武烈天皇

 武烈天皇年表

天皇 日本書紀 中国史 新羅本紀 百済本紀 高句麗本紀
501 0 真鳥大臣討伐 王は民に殺された。 使者を魏に派遣して朝貢した
502 1 即位 南斉王から禅譲を受け、梁が成立。
4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『 梁書』武帝紀)
殉死を禁じた 武寧王即位。高句麗の水谷城を襲撃 梁の高祖が王を車騎大将軍に封じた。
百済が辺境を侵した
使者を魏に派遣して朝貢した
503 2 妊婦の腹を裂いて、その赤子を見る。 正式国名を新羅とした 靺鞨が高木城に侵攻してきたが撃退した 百済が水谷城に攻めてきた
504 3 人の生爪を剥いで、芋を掘らせた 役夫を徴用して12城を築いた。
喪服法を制定した
魏に朝貢。扶余からの黄金は女真が邪魔し、新羅からの阿玉は百済が邪魔をして魏に貢ぐことができないと言った。
505 4 人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。
武寧王即位
国内の州・郡・県を定め、軍主を置いた。
506 5 日照りが続いて民が飢えたので倉を開けて救った。 靺鞨が高木城を破った 魏に朝貢。百済を征伐
507 6 人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。
百済王が麻那王を遣わして御調を奉った。百済は長らく貢物を持ってこなかったので王を留めて帰さなかった。
長峰城を築いて靺鞨に備えた。
高句麗が靺鞨と共に漢城を狙って来襲したが撃退した。
魏に朝貢した。
百済の漢城を攻撃しようとしたが、百済の攻められて失敗
508 7 人を木に登らせ、弓で射落とす。
百済王が斯我君を遣わして御調を奉った。別に書状を奉って、前に奉った人物は百済国王の一族ではないので謹んで斯我を遣わせて、朝廷にお仕えします」とした。
梁の高祖より撫軍大将軍に任じられる。
魏に朝貢
509 8 女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、没して官婢とした。
ふしだらな行為をほしいままにした。
京都に東市を設置した。 魏に朝貢

古事記
 長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。
日本書紀
 「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる 無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」
 仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥臣は驕慢で国政をほしいままにし、臣下としての礼節がま るでなかった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連の 娘影媛が、平群真鳥臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連とともに平群真鳥臣 も焼き殺す。そして即位し、 大伴金村連を大連とするのである。
即位後
「多くの悪業をなさって、ひとつも善業を行われなかった。様々な酷刑を、親しくご覧にならない事はなく、国民は震い怖れていた。」

 凄まじい暴虐ぶりである。
 宮中では出廷退廷の時間もいい加減になり、贅沢と酒池肉林に明け暮れ、一日中淫靡な音楽を奏で、天下の上を顧みなかった、とある。

 竹内古文書における伝説

 竹内古文書の皇祖皇大神宮には次のような伝説が伝えられている。(概略)

 時代が下るにつれ、古神道に基づく日本古来の文化は抹殺され、大陸文化とともに様々な国の人々が訪れ、権力者として日本の政治を左右するようになり、自国の方が優れているというように歴史を改ざんしようとして、ついには日本の歴史をも奪おうとするようになった。
 神功皇后を補佐して朝鮮に渡ったとされる竹内宿祢の孫が竹内(平群)真鳥である。雄略天皇は、竹内真鳥に神代文字で書かれた神代からの日本の歴史を、漢字にあらためさせた。そして、日本の歴史を奪おうとしていた蘇我韓子らの圧力にたいして、本当の歴史を隠した。

   古代の歴史を簡略化したものを日本の歴史だとして、竹内真鳥の手をつうじて渡した。これが、古事記、日本書紀の原典となったという。さらに、危機が増し、神代からの正しい歴史が改ざんされ、失われてしまうのをおそれた武烈天皇は、この竹内真鳥を手打ちにしたことにして、真鳥に命じて内密に富山の皇祖皇太神宮で神代からの歴史を記した古文書と証拠となる神宝を守らせた。以来代々神宮と竹内文書を真鳥の子孫が守ってきたが、皇祖皇太神宮そのものは、南北朝時代に、南朝に付いたために没落し、仏教の圧迫をうけて、江戸時代初めには、完全に失われてしまった。

 竹内家の伝説に登場する天皇は雄略天皇と武烈天皇である。ともに古代日本史上の暴君とされている人物である。 古代史を改ざんしようとする勢力にとって都合の悪い人物であり、その勢力によって悪逆に描かれてしまった可能性は否定できない。

 武烈天皇は即位前後で全く別の人格である。その境にあるのが平群真鳥の事件である。富山の皇祖皇大神宮に平群真鳥の子孫竹内家が残っている以上、この部分は竹内家の伝承が正しいと判断する。この当時朝廷の有力豪族が飛騨国の痕跡を抹殺しようと図っていたのであろう。正しく物事を考えることのできる武烈天皇は、それを残そうと思っており、平群真鳥を策略で富山へ落ち延びさせ、失われつつあった飛騨国の言い伝えをまとめさせたのである。これが竹内古文献であろう。しかしながら長年書き写している間に、真実から少しずつ外れ、現在残っているような状態になったのではないだろうか。

 武烈天皇が悪逆非道に描かれているが、具体的に詳しく書かれているわけではなく、ただ事象が書かれているだけであり、この記事は後で都合がよいように挿入したことがうかがわれる。精神異常を起こしていた可能性も考えられなくはないが、それなら、そのようなことが書かれていてもよいように思える。武烈天皇は飛騨国抹殺派の圧力に耐えながら国を治めていたのではないだろうか、後継者なしで早世しているのも暗殺された可能性が考えられる。実際「天書」では、「人有りて密かに帝を聖寝に刺す」と記録されており、武烈天皇は暗殺されたようである。

 武烈天皇は崩御時18歳とされている。顕宗2年(492年)生誕となる。仁賢天皇38歳の時の子となる。11歳で即位し、18歳で亡くなった事になる。「真清探當證」を取り入れると武烈天皇は日陰の身を脱したAD486年の直後に世話になっている葦田宿禰の娘春日姫を娶り、AD489年に生誕したとされている。これだと武烈天皇即位時13歳で亡くなった時が21歳となる。皇子がいなかったとされているので若かったのは事実であろう。

 このように武烈天皇に関しては謎が多いのである。飛騨国がらみで数多くの伝承が抹殺されたものと判断する。ここではその治世を推定してみよう。

 武烈天皇の推定治世

 武烈天皇の生誕に関して

 小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)は日本書紀では即位時11歳(現小学校4年生)、「真清探當證」では13歳(現中学1年生)である。まずは、非常に若いということである。小泊瀬稚鷦鷯尊は即位前に影姫に横恋慕しているが、即位時11歳で横恋慕はあまりに若すぎるのではあるまいか。また、日本書紀に「長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる 無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」とあるが、11歳(13歳でも)でできることではないと思われる。

 その差は2年なので明確に片方を否定することはできないが、「真清探當證」では歴史的流れの中で十分にあり得る流れの中での小泊瀬稚鷦鷯尊生誕である。詳細であることと、自然な流れであることを理由として「真清探當證」の説を採用したいと思う。

 清寧天皇元年、清寧天皇の即位時の奉幣使小楯が真清田神社にやってきた、この時億計・弘計両皇子は舞を舞うことによって、自らの正体を明かした。小楯は驚き、両皇子のために千間殿を建てそこに住まわせた。晴れて日陰の身を脱した億計王は、この年、真清田神社の神官であった葦田宿禰の娘の春日媛と婚姻した。その3年後清寧4年に、小泊瀬稚鷦鷯尊が生誕した。

 仁賢天皇と春日姫との間には一男六女である。

1 高橋大娘皇女
2 朝嬬皇女
3 手白香皇女(継体天皇皇后、欽明天皇母)
4 樟氷皇女
5 橘仲皇女 (宣化天皇皇后、石姫皇女母)
6 小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)
7 真稚皇女( 『古事記』は真若王で男)

 日本書紀では第6子となっているが、結婚3年後に第6子が生まれるのはほとんどあり得ないことである。結婚3年後となれば第一子か第二子といったところであろうか。

 武烈天皇生誕時、億計王は35歳である。結婚は億計王32歳の時であるが、この時、十分な年齢に達しており、正式な結婚前に既に事実婚のようなものがあったのではないかと推定する。AD486年(清寧元年)億計王32歳の時、晴れて日陰の身から脱した時に正式に結婚したのであろう。正式な結婚時既に4女の父であったと思われる。

 武烈天皇の残虐行為について

 これらのことは、日本書紀武烈天皇即位前の記事として記録されている内容は、即位後のことをまとめて記録してあると考える根拠となる。神功皇后も日本書紀では初年にその後の出来事をまとめて書いてある例もあり、武烈天皇でもそうだと言えよう。

 日本書紀に「罪人を罰し」と書かれているように、罪人は厳しく罰していたようである。当然重罪の罪人を処刑すると思われるが、その処刑に日本書紀に書かれている出来事に近い方法を取ったのではあるまいか、そして、その処刑を武烈天皇は見ていたのであろう。その時の状況をオーバーに書いたのが武烈天皇の残虐行為として記録されたのではあるまいか。

 平群鮪殺害の時期

 日本書紀あらすじ
 日本書紀武烈天皇即位前紀に出てくる物部の影媛(物部麁鹿火の娘)には平群鮪という相愛の人がいた。しかし、影媛の美しさを聞いた稚鷦鷯の皇子(後の武烈天皇)は海石榴市の歌垣の夜、彼女を奪おうとするが果たせず、怒りにまかせて鮪を殺害する。愛するわが子を殺された平群真鳥は直ちに反乱の戦を起こそうとするが、逆に大伴金村に攻められて滅ぼされる。

 古事記では鮪は志毘とされ、弘計王(顕宗天皇)即位前の出来事として記録されている。共に失恋した皇太子に殺害されているのである。

 事実はどうなのであろうか、竹内古文献によると武烈天皇は平群真鳥を反逆者として処断したことにして、越中国に落ち延びさせ、歴史を編纂させたとある。自分の子を殺した天皇の命で汚名を着る任務を全うするとは考えられない。

 影媛の父である物部麁鹿火は宣化天皇元年(536年)に没している。顕宗天皇即位はAD491年で、武烈天皇元年では502年である。この時娘が15歳前後だとすれば、少なくとも35歳から40歳前後と思われる。これがAD491年だとすれば536年には90歳前後であり、武烈天皇元年なら80歳前後となる。しかし、物部麁鹿火はAD531年筑紫君磐井の乱を平定しているのである。これは明らかに不可能であろう。影媛が物部麁鹿火の娘ならば、この事件はもっと後の時代となる。

 武烈天皇の晩年、509年頃の出来事だとすれば、この時、物部麁鹿火35歳と仮定すると、536年には62歳となっており、磐井の乱平定時57歳となるので、ありうる話となる。平群鮪が殺害されたのは武烈天皇の晩年と考えられる。

 平群真鳥の系図について 

 平群鮪の殺害が武烈天皇時代末期だとすると平群真鳥を越中国に落ち延びさせたのも武烈天皇末期となる。平群真鳥は武内宿禰の子平群木菟宿禰の子とされている。武内宿禰はA,B,C三代続いた名と考えられるので三代目の武内宿禰Cの子と考えられ、その活躍年代は仁徳天皇から履中天皇の時代となる。平群真鳥は雄略天皇の即位時に大臣として認定されている。このころ20歳前後だったのではあるまいか。440年頃生誕と考えられる。その平群真鳥の子が鮪である。鮪には影媛との恋愛伝承があるので、鮪の生誕を470年頃と推定する。

 武烈天皇在位中の事績(推定)

 武烈天皇の行動には謎が多い。これらの行動・伝承がすべてつながるような仮説を立ててみた。実際はどうなのかはわからないが、このように考えると、前後の関係がスムーズにつながるのである。

 即位前

 武烈天皇は日本書紀にある通り、正邪の区別がはっきりしていた人物のようである。罪人は憎んで厳しく罰し、無実の罪の者はよく調べてその冤罪を晴らしていたようである。そういった面ではまじめな正義感の強い人物だったといえよう。

 武烈天皇は仁賢天皇の子である。仁賢天皇(億計王)は尾張で隠棲中飛騨国の人物との関わり合いが深かった。飛騨国は神武天皇即位時にその王位を神武天皇の継承させているが、飛騨本国には祭祀を継承する組織があったと思われる。履中天皇の時代、この王位も廃止されたと思われるが、飛騨国の有志が祭祀を継承していたのでおろう。

 朝廷よりも長い歴史を誇る日本古来の王朝である飛騨国の存在は、朝廷にとって警戒すべき存在であった。飛騨国の祭祀者を王として担ぎ出して大和朝廷に取って代わろうという組織もあったと思われる。歴代天皇はその動きを封じるために色々と策を巡らせていたのではあるまいか。

 億計王は雄略天皇から皇位を奪い返す算段として飛騨国の祭祀王の権威を利用しようとした。その計画は億計王が皇太子に認定されることによって、計画は中止となった。しかし、日の目を見ることができると喜んでいた飛騨の人々の落胆は大きく、億計王はその説得のために皇位を弟に譲った。億計王の計らいで、飛騨国の歴史を後世に正しく伝えるという約束を取り付け飛騨国の人々はおさまった。

 ところが、古事記・日本書紀からは飛騨国の痕跡がほとんど分からない程に抹殺されている。億計王は仁賢天皇として即位した後、飛騨国の歴史を残す取り組みを実行しようとした。しかし、それには反対勢力が存在したのである。それは、蘇我韓子を筆頭とする勢力だった。

 蘇我氏は武内宿禰Bの子である石川宿禰の子孫である。朝鮮半島経営に力を入れていたようで、朝鮮半島の人々との交流が深かったようである。蘇我氏には韓子・高麗等朝鮮半島系の名と思われるものが多い。

 海外での活動が多かった蘇我氏は中国大陸での国どうしの興亡を身近に見ており、いずれ日本列島にもその興亡の波が押し寄せることを危惧していたと思われる。その興亡の波から朝廷を守るには、朝廷を一枚岩にして、海外の先進技術、思想を積極的に取り入れなければならないと考えるようになっていった。そのためには、飛騨国は邪魔な存在であった。飛騨国が存在するために、朝廷が一つになれないのである。

 飛騨国の祭祀王が諸国に号令をかければ、朝廷の指示よりも飛騨祭祀王の指示に従うという傾向がみられた。それが、歴史の重さというものである。億計王はその権威を利用して大和朝廷を倒そうとしたのである。蘇我韓子はおそらくその計画を察知していたのであろう。

 武烈天皇即位

 この頃の皇位継承者は成人していることが絶対条件であった。ここまですべての天皇が成人後即位している。しかし、小泊瀬稚鷦鷯尊は仁賢天皇崩御時13歳であったと思われ、成人していないのである。そして、他に皇位継承者がいないのである。それを思わせる記事が日本書紀にある。

 大伴金村が、平群真鳥親子を平定し終わって、「政を太子にお返し申した」と記録されているのである。そして、
 「今、仁賢天皇の御子は、唯陛下だけであります。人民たちの上に頂くところは、二つあったことはありませぬ。また、天の御加護で仇を祓い除きました。英略雄断は天皇の威光や天皇の位を盛んにしました。日本には必ず王がおいでになります。日本に王があるとしたら、陛下でなくて誰でしょう。伏して願わくは、陛下は天地の神にお応えして、大きなみことのりを弘め宣べ日本をお照らしください。大いに銀郷をお受けください。」
 この言葉を聞いて小泊瀬稚鷦鷯尊は武烈天皇として即位したのである。

 小泊瀬稚鷦鷯尊は未成年であることを理由に皇位継承を辞退したことが推定される。「政を太子にお返し申した」と記録されているということは、武烈天皇即位前に誰かが政治を行っていたことを意味している。日本書紀によると、これが平群真鳥であったことになる。仁賢天皇崩御後、平群真鳥が政を我ものとしてふるまい、それを大伴金村が太子(小泊瀬稚鷦鷯尊)の命を受けて、平群真鳥を平定し、その政を小泊瀬稚鷦鷯尊にお返ししたという流れである。

 事実はどうなのであろうか。おそらく、小泊瀬稚鷦鷯尊は自らがまだ成人していないことを理由に天皇に即位することを辞退していたのではあるまいか。その空位時代を平群真鳥が太子(小泊瀬稚鷦鷯尊)の指示のもと政治を行っていたと解釈する。

 平群真鳥はAD440年頃の生誕で、この頃60歳前後となっていたと思われる。真鳥は雄略天皇の時代に大臣に任じられて、雄略、清寧、顕宗、仁賢の4代に仕えた当時の朝廷における生き字引のような存在の人物である。仁賢天皇の命により泊瀬稚鷦鷯尊の教育係となっていたのではあるまいか。小泊瀬稚鷦鷯尊も真鳥をかなり信頼しており、仁賢天皇亡き後、政治を任せていたものと考えられる。

 真鳥も仁賢天皇から飛騨国の歴史を伝えることの重要性を伝えられ、その真鳥から小泊瀬稚鷦鷯尊にそれが伝えられたのであろう。また、物部氏の祖は饒速日尊であり、饒速日尊は飛騨国の祭祀を大和朝廷に取り入れており、物部氏も飛騨国祭祀に理解のある存在である。他に大伴氏、葛城氏も飛騨国祭祀の重要性に同意していたと思われる。これが保守派である。物部氏や大伴氏は古来からの豪族であるが、神功皇后の時代忍熊天皇に味方した関係で、朝廷から一時期(応神・仁徳朝)遠ざけられていたのであり、この両氏族はその勢力を盛り返してきた時期である。

 これに対して蘇我韓子は飛騨国の歴史を抹殺しなければならないと考えている氏族であり、その必要性を広く訴えていた。海外から帰化した氏族を中心として一大勢力となりつつあったのである。これが革新派である。革新派は技術力もあり、朝廷内で大きな発言力を持っており、保守派は次第に追い詰められていったと考えられる。

 小泊瀬稚鷦鷯尊もこの状態を憂えて何とかしたいと考えていたが、保守派は次第に追い詰められてきた。このような状況になってきたAD504年(武烈3年)、15歳になった小泊瀬稚鷦鷯尊は武烈天皇として即位した。小泊瀬稚鷦鷯尊が即位することにより保守派が政権の中枢を抑えることができ、保守派が勢力を盛り返したといえる。

 武烈天皇の作戦

 AD504、505年、百済が朝貢している。日本書紀では507年と508年となっているが、古代史の復元と3年ずれているので、百済が朝貢したのはAD504年と505年と考えられる。百済は清寧天皇以降日本の政権が安定していないので朝貢してこなかったのであるが、武烈天皇の即位を祝っての朝貢と考えられる。武烈天皇はまだ若く(15歳)、朝廷における長期政権になると考えての朝貢であろう。

 百済からの朝貢により、武烈政権は安定したかに見えたが、革新派の蘇我韓子の逆襲が始まったのである。何としても飛騨国を抹殺しなければならないと考えた蘇我韓子は、飛騨国にかかわる書物を処分し、関連神社伝承も書き換えさせるようなことを実行するようになっていった。

 武烈天皇は、このままにしておいいたのでは、飛騨国の歴史は抹殺されてしまうと危機感を持つようになった。蘇我韓子に飛騨国の歴史を尊重するように指示した。蘇我韓子はうわべでは天皇の指示に従ったが、陰で、歴史の抹殺行為は継続された。

 指示を無視された武烈天皇は、抹殺行為をはたらいたものを見つけ出して処刑していったのであろう。見せしめの意味もあるので、その処刑方法は残虐だったことが考えられる。これが日本書紀に記録されている残虐行為なのであろう。

 武烈天皇がこのようにしても歴史の抹殺が継続された。保守派の豪族にどうしたらよいものかを相談した。その時、65歳程になっていると思われる平群真鳥が意見を具申した。
 「もう我々の力では革新派の行為を止めることができません。そこで、私はこの年まで朝廷につかえることができ、満足しています。私が裏切ったことにして、放逐してもらえませんか。放逐先で飛騨国の歴史をまとめ記録として残します。その記録をその時期が来たときに公開するように子孫に伝えておきます。どうでしょうか?」
 真鳥の子の鮪も「父だけ汚名を着せるわけにはいきません。わたしもその計画に参加させてください。」
と申し出た。

 武烈天皇は最初はその提案を拒否したと思われるが、他に方法もなく、物部氏、大伴氏と諮って真鳥、鮪親子を革新派に気取られずに放逐する計画を建てることにした。

 1.先ず武烈天皇は、気がふれたふりをし、政権を放り出す。
 2.真鳥・鮪親子がそれを利用して政権をほしいままにする。
 3.大伴金村が真鳥・鮪親子を襲撃し屋敷を焼き払う。
 4.真鳥・鮪親子は富山に逃げ、そこで、飛騨国の歴史をまとめ上げる。
 5.革新派の陰で糸を引くものをあぶりだし処断する。

 このようなことが話し合われたことであろう。武烈天皇が鮪の妻影媛に横恋慕したのもこの策の一環であろう。この計画を立てて実行に移したのが武烈6年(AD507年)頃のことであろう。

 武烈天皇はこれらの豪族と示し合わせ、平群真鳥、鮪親子が皇位を簒奪しようと計画したということにし、大伴金村に平群氏を襲撃させ、平群氏を抹殺したように見せかけて、平群真鳥・鮪親子を越中国富山に落ち延びさせ、飛騨国の歴史をまとめ上げる任務を与えた。

 この平群真鳥親子が富山で編纂しまとめ上げたのが後の竹内文書であるが、何回も書き写すうちに内容が大きく様変わりして、現在伝えられている内容になったのであろう。武烈8年のことと思われる。

 蘇我韓子は後になってこのことに気付き、天皇を問い詰めたが、武烈天皇が答えるはずもなく、平群氏の行方を探ったがわからないままであった。武烈天皇は平群親子を落ち延びさせたので安心した。

 武烈天皇暗殺

 蘇我韓子は武烈天皇を皇位につけたままでは、飛騨国を擁護し、朝廷内の混乱を引き起こし将来のためによくないと考えるようになり、武烈天皇の暗殺を画策するようになった。

 武烈8年(AD509年)、蘇我韓子が放った刺客が、寝ている武烈天皇を刺殺したのである。「天書」に、「人有りて密かに帝を聖寝に刺す」と記録されている。

 武烈天皇には後継者がいないのであるが、それでもあえて暗殺を実行したのは、後継者も同じ考えの可能性が高く、天皇の系統を変えようとしたのではあるまいか。

 百済の朝貢について

 507年と508年に百済が朝貢しているが、この時の朝貢はおそらく3年ずれていて、真実は、504年と505年と思われる。百済本紀ではちょうど高句麗の攻撃がなかった2年間となっている。百済はこの時の朝貢が久しぶりだったようである。

 雄略天皇が崩じてからは日本の天皇は短命が続き、外国から見ると、困ったときに助けてくれるような状況にないことが分かる。このような時に朝貢しても無駄であるということが分かっていたのであろう。同時に倭の五王時代に築いた朝鮮半島諸国の倭に対する信頼性も失っていったのである。これが、後の時代朝鮮半島から倭の勢力が締め出される遠因になっていると考える。

 梁書について

 502年武烈天皇即位の年に梁から征東将軍に任じられている。武烈天皇が即位直後に征東将軍の称号を欲するような国際情勢でもなく、当時の倭にその必要性もなかった。武烈天皇が梁に朝貢しているとも考えられず、おそらく、梁の建国祝いに各国の王に将軍の称号を大盤振る舞いしたのであろう。倭ではすでに雄略天皇は亡くなっていたのであるが、梁は生きていると思って一方的に征東将軍の称号を与えたものであると解釈する。

 武烈天皇4年の武寧王即位記事も日本書紀が年代を3年ずらしたのに合わせて挿入されたものであろう。真実は3年遡って502年となる。

 新羅の独立

 新羅は建国以来倭国からの独立を願っていた。雄略天皇崩御後、短命の天皇が続き、大和朝廷の大陸経営はいい加減なものになってきた。新羅としては、独立のチャンスであるということで、独立国としての振る舞いが目立つようになってきた。

 503年 正式国名を新羅とした。

 504年 役夫を徴用して12城を築いた。喪服法を制定した。

 505年 国内の州・郡・県を定め、軍主を置いた。

 509年 京都に東市を設置した。

 等はその一環であろう。

 新羅が独立国としてふるまうのを武烈天皇は知っていたと思われるが、国内事情により、倭国軍を派遣できなかったのであろう。新羅は正式に独立したのである。

 

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