越国国譲り

 越国統一関連地図

 大己貴命が「越の八口」を平定した領域の判定

 古代の越国は福井県敦賀市西端の関峠から、新潟県の弥彦山までの領域を指していたようである。越国はAD20年頃出雲の大己貴命が素盞嗚尊の命を受け「越の八口の平定」をしたと伝えられている。まずは、大己貴命の平定領域を伝承から探ってみたい。

 大己貴平定伝承を持つ北陸地方の神社

気多大社 石川県羽咋市 大己貴命 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」
『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒
 「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」
・ 神社名鑑による気多大社御由緒
御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」
身代神社 川県羽咋郡志賀町梨谷小山10-273   大己貴命 御祭神は大穴牟遲神 少名毘古那神
社伝によると、出雲から船に乗って当地に着いた。「大真石」を御神体とする神社であるという。
能登比咩神社 石川県鹿島郡鹿西町能登部下125甲29   大己貴命 社伝によると、大己貴命が少彦名命とともに、国土経営を行い、越の国を平定した後、当地で憩い給う時、一人の機織乙女に接待される。
その乙女が、能登比咩妙天神であり、郷民に機織の技を教えたと伝わる。
鳥屋比古神社 川県鹿島郡中能登町春木ナ87   大己貴命 祭神鳥屋比古神は国土平定開発の祖神と仰がれる大神で、往昔、竹津浦鹿島路の湖水に荒ぶる毒蛇が棲息して人民に害毒を及ぼした時これを平定し、その射給うた矢の落ちたところを羽坂と称するに至ったという。
 而して、社殿後方の鳥屋塚こそは、この蛇身等を埋めたものだと伝えれいる
久延比古神社 石川県鹿島町久江 饒速日尊 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。
能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 大己貴命 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す
能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 大己貴命 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。
能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 大己貴命 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。
 社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。
白比古神社 石川県鹿島郡中能登町良川ト1 饒速日尊 白山社とも呼ばれていた神社。
社伝によれば、祭神・白比古神は大己貴命の御子神にして、当地方開拓の祖神であるという。
鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 饒速日尊 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。
宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 大己貴命 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと
御門主比古神社 七尾市観音崎 大己貴命 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという
高瀬神社 富山県南砺波市 大己貴命 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う
牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 大己貴命 昔、大己貴命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大己貴命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大己貴命を敬った
気多神社 富山県高岡市伏木 大己貴命 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大己貴命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
杉原神社 富山県富山市八尾町黒田3928   饒速日尊 黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨が続き途中洪水が発生した。このとき杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきったからだで咲田姫を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したという。これにちなんで今でもこの地域一帯を「婦負の里(ねいのさと)」と呼ぶ。
祭神 杉原大神(この地の開拓の祖神)、
祭神は一説に大己貴命、あるいは饒速日尊とも云われている。
草岡神社 山県射水市古明神372 大己貴命 社傳によれば、 古老ノ口傳ニ云、神代ノ昔、草岡ノ地所、万三四里アリテ、草木繁茂シ、悪蛇毒虫ノ巣窟ニシテ、人民恐レヲナシ、 敢テ近依ル者アラズ。時ニ大己貴神、此地耕耘ニ適シ、地味良好ナリトテ、鍬ノ御矛ヲ以テ切伐開墾シ、 以テ土民ニ恩顧ヲ蒙ラシメ玉フ。其後数十年ヲ経テ大己貴神ノ神霊ヲ該地ニ勧請シ、草岡神社ト稱シ奉リシ由
鹿島神社 富山県下新川郡朝日町宮崎1484 饒速日尊 健甕槌命が、能登を廻り、海を渡って宮崎の沖の島に降臨された。
居多神社 新潟県上越市 饒速日尊
大己貴命
大己貴命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという
圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 饒速日尊 祭神国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神
大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。
斐太神社 新潟県妙高市宮内241 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。
宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 大己貴命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。
御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。
 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。
当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。
物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大己貴の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。
祭神 大己貴命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)
北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。
弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた
船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命
当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。
石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号 饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます
西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16  饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。
祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。

 佐渡国

一宮 度津神社 新潟県佐渡市 五十猛命 配祀 大屋都姫命 抓津姫命 素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられた。初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂し為に「植林の神」として崇められた。そして宮殿・家屋・船・車から日用器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも云う。又、人々に造船・航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津と称して居る。
祭神は航海の神という説もある。
二宮 大目神社 新潟県佐渡市吉岡1284 大宮売神 祭神は大宮売神(オオミヤメノカミ)とされている。和名抄に見える「大目郷」の神であろう。背後の大目林は神体山である。
祭神は大己貴命という説もある。
三宮 引田部神社 新潟県佐渡市金丸488-丙 大彦命,大己貴命 『神社名鑑』,猿田彦命 もとは当地の「こうがい崎」という場所にあったという伝承がある。あるいは「こうがい崎」は、当社の神田であったとも考えられる。祭神は、社伝では大己貴命。『神社明細帳』では、猿田彦命としており、境内案内板では、大彦命となっている。

 北陸地方の統一伝承は以上のようなものであるが、出雲の大己貴命関連伝承なのか、饒速日尊関連伝承なのか、判断が難しい。上の表は、推定した神名を記入した。判断の根拠を挙げてみよう。

 原則、「出雲から来た」、「少彦名命や奴奈川姫を伴っている」と記述されているのは大己貴命と判断される。しかし、誤って伝えられている可能性もあるので断定はできない。

 事代主命は饒速日尊の子と判定しているので、「事代主命」と共に祭られている場合は、饒速日尊と判定できる。白比古神社は白山社と呼ばれていたようで、白山神(饒速日尊)と判別できる。

 居多神社の大己貴命は奴奈川姫との伝承を含んでいるので大己貴命と判定できるが、周辺の山が美能輪山(三輪山)であり、饒速日尊との関連性をうかがわせる。おそらく、最初大己貴命がやってきて、後に饒速日尊がやってきたものであろう。

 久延比古神社の久延比古は奈良県大神神社の伝承では大物主神の知恵袋として活躍した神である。そうであるなら、この神は饒速日尊と行動を共にしていると思われる。

 圓田神社は主祭神が国常立尊なので、饒速日尊と判定した。

 宇奈具志神社は穂日命が登場するので大己貴命と判定した。

 御嶋石部神社は
① 周辺の人々に大鹿島と呼ばれていること。・・・鹿島は鹿島大神=建御雷命=饒速日尊を意味している。
② 東北地方まで統一していること。・・・東日本全域を統一したのは饒速日尊で、大己貴は越の八口のみ統一した。
③ 荒神二田彦・石部彦の二神が出迎えたこと。・・・この人物は物部氏で饒速日尊の天孫降臨(AD30年)の後で、大己貴命がここにやってきたのは其の10年ほど前と推定している。
④ 御嶋は三島で本来の祭神は大山祇神(饒速日尊)と考えられる。
 これらのことよりこの地にやってきたのは饒速日尊と考えられる。此の神社の伝承では大己貴命は居多神社の地からやってきており、居多神社の地に饒速日尊がいたことになる。

 石井神社は
① 近くにある別の石井神社は小鹿島と言われており、鹿島は饒速日尊を意味している。
② 神名帳考證における祭神は御井神である。本来は大己貴神の子である木俣神を指しているそうであるが、奈良県宇陀市の御井神社の御井大神は気比神、御食津大神とも云われている。そして、この神社は饒速日尊の滞在伝承を持つ。このことから御井大神=饒速日尊と判断できるのである。
 以上のことより此の神社に祭られている大己貴命は饒速日尊と判断する。大己貴命はこの地に滞在後、佐渡を統一している。佐渡島の神社は大己貴命や御食津神が祭られている神社が多い。ともに饒速日尊と考えられるので佐渡島統一も饒速日尊であろう。

 船江神社
 新潟市の船江神社は猿田彦命の来訪した地となっているが、猿田彦命が北陸地方にやってきたという他の伝承が存在しない。これは、父である饒速日尊の誤伝承ではないかと想像している。

 ここに挙げた大己貴命と饒速日尊の判定ははっきりと示せるものもあるが、根拠が貧弱であるのもある。或いは間違っている可能性も十分に考えられる。しかし、大体の傾向として、大己貴命は新潟県の出雲崎辺りまで訪問したのではないだろうか。能登地方は大己貴命の関連伝承と思われるものが多いが、上越市以東は饒速日尊関連伝承と思われるものが多くなっている。大己貴命の関連伝承をもつ領域は、古代から言われている越国の範囲にほぼ該当している。御嶋石部神社の伝承でもわかる通り、物部氏は天孫降臨後間もなく、この地を訪れている。饒速日尊に従ったマレビトはここまで来ていたということである。

 大己貴命が素盞嗚尊の命を受けて越の八口を統一しているが、その範囲は福井県敦賀市から新潟県上越市までの領域と判断する。新潟県の出雲崎まで赴いているようであるが、物部氏が入り込んでいることから考えると、上越市から東は統一まではできなかったと判断できる。饒速日尊が越国の国譲りを成功させた後、日本海岸を東北地方まで統一したと思われる。

 越国の実態

 大己貴命が越国を統一したのがAD20年頃で、饒速日尊が越国国譲りを成功させたのがAD50年頃と思われる。大己貴命は越国統一後その子建御名方命に国を任せていたようである。考古学上の遺物も出雲によって統一された割には出雲系遺物が少なく、間もなく、畿内系遺物が多く出土するようになる。これは、越国が出雲の支配下にあった期間は短く、すぐ後に畿内の支配下に下ったことを意味している。伝承上でもそれは裏付けられたことになる。

 建御名方命誕生秘話

 AD20年頃能登・越中国を統一した大己貴命は越後国居多ヶ浜に上陸した。居多ケ浜の近くに身能輪山という丘のような山に大己貴命の宮殿があり、大己貴命はここを拠点として、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えた。そうしているうちに美しいという噂のあった奴奈川姫と知り合い結婚したいと思うようになった。結婚に先立ち奴奈川姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大己貴は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び名立という地名ができた。
 しかし、結婚には反対がつきものである。特にはるか遠くから来た大己貴命(弥生人)と奴奈川姫(縄文人)とは色々な面で異なるところも多く、地元豪族能生の夜星武が反対した。彼は日本海の海賊だつた。そこで、大己貴は后の一人を彼の嫁に差し出すと鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。また、後に大己貴が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので 鬼伏せという地名ができたと言われている。
 大己貴命は鬼伏から名立の奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした後、身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。大己貴命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたと言われている。暫らくして姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。宮殿に落ち着いた大己貴命は稲作や布を青芋(あおそ)から作る技術を土地の人に伝授し人々の暮らしを向上させた。この頃姫は岩殿山の岩屋で王子を生むこととなった。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしてめでたく建御名方命を誕生させたという。

 福井県今立郡池田町稲荷12-18の須波阿須疑神社の伝承に、「大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座、この地の開発の祖神である。」とある。また、羽咋郡宝達志水町荻島の志乎神社(祭神素盞嗚尊・大己貴命・建御名方神)の神様は鍵取明神と言われ他の神様が神無月に出雲に行っても留守番をしていて他の神様の鍵を預かっていると言われている。この留守番をしている神様は素盞嗚尊や大己貴命とは考えられず、建御名方神であろう。これも建御名方命が越国から離れず、越国を統治していたあかしであろう。大己貴命は第二代倭国王を継がなければならず、越国が統一されたのを機に出雲に帰らなければならなくなった。大己貴命がAD23年頃出雲国に戻ったあと、大己貴命から技術を受け継いだ人々が建御名方命を盛りたてて越国の開拓をしていったと思われる。成長した建御名方命は越国を巡回して越国を治めていたと思われる。 

 越国国譲りに関して

 出雲国譲り神話に於いて、出雲の建御名方命が反対したため、建御雷命が建御名方命を出雲から諏訪まで追いやったことになっている。しかし、ここまでの古代史の復元では、建御名方命は出雲ではなく越国にいたことになり、建御名方命と戦った建御雷命は饒速日尊の別名であることが分かっている。そのまま直接解釈すると、出雲国譲り神話の建御名方命の段は、話が違っていて、饒速日尊における越国の国譲りになってしまう。

 能登半島には「鎌打ち神事」と呼ばれているものがある。石川県金丸の鎌宮諏訪神社に伝わるものである。鎌打ち神事は、建御名方命が大己貴命の能登開発を先導した故事によるものと言われている。しかし、建御名方命は大己貴命の子であり、大己貴命は建御名方命がまだ幼少のときに出雲に帰っているので、この大己貴命は饒速日尊と考えることができる。

 この伝承から判断すると、越国国譲りは平和的に行われているように見える。しかし、次のような伝承もある。

 富山市大沢野町舟倉寺家と同市呉羽町小竹に鎮座する延喜式内社・姉倉姫神社には以下のような伝説がある。昔、上新川郡東南の舟倉山(今の猿倉山)に大己貴命(おおくにぬしのみこと)の娘・姉倉比売命(あねくらひめのみこと)という女神が住んでいた。夫は越中と能登国境の補益山に住む伊須流伎比古で、夫婦は毎晩行き来するほど仲が良く、心を合わせて越中を治めていた。しかし能登の仙木山に住む能登姫という悪い女神は越中が欲しくなり、伊須流伎比古に迫った。これを知った姉倉姫は能登姫に使者を送って改心させようとしたが聞き入られず、ついに能登姫は伊須流伎比古と結び付いた。これに起こった姉倉姫は舟倉山の石を仙木山に投げ始め、石が尽きると立山の尖山(尖山で迷った人間は岐阜県位山に現れるという)に住む仲の良かった女神・布倉姫の軍をはじめ、国中の兵を集めて能登姫征伐の軍を編成した。対して能登姫も姉倉姫征伐の軍を集めて防戦態勢をとった。両軍の衝突は氷見市宇波山で始まり、一進一退の攻防が繰り広げられた。これを見た天地にいる他の神々は高天原(たかまがはら)に使者を送り、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)に報告した。すると高皇産霊神は驚いて、出雲の大己貴命に越の国の争いを鎮圧するよう命じた。命を受けた大己貴命はすぐ出雲を発って越路に入り、雄山の手刀王彦命や舟倉のおさ子姫といった越の神々と軍議を行い、まず姉倉姫のいる舟倉山の城を攻めた(同山には猿倉城址がある)。しかし、同山は周囲に7里(約28km)の大池がある難攻の山だった。そこで大己貴命の軍が山を掘ると池水は堰を切って大急流となり、流出した。これに驚いた姉倉姫は柿峻(かきひ)の宮に逃亡したが、大己貴命の軍に襲撃されて生け捕りにされた。その後、姉倉姫は呉羽山麓の西・小竹野に流され、同地で得意の布を織って貢物とし、越中の女達に糸紡ぎと機織の方法を教えた。これが八講布の始まりだという(小矢部市八講田に由来するとされ、越中麻布の総称)。姉倉姫が機を織る際、蜆の宮(土器や石器なども出土している小竹貝塚(蜆ヶ森貝塚)の上に鎮座している)の蜆が蝶と化して群来し、姫が舟倉山に帰るのを許された時、姫に従って舟倉の御手洗の蜆になったといわれ、夏になるとこの蜆が蝶と化して飛び回るともいわれている。呉羽の地名は「呉の機織」が「くれはとり」となり、更に「呉羽」となってできたといわれている。呉とは呉服の呉である。尚、能登姫と伊須流伎比古の連合軍も大己貴命の軍に抗戦したが、捕らえられ海辺で処刑された。そして大己貴命を助けた雄山の手刀王彦命と舟倉のおさ子姫は功績を称えられて富山市月岡町壇山神社の月見ヶ池近くにあった月読社に祀られていたが、現在は鳥居しか残っていない。<富山県の民話より>

 この伝承が最大限真実を伝えているとすれば、大己貴命の娘が結婚適齢期になるのはAD40年頃となるので、この事件が起こったのは出雲国譲り事件に近い時期となる。この時期、大己貴命は越国に来れる状況になかったことと、葛城山麓を拠点としていた高皇産霊神が登場している事から考え併せ、この大己貴命は饒速日尊で、この事件が起こったのは出雲国譲り事件の直後と思われる。伊須流伎比古命の正体は今のところわからないが、その周辺の大豪族であったのであろう。高皇産霊神は日本列島統一にかなり情熱をかけており、饒速日尊が大和に降臨する時も自らの子を複数付従えさしている。この事件のあらましは次のように解釈している。

 大己貴命がAD45年頃なくなり、第三代倭国王の候補者が決まらないなか、日向国の高皇産霊神の発案で倭国を分割することになった。九州は西倭、中国四国地方は東倭となるのであるが、倭国の飛び地になっている紀伊国と越国の扱いが問題になっていた。何れ日本列島は統一されるので、それまでの間、饒速日尊の日本国に所属させることになったのである。紀伊国は五十猛命の協力があり簡単に国譲りができたが越国には問題があった。

 AD45年頃日向国の倭国分割会議で越国は日本国に所属させるように会議で決まっていたが、建御名方命は自分の国を取られるような感覚を持ったのかその決定に反対していた。ところが、AD50年頃、建御名方命が統治する越国に勢力争いが起こった。かなり大きな大乱となり、建御名方命では抑えきれない事態に至った。そのとき頼りになるはずなのが、越国の宗主国である出雲国であるが、国譲り事件の最中であり、出雲国では処理できるはずもない、そこで、倭国の実権を握っていた日向国に救援を頼んだのであろう。日向国の高皇産霊神は、日本国の饒速日尊に命じてこの大乱を鎮圧させた。これを契機として建御名方命は饒速日尊に国を任せることにしたのであろう。そして、饒速日尊を案内して国中を回ったのである。これが「鎌打ち神事」の由来になったと考える。

 白山神について

 白山神は饒速日尊と推定しているが、この神は複雑な実態を持つようである。多くの白山神社は菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀っている。これらの人物とのかかわりはどうなっているのであろうか?

 中世の『元亨釈書』や『白山之記』などには、伊邪那岐神・伊邪那美神を祭神とする記述はあるが、菊理媛神の名は登場しない。 ところが、近世になると、『諸神記』、『諸国神名帳』、『本朝神社』などで、明瞭に白山神=菊理媛神となっている。そこで、 次のような説が生まれている。
養老3年(719)に泰澄大師が白山山頂で神を祀っているが、その神が高句麗媛といわれている。これが、鎌倉仏教の影響を受け、白山において 泰澄大師が祀った高句麗媛(コウクリヒメ)は、音がよく似ている日本書紀における菊理媛神(ククリヒメ)と同一であるとされた。

 時間の流れからすると、これが正解なのではあるまいか。そうすると、白山神=伊邪那岐神・伊邪那美神となるが、これはどういうことであろうか?

 丹後国一宮籠神社(天の橋立のすぐ北側にある)に次のような伝承がある。
「天橋立は、国生みの神である伊邪那岐と伊邪那美が降臨した天浮橋である。また、伊勢神宮の神々がこの地からうつられた元伊勢のひとつ。神代の昔、真名井の地に降り立った豊受大神を丹後地方の氏神であった彦火明命がお祀りしたことに始まり、第10代 祟神天皇の御代に天照大神がおうつりになり、吉佐宮として一緒にお祀りした。」
比沼麻奈爲神社の伝承では
 「遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。
多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。
その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座になりました。その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせられたのが、雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。
古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦九百年)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。
社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝殿は、大正九年から同十一年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。<神社由緒>

 この伝承から推察するに、この丹後地方には最初豊受大神が降臨し、この地方を開拓した。この神がこの神社に祭られていたが、 伊勢に移ると同時に彦火明命が祭られ現在に至っていることになる。ここまでの考察で彦火明命が饒速日尊と言われていると同時に 豊受大神=饒速日尊である。また、籠神社には、息津鏡、辺津鏡が伝世している。この鏡は饒速日命が天津神(大和降臨前に素盞嗚尊より受け取る)から賜った十種神宝のうち2鏡である。 息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古である。天橋立の伝承の伊邪那岐・伊邪那美に関しては行動実績が全くなく、この地で活躍しているのは饒速日尊となる。これより伊邪那岐=饒速日尊と考えるとつじつまが会うのである。
 ただし、日向国にも伊邪那岐命は存在しており、大和朝廷成立後の第7代孝霊天皇も伊邪那岐命と重なる伝承をもつので、伊邪那岐命は日向国の伊邪那岐命・孝霊天皇・饒速日尊の影が感じられることになる。神社の伊邪那岐命はこれらの人物が重なった存在ではなく、それぞれの神社で祀られている伊邪那岐命はこの三人の何れかと解釈した方がよいようである。当然白山神として祀られている伊邪那岐命は饒速日尊と考えられる。

 越地方各国一宮

越前国 一宮 氣比神宮 福井県敦賀市 伊奢沙別命 神代 土公(どこう) - 周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で、隣接する敦賀北小学校敷地内に食い込む形で存在する。主祭神降臨の聖地
二宮 劔神社 福井県丹生郡越前町織田113-1 素盞嗚尊、気比大神・忍熊王 伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
加賀国能登国 一宮 白山比咩神社 石川県白山市 白山比咩大神 崇神 崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります
二宮 菅生石部神社 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81 菅生石部神 用明 用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。
一宮 気多大社 石川県羽咋市 大己貴命 神代 大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる
二宮 伊須流岐比古神社 石川県鹿島郡中能登町石動山子部1番地1 伊須流岐比古神 717 主神の伊須流岐比古神は、すなわち五社権現とも称される石動権現である。「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。
二宮 天日陰比咩神社 鹿島郡中能登町二宮子6 屋船久久能智命 崇神 石動山山頂にある伊須流支比古神社の下社。神社後方の山の山頂に、大御前峯社があり、中御前という場所は崇神天皇の御廟跡らしい
越中国 一宮 射水神社 富山県高岡市 瓊瓊杵尊 不詳 歴史的には伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる二上神(ふたがみのかみ)であった。二上神は現在は二上山麓の二上射水神社に祀られている。
一宮 気多神社 富山県高岡市 大己貴命、奴奈加波比売命 757 在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
一宮 高瀬神社 富山県南砺市 大己貴神 景行 大己貴命が北陸平定を終えて出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をこの地に鎮め置いたのに始まると伝える。
一宮 雄山神社 富山県中新川郡立山町 伊邪那岐神・天手力雄神 不詳 社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。
越後国 一宮 彌彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村 天香山命 不詳 社伝によれば、越後国開拓の詔を受け、越後国の野積の浜(現長岡市)に上陸し、地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたと伝えられる。このため越後国を造った神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。
二宮 物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602   二田天物部命 崇神 天孫降臨の後、当社祭神は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
二宮 魚沼神社 新潟県小千谷市土川2丁目699-1 天香語山命 崇神 越後国一宮である弥彦村の彌彦神社に対し、当神社を「二の宮」と呼び、この地域の人々の信仰の中心となった。「魚沼神社」と称したのは幕末頃で、式内社であるという確証はない。
一宮 居多神社 新潟県上越市 大己貴命・奴奈川姫命・建御名方命 建御名方命ではなく事代主命とする資料もある,もとは日本海近くの身輪山に鎮座していた。
一宮 天津神社 新潟県糸魚川市 瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命 景行 境内社・奴奈川神社は奴奈川姫命を主祭神とし、後に八千矛命(大己貴)が合祀された。この一帯はかつて「沼川郷」と言い、そこに住んでいた奴奈川姫命の元を八千矛命が訪れたという話が日本神話(大己貴の神話)にある。伝承では、両神の間の子が建御名方命であり、姫川を遡って信濃国に入りそこを開拓したという。

 各国一宮はいずれも饒速日尊と思われる神を祀っている。越国国譲りを受けた後、越国開拓を進め、人々から敬われたためであろう。

 越国国譲り後

 饒速日尊は建御名方命から越国を譲り受けた後、自らの子事代主命を信濃国から呼び寄せ、暫らくは居多神社の地に滞在し、周辺の情報を集めていた。その後妙高市の斐太神社の地に赴きその周辺を開拓した。

 建御名方命は饒速日尊との越国の安定に寄与した後、姫川を遡って信濃国に赴き、信濃国を統一している。饒速日尊が建御名方命に信濃国開拓を命じたと思われるが、どういった事情で、建御名方命が信濃国開拓をすることになったのであろうか。

 その理由の一つとして考えられるのが建御名方命は縄文人の血を引いているということである。信濃国は弥生人がほとんど入っていない地域である。また、広大な盆地であり、開拓しなければならない面積は相当広い。当時平野は湿地帯が多く、開拓に適している土地はそれほど広くない。盆地には開拓に適した土地が広がっており、信濃国はまさにそういった土地だったのである。饒速日尊は人手不足を感じ、建御名方命に信濃国を開拓することを頼んだ。或いは建御名方命自らが申し出たのかもしれない。それでもまだ人材不足だったので、当時の最先端技術を持っている九州の安曇族にも信濃国開拓を託した。

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信濃国統一
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