信濃国統一

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 信濃国は「諏訪大明神絵詞」によるとすでに縄文系の国があったようである。また、開拓したという人々は、建御名方命率いる諏訪族、思兼命率いる阿智族、穂高見命率いる安曇族と他の国に比べて、かなり複雑な様相をしている。この信濃国はどのようにして統一されたのであろうか。

 信濃国のおもな神社の伝承は以下のようなものである。

神社 住所 祭神 饒速日尊 創建 備考
一宮 諏訪大社 長野県諏訪市・茅野市 建御名方命・八坂刀売命・八重事代主神 不詳 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
二宮 小野神社 長野県塩尻市北小野175 建御名方命 崇神 建御名方命は科野(しなの)に降臨し、しばらくこの地にとどまり諏訪に移った。その旧跡に崇神天皇の時祭神を勧進奉斎す。
二宮 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢 正殿 :大己貴命 ・事代主命 副殿 :建御名方命・八坂刀賣命 欽明 遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれた折り、御子の事代主命と建御名方命をしたがえて、この地にお寄りになったと伝えられている
三宮 沙田神社 長野県松本市島立区三ノ宮字式内3316 彦火火見尊 豐玉姫命 沙土煮命 大化 孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以って祭祀す
三宮 穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。主神穂高見命は、別名宇津志日金折命と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる。
四宮 武水別神社 長野県千曲市八幡3012 武水別大神 孝元 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。
生島足島神社 長野県上田市下の郷 生島神、足島神 神代 古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。
三輪神社 長野県上伊那郡辰野町辰野下辰野新屋敷2095 大己貴命・建御名方命・少彦名命 大己貴命・少彦名命が神代にこの地に留まったと伝えられている。
阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となる。
安布知神社 長野県下伊那郡阿智村駒場 2079 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」に、天思兼命とその子天表春命は共に信濃國に天降り、阿智祝部等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めていた。
戸隠神社 九頭龍大神 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社である。その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
しかし、山岳密教の霊場として戸隠に行者が入るようになった平安時代には、戸隠山の神様は農耕の水を司る「九頭竜」で、まだ「天の岩戸開き」とのゆかりは語られていなかった。
 「天の岩戸」と戸隠が文献上で完全に結びつくのは、室町時代。修行僧のひとり有通が、戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した『戸隠山顕光寺流記』の中のことである。以来、戸隠神社の御祭神は、岩戸開きに関わった神々と地主神であることが、神社の由緒として語り伝えられてきた。
 九頭龍社は奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。古くは虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。地元の人によると戸隠の九頭龍神は梨が好物だそうである。九頭龍大神は饒速日尊と思われる。
阿禮神社 長野県塩尻市塩尻町大宮6 素盞嗚命 不詳 素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平げて後、科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平げたという。その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源。
荒彦山は、今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるという
穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にある。その奥宮は、穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は、奥穂高岳の頂上に祀られている。
対馬の豊玉彦命の子でありる穂高見命は海神族の祖神で、その後裔の安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であった。
川會神社 北安曇郡池田町会染十日市場 底津綿津見命 景行 川會神社は、川の氾濫を防ぎ、耕地や村落の荒廃を免れるために創始された神社であるが、水害により度々遷座されるという、まさに水との戦いに明け暮れた社となった。
 御祭神の底津綿津見命は安曇野市穂高神社の御祭神・穂高見命の父神にあたり、まさに安曇郡内の式内社二社は安曇族の祖神二柱をお祀りしている神社でした
當信神社 上水内郡信州新町信級字当信平 大年神/建御名方命 往昔土地開拓の草創時代により上下一般の崇敬を享けた
更級斗売神社 長野県長野市川中島町御厨 1622 健御名方命 (配祀)八坂刀売命 健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。
小川神社 長野県上水内郡小川村大字小根山6862   健御名方命 不祥 祭神・健御名方命が出雲での武甕槌命との戦いに敗れ、
母神・沼河比売命の郷里・糸魚川を経て信濃を開拓。母神への往来(糸魚川街道)の要衝である当地に村民が、その徳を慕って奉斎したという
守田神社 長野県長野市七二会字守田乙2769 守達神、大碓命、久延毘古命、大物主命、健御名方命、素盞嗚尊 守達神は健御名方命の御子神で当地開拓の祖神。
健御名方富命彦神別神社 長野県長野市箱清水1-3 健御名方富命 健御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。
地方民はそのときの健御名方富命の徳を敬仰追慕し奉祀した
越智神社 須坂市大字幸高字屋敷添389 饒速日命 湧水池の多いこの地に移住し田畑を耕して越智氏の祖神饒速日命を産土神とした。
高杜神社 長野県上高井郡高山村大字高井字大宮南2040 健御名方命、高毛利神、豐受姫命、武甕槌命 古老の伝によると、高杜神社祭神の高杜大神は、この地の濫觴(らんしょう:始めること)の太祖(祖先)である。 そのため、その神徳を仰ぎ奉りて郡名を高位と称したところ、郷里はおいおい繁盛して一郡になったという。 また、諏訪社旧記にはつぎのようにある。多加毛利命は健御名方富命の子供で、高位県を守り給う神である。 だから、高位県大明神と称している。」
 この伝承によると、諏訪大社の祭神である健御名方富命とその子供の多加毛利命が高杜神社の祭神
大宮諏訪神社 野県北安曇郡小谷村大字中土字宮ノ場 建御名方命・
八坂刀売命
旧社地「すわま」は、諏訪明神(建御名方命)の信濃入りの際の神跡と伝えられる。

 安曇族とは

 長野県安曇野市穂高6079の穂高神社には対馬の豊玉彦の子である穂高見命が穂高岳に降臨し、安曇野地方を開拓したと伝わっている。 豊玉彦の娘豊玉姫と日子穂穂出見命が結婚しているので、穂高見命も日子穂穂出見命とほぼ同世代と考えられる。つまり建御名方命と同世代であり、 穂高見命が安曇野にやってきたのは、建御名方命が信濃国にやってきたのとほぼ同時期となる。饒速日尊が信濃国開拓の人手不足から安曇族も対馬から 呼び寄せたものであろう。

 建御名方命は伝承によると姫川を遡って信濃国に入ったことになっているが、安曇氏もほぼ同じコースである。また、時期もほぼ同じ時期と 推定されるので、両者は一緒に信濃国入りしたのではないだろうか。

 生島足島神社の伝承によると生島足島神(饒速日尊)に奉祀した事になっている。饒速日尊が滞在している処へ建御名方命がやってきたようである。 居多神社・斐太神社の地では饒速日尊と建御名方命・事代主命が行動を共にしていたのであるが、信濃国への入国は別々のようである。 生島足島神社の伝承から饒速日尊・事代主命の方が先に入国していたと判断できる。饒速日尊・事代主命は斐太神社の地から関川を遡り、 現在の信越本線に沿って信濃国に入ったと思われる。野尻湖から鳥居川に沿って下り、豊野で千曲川流域に出る。千曲川を遡り、 上田市の生島足島神社の地で、開拓事業をしていたのであろう。

 建御名方命が饒速日尊と別行動をした理由は、安曇一族を信濃国に導くためではないかと考えられる。斐太神社の地で、 饒速日尊と別れた建御名方命は姫川の河口付近で穂高見命が安曇一族を導いてやってくるのを待った。安曇一族と合流後、 姫川を遡り信濃国に入ったと推定する。

 安曇一族はなぜ、信濃国にやってきたのであろうか。安曇一族は対馬の豊玉彦の一族である。対馬は海外交易の通り道にあり、 常に朝鮮半島からの最先端に技術が入ってきていたと思われる。安曇一族は、おそらく、当時の日本列島内で最も進んだ最新技術を持った集団と 解釈してよいのではないだろうか。また、豊玉彦は飛騨国王家の血筋の人物で縄文人である。先進技術を持った縄文人となれば、東日本統一に最適といえる。

 饒速日尊は信濃国を統一するのは他の地域に比べてはるかに難しいということを知っていた。そのために、 最先端技術を持っている縄文人の安曇一族に協力を求めたのであろう。穂高見命は豊玉彦の一男二女(穂高見命・豊玉姫・玉依姫)の三人の子供の ただ一人の男子である。普通なら対馬国の後継者になるはずの人物である。この頃日向国の彦穂穂出見命が対馬に滞在しており、豊玉姫の婿として 対馬に婿入りした頃であった。彦穂穂出見命が対馬国の後継者として期待されていたので、穂高見命を安曇族の今後の発展を願って、 信濃国に派遣したものであろう。

 越国の国譲りが成功した直後、饒速日尊が次の信濃国の統一のために、安曇一族に期待して対馬から呼び寄せたと思われる。 安曇一族は姫川河口に到着し、そこで待ち受けていた建御名方命と共に姫川を遡り、白馬村神城の地で安曇一族と別れた。建御名方命は神城から 大町市美馬に抜け、そこから土尻川に沿って下り、信更町で犀川に合流し、犀川を下って長野市に至った。この経路上に小川神社、皇足穂神社がある。このあたりを通過したのであろう。

 穂高見命率いる安曇一族はそのまま南下し、青木湖、木崎湖を経て大町市に到着した。そこから高瀬川に沿って下り、穂高の地に落ち着いた。 穂高の地に着くと、周辺の地形を確認するため梓川を遡り、上高地から穂高岳に登山した。安曇一族は穂高岳から見渡せる一帯を開拓した。 今の安曇野市である。

 八坂刀売命の正体

 建御名方命の妻は八坂刀女命である。建御名方命はこの姫といつ結婚したのか伝承には全く伝わっていない。 越後国の式内社(論社を含む)に建御名方命を祀られているのは11社あるが、その中に妻が祭られているのは1社しかない。 これから判断すると、建御名方命が結婚したのは信濃国に下ってからとなる。

 長野県内で八坂刀女命が建御名方命と共に祭られている神社は長野市近辺に圧倒的に多い。八坂刀女命は長野市近辺で建御名方命と結婚したのではあるまい か。長野市近辺の神社を調べると長野市に夫無神社と言われていた妻科神社があり、そのすぐ近くに、健御名方富命彦神別神社がある。 この神社は「御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。地方民はそのときの健御名方富命の 徳を敬仰追慕し奉祀した」と伝えられている。また、長野県長野市川中島町御厨 1622に更級斗売神社があり、「健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。この付近が、平安時代の「斗女」郷の中心地と考えられている。」。このことから、八坂刀売命の本拠地は川中島であり、健御名方富命が健御名方富命彦神別神社の地に滞在している時に知り合ったものと考えられる。結婚前の八坂刀売命は妻科神社の地に滞在していたと思われる。

 八坂刀売命は天八坂彦の娘とも穂高見命の妹とも云われている。どちらが正しいのであろうか。もし、穂高見命の妹であれば、対馬からやってきた安曇族に属し、兄である穂高見命と一緒に来たとも思われるが、それならば、穂高神社に八坂刀売命が祭られていなければおかしいが、穂高神社の祭神に八坂刀売命はない。また、建御名方命が安曇野から長野市方面に移動する中間地にある神社にも建御名方命のみで八坂刀売命は祭られていない。これより八坂刀売命は天八坂彦命の娘であることになる。天八坂彦命は饒速日尊と共に降臨したマレビトの一人である。おそらく、八坂彦は饒速日尊が信濃国に入国する前に信濃国の川中島周辺の開拓をやっており、八坂刀売命はこの地で生まれたものであろう。白馬村神城で安曇一族と別れ土尻川を下ってきて犀川から千曲川に出るところに、更級斗売神社がある。この時、八坂刀売命と知り合ったのではないか。

 長野市に入った建御名方命は健御名方富命彦神別神社(長野県長野市箱清水1-3)の地で、周辺の人々に最新技術を伝授し、土地開拓を推進した。この時、川中島で知り合った八坂刀売命をすぐそばの妻科神社に呼び寄せ、通ったものであろう。暫らく後この二人は結婚した。

 建御名方命は千曲川沿いに飯山市(健御名方富命彦神別神社あり)辺りまで巡回した。また、犀川を通って安曇野の穂高見命との連絡も取り合ったのではないか。犀川沿いに彦神別神社・当信神社・日置神社など建御名方命を祀っている神社があることから類推できる。長野市近辺の状況が落ち着いた後、建御名方命は千曲川を遡り、上田市下の郷に滞在中の饒速日尊・事代主命と出会った。生島足島神社の位置である。

 饒速日尊・事代主命・建御名方命は協力してその周辺の地域を開拓した。

諏訪族とは

 「神長官守矢資料館のしおり」には、以下のような記述がある。

 出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。
 一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。 口碑によりますと、そのころ、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです。
 さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
 大祝は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、また、即位にあたっての神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり神に願い事をする力は神長のみが持つとされており、こうしたことよりみまして、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ち続けたと考えられます。
 こうして、諏訪の地には、大祝と神長による新しい体制が固まりました。こうした信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代、中世と続きました。

 これによると、建御名方命がやってくる前の諏訪地方は、縄文人の集合体のようなものがあったことが分かる。また、神社伝承によると建御名方命は饒速日尊・事代主命と行動を共にしており、周辺を統一した後、諏訪には最後にやってきている事が分かる。諏訪湖周辺で洩矢神と争っているが、他の長者とは争っていない。また、争いの後、洩矢神の子孫を重く用いていることから、この戦いは殲滅戦とか相手を滅ぼすとかいった類の戦いではないと考えられる。饒速日尊の統一の手法と考え併せると、次のような手法が考えられる。

 建御名方命は饒速日尊・事代主命を伴っている。これは、二宮の弥彦神社の伝承でも明らかである。当時の信濃国は諏訪に縄文人の国のようなものができていて、他の地域のようにあっさりと統一するのは難しい状況であった。そのため、信濃国内の未開の地を開発しながら周辺の縄文人から協力を取り付けた。縄文の血を引いている建御名方命が率先してこれに当たったのであろう。周辺が統一されてから、建御名方命は統一が難しいと思われる諏訪周辺にやってきた。いきなり土地を奪う戦いをしたのではなく、それぞれの地域の長者たちに日本国に加盟するように交渉したと思われる。その結果、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などは、日本国加盟を申し出たのであろう。洩矢神は日本国加盟に反対し、交渉が決裂して争いになったと思われる。

 諏訪大社には「事代主命社祭」というのがある。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」と言われており、 これは、諏訪明神以前の土着の神を祀る神事が今に続いている事を意味している。この神社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では 「武居會美酒」とあり、事代主命と同神と言われている「えびす」である。兵庫県の西宮神社の摂社に「百太夫神社」があり、そこでは、恵比寿様は 「長野県の武居神社」で生まれたとあり、事代主命と武居の長者が一体化しており、事代主命が武居一族の協力を取り入れることに成功したことを意味しているのではないだろうか。

 諏訪での交渉

 諏訪湖周辺には国を形成できるような組織をもった集団がいた。未開の地であれば、簡単に開発できるが、国があればそこの人々に日本国に加盟してもらう交渉をしなければならない。信濃国は広いが未開の地が多かったので、ここまでは順調に進んだが、この諏訪族だけは難局が予想された。上田市から依田川に沿って遡り、旧中山道に沿って諏訪湖湖岸に達した。ここで、日本国に加盟するように交渉したが、上手くいかなかった。

 諏訪大社下社に事代主命が祭られている。また、事代主命社祭があること、武居會美酒と言うように武居と事代主命が一体化している様子も見られることから、諏訪にて諏訪族と交渉したのは事代主命のようである。おそらく下社の地で交渉したのであろう。

 しかし、伝承では諏訪湖の西に直線8km程の所にある信濃国二宮である小野神社・矢彦神社の地から諏訪へ行ったようである。方向性が逆である。また、諏訪湖を水源とする天竜川の下流領域が饒速日尊・事代主命・建御名方命によって開発されている。このことは辰野町の三輪神社、飯田市の大宮諏訪神社の伝承でもわかる。

 饒速日尊・建御名方命は諏訪族との交渉を事代主命に任せ、天竜川流域の開発に携わったものであろう。信濃国は大変広く、このあたりまでくると、土地に住み着いて土地開発を継続して行う人材がいなくなってしまった。そこで、饒速日尊は神坂峠を越えて、尾張国に高皇産霊神の子である思兼命を代表とする一族を信濃国飯田市近辺に呼び込んだのではないか。是が後の阿智族である。阿智族の協力のもと天竜川流域が開発されることになった。

  阿智族とは

 信濃国を開拓した一族に阿智一族がいる。阿智一族は、信濃国南西部飯田市近辺の神社に阿智一族の祖、思兼命を祀った神社がある。

長野県下伊那郡阿智村智里489にある阿智神社には
「社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天 降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられる」
とあるが、天八意思兼命は、高皇産霊神の子である。饒速日尊とともに大和に降臨したマレビトの一人である。その人物が孝元天皇の時代に信濃国にやって くるのは時代に差がありすぎる。第八代孝元天皇は、地方開拓に力を入れている天皇のようで、各地に重要人物を派遣している。

 近くの長野県下伊那郡阿智村駒場2079にある安布知神社には
「天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。」
と伝わっている。こちらの方は孝元天皇の時代とは記されていない。思兼命は饒速日尊の時代に降臨したが、孝元天皇の時代にも高皇産霊神の子孫と思われる人物が信濃国開拓のために降臨しているのであろう。

 式内社の「阿智神社」は、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのかはっきりとはしないが、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、 昼神(現阿智神社)を奥の宮と言った」と言われており、前宮、奥宮の関係にあったようである。鎌倉時代になってから山王信仰が盛んになり、以降、阿智神社の社名は忘れられ山王権現となったが、阿智神社と山王権現は異名同体であるといわれている。山王権現の祭神は、大物主尊、国常立尊、豊斟渟尊となっており、この神はいずれも饒速日尊である。 

 阿智神社は、古代の東山道最難関の尾張国と信濃国との国境にある神坂峠の麓にある。阿智族の本拠地も饒速日尊の影が見える。この神坂峠を饒速日尊は通過したと思われる。饒速日尊は思兼命、及びその子表春命を伴って、神坂峠を越えて尾張国から信濃国に入ったと思われる。

尾張国には伊多波刀神社(愛知県春日井市上田楽町3454)、高牟神社(愛知県名古屋市守山区大字瀬古字高見2400)、松原神社(愛知県春日井市東山町2263) 、渋川神社(愛知県尾張旭市印場元町北島3977)、高牟神社(愛知県名古屋市千種区今池1-4-18)など高皇産霊神を主祭神として祀っている式内社が多い。これは、尾張国が饒速日尊と共に天降った高皇産霊神の子である思兼命がその子孫と共に開拓していた場所であると推定できる。饒速日尊は信濃国から尾張国に戻って、高皇産霊神の子孫を連れて、再び信濃国に戻ったものと考えられる。信濃国開拓には人手不足だったのであろう。

 天竜川流域の開発体制を固めることができた饒速日尊・建御名方命は矢彦神社の地を本拠地として諏訪族との交渉に本格的に取り組むことになった。

 諏訪一族の統一

 饒速日尊・建御名方命が天竜川流域を開拓している間に事代主命は武居一族をはじめ、ほとんどの一族を統一することに成功していた。その手法はやはり、農地開発をはじめとする新技術の伝授であろう。諏訪族も伝授された新技術で生活が楽になれば喜んで日本国に加盟し、周辺の集落にもその技術を広げることに協力したのであろう。

 しかし、洩矢命を長者とする一族だけは最後まで了承しなかった。洩矢命を誅するというような記事ではなく、国土開発の協力者として決着していることから、日本国に加盟することに反対していたのではなく、条件面での闘争だったような気がする。その条件は何かはわからないが、天竜川への出口付近で相争い、結果として建御名方命側が勝利を得た。 

 戦いにより、建御名方命側が勝利を得たが、やはり不満はくすぶっていた。建御名方命にとって、自分が育ってきた越国は日本国に所属しており、土地開拓をして人々の生活を向上させることの喜びを知っていた建御名方命は戦いの後の虚しさもあり、この土地の人々のためにここに残る決断をしたのであろう。諏訪大社に建御名方命と土着神が区別なく祭られていることからこのように判断する。建御名方命はこの土地に残り、信濃国の人々の生活の向上に尽力し、この土地で亡くなったのである。御陵は諏訪大社上社の前宮の拝殿裏の丘陵に葬られた。

 諏訪大社の土着の神との和合が行われているようなので、このように判断した。

 事代主命はこの後、大和に戻り、饒速日尊は出羽国統一に出発することになった。

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