伊豆国巡回

 伊豆国統一関連地図

 宮 神社  住所  祭神    創始  備考 
一宮 三嶋大社 静岡県三島市 大山祇命・積羽八重事代主神 不詳 三宅島(現:富賀神社)→下田・白浜海岸(現:伊古奈比咩命神社)→大仁町(現:広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承。
大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。
二宮 若宮神社 静岡県三島市西若町8-7 譽田別命 不詳 国司により勧請された八幡神社
三宮 浅間神社 静岡県伊豆市小下田1556   岩倉姫命 不詳 『伊豆国神階帳』に「従四位上 いわらい姫の明神」とある古社で、式内社・石倉命神社に比定されている神社。
四宮 廣瀬神社 静岡県伊豆の国市田京1-1 三嶋溝杙姫命 不詳 三島大社が下田から当地に遷座され後に、現在の三島へ遷ったとある
伊古奈比咩命神社 静岡県下田市白浜字白浜2740  伊古奈比咩命 伝承
「伊古奈比メ命は三嶋大明神の后。三島大神(別名事代主神)は、その昔、南のほうから海を渡ってこの伊豆にやって来ました。伊豆でも特にこの白浜に着かれたのは、この白砂の浜があまりにも美しかったからです。そして白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主であった富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。さらに、三島大神は伊豆の土地が狭かったため、お供の見目の神様、若宮の神様、剣の御子と、伊豆の竜神、海神、雷神の助けをかりて、島焼きつまり島造りを始めました。
最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。
7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりました。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比咩命は特に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比咩命とお供の見目、若宮、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比咩命神社です。」
来宮神社 熱海市西山町 大己貴命 大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命。古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられている。
大三王子神社 東京都新島本村大三山 大三王子明神、弟三王子明神 当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座するを貞享3年現地に転社

 伊豆国統一関連伝承地

 伊豆国には大きく分けて大山祇命を祭る神社、事代主命を祭る神社、大国主命を祭る神社、地主神をまつる神社に分けられる。

 大山祇命を祭る式内社

 大山祇命を祭る式内社は以下の通り、

三嶋大社(明神大) 大山祇命、事代主命  静岡県三島市大宮町2丁目1-5
楊原神社(名神大) 大山祇命 静岡県沼津市上香貫字宮脇335
伊志夫神社 大山祇之神 静岡県賀茂郡松崎町石部字坂下98 

 これらの地は大山祇命が滞在した場所であると思われる。三島大社では大山祇命が国土開発の神とあがめられているのでこの国を統治していたのは大山祇命であろう。これらの地を考えると、大山祇命は駿河国から伊豆半島西側にかけての地域を統治していたことになる。

 大国主命を祭る神社

 大国主命を祭る式内社は以下の通り、

井田神社 大國主命 静岡県沼津市井田1 
部田神社 大國主命 静岡県沼津市戸田1585 
浦守神社 國玉命 静岡県賀茂郡西伊豆町安良里929 
國玉神社 大國主命 静岡県田方郡土肥町小土肥669 
来宮神社 大己貴命、五十猛命 日本武尊 静岡県熱海市西山町 

 大国主命は饒速日尊と考えられる。所在地は来宮神社以外はいずれも伊豆半島西側である。伊豆半島南部には見当たらないこと、来宮神社は熱海にあることから、饒速日尊は沼津から山越えで熱海に移動したと考えられる。伊豆半島南部は饒速日尊による未統一地域と考えられる。AD40年ごろであろう。

 事代主命を祭る神社

 事代主命が祭られている式内社は以下の通り、

多爾夜神社 積羽八重事代主命 静岡県賀茂郡賀茂村安良里321
宇久須神社 積羽八重事代主命 静岡県賀茂郡賀茂村字久須1269-2
伊那上神社 積羽八重事代主命 静岡県賀茂郡松崎町宮内37-1 
仲神社 事代主命、天神 静岡県賀茂郡松崎町那賀64 
佐波神社 積羽八重事代主命、應神天皇 静岡県賀茂郡西伊豆町仁科1870 伊豆半島南西部
胡神社 積羽八重事代主命、多胡若宮命 静岡県賀茂郡西伊豆町田子203-1
姫宮神社 伊波比命、事代主命、譽田別命 静岡県賀茂郡南伊豆町一色820 
三島神社 事代主命 静岡県賀茂郡南伊豆町青野170  
富賀神社 三島大明神、伊古奈比命 東京都三宅村阿古字富賀山

 伊豆の事代主命の正体

 事代主命を祭る神社も伊豆半島南西部、西側に集中している。しかし、伊豆半島東側に事代主命の伝承は存在している。それが、伊古奈比命神社の伝承である。
伊古奈比命神社 祭神 伊古奈比命 静岡県下田市白浜字白浜2740

 伊古奈比命神社の御祭神の三島大神は、その昔、南のほうから海を渡ってこの伊豆にやって来ました。伊豆でも 特にこの白浜に着かれたのは、この白砂の浜があまりにも美しかったからです。そして白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主であった富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。さらに、三島大神は伊豆の土地が狭かったため、お供の 見目の神様、若宮の神様、剣の御子と、伊豆の竜神、海神、雷神の助けをかりて、島焼きつまり島造りを始めました。
 最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島 、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。
 7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりまし た。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比咩命は特に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比咩命とお供の見目、若宮、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり 末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比咩命神社です
。<伊古奈比咩命神社伝承>

 ここでいう三島大神は事代主命のこととされている。事代主命は二人いて、共に饒速日尊の子である。一人は出雲の統治者である積葉八重事代主命で、もう一人は天事代主籖入彦命で、こちらは、第二代ヒノモト国王となった玉櫛彦命である。伊豆半島に祭られている事代主命は積葉八重事代主命と伝えられているのであるが、積葉八重事代主命はAD32年ごろに大和で生誕し、出雲国譲りの後のAD46年ごろ出雲に赴任し、最期は大和朝廷成立後で、石見の多鳩神社の地で亡くなっている。

 この積葉八重事代主命は、出雲で生活していたわけで、伊豆に来るのは立場上難しく、また、共に祭られている大山祇命との関係もほとんどない。それに対して、玉櫛彦命の方は、饒速日尊のヒノモトの統一事業を継承しており、また、伊豆地方は饒速日尊の未統一地域でもあるので、玉櫛彦命がこの地に来るには理由十分である。また、玉櫛彦命は大山祇命の孫である活玉依姫の夫であり、行動を共にすることはよく考えられるのである。玉櫛彦もヒノモト国内に数多くの伝承を持っており、よく移動していたと思われるが、この地方にやってきたのは、AD58年ごろと推定される。伝承では末永く白浜の地に住んでいたとあるが、AD62年ごろには大和に帰還している。この伊豆の地にいたのは4年ほどである。伝承は伊古奈比咩命が子たちと末永く白浜に住んでいたということではないかと考える。

 伊豆地方は出雲系の神々を祭った神社が多い。国名も「出雲」≒「伊豆」とよく似ていて、出雲との関係の深さが見られる。また、来宮神社の伝承でも「古代出雲の神々が来られた」と伝えられており、さらに、東海地方は古墳時代初期には出雲系の前方後方墳が主流であり、大和よりも出雲と関係が深かったと思われる。出雲から数多くの人々がやってきたのは確かなようである。

 しかし、古墳時代に影響を与えているので、移住した時期は古墳時代の少し前ではなかろうか、移住してから年数がかかっていたのでは、古墳築造に影響を与えるとも思えないのである。そこで、第4代懿徳天皇の時代に出雲から関東地方に多数移住しているので、それと同じころ、出雲からの集団移住があったのではないかと考えている。

 伊豆国で祭られている事代主命は玉櫛彦ではないかと考えているが、出雲から移住してきた人たちが出雲の事代主命を祭ったということも考えられなくはない。しかし、関東地方の氷川神社の令でもわかる通り、出雲から来た人々であれば素戔嗚尊を祭ると思われ、伊豆で祭られているのは出雲の事代主命ではないと判断する。

 伝承上では事代主命は下田付近で活躍しているが、下田付近の事代主命を祭った式内社は存在していない。下田・伊東市周辺で、他の地域ではあまり見られない(地主神)を祭っていることが多い。この地域は、事代主命から委任された地元の人たちが後の世までも自ら経営していたのではあるまいか。

 玉櫛彦命(事代主命)の伊豆での行動

 玉櫛彦命は成人するまでは大和で育てられていたと思われる。AD33年ごろ生誕なので、AD48年ごろまでは大和にいたと推定される。AD48年ごろは出雲国譲りが終わった直後である。この頃から活躍していると推定する。出雲国譲りが終わった後、饒速日尊は越国、信濃国統一事業を行っているが、この辺りから饒速日尊とともに事代主命の伝承が伝わっている。その後大和に帰り活玉依姫と結婚し、後に神武天皇の皇后となる五十鈴姫を設けた。伊豆国へはそのころ来たと思われ、AD58年ごろのことであろう。

 玉櫛彦はAD58年ごろ、饒速日尊とともに駿河国を訪問して土地開発状況を見て回っていた。その後、沼津近辺に移動し、そこで、伊豆諸島の統一を決意したのではあるまいか。

 伊豆諸島の島々の巡回コースを現在の島名で表すと次のようになる。
初島→神集島(神津島)→大島→新島→三宅島→御蔵島→沖の島(八丈島)→小島(八丈小島)→王鼻島(青ヶ島)→十島(利島)である。

 初島が熱海の沖合にあるので、出発点は熱海の来宮神社の地ではないかと推定される。沼津近辺から峠を越えて来宮神社の地に着き、そこから船で初島を訪れたのであろう。このコースが北から南の順番になっていないことをもとに、巡回コースを推定してみよう。

 初島の次が神津島であるが、下田沖にある島であり、初島からは離れている。おそらく、初島から熱海に戻り、伊豆半島東海岸を南下し、下田から神津島に移動したのではあるまいか。その理由は、伊豆諸島の中で人を集めて会議を開くには、その中心地と考えている下田に近い島で、南方の離れ小島からも来やすいという点でこの島が選ばれたのではないか。この神津島に来れば、困ったことが相談できたり、助け合ったりする体制が組まれたのではないだろうか。その体制があることを離れ小島の人々に伝えて、島々を統一したものと考えられる。

 後は基本的に北から南の流れで統一がなされている。最南端が青ヶ島である。この青ヶ島は現在でも有人島としては最南端であり、最も近い八丈島からも60kmも離れている。逆に言うと、この当時にこれだけの航海力があったということである。

 最後に利島であるが、これは伊豆大島の南にある島で、一挙に北の方になっている。伊豆諸島を統一したのち、この島から伊豆半島に戻ったと考えられる。この島から最も近いのが下田である。

 これらの考察により、事代主命は下田を拠点として活動していたことが分かる。

 その中心となる神社はやはり、伊古奈比咩命神社(静岡県下田市白浜字白浜2740)であろう。この神社では、三島大神(事代主命=玉櫛彦命)は富士山の神から伊豆を譲り受けたとされている。富士山の神とは大山祇命と思われるが、この人物はこの頃はもういなかったと思われるので、その後継者で駿河国を統治していた人物であろう。

 伊豆を富士山の神から譲り受けたのも伊豆諸島を統一し、その拠点を下田に設けるのが目的であったと思われる。この時まで、伊豆諸島は未統一地域であり、伊豆国の人々は伊豆諸島の人々と交流していたと思われる。伊豆諸島の人々は、伊豆国をはじめ本州の国々が統一の結果、豊になっていくのを見て自分たちも統一国家に入れてほしいと嘆願したものではあるまいか。そのため、事代主命の統一事業は順調に行き、それぞれの島で娘と結婚するといったことが起こったのであろう。その間の子たちが伊豆諸島の統治者となり、島々を経営し、先進技術の導入が行われ、島々の人たちの生活が豊かになったのであろう。

 玉櫛彦命(事代主命)は下田で数年過ごした後、沼津(広瀬神社)に戻り、そこから三島大社の地に統一拠点を移したものであろう。AD62年ごろ大和で饒速日尊が亡くなり、ヒノモト国王を継承するために大和に戻ったと考えられる。

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