇、ここに行幸あらせられ、御船を作り給へりと伝える。この南方に男滝、女滝がある。この滝の間に船入置谷があり、神武天皇はここまで船を乗り入れた。」
「鬼城山は南の奥山にあり、この山に埴土丸という鬼神が住み、大盤石を積み重ねた築地がある。上に大沢があり鬼ヶ池という。沢の中に島があり、この島に居を構えて幾多の賊を養い、郷民に害を及ぼしていた。神武天皇は剛風彦を先陣としてこの鬼を退治した。そのとき多くの矢、剣、鉾を獲得した。」

 このような伝承が伝わっている。(神武天皇聖蹟誌)

火室山
(高野町下門田)

火室山 山麓には4月16日時点で雪があった。

「この氷室山の麓を氷家御所という。毎年6月まで氷がある冷山である。昔神武天皇御来幸の砌、6月朔日天皇に氷を捧げ奉ったと伝える。」(神武天皇聖蹟誌)