縄文後期

 4500年前~3300年前

 縄文後期に入ると気候は寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。

大湯環状列石(ストーンサークル)

 

 縄文後期初頭から前葉(4500年前から4000年前頃)にかけて、大湯に巨大な環状列石が作られている。この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。その外輪と内輪の中間帯には、日時計と呼ばれている、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる列石が万座と野中の両方の遺跡にある。 大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルで現在の所、日本最大のストーンサークルである。組石は万座では48基、野中堂は44基ある。中央の立石は大湯の東方約7~8キロメートルにある安久谷川から運んだと推定されている。他の石も6割は「石英閃緑ヒン岩」とよばれるもので、環状列石から約2~4km離れた大湯川から運ばれてきたものであることがわかっている。緑色で統一されており、緑色に何か意味があるように思われる。

 これだけのストーンサークルを作るにはかなりの労力を必要とし、200年ほどかけて作られたのではないかと想像する。しかし、この近くに縄文集落跡は少なく、遠くから人が集まってきて環状列石を作ったものと推定される。野中堂環状列石の日時計状組石から環状列石中心部を見ると冬至の日の日の出の方角に一致している。また、これら環状列石の北西部に環状木列があるが、この木列と野中堂環状列石の中心方向を望むと同じく、当時の日の日の出の位置と一致しているのである。

 モニュメントの構築過程 

 ストーンサークルの意味を考えるために、全国の他の巨石遺構を比較して考えてみよう。縄文人が定住生活を始めたころより、ムラの中に巨大な岩が運び込まれている。目的は何かわからないが、生活に直接関係のないものなので、シンボル的な意味を持っていると思われる。縄文早期の長野県大町市の山の神遺跡では列石の先に餓鬼岳が存在している。時代が下がり、縄文時代前期になると、大きな石を中央広場に並べる傾向がみられるようになる。そのような頃、前期末に最古の環状列石を持つ阿久遺跡が誕生する。阿久遺跡では並べられた石の先に蓼科山が存在している。環状列石は三角型の山を意識しているようである。大湯ストーンサークルは2.0kmほど北東にある黒又山を意識しているようである。

 縄文中期になると、その山に太陽の運行を意識するようになるようである。山梨県都留市の牛石遺跡のストーンサークルでは近くにある三ツ峠山の中央の頂に春分・秋分の日に太陽が沈んでいくのを見ることができる。山梨県都留市一帯は他の山が邪魔をして富士山を見ることができないのであるが、この牛石遺跡の位置だけは富士山を見ることができる。縄文人はその位置を見つけ出してストーンサークルを作っているようである。夏至・当時の日の日の出の位置や日の入りの位置は世界各地で意識しているようであるが、春分・秋分を意識している例はほとんど見られない。現在の日本では春分の日・秋分の日は祝日となっているが、これは、縄文時代から続いているといえる。

 しかし、このようなストーンサークルの活用方法は統一されてはいないようである。大湯ストーンサークルは緑色の石に注目して集めているが、すぐ近くにある伊勢堂岱遺跡では同様のストーンサークルでありながらいろいろな色の石が使われている。それぞれの地域の個性が出ているようである。

 同じ大湯ストーンサークルでもきれいな円形になっているわけではなく、場所によって、石の集積度が異なり、配石もばらばらである。大湯ストーンサークルは巨大であるからこそ、いくつかの集落の人々が集落ごとに、区域を分担して、作り上げたような様子である。それぞれの集落が個性を出したために凸凹になったのであろう。区域ごとにはばらばらでも、全体の形は円形となっているので、統一した意識のもとでストーンサークルを作ったが、細かい所は個性を出しているといった様子である。

 ストーンサークル周辺に住居跡がない。縄文人たちは遠くの複数のムラからストーンサークルを作るためにやってきたと考えられる。ストーンサークル周辺に掘立小屋が存在しているが、これは、休憩所のような存在であろう。

 ストーンサークルの目的

 ストーンサークルは墓地だという説もあるが、墓地にしては、墓の痕跡が少なすぎるのである。数百年間にわたって使われてきたのであるから、集団墓地だとすれば、相当数の墓がなければならない。墓は確かに存在するが、これは、集団のリーダーのような特別な地位になる人物の墓であろうと思われる。住居から離れた場所に作られた巨大施設と考えられるので、ストーンサークルは祭祀場と考えるのが妥当であろう。

 ストーンサークルは太陽の運行から時期を探ることができるようになっているが、それのみが目的であれば、一つのストーンサークルで十分であるが、大小数多くのストーンサークルが同じ地域に存在しているので、祭祀を行う時期を知るために太陽の運行を意識していると考えられる。

 では、ストーンサークルは何を目的として作られたのであろうか。縄文人の文化は現在まで形を変えながらでも継続していると考えられる。このストーンサークルは現在にどのような形式で残っているかを考えると良いのではあるまいか。現在の日本文化で、該当するものを考えると「神社」が思い浮かぶ。古来より、神社は地域の人々が集まり、ある時期に祭りを行っている。

 現在の神社は人々が一方向に向いて祭礼を行っているが、弥生時代からの祭礼の流れを考えてみると、当初四隅突出型墳丘墓が存在していたが、これは、墳丘墓の周辺が踏み固められており、墳丘墓を中心として円形に祭礼が行われていたことが想像される。それが、古墳時代になると、前方後円墳や前方後方墳のように一方向から祭礼する形の墳丘墓に代わってくる。おそらく、縄文時代は身分差がなく、すべての人々は対等な生活をしていたため、祭礼は円形でするのが当たり前のようになっていたのではあるまいか。実際、縄文集落は広場を中心としてその周りを囲むように住居が存在しており、これも、円形で祭祀をしている証と採れる。おそらく、この地で一年に1回、大々的な祭りがおこなわれていたと思われる。その時期は夏至の日であろう。

 大小複数のストーンサークルが1か所に集中しているのはどう考えれば良いのであろうか。その第一は立地条件が考えられる。三角形の山を見ることのできる平地で、近くに水源があるが、水害に合わないために少し高くなっている場所(舌状台地)が理想の場所であろう。そうすると、限られた場所になるために、周辺集落の人々が同じ場所に集ってストーンサークルを作るようになるのである。それぞれの集落が個性を出したがるために、統一することができず、このような形になっていると考えられる。

 一般的なストーンサークルは中央に立石があり、その周りを石で囲っているというものである。これを後の神社と比較すると、中心の立石が御神体で、神域を示すのがサークルと言ったところであろうか。しかし、決まった形式はなかったようで、大まかにこういった意識だったと考えたほうが良いようである。ここでいう御神体とは、死者の霊を指し、父であったり、母であったり、集落の始祖であったり、集落に貢献したマレビトであったりしたと思われる。

 大湯のストーンサークルは巨大なサークルであるが、よく見ると、小さいストーンサークルが重なっているようにも見える。また、周辺にも小さいサークルが複数存在しているので、それぞれの集団が自分たちの身近な人を思って祭りをしていたと考えられる。全体を統括する万座・野中堂の巨大な二つのサークルは何を意味しているのであろうか。共に二重のサークルで、中心部には立石はなく、石がいくつか敷き詰められている。立石があったが持ち去られた可能性も考えられる。

 墳墓に副葬品が出土するようになったり、ストーンサークル周辺の墳墓は特別な人物の墓と考えられ、この頃より、徐々に人々に階級ができつつあったと思われる。

 黒又山

 大湯環状列石の北東2kmの位置に三角形の形をした黒又山が存在している。古代のピラミッドであるとうわさされている山である。大湯環状列石は明らかにこの山を意識して作られている。この黒又山は、本格的な学術調査が複数回行われている。レーダーによる地質学調査により、山体は溶岩が盛りあがってできた自然の山であることが判明している。しかし、斜面には7段から10段ほどのテラス状の遺構があり、これは張り出し部分で幅約10メートル、高さ2〜3メートルもある。さらに山の表面には、小さな礫がびっしりと貼られていたこともわかっている。こうしたことから黒又山は、自然の山の斜面にテラスを設け、さらに石を貼った「階段式ピラミッド」である可能性がある。また、山頂は平らに整えられており、本宮神社が鎮座している。平成4年に行われた調査では、社殿の真下に巨大な岩が埋められていることが判明。さらに頂上から少し下った場所では、地下10メートルほどのところに南・西・北の三面を壁で囲まれた一辺が10メートルほどの空洞も見つかっている。黒又山の北東数十メートルには「小クロマンタ」と呼ばれる小山があり、黒又山ピラミッドの拝殿ではないかという指摘もある。

 
 黒又山の縄文時代の想像図

 黒又山山頂にはストーンサークルが存在していたようである。現在では石がばらばらになっている。山頂周辺には縄文土器が出土しており、その時期は4000年前から2000年前ごろまでで継続している。大湯環状列石が縄文後期前葉までで、中葉には破棄されているようであるが、それと入れ替わるように黒又山で祭祀が始まっているようである。 

ピラミッド祭祀の始まり

 日本列島には各地にピラミッドと呼ばれている山がある。その中で、山中・山周辺に「岩石祭祀遺構」と呼ばれる岩石が見られるのは、大石神(青森県)・黒又山(秋田県)・五葉山(岩手県)・千貫森(福島県)・尖山(富山県)・位山(岐阜県)・石巻山(愛知県)・東谷山(愛知県)・ 三上山(滋賀県)・三輪山(奈良県)・日室ヶ嶽(京都府)・葦嶽山(広島県)・弥山(広島県)・野貝原山(広島県)である。

ピラミッド 内容
大石神 青森 大石神山と呼ばれる山の中腹にある巨石群を指す。巨石には太陽石、方位石、星座石、鏡石などが規則正しく配置されている。安政4年に大地震で文字が書かれた巨石が埋没したとされる。古くから知られた存在で、大石神と呼ばれ古代から巨石信仰の対象になっていた。 近くにキリストの墓がある。
黒又山 秋田 地元では「クロマンタ」と愛称され、山頂には本宮神社(祭神大己貴命)がある。黒又山のすぐ近くには、国特別史跡「大湯環状列石」がある。山麓には、縄文時代の遺跡がある。
五葉山 岩手 北上山地の南東部にある霊山五葉山は、高地で最も海に近い1,351mの高峰である。 伊達藩直轄で「御用山」と呼ばれたが五葉松が多い所から五葉山になったと言う。4合目には、畳石(祭壇石)があり、この他、林立した巨石群がある。また、五葉山山頂には10数メートルもあろうかと思われる巨石群が天を向いて突き出している。五葉山スフィンクス、謎の絵文字、石の加工跡、連続する日の字、など縄文期前後に特殊な祭祀が存在した。
千貫森 福島

千貫森ピラミッドは葦嶽山や尖山とはまた違った、なだらかなそれでいて不思議な存在感のある山である。千貫森の脇には当然のように拝殿山と思しき一貫森と呼ばれる、これまた山容がピラミッドのような美しい山が存在している。讃岐富士と言われる飯野山によく似た山容である。千貫森の周辺には夥しい巨石群が散在しています。おおよそ20Km四方の中に興味深い巨石がたくさんある。

尖山 富山 地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。
日輪神社 岐阜  飛騨地方に日輪神社が存在している。祭神は太陽神天照皇大御神である。ちなみに日輪神社・日輪宮という名前は、全国でもここだけである。この神社が存在する山はかなり鋭角的な三角錐の山で、外観的にはまさにピラミッドである。本殿の裏山には太陽石の存在も確認されている。この日輪神社を中心に16の方位に直線を引くと、周囲の神社やピラミッド、聖山が均等にライン上に乗る。
位山 岐阜 水無神社の御神体であり、位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
石巻山 愛知 豊橋で一番の高さを誇る石巻山。豊橋市の北東部に位置するピラミッド形の山。石巻神社(祭神大己貴)があり、三輪山とも呼ばれ、奈良の「三輪山の元山」と地元では言われている。本宮山がピラミッドで、石巻山は拝殿とも考えられている。石巻山城趾、ダイダラボッチの足跡、石巻の蛇穴などが存在し、頂上はほぼ東西に走る石灰岩の大岩塊になっている。ここは雄岩と呼ばれており、その東に雌岩、西に天狗岩がある。雄岩が一番高い。その周りには、天然記念物指定の大きな要因となった、石灰岩地帯の植物であるマルバイワシモツケを見ることができる。
東谷山 愛知 別名「当国山」。標高198mで名古屋市最高峰。山頂に延喜式内 尾張戸神社が鎮座し、山中から山腹にかけて30基以上の多数の円墳が築造されている。尾張戸神社は尾張開拓の豪族尾張氏の氏神とされる。山頂三角点のすぐ脇に4個の巨石を中心とする岩石の集積があり、これはかつて磐座として用いられていたものであろう。4個の巨石の最奥にあるカマボコ形の巨石のみ花崗岩であり、これは東谷山では産出しない石質であることから、人為運搬によるものと考えられている。カマボコ形巨石の右側面にはペトログラフが刻まれているという。
三上山 滋賀 俵藤太のムカデ退治の伝説で知られるこの山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られている。山中の『出世不動』周辺の尾根上には、『弁慶の経机』と呼ばれる巨岩があり、これは巨大なドルメンである。斜面には巨大なイス状の石組みも発見されている。近くに縄文遺跡あり。
三輪山 奈良 大神神社の御神体。饒速日尊の御陵であると考えている。三輪山の山中には、無数の磐座があり、その周辺には膨大な遺物が埋もれている。かつて大雨の後は、山中から泥と一緒に勾玉や管玉などが川に流れ出るため、麓の川でいろいろ拾えたという話である。
日室ヶ嶽 京都

京都府の北部元伊勢神宮のあるあたりで、岩戸山・城山・日裏が岳・日室岳など多くの別称を持ち、神霊降臨の聖山と伝えられている。 内宮の祭神が天照大神であることを考えると、その神霊とは天照大神であろう。最初に天照大神が降臨した山を、当地における元伊勢信仰の淵源として 神聖視しているということである。
 標高427mで麓からの比高差300m程の低山で、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ山であり、山の東斜面は聖域として禁足地に指定されてきた。 山中には数多くの巨石群があり、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込む姿が見える。

葦嶽山 広島 どの方角から見ても三角形に見えることからその名がついた葦嶽山。標高815mの山頂は約4m四方の平地になっている。昔は太陽石があったらしいが、戦前破壊された。すぐ近くの鬼叫山にはさまざまな形の岩が多数あり、葦嶽山の拝殿と考えられている。神武天皇がやってきたという伝承がある。
弥山 広島 宮島の最高峰弥山、山頂には巨石が多数存在し、ペトログラフも確認できる。山頂広場の中央には太陽の光を反射する太陽石が存在していた痕跡がある。太古の昔には巨石には神が下りてくると信じられており、巨石祭祀があったと考えられている。厳島神社の本来の祭神は神武天皇と考えられ、ここにも神武天皇がやってきた伝承を持つ。
野貝原山 広島 弥山の対岸にはのうが高原(野貝原山)がある。古代参道から登ると、山頂付近に祭祀に使われたと思われる多くの巨石が林立している。雨宿り石、円形鏡石、ピラミッド積石、方位石、タイル石などである。宮島のピラミッドと対になって存在しており、巨石群が林立しているところからは宮島がよく見える。

 葦嶽山

 詳細が分かっているピラミッドの例として広島県の葦嶽山を考えてみよう。下は、登山道にある案内板である。

 「日本ピラミッド」とは神社の原始の姿で、古事記の天之御柱八尋殿であるとされている。円錐形の山容をした拝殿山と本殿山の二座がセットになった神殿である。昭和9年、酒井勝軍によって、葦嶽山(本殿山)と鬼叫山(拝殿山)で初めて遺構が発見された。この葦嶽山は竹内文書の鵜草不葦合第十二代彌廣殿作尊天皇が作ったヤヒロ殿であるとされる。竹内古文書では2万3千年前のものとされる。古代史の復元ではウガヤ朝は飛騨王朝と推定している。72代のウガヤ王朝は世数にして62世代なので、年数にして約1700年である。そのままであればBC1600年頃(3600年前)に王朝が始まったことになる。竹内古文書では第12代天皇は8世になるので、単純計算で3400年前ごろ作られたことになるが、現段階でウガヤ王朝の開始時が特定されていないので、不確定である。

  日本ピラミッドは山頂部を加工し、本殿山には御神体となる太陽石と、それを取り囲む列石の磐境(いわさか)があり、拝殿山には夏至線と冬至線を示す方位石、太陽光を反射するように表面が研磨された鏡石、供物台であるドルメン、メンヒル(立石)等が設置され、祭祀や天体観測等を行うと共に、ウガヤ王朝の天皇による統治システムの拠点とされている。昭和59年、サンデー毎日編集部が京都芸術大学の教授や地質コンサルタントを伴い、現代の技術で葦嶽山と鬼叫山の各遺構を再調査した結果、殆どの遺構が先史時代(縄文時代)、高度で精巧な技術によって加工・設置されていることが判明した。

 尖山

 尖(とがり)山は、富山県中新川郡にある標高559mの三角状の山である。立山に向かって山々を眺めると、回りの山々とは形の違う、妙に尖がった山を見ることができる。これが、尖山で地元では「とんがりやま」と呼ばれ、山頂にはストーンサークルが存在し、磁気異常がある。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片や鏡などの出土品もあるという。間違いなく古代の祭祀場であったと推断される。そしてこのような祭祀跡のある、形の整った独立峰は、現代でもミステリースポットとして認識されることになる。 『竹内文書』では、尖山は上古第24代天仁仁杵身光天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿(アメトツチヒラミツト)の跡であり、天皇はそこから天の浮舟に乗って、全世界を飛行したとされている。さらにその影響を受けた酒井勝軍は、尖山を人工のピラミッドであるとしている。

 この山の北西方向に平原が広がっており、冬至の日に山頂からの日の出を拝むことができる。ピラミッドの一つと考えられる。

 

 ピラミッドと思われる山には共通点として祭祀跡と思われる巨石が存在している。中には山頂に太陽石と言われる巨石が存在し、その周りにストーンサークルが存在しているものがある。それまでのストーンサークルの祭祀から次第にピラミッド祭祀に代わっていったものと考えられる。

 大湯ストーンサークルは後期前葉まで使われていたようで中葉には破棄されており、それと入れ替わるように黒又山祭祀が始まっているようである。ストーンサークルからピラミッド祭祀に入れ替わるのは後期中葉頃(3800年前)と思われる。ほぼ同じ時期に神奈川県伊勢原市の大山にも縄文後期にあたる加曽利B式(後期中葉)および安行式(後期後葉~晩期)の土器片(約60片)が出土している。

 ストーンサークルからピラミッド祭祀へ

 このようにみてくると、縄文時代後期中頃(3800年前頃)にストーンサークルからピラミッド祭祀(山頂祭祀)に移行したようである。その過程を推察してみよう。

 縄文時代中期には食べ物が豊富であり、農耕をしなくても自然から食糧を得ることができていた。拠点集落を介して周辺他地域の情報を得ることができ、身分差もなく人々は平和に暮らしていたようである。しかし、後期(4500年前頃)に入ると次第に寒冷化してきた。今まで多量に取れていた作物が採れなくなり、人々は南に移動するようになった。縄文巨大集落である三内丸山遺跡もこの頃突然消滅している。食糧が採れなくなったために人々が移動したものと考えられる。

 このようになると、それまでは自然から食糧採取していたが、それだけでは不十分となり、農耕を始める必要が生じてくる。海外でも寒冷化したのは共通で、農耕が始まり、この頃より古代文明が発祥している。

 農耕が始まると作付け時期、収穫時期の把握が重要となった。日の出・日の入りの方向から、作付け・収穫時期を探る目的でストーンサークルが作られるようになった。ストーンサークルは巨石を動かすために、少人数では作ることができず、指示する人物と行動する人物に分かれるようになった。多くの人々を動かす必要があり、一つの集落だけでは難しく、周辺の集落の人々も協力するようになり、特定の集落から離れた位置に作られるようになった。次第に身分差が生じるようになってきたと思われる。身分差が生じるようになると、ストーンサークルは時期を探る装置であるとともに祭祀場としての性格を持つようになった。

 この祭祀場は一つの集落の祭祀場ではなく、その周辺の集落の共通の祭祀場としての性格を持つようになった。そのため、その一帯の共通の祭主が出現するようになったと思われる。農耕は豊作・不作がつきもので、不作の時にならないように豊作を願ってストーンサークル祭祀は次第に巨大化していったと思われる。この流れが現在の神社祭祀につながっていると解釈する。

 祭祀が次第に巨大化してくると、ストーンサークルに多くの人々が集まってくるようになり、ストーンサークルは聖地となる。しかし、当然ながらその地が狭くなり、集団の後ろにいる人からストーンサークルを見ることができない。ストーンサークルを高い所に作れば多くの人々があがめることができるというので、近くにあった山の山頂にストーンサークルを作ろうという発想になったと推定する。このようないきさつで3800年前ごろに巨大な大湯ストーンサークルから黒又山のピラミッド祭祀に入れ替わったものと考えられる。

 黒又山は三角形で山麓が段状になっており、段の所に人が集まって山頂のストーンサークルを祭祀した様子が伺われる。三角形の山が選ばれたのはどこからでも眺めることができる形であることが理由と思われる。ピラミッド祭祀の最初が黒又山であろう。ピラミッド祭祀が全国に広がるにつれて、山頂のストーンサークルは巨石に代わり、段を作るのは大変なので、周辺に拝殿を儲けるようになっていったと思われる。

  

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