飛騨王朝遷都 

飛騨国統一関連地図

 15代淡上方様の時代

 中国では、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してからを春秋戦国時代と呼んでいるが、この頃より中国が戦乱時代となった。その騒乱を避けた人々が、東シナ海をわたり、日本列島への流入が始まったのである。この頃が15代淡上方様の時代と思われる。15代上方様は、情報連絡網により中国から人々が上陸してきて村を作って住み着いているということが分かった。彼らは古来からの拠点集落をもとにした縄文連絡網に参加せず周りの縄文人とも交わらず勝手に生活していた。いずれこの人たちとの間で戦いが起こることが予想された。この時のためにBC2000年頃飛騨王朝を作ったのである。このことは予想されたことであるので、対策は考えられていたはずである。飛騨口碑をもとに、この頃と思われる飛騨王朝の動きを追ってみよう

 飛騨口碑によると、15代上方様は都(飛騨王家の滞在地)を丹生川村から宮村に遷都している。

 宮村への遷都

 飛騨伝承ではそれまでの本拠地であった丹生川村(岩垣内遺跡)から宮村(高山市一之宮町)に移動したと伝えられているが、その移動先は現段階では特定できていない。地元では「亀ケ平に最初に住居した」と伝えられている。亀ケ平遺跡という縄文遺跡が近くにあるので、この遺跡かもしれないが特定できていない。 ただ調査範囲では小規模な縄文遺跡は多いが、宮村に岩垣内遺跡に匹敵するような拠点となる遺跡は見つかっていない。しかし、周りの状況から判断して拠点は飛騨一宮の水無神社の地ではないかと推定している。この神社の地こそが飛騨王の宮跡であろう。

 15代上方様の活躍時期はいつ頃のことであろうか。第35代上方様(ヒルメムチ)は紀元前後の人物なので、15代上方様の活躍時期はヒルメムチよりも20代前にあたる。上方様が直系でつながっているとすると、一世25年と仮定すると500年となる。BC500年ごろの人物となる。

 上方様の系図とウガヤ王朝の系図が一致すると仮定すると、46代鳥言足清天皇が第15代上方様に該当するが、この期間のウガヤ王朝系図はほとんど直系なのでこの場合もBC500年ごろとなる。

 BC500年ごろとなれば、中国大陸が春秋時代から戦国時代に変わったころで、中国大陸ではBC473年呉滅亡により最後の王「夫差」の子「忌」列島上陸した時期とかなり近い時期である。「夫差」の子「忌」は日本列島上陸後、その子孫が後の狗奴国になり、大和朝廷の統一に協力していない。これは、縄文人が集団に入り込むことを拒否していることを意味しており、それは、渡来時から継続していたと思われ、飛騨王朝としてはかなり不都合だったと思われる。

 今後このような集団が増えることを危惧した飛騨王朝が、日本列島内の縄文人の意識を強く統一する目的で、縄文人社会の改革を目指したと思われる。その一環で遷都したものと考えられる。

 宮村の地は位山が聖なる山となる。

 位山

 位山は水無神社の御神体とされており、さまざまな伝承が残っている。
① この山のイチイの木の原生林で採れた笏木を朝廷に献上し、天皇の即位の式典に使用されていた。
② 地域伝承として「位山の主は、神武天皇へ位を授くべき神なり。身体一つにして顔二面、手足四つの両面四手の姿なりという。天の叢雲をかき分け、天空浮船に乗りてこの山のいなだきに降臨し給ゐき」と言い伝えられている。
③高天原は日本にいくつもあり、中でも一番古いのが飛彈高天原で、位山はその中心となり天照大神の幽の宮(かくれのみや)がある。
④神武天皇がこの山に登山すると、身一つにして面二つ、手四本の姿をした怪神( 両面宿儺・リョウメンスクナ )が雲を分けて天から降臨し、天皇の位を授けたので、 この山を“位山”と呼ぶようになったという。(初代神武天皇に位を授けたとされる両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代には朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)によって討伐された。両面宿儺に対して史書は鬼賊といっているが、 地元の伝説はすべて王者か聖者として崇敬している点が大きい違いである。)
⑤ 位山は分水嶺であり、北は宮川から神通川となり、富山湾に流れ、南は飛騨川から木曽川と続き、伊勢湾に流れる。
⑥ すぐそばを古代の官道(東山古道)が通っている。現在でも石畳の一部が残っている。
⑦ 位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
⑧ 越中の竹内家に伝わる超古代資料である竹内古文献に位山に太古天皇(天照大神)の大宮があったと記録されている。
⑨ 大直根子命が景行天皇の時代に奏上したと言われている秀真伝(ホツマツタエ)に「天照大神が誕生した時、位山の笏木で胞衣を切り開いた」とされている。
⑩ 位山は国常立尊の神都であり、天照大神の誕生所・御陵であると言われている。

 位山こそ飛騨王朝の聖地である。それまで乗鞍岳であったが、山頂に登るのは大変な労力を要するので、縄文中期までの聖地であった位山が再び聖地をして扱われるようになった。聖地を移動したというより、元に戻ったと考えたほうが良いであろう。

 遷都の理由

 飛騨王朝は弥生人の流入により丹生川村から宮村に遷都したと伝えられているが、遷都した理由は何であろうか。飛騨口碑によると
「15代淡上方様は都(本拠)を丹生川村から宮村に移し、後継者の孫 位山命(クライヤマノミコト)に皇統命(スメラミコト)の尊称を授けた。スメラミコトの称号はここに始まる。15代淡上方様一族を全国に派遣し、縄文連絡網を作った。」
と伝えられている。

 この伝承によると飛騨王の権限を強くするのが目的だったようである。権限を強くするには祭祀を強化する必要があるが、その聖地として乗鞍岳よりも位山の方が適していたのであろう。位山は縄文中期よりの聖地である。古来からの聖地近くに遷都することにより、王位の権威をさらに向上させようとしたことが考えられる。BC2000年のシュメールから受け継いでいた皇尊の称号を与えることにした。これまで、シュメール人から受け継いだスメラの名称は飛騨の神の尊称であったと思われる。飛騨王自体は神に遠慮してその称号を用いていなかったのであろう。しかし、王の権威をさらに向上させる必要が生まれたためにこのとき、飛騨王を「スメラミコト」と呼ぶようになったのであろう。 

 そして、スメラミコトの称号を縄文連絡網を通して地方にも伝達した。地方の縄文人もスメラミコトの意味を承知しており、飛騨王が神になったと認識したものであろう。そして、皇位継承を位山で行うことでさらに神格化することができたのである。縄文人は神のような新技術を伝えてくれたシュメール人を神と認識していたと思われる。シュメールを意味するスメルが神の称号として認識されていたのであろう。

 遷都の理由は一つには位山を利用した飛騨王の神格化にあると思われるが、それだけでは渡来人の侵入対策としては不十分である。他に意味があるはずである。そこで、宮村の位置を見ると、北へ流れる宮川の上流であり、すぐ南側に太平洋に流れる飛騨川の上流域である。すなわち、分水嶺の近くである。この地の利点は太平洋側と日本海側の交流の接点であり、人々の移動が激しく縄文連絡網をすばやく効果的に活用することができたのであろう。

 しかし、飛騨王は飛騨地方におとなしくしていたのではないと思われる。飛騨王自身が九州地方を巡回して情報集めや弥生人対策を素早く行っていたのではないかと考えられる。そのため竹内古文書やウエツフミや富士古文書のウガヤ王朝の拠点が九州中心となってしまったのではないだろうか?ウエツフミのウガヤ王朝の御陵所在地で伝えられているのは大分県の霊山が多い。どこまで正しいかわからないが、実際に九州地方で亡くなり、九州に葬られた飛騨王もいたと思われる。

 船山 

 船山は旧名を久々野山といい、標高1479mの山である。飛騨富士とも呼ばれている。位山とはあららぎ湖を挟んで向かい合ってそびえている。 太古の天之浮船(あめのうきふね)が舟山に降りたと伝えているが、舟山にはノアの箱船が着いた所と言う伝説もあり、伝説の箱船が漂着したアララト山に名前のよく似たアララギ湖が近くにある。山頂には船山神社があり、雨乞いの神として崇敬されてきた。麓には船山の方向を向いた八幡神社があり祭神は久々能智神である。竹内古文献によると天忍穂耳命の御神陵があると記録されている。巨石群が多くあり、頂上付近の巨石にはペトログラフも発見されている。

 日ユ同祖論というのがあり、イスラエルの失われた一支族が日本列島に上陸したという。その真偽は定かではないが、この時期に小集団でどこかに上陸していたとしても不思議はない。縄文人が海外渡航していたので、オリエント地方の人々が日本列島や飛騨王朝の存在、そして、戦争もなく平和な地域であることも知っていたと思われる。それらの人々が戦乱に苦しむ中、日本列島を目指してやってくるということはあり得るであろう。船山の伝承なども関係があるかもしれない。また、竹内文書にはキリストや釈迦が日本列島に上陸していることが伝えられている。これも、ありえないことではないが、「古代史の復元」の本筋からずれるので、現段階ではこれ以上触れないことにしておく。今後何か新しいことが判明すれば追及することもあり得る。

 宮村縄文遺跡の謎

 飛騨王朝が宮村に遷都するまでは、拠点と思われる遺跡が存在している。ところが、宮村に遷都してから九州や大和に遷都するまで500年ほどの都だったと思われるが、それ程長い期間都だった割には中心遺跡と思われるのものが、存在していないのである。まだ見つかっていないと判断できないこともないが、それは、不自然である。宮村には小さな縄文遺跡は数多くあるのであるが、拠点遺跡と思われるものが存在していない。これはどういうことであろうか。

 大和朝廷成立後、藤原京ができるまでは、天皇代替わりごとに宮居が移動している。これは、飛騨王朝の伝統を引き継いでいると思われ、この時から、宮居の位置が代々変化するようになったのではないかと考えるのである。

 では、その変動が起こった理由は何であろうか。それまでは、飛騨王自身は拠点集落に構えていて、移動するにしても周辺程度ですますことができていたと考えられる。しかし、この時期になると、渡来人が多数上陸するようになり、縄文連絡網を通すだけでは細かい情報把握ができず、飛騨王自身が各地を転々とするようになったのではないかと思われる。そのため、飛騨における祭祀は同じ系統の誰かが行い、飛騨王自身は即位の儀式の時やそれに準ずる儀式のときのみ飛騨国にいる程度となったのではないかと思える。

 九州地方に渡来人が上陸することが多く、九州地方に大変動が起こっている関係上、飛騨王は九州にいることが多く、その結果、九州に御陵伝承地が多くなったと考える。そして、このことがウガヤ王朝(飛騨王朝)が九州中心の王朝として古文献に記録される理由になったのではあるまいか。しかしながら、飛騨王が所在不明では、縄文連絡網が機能しなくなるので、飛騨王の所在は縄文連絡網を通して日本列島全体に伝わっていたのではないだろうか。

 飛騨王の所在を縄文人に明らかにしておくには、頻繁に移動するわけにはいかず、それぞれの飛騨王が必要な地に拠点を構えておく必要があったと思われる。その地が宮居であり、九州であることが多かったのであろう。所在不明にならないためには、少なくとも数年間は同じ所にいる必要があった。

 トップへ  目次へ 
小国家乱立
関連 飛騨王朝成立前夜
飛騨国の誕生
飛騨王朝の功績
縄文人と渡来人との遭遇
渡来人の急増