球磨国との交渉

 北九州統一関連地図

 久留米地方の統一

 饒速日尊は高皇産霊神より譲り受けた高良山を拠点として南方諸国統一に向かった。先ずは久留米地方である。

 伊勢天照御祖神社

 伊勢天照御祖神社(福岡県久留米市大石町速水132) 祭神 饒速日尊

古代の郡界が不明のため本来の所在地は定めがたい。矢野一貞は『諸社拾実鈔』で当社を式内社としているが、 その論拠は注目に値する。いわく「社後の土中に許多の齎瓮埋もれたり、掬うべし、 千年外の祭器なること疑いなし」今、大石村と庄島村の界いに小川あり、此わたりにて白鳥川と云い、 此源は三井郡国分村より出て、同郡中村を過ぎ西久留米(三潴郡)を分かち、府下三本松町、 池町を経て大石と庄島を分かち筑後川に入る。此川や古の郡界なりけむ。(中略)此地必御井に属すべき 地勢なれば此御社こそ式に載れる御祖神社なるべし。神号の均しき、社伝の拠のある、神実の甚古記、 祭器の許多残れる、地理の接はれる、相殿の神等の厳重なる由緒ある。彼是以て思い定べし。 <神社案内板より>

 『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、久留米市御井町の 高良大社の末社(この伊勢御祖神社のこと)と当社(久留米市大石町に鎮座する 伊勢天照御祖神社のこと)に比定が分かれ、他に『筑後国神名帳』の三潴郡「正六位上大石兵男神」を 当てる説もある。<以下省略>(大石町の伊勢天照御祖神社の由緒より) 

 高良大社の末社伊勢御祖神社、大石町の伊勢天照御祖神社ともに饒速日尊が降臨した地であろう。饒速日尊がこれらの地を拠点として現在の久留米市一帯を統一したことがうかがわれる。

 筑後川流域の統一

 饒速日尊は後に北九州一帯の豪族を集めて大和に降臨している。その時の豪族を物部氏と呼んでいるが、その出身地は饒速日尊が訪れていると考えてよい。竹野郡二田郷(田主丸町益生田二田周辺)、また、筑後浮羽郡に物部郷がある。浮羽郡物部郷はどこであるか現在では不明になっているが、古賀達也氏によると電話帳検索により福岡県の物部さんの分布を調べたところ、うきは市浮羽町が最も物部姓の人が集中していたということである。饒速日尊はうきは市も訪れているようである。

 媛社神社 福岡県小郡市大崎1
 正式名を媛社(ひめこそ)神社と称し、媛社(ひめこそ)神と織姫(おりひめ)神を祀った神社で、媛社神は別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)といい、交通安全、織姫神は機織り(はたおり)にすぐれた技をもつ神と伝えられている。 
 この神社は肥前国風土記に記載され、創建以来1200年以上で「星まつり」「乞功奠(きっこうてん)」の伝説が中国から伝わり、我国の「たなはたつめ」の信仰と結びつき、近くの宝満川を天の川になぞらえ、対岸の稲吉に牽牛社を祀り「七夕さま」として古くから学業成就、技芸上達、交通安全、子供の成長守護神として広く崇敬されている。
(平成祭データ)

 饒速日尊がこの地を訪れ機織り技術を伝えたことが推定される。

 南関町統一

 熊本県南関町宮地嶽神社碑文
 「○火明命安座」とあり、この神社は火明命を祭神とする。南関町は「南関石工」がいたところ。この神社そのものが阿蘇灰石の上に建っており、かつては石切場であったと言われている。この地にも饒速日尊が訪れているようである。

 これら伝承地は高良大社中心に分布しているので、高良大社の地を拠点として饒速日尊が統一事業を実行していることが推定される。

 狗奴国の実態

 考古学上の実態

 狗奴国(球磨国)は筑後川中流域の山鹿市から菊池市にかけて、かつて存在した茂賀の浦の湖畔に成立した国である。その始祖は中国戦国時代の呉の最後の王「夫差」の子「忌」で、彼が、東シナ海を渡ってきて立てた国である。中国の王家の血筋なので、それなりの先進技術と人材を伴って日本列島に上陸していると思われ、当時の日本列島の中では、かなりの強国であったと思われる。

 弥生時代中期には花房台地に中心があったと思われるが、後期にはうてな台地の方に中心が移っているようである。この周辺の巨大遺跡は弥生時代後期になって巨大化し、古墳時代になると消滅している。戦時体制にあったようで、多量の鉄鏃が見つかっている。

 菊池川流域から熊本平野、阿蘇盆地にかけて弥生時代後期の製鉄遺跡が散在している。その生産規模は北九州中心域にも匹敵するほどのもので、相当な科学力を持った集団がいたと予想される。この地域は北九州地域と交流を持っていたようで、青銅祭器も出土している。北九州地域と敵対関係にはなかったようである。

 この地域は多量の鉄器が見つかると同時にうてな遺跡では中国の貨泉が見つかっている。また、方保田東原遺跡では山陰や山陽など西日本各地でつくられたと考えられる土器が多数出土していることから、交易が盛んに行われ、繁栄していたようである。

 伝承上の実態

 ところが、饒速日尊・素盞嗚尊関連の伝承は全く見つからない。それどころか、彼らを祀る神社の数も全国一少ない県が熊本県である。

 熊本県の神話伝承は神武天皇時代の建磐龍命が最初である。熊本県は神武天皇を祀る神社が全国一多く、神武天皇時代に初めて伝承上にこの地域が登場する。

 ところが、この地域の南部に当たる益城郡当麻郷(現宇城市豊野町)、片野郷(現八代市片野町)は当麻物部、肩野物部の出身地であり、饒速日尊が訪問しているようである。饒速日尊は人口密集地である熊本県北部を避けて、南部の統一をしている様子がうかがわれる。

疋野神社 由緒
熊本県玉名市立願寺457
疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。
・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。『延喜式』には、天皇御即位時の大嘗祭の八神殿に祀る神として、又祈年祭・月次祭の祝詞や、神明帳の宮中三十六座の中にもその御神号が見え、特に朝廷の御崇敬が深い神として記されています。相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。

 疋野神社は狗奴国の入口にある神社である。この神社の地に波比岐神がやってきて狗奴国を倭国に加盟させる努力をしたものと考えられる。

 波比岐神は大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して生まれた神である。天知迦流美豆比売神は飛騨国の娘と推定しており、AD30年頃誕生していると考えられる。この人物がこの地方にやってきて活躍するのはAD50~60年頃と思われる。

 狗奴国と饒速日尊

 上のような実態が上手く説明できるような状況を推定してみよう。

 北部の狗奴国は中国呉国の王「夫差」の子孫であり、高度な技術を持っていると同時にプライドも持っていたであろう。日本列島上陸してから、王国として存在していたのであろう。その中心地は茂賀の浦湖畔と思われる。次第に周辺の小国家を取り込んで連合国家を形成していたのであろう。弥生時代中期末に当たるこの頃は熊本県北部から熊本平野、阿蘇盆地にかけて土地を領有していたと思われる。北部の福岡県八女市あたりにも進出しようとして高皇産霊神を中心とした高良国と衝突することもあったのであろう。

 中期末まではこのような状況が続いていたが、素盞嗚尊が北九州を統一してから状況が一変したのである。饒速日尊から倭国連合に加盟するような要請が来たと思われるが、狗奴国は代々続いた王国であり、倭国連合に加盟すると権力を維持できなくなるため、また、敵であった高皇産霊神と協調関係になることが耐えられなかったのではあるまいか。その結果、倭国連合に加盟することを拒否したのであろう。

 ところが、北九州諸国が先進技術で持って生活が豊かになっていく実態があり、このまま倭国加盟をただ拒否しているだけでは、何れ倭国に取り込まれることは明らかであった。そのために、狗奴国独自で先進技術を大陸から手に入れる努力をしたのであろう。そして、その鉄器を周辺諸国に配り盛んに交流を進めることで国力を維持していたものと考える。

 狗奴国としても国力を維持するために神武天皇の時代になって天皇の孫建磐龍命がこの地にやってきたのをきっかけとして、自治を認めさせたうえで、大和朝廷との交流を始めたのではあるまいか。大和朝廷はその初期に於いて、出雲と日向には自治を認めていたために、狗奴国(熊曾)にも同様に自治を認めることによって交流を深めていったのであろう。

 狗奴国にとって鉄器製造技術は倭国に対抗するためにも重要なものである。ところが、古墳時代になると同時にそれら製鉄遺跡は一斉に消滅しているのである。これは第10代崇神天皇の時代に大和朝廷と戦い、敗れたためと思われる。これは、倭の大乱後、大和朝廷が狗奴国の自治を取り上げて、この地域を直轄地にしようとしたことから戦いが始まったと推定している。

 益城郡当麻郷(現宇城市豊野町)、片野郷(現八代市片野町)は当麻物部、肩野物部の出身地であることから、弥生時代中期末(紀元前後)の時点では狗奴国の支配領域に熊本県南部は入っていなかったようである。饒速日尊は狗奴国を倭国に加盟させることはできなかったが南部地域は加盟させることができたようである。しかし、古墳時代初期大和朝廷の軍に責められて、八代一帯に狗奴国の人々(熊襲)が逃げ込み、この地域は朝廷の支配下から外れたのであろう。その後、第12代景行天皇の時代、天皇自身が乗り込んできて、八代の熊襲は壊滅し人吉盆地に逃げ込んだ。人吉盆地で勢力を回復しようと諮ったが、第14代仲哀天皇により、遂に熊襲は大和朝廷支配下に組み込まれることになった。

 日向国北部統一

 AD10年頃、熊本県八代一帯を統一した饒速日尊は、その南が難所であることから、南ではなく東の統一に向かったと考えられる。宮崎県南部の伊弉諾一族のことは饒速日尊にも耳に入っていたのではないだろうか。伊弉諾一族は狗奴国の分派である。何らかの理由で狗奴国本家と対立し離れて別の国を作っているのである。この一族も先進技術を持っており、その統一に苦労することが予想された。

 熊本県下で最後に統一したのが八代一帯と思われるので、益城郡より緑川を遡ったと思われる。伝承はないが分水嶺にある幣立宮の地も訪れていることであろう。馬見原から五ヶ瀬川流域に入るが峡谷続きなので、おそらく峰伝いに高千穂に入ったと思われる。

 高千穂の饒速日尊関連神社

秋元神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字向山6781
 祭神 国常立命、国狭槌命、豊斟淳命
諸塚大白山中腹に御創建されていたが、天和3年(1683年)現在地に建立したと申し伝えられている。

諸塚神社「合神 天饒速日命」 宮崎県東臼杵郡諸塚村大字七ツ山7190
饒速日尊が降臨したという伝承を持つ

 祭神の国常立命、国狭槌命、豊斟淳命はいづれも饒速日尊の別名である。諸塚山は高千穂の聖地である。その聖地に饒速日尊と思われる神を祀った神社があるということは、この高千穂一帯が饒速日尊によって、倭国に加盟したということを意味している。

 速日峰

 高千穂から古代より使われていた峰を通る六峰街道がある。饒速日尊はこの街道を通ったようである。この街道の行きつく先が速日峰である。ここにも饒速日尊降臨伝承がある。

 早日渡神社(延岡市北方町大字巳)
 田ノ端に位置し、速日峰の北麓にある。 祭神は饒速日命、菅原道真、他数神。旧村社。 当初は、饒速日命が降臨したという伝説のある速日の峰に、天神として祀られていたが、 応和元年(961)に麓の早日渡へ移されたと伝えられている。

 延岡市

 三輪神社(宮崎県延岡市三輪町1065 祭神 大己貴命)
 大昔、大己貴命が豊葦原を巡狩してこの地に来て、青谷城山というところに暫時留まれた。そこで後、人々はその幸魂奇魂(さきたまくしたま)を祀って青谷城神社と称し、後に三輪大明神と称した。そして、吉野、天下等に神領があり、霊験あらたかで人々を崇拝を集めてきた。しかし、同社は村里から離れているので、高角折原というところに社殿を遷した。
                     (日向の伝説:鈴木健一郎著より)

 神社名が三輪なので、祭神は大己貴命ではなく饒速日尊であろうと思われる。饒速日尊は速日峰から峰伝いに烏帽子山に達し、そこから川沿いに降りたのであろう。その地が三輪である。この地にしばらく滞在したのであろう。

 三輪神社の伝承に神領が吉野・天下にあるとなっている。これは天下神社を指していると思われる。この神社は瓊々杵尊の滞在伝承を持っているが、饒速日尊が滞在していたのではあるまいか。また、延岡市の笠狭山(愛宕山)の麓に春日神社(祭神武甕槌命)が存在している。日向系の神社でありながら、出雲系の神社にいるはずの狛犬がある。この笠狭山も瓊々杵尊滞在伝承地であるが、饒速日尊の滞在地ではあるまいか。瓊々杵尊と饒速日尊は名がよく似ているので間違えられたか、故意に書き換えられたか、同じ地に両神とも滞在したかのどれかではあるまいか。何れにしても饒速日尊は延岡の地に暫らく滞在したようである。当然この周辺は統一されたことであろう。

 トップへ  目次へ 
南九州統一
関連 北九州統一
呉太伯子孫到来
卑弥呼魏への朝貢