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宮崎県諸塚山伝承
諸塚山は高千穂町と諸塚村との境界にある標高1342mの山である。この一帯でもっとも高い山で、東の日向灘まで直線で約40kmあるが、おそらく日向灘が直接望める最も西の山である。山頂近くに多くの塚があることから諸塚山と呼ばれている。標高1342mの頂上付近に、誰が、何のために築いたのか謎である。そして、さまざまな伝承を持っているのである。
①イザナギ、イザナミの御神陵である
②天孫降臨の地である。
③神武天皇巡幸の地である。
④太伯山とも云い、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという。
古代中国に朝貢した倭の使者は「我々は呉太伯の子孫である。」と言っている。そこから、日本の皇室の祖は、呉(中国)の祖ともされる太伯であるとされ、諸塚山は、その太伯を祀ったことから太伯山とも呼ばれていたという。呉の祖、太伯は、高天原や天孫降臨と関連していることが分かる。
日向風土記逸文に書かれた二上山からこの諸塚山までの10キロ弱は、1000メートル級の峰続きで、六峰街道と言われている。かなり古くよりその形があって、降臨をはたした天孫瓊々杵尊はこの道を通って笠沙山(延岡市愛宕山)にむかったと伝えられている。
一つ一つの伝承を検証してみよう。
①イザナギ・イザナミの御神陵。イザナミ神の御陵は広島県比婆郡の比婆山、イザナギ御陵は兵庫県淡路市一宮の伊弉諾神宮裏であり、この山が二神の御陵とはならない。しかし、これだけの伝承を持つ山なので、イザナギ一族と深い関係があるのは間違いないであろう。北麓の高千穂町は宇佐にいた日向津姫(ムカツヒメ)が一時滞在しており、ここで、瓊々杵尊が誕生している。イザナギ・イザナミは素盞嗚尊が九州統一した時、宮崎県南部の加江田神社の地に住んでいたと思われる。そこから考えても、高千穂町は全く縁のない地に思えるのであるが、イザナギ・イザナミの御神陵伝説を始め高千穂町には高天原関連の伝承が多い。日向津姫が一時滞在していたにしては、その伝承があまりにも多いのに不自然さを感じる。イザナギ・イザナミ一族の祖先の滞在地と考えれば、一連の伝承に筋が通ってくる。イザナギ・イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。呉王夫差の子「忌」が熊本県菊池市周辺を拠点として、その一族が周辺に広がっていく中、その一派が阿蘇山麓を経て高千穂町に到達したのではないだろうか。ここがイザナギ一族の古里となるのであろう。諸塚山はこの周辺で最も高い山である。周辺の地理を探るためにはこの山に登るのが最もよく、しだいにこの山は聖山となったものと考えられる。この頃の支配者の墓が諸塚山山頂付近の塚なのではあるいまいか。それが、後の世、イザナギ・イザナミの御神陵と言い伝えられるようになったものとすれば、納得がいく。
② 天孫降臨の地。高千穂町を流れる五ヶ瀬川は峡谷地帯であり、延岡市に達するのに川沿いに下るのは危険である。そこで、延岡周辺に進んでいくのに、二上山から諸塚山と通って、速日峰に至るまで峰沿いを通って、延岡市近辺に至る経路ができたものと思われる。長らく高千穂に住んでいた一族は延岡の方に移住する必要が生まれ、この経路を通って延岡に至ったものであろう。BC20年頃ではあるまいか。延岡に至った一族は海路南に下り、素盞嗚尊がやってきたころ(AD15年頃)には、宮崎市木花の加江田神社の地に住んでいたのであろう。イザナギ一族が宮崎市の方に移って行った後もこの高千穂町はイザナギ一族の始祖の地として大切にされていたのであろう。この移動こそが本来の天孫降臨ではないだろうか。そのために、日向津姫が一時この地に立ち寄り瓊々杵尊がこの地で誕生したと言える。
③ ①②のようなことがあり、高千穂町が聖地となっていたことは神武天皇が大和に東遷する時も、天皇自身が承知しており、東遷途中に神武天皇が訪問してくることは十分に考えられる。
④ 呉太伯自身がこの地に住んでいたというのは考えられないが、太伯の子孫がここに住んでいたということは十分にあり得る。太伯の子孫であるイザナギ一族の古里であるために、太伯が滞在していたという伝承につながったと考えられる。
また、呉太伯は鹿児島神宮で祀られている。鹿児島神宮は国内で太伯を祀る唯一つの神社である。この神宮の地は日向津姫が南九州の拠点としていた処で、イザナギ一族にとっては聖地とも云う場所である。これもイザナギ一族が呉太伯の子孫であることを意味しているのではないだろうか。
幣立宮
高千穂に降臨したと思われるイザナギ一族はどこから降臨したのであろうか。それを明らかにする神社が熊本県蘇陽町の幣立神宮である。この神社には以下のような由緒がある
高天原神話発祥の神宮である。悠久の太古、地球上で人類が生物の王者に着いたとき、この人類が仲良くならないと宇宙自体にヒビが入ることになる。 これを天の神様がご心配になって、地球の中心・幣立神宮に火の玉に移ってご降臨になり、その所に芽生えた万世一系(日の木・霊の木)(一万五千年の命脈を持つ日本一の巨檜)にご降臨の神霊がお留まりなった。 これがカムロギ・カムロミの命という神様で、この二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮である。大祓いのことばにある、高天原に神留ります、カムロギ・カムロミの命という言霊の、根本の聖なる神宮である。通称、高天原・日の宮と呼称し、筑紫の屋根の伝承がある。神殿に落ちる雨は東と西の海に分水して地球を包むという、地球の分水嶺である。 旧暦十一月八日は、天照大御神が天の岩戸籠りの御神業を終えられ、日の宮・幣立神宮へご帰還になり、幣立皇大神にご帰還の報告が行われた日で、この後神徳大いに照り輝かれた。よってこの天照大御神の和御魂は、ここ高天原・日の宮の天神木にお留まり頂くという、御霊鎮めのお祭り巻天神祭を行う。しめ縄を天神木に引き廻らしてお鎮まりいただく太古から続く祭りである。 太古の神々(人類の大祖先)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い、天地、万物の和合なす生命の源として、祈りの基を定められた。この歴史を物語る伝統が「五色神祭」である。この祭りは、地球全人類の各々の祖神(大祖先)(赤・白・黄・黒・青(緑)人)がここに集い、御霊の和合をはかる儀式を行ったという伝承に基づく、魂の目覚めの聖なる儀式である。 |
神話では、神々は高天原で生まれたとされている。熊本県蘇陽町の幣立宮は、最初の神天御中主神が鎮座し、神漏岐命、神漏美命を祀っている。この神社は以下のような伝承を持つ。
① 神武天皇は大和遷都後、7回この宮に参拝し、民族の繁栄と平和を祈願したという。
② 天照大神は天岩戸より出御のとき、天の大神を神輿に奉じ日の宮(幣立宮)に御還幸になった。
③ 瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。
④ 建磐龍命が阿蘇に下向した時、ここに幣を立てて天の神を祀られたので、幣立宮という。
⑤ 瓊々杵尊はここより立ちて、高千穂に下る。
⑥ 天御中主尊をはじめとする造化三神の神陵がある。
⑦ この神社の最初の神官は天児屋命である。
如何にも神話の最高の聖地と言うような伝承を複数持っている。どこまで真実かは定かでないが、神々の中心地であったという核になる部分は真実ではないかと思える。最も自然な成り行きとして考えられるのは、イザナギ一族が高千穂に行く前に住んでいた所ではないかということである。
その説を検証してみよう。古事記に最初に登場する神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神であり、造化三神と言われており、独神であり、その姿を隠している。これは後に検証するが、大和朝廷を構成する三系統の血筋を表しているものと考えている。天御中主神はイザナギ一族を指し、高皇産霊神・神皇産霊神は飛騨王朝を指しているようである。伝承から判断してこの神社は天御中主神の系統と思われる。
次に神世7代が続くが最初の2代(国常立尊・豊斟渟尊)はいずれも饒速日尊を意味していると推定している。しかし、元来はイザナギ一族の先祖であったが、饒速日尊と同化したのではあるまいか。次の5代がイザナギ一族の先祖ではないだろうか
神世第一代 国常立尊
神世第二代 豊斟渟尊
神世第三代 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
神世第四代 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
神世第五代 大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)
神世第六代 面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)
神世第七代 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
幣立宮に祭られている神の大宇宙大和神は「おおとのちおおかみ」と読むそうである。神世第5代大戸之道尊と同じである。イザナギ一族はこの神の時代にこの地に住んでいたということではないだろうか。BC60年頃と推定する。
幣立宮は分水嶺上にあり、ここより東に降った雨水は五ヶ瀬川となり日向灘に流れ、西に降った雨水は大矢川から緑川となり、有明海に流れ込んでいる。呉太伯の子孫である「忌」は有明海を経て菊池市近辺を本拠とした。その一族は次第に周辺に広がっていき、球磨族となった。その一派が緑川を遡り、幣立宮の地に住んだ。ここからさらに東に進み、高千穂に下ったのであろう。この神社が九州の屋根と言われるのは分水嶺にあるためであろうが、ここを頂点としてイザナギ一族が東へ降ったためではないかと考える。
イザナギ一族と球磨族は共に同系統の一族のはずであるが、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。幣立宮が始原となっているが、それ以前に住んでいた地があるはずである。それが全く伝わっていないことからして、イザナギ一族は球磨族から仲たがいして分派したのではないかと思われる。当初菊池市近辺に住んでいたが、球磨族と意見の相違があって、その地を離れ、緑川を遡り幣立宮の地に移り住んだのではないかと思う。その人物が神漏岐命・神漏美命であろう。その時期は定かではないが神世七代から推察してBC200年頃か。
幣立宮の裏に神水の湧き出るところがあり、その前が神田である。昔からこの田で稲作をしていたのではないだろうか。この地は中央構造線上にあり、分水嶺の標高が低いのである。九州の西海岸と東海岸の交通の要と考えることもできる。ここに人が最初にやってきたと思われるのは弥生時代であるが、大人数が住めるという場所ではない。伝承からして長期にわたって人々が住みついていたようであるが、それが可能であったのは外部との交流が活発であったことによると思われる。分水嶺の標高が低いというのがその要因であろう。
イザナギ一族が球磨族から仲たがいで分裂したため、幣立宮以前の滞在地が全く伝わっておらず、この幣立宮が始原の地となり、他の神社には見られないような特殊な祭祀が行われるようになったのであろう。
飛騨王朝との関係
幣立宮は「日の宮」とも言われている。日を崇めていたのは縄文人であり、飛騨王朝である。また、祭神の天照大神は飛騨王朝の神と思われる。そういった意味でこの神社は縄文系の色が濃いのである。ところが、幣立宮は阿蘇の神が主として祭られているようで、阿蘇の神は太伯の子孫である。末代の伊弉諾・伊弉冉尊は高千穂で呉の太伯と関係がある通り、この幣立宮は縄文系と後の太伯系と両方の祭祀が深く感じられるのである。また、幣立宮には五色神面が伝えられており、世界中の人々が仲良くするという意味が含まれている。そういった点から、この幣立宮は呉太伯系の渡来人が初めて縄文人と打ち解けた場所ではないかと思えるのである。
幣立宮は分水嶺にある。飛騨王朝の遷都後の都も分水嶺に存在している。九州で縄文遺跡の多い日田地方も分水嶺である。分水嶺は交通の要所であり、縄文連絡網に情報を伝える人々にとっては重要な場所となるのである。そういった意味から、この幣立宮の地は縄文連絡網の通過点として一つの拠点だったと思われる。
飛騨王朝としては呉太伯の子孫が縄文人と距離を保っているのは気になって仕方のないところであったと思われる。このようなところに仲たがいをしたと思われる太伯の子孫がやってきたとなれば、飛騨王朝としては願ってもないことである。今後この一団をイザナギ一族と呼ぶことにする。このイザナギ一族は大和朝廷の成立にかかわっているほど重要な一族であるが、狗奴国とは敵対関係にあった。これらのことをうまく説明できる仮説が以下のとおりである。
呉太伯の子孫は狗奴国を建国し、縄文連絡網に参加せず、縄文人とは距離を保っていたと思われる。ところが、BC200年頃秦徐福が最新技術を持って日本列島に上陸したのをはじめとして、多くの渡来人が日本列島に押し寄せるようになってきた。上陸者の多くは北九州地方であったために、熊本地方にはそれ程多くはなかったが、上陸者の増加により、狗奴国は周辺から孤立するようになっていったのではないだろうか。狗奴国は先進技術を持ってはいたが、後続の上陸者に比べてその先進技術は劣るものであり、縄文人はその新技術を手に入れている。狗奴国が、縄文連絡網に参加しない形で独立を保っていたのでは、周辺から遅れることが危惧され、狗奴国内で縄文連絡網に参加すべしというイザナギ一族が出現したのではないだろうか。両者の争いの中イザナギ一族が敗者となり、狗奴国から追放され、幣立宮の地にやってきた。この地は縄文連絡網の拠点の一つであり、イザナギ一族はこの地で、縄文連絡網に参加し、この地が、両者の和合の象徴となった。早速この地に飛騨王自身が訪れ、聖なる地として認定した。このように考えると、幣立宮の特殊性が説明できるのである。
この地に住んでいた神世7代は最初の2代を除いて、すべてが男女ペアとなっている。当初は同属の中の夫婦と考えて居たが、この地で、双方の代表者が共同で何事も取り組んでいたと考えれば説明がつく。始祖の神漏岐命、神漏美命は、神漏岐命がイザナギ系で、神漏美命が縄文系ではないだろうか。通常は男系が縄文系であるが、中国文献に倭国からの使者が太伯の子孫と名乗っていたことから、男系がイザナギ系と考えるのである。
天御中主尊とは
天児屋命に関して・・・この神宮の初代神官は天児屋命と言われている。天児屋命は中臣氏の祖先である。伝承によれば、
天御中主命-天八下尊-天三下尊-天合尊-天八百日尊-天八百萬尊-津速産霊命─市千魂霊命-興台産霊-天児屋命
と続いており、その祖先は天御中主命であり、この地に住んでいたと言われる天御中主命の子孫となる。後で述べるが天児屋命は饒速日尊の天孫降臨(AD25年頃)の随伴者として大和に降臨している。そのため、この神宮の神官であったのはAD20年頃となる。この系図が真実ならば天御中主命はBC100年頃活躍した人物となる。天児屋命は高千穂町三田井の菊宮神社に祭られており、高千穂町の多くの人々の先祖が天児屋命と言われている。これは、天児屋命が高千穂に住んでいたことを示している。天児屋命は高千穂に生まれ、ここで育って、天孫降臨の前に幣立神宮の神官をしていたと考えられる。
天児屋命はその子孫が中臣氏から藤原氏につながっている。奥州藤原氏のミイラのY染色体ハプログループを調べるとO1b2であることが分かった。この系統は呉系で呉の太伯の子孫がこの系統と思われる。まさにイザナギ一族の系統である。この事実は高千穂の人々はイザナギ一族の子孫であることを示している。
幣立宮周辺弥生遺跡(遺跡ウォーカーより)
宮ノ後A遺跡 熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
甲長崎D遺跡 熊本県上益城郡山都町長崎
宮ノ後B遺跡 熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
宮ノ後D遺跡 熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
幣立神社遺跡 熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
神ノ前遺跡 熊本県上益城郡山都町神ノ前白石
幣立宮の記録に「瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。」とあるように天御中主尊とは幣立宮周辺の国の国王が代々呼ばれていた名のようである。古語拾遺によると天御中主尊から長男高皇産霊神・次男津速産霊神・三男神皇産霊神が生まれたとあるが、高皇産霊神・神皇産霊神ともに全く異なる場所で活躍した伝承が残っているのでこれは誤りであろう。
古事記で最初に登場する神が天御中主尊であるとしている。この人物は何者であろうか。丹後一宮籠神社に伝わる伝承では、始原の神は天御中主尊と國常立尊は同一人物であるとされている。また、飛騨口碑の始原の神は國常立尊で乗鞍の高天原に降臨したとされている。後に饒速日尊が奈良県の熊野山中に玉置神社を創建するときに祀った神が國常立尊である。これらを総合して考えると、天御中主尊はシュメール人直系の子孫と考えるのが最も妥当ということになる。飛騨王朝の生みの親ともいうべきシュメール人であるが、縄文人の中に溶け込む中でも男系の子孫は残っており、飛騨王朝の中でも重要な役割をしていたと考えられる。その人物が天御中主尊と呼ばれていたのではあるまいか。この幣立宮の縄文連絡網拠点には天御中主尊が派遣されていたと考えると説明がつく。しかし、天児屋命はY染色体ハプログループが呉系のO1b2なので、シュメール系ではなくイザナギ系である。おそらく、天児屋命はイザナギ系ではあるが、シュメール系の天御中主尊の系統に付け替えたものであろう。あるいは天御中主尊の系統とイザナギ一族は幣立宮の地で共同生活をしていたと思われるので、系統が混乱してしまった可能性も考えられる。
高千穂への降臨
幣立宮周辺に住んでいた人々は高千穂に降臨している。これはいつのことであろうか。それを探ってみたいと思う。
高千穂町の降臨伝承
二上山伝承<二上神社の祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊>
「二上峰に瓊々杵尊が天降られましたが、空が暗くて何も見えませんでした。その時、土地の豪族である大鉗(くわ)、小鉗が現れ、尊が手に持っている稲千穂を籾にして蒔くように言いました。尊がその通りにすると、空は明るく晴れ無事に地上に降りることができました。このため、この地を知鋪と呼ぶようになりました。」
高千穂峡おのころ島
「伊弉諾尊・伊弉冉尊は高天原の神々に『この漂っている国を作り固めよ』と言われ、天の沼矛を授かります。天と地の間にかかる天浮橋の上に立ち、矛の先を下に向けてコロコロとかき混ぜたところ、矛先からしたたり落ちる潮水が積もり積もって島となりました。これが淤能碁呂島です。この島は高千穂峡にあり、毎年4月16日の高千穂神社の春季大祭では高千穂神社を出発した神輿がこの島を回る『浜下り神事』が行われます。」
複数の系図から、それぞれの神(人物)の活躍年代を単純計算してみる。一世30年として計算する。
古事記 | 日本書紀 | 中臣氏 | 大伴氏 | その他 | |
BC240 | 天御中主尊 | ||||
BC210 | 天八下尊 | 秦徐福 | |||
BC190 | 国之常立神 | 国常立尊 | 天三下尊 | 高皇産霊尊 | |
BC160 | 豊雲野神 | 国狭槌尊 | 天合尊 | 安牟須比命 | |
BC130 | 宇比邇神 | 豊斟渟尊 | 天八百日尊 | 香都知命 | |
BC100 | 角杙神 | 泥土煮尊 | 天八百萬尊 | 天雷命 | |
BC70 | 意富斗能地神 | 大戸之道尊 | 津速産霊命 | 安国玉主命 | |
BC40 | 淤母陀琉神 | 面足尊 | 市千魂霊命 | 天押日命 | |
BC10 | 伊邪那岐神 | 伊弉諾尊 | 興台産霊 | 天押人命 | 素盞嗚尊 |
AD20 | 天照大神 | 天児屋命 | 天日咋命 | 饒速日尊 |
これらの人物名は古事記・日本書紀で同じではない。それどころか日本書紀の複数の一書すべてがばらばらである。古事記編纂時代にはすでに伝承がばらばらになっていたものと考える。神名自体も実際に生存していた人物名とは異なるのではないかと思われる。今となっては正しいものを復元しようがないので日本書紀の神を元に推定してみることとする。
降臨した人物は高千穂に稲作を導入しているが、稲作はもっと早くから持ち込まれていたと推定する。この幣立宮の地は安定した地下水に恵まれており、イザナギ一族が降臨したときには、すでに稲作体制ができていたことであろう。代数にして二世程度縄文人とこの地で共同生活をしていたことであろう。
この地から一般に高千穂に降臨したのは瓊々杵尊と言われているが、この尊はここで誕生して、誕生直後ここから延岡の方に降臨しているという伝承が複数の神社に伝えられている。このことから、この高千穂に降臨した人物は瓊々杵尊ではないことになる。伊弉諾尊・伊弉冉尊の降臨伝承もあるが、伊弉諾尊・伊弉冉尊もここから立ち去って、宮崎市の加江田神社の地で天照大神(日向津姫命)を産んでいるという伝承がある。また、諸塚山頂に伊弉諾尊・伊弉冉尊の神陵が存在しているが、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御陵はそれぞれ別のところに存在しているので、諸塚山の御陵は伊弉諾尊・伊弉冉尊ではないことになる。もし、伊弉諾尊・伊弉冉尊がここに降臨してここから、宮崎に移動したのであれば、高々10年ほどしか高千穂にいなかったことになる。高千穂の伝承の多さから判断し、高千穂には、より多くの期間イザナギ一族の先祖が住んでいたのではないかと思われる。また、諸塚山の塚の数はそれを裏付けているのではないだろうか。二上峰の降臨伝承が最初の高千穂降臨を示していると思われる。幣立宮の地で稲作をしていた人物の誰かが、稲穂を以てこの高千穂を訪れたのであろう。
大戸之道尊は幣立宮では大宇宙大和神(読みが同じなので、同一人物と推定)となるので、この神の時は幣立宮にいたと思われる。以上のことから推察して面足尊の時に高千穂に移動したのではないかと推定できる。面足尊の神名の意味は表面が完成したという意味である。BC40年頃ではないだろうか。これをもとに移動の実態を推定してみる。情報が少ないので、真実性がどこまであるかわからないが、一つの形を作っておく。
BC200年頃、イザナギ一族が球磨族本体から分離し、その一族十数人ほどを引き連れてこの地を訪れた。この地には縄文連絡網の拠点があり、天御中主尊が代表者を務めていた。ここで初めてイザナギ一族が縄文連絡網に参加したのである。イザナギ一族・縄文人の選ばれた人物が夫婦となり、この地を治めた。神宮の裏手の清水がわき出るところに田を作り稲作を推進した。
高千穂遷都の理由
高千穂遷都の理由は人口増加ではないかと考えている。稲作を推進すると食糧が安定的に供給されるために、人口が増加するのである。幣立宮周辺は土地が狭く、多くの人口を養うには不適である。そこで、一部の人々を移動させることになるのである。
BC40年頃になり、村の人口が増加したために、一部の人を他の地に移住させることにした。この時の王であった大戸之道尊は嫡子であった面足尊とその妻惶根尊に東へ行って国を作るように命じた。面足尊・惶根尊は二上山に登り高千穂盆地こそ住むのにふさわしい地だと判断して、この地で土地の人々と共に稲作を始めて国を作った。
BC10年頃になり、高千穂の国づくりも安定化したが、高千穂も土地が狭いので幣立宮の地と同じようにそのうち土地が足らなくなると思い、その子伊弉諾尊とその妻・伊弉冉尊に東の海岸に出て新しい国を作るように命じた。伊弉諾尊・伊弉冉尊は五ヶ瀬川沿いに下り、現在の延岡市近辺に到達した。しかし、ここでは先住民と会わなかったためかさらに南に下り、現宮崎市の加江田神社の地を本拠として国づくりをした。呉国からもたらされた先進技術を用いることによって周辺の人々の協力が得られ、素盞嗚尊・饒速日尊がやってきたAD15年頃には現宮崎市一帯を支配する大豪族になっていたと思われる。この功績で持って記紀では伊弉諾尊・伊弉冉尊を国生みの神としたのであろう。
イザナギ一族が素盞嗚尊による倭国に加盟し、倭国統一に熱心になったのも、球磨族を意識してのことではあるまいか。球磨族にしてみれば、けんか別れした一派の支配下に下ることなど、絶対に許されないことであったろうから、新技術を示されても、倭国に参加せず、大和朝廷成立後も熊襲として最後まで抵抗することになったと思われる。
高千穂周辺弥生遺跡(遺跡ウォーカーより)
南平第3遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方字南平
神殿遺跡A地区 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井神殿
神殿遺跡B地区 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井神殿
古城遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井字古城
大郎遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字田原字上田原
五ヶ村遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸字五ヶ村/字中ノ迫
大野原遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井字大野原
阿蘇原上遺跡 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸字阿蘇原上